結ぶ

文字数 12,478文字

6 結ぶ

元気な女の子が無事に世界に出てきた。まず、おぎゃあと鳴いて、次に、小さな手で世界をしっかりと掴んだ。母親となっためぐみは、赤ちゃんを抱いて泣いて喜び、それを見ていた父親となってしまったタチバナは、いよいよ覚悟を決めた。
退院する頃、めぐみに帰る実家が無いことに気がつき、タチバナはめぐみを立花の実家に連れて帰ることを考えた。無職になった、結婚した、子供が生まれた。あの頑固親父はこのことをどう捉えるだろうか?どうやって説明しよう?そんなことを考えていたら二年ぶりに実家からの電話が鳴った。
「ケイ、お父さんがね、倒れたんよ。お医者様も家族を集めてくれって・・まだね、話はできるんよ。早う帰ってきんちゃい。でも、無理せんでもええんよ。あんたも仕事があるだろうけえ。でもね、お願いやから、早う、帰ってきて。」
お正月の帰省と大雪の為、高速道路は渋滞していた。凍えるような寒さではあったが、車の中は暖かく、後部座席でめぐみは娘の咲にお乳をあげていた。タチバナはゆっくりとアクセルを踏んでジリジリと進む車列に身を任せていた。吹雪で視界は狭ばってはいたが、赤く輝く車のテールランプが列になって先導してくれてる。その先に故郷が繋がっている。山あいの小さな里で、タチバナの家は米農家だった。家の前には田んぼが広がり、この季節は、広い雪原となっていた。
「いいか、稲はのう、自分で動くことは出来んのじゃ、米が田んぼ作って、田植えして、増えることが出来んのじゃ。水を引くことも出来んし、草刈も出来ん。だからといって自然に増えるいうて、鳥に啄んでもろうても、たかが知れとる。結局、米は人が増やすもんじゃ。じゃが、なんで、人が米を増やすか不思議じゃないか?食う為いうても、ずっと昔の初めから米が食い物って分かる奴は知れとると思うぞ。食うまでにここまで大変なものもあんまりないで、でも今ではみんな食うとる。あれはな、米が念力を出しよるんじゃ。食った者の体の中から米が「米を増やせ!米を増やせ!」と念力で絶えず命令しよる。うんこになって、米が出て行っても、次のご飯が入ってくるから、ずっと命令を出してきよる。食った奴も体の中から念力で命令されよるから、知らん間に米の念力に服従することになるんじゃ。食った人間は頭のずっと奥で米を増やすことだけを考えて、田んぼを作ったり、治水のための森を作ったりして、ひとりじゃあやれんけえ、みんなに食わせて米を広げて、そのうち人間の知恵を集めて道具を考えさせた。コンバインとか田植え機なんかは、人間が米の念力によって作らされたものなんじゃ。つまりの、人間は米の念力でここまで来たんじゃ。米は「込め」なんじゃ。」
 タチバナが物心ついた頃から、父、立花耕造は田んぼに息子を連れて行くたびに米の念力について話していた。その話しぶりは穏やかだが、真面目なもので、逃げ場のないような刷り込みともいえるものだったが、そこらに生えた葉っぱを千切って遊ぶ程度のタチバナは、よく分からなかったから「とーさんの米はうまいけえねえ。」と分からないなりに理想的な答えを返していた。タチバナの中に思い浮かぶ父の姿、泥だらけの長靴、麦藁帽をかぶって、日に焼けた顔。その後ろには六月の晴れ間の青い空。耕造は、いつも、まぶしいのか、笑っているのか分からない皺だらけの顔をしていた。
 タチバナは、その記憶の父は永遠にあるものだと思っていた。だから、普段の生活では忘れていたし、思い出そうとも思っていなかった。だが、こうなると、正直困った。何が困るのか自身も理解してなかったが、とにかく、自分が前を向いたことを見せたかったし、そのきっかけとなっためぐみを、どうしても合わせたかった。見ず知らずの妊婦に出会った日に結婚した。普通の親なら、その行動に驚き、猛反対するだろう。だが、タチバナは、耕造なら認めてくれるような気がしている。後部座席のめぐみは出産で度胸もついて、生きる覚悟を決めていた。自分は感謝を述べるしかできないし、出て行けと言われれば、出ていくしかない。だが、タチバナとは添い遂げると決めていた。だから別れることは少しも考えていない。時間が掛かってもしょうがないが、絶対諦めない。
 すっかり暗くなる頃、ようやく高速道路を抜けると、真っ白な国道を山に向かって走っていく。凍えた雪の世界は音を吸い込んで、ヘッドライトに照らされる道だけが眩しいぐらい白く輝き、周りの闇から際立って、延々に続いているようだった。単調な景色は回転し、いつしかタチバナの記憶を薄暗いスクリーンに映し出す。
 タチバナが小学生に上がった頃は耕造に違和感なんてなかった。家はお米の農家、袋に詰められた米に念力が無いことはすでに分かっていた。あれは小さな子供に話す昔話や迷信みたいなもので、小学4年ぐらいになると、父から念力米の話をされるたびに、子供扱いされたと思い、少し嫌だった。しかし、子供なりに気を使っていた。黄金に輝く稲穂の波の中で戦艦のようなコンバインに乗る耕造の姿は、タチバナにとっては、まだ憧れの対象であり、何度も聞かされた米の念力の話を聞いても、頷くぐらいの演技はしていた。
 「ケイさんのお父さんってどんな人なんですか?」
 緊張してきためぐみが運転中のタチバナに、返事がなくてもかまわないように、少し小さな声で聞く。タチバナは邪険にすることなく、分かりやすい例と思い、念力米の話を始める。めぐみはまだ見ぬ義理の父親を少し変わった人だとは思ったが、決して悪人でないことは理解した。
 「当分、会ってないんだ。親父の事、苦手になってね。」
 「私は、お父さんは初めから居なかったから、お父さんが苦手って、分かってあげられないけど、ケイさんのお父さんって、決して悪い人ではなくて、なんか、不器用な人なんでしょうね。気に障ったらごめんね。なんで苦手になったの?」
 タチバナは雪降る先から目を逸らさずに、まっすぐ向いて、めぐみに過去を紐解く。
 「苦手っていうか、思い出すのも嫌なんだけど、君にだけは話すよ。僕が小学五年のときだった。その年、新しい校長先生が町からやってきたんだ。松平孝三郎という長く立派な名前の校長先生だった。いつも「平和、平等、平常心、地平線、太平洋」など「平」の漢字がつく言葉を好んで使い、またそれを無理やり押し付けてくるリベラル気取りの先生だった。田舎の小学校では、そういったのが珍しくて、すぐに近所で有名な校長先生になった。親しみと、リベラルの面倒くささから「平(ひら)校長」とみんなが言った。そんな平校長が夏休み明けの朝礼で、アメリカに視察旅行に言った話をした。
「アメリカはね、みんなが思う以上に、本当に大きな国で、麦の畑も先が見えないぐらいに地平線いっぱいに広がっていました。そしてねえ、お米もアメリカでは作っているんだよ。この学校の周りにある田んぼなんて比べ物にならないぐらい大きな田んぼがあって、カルフォルニア米っていうお米を作っているんだ。アメリカの農業はとても進歩していて、腰を屈めて田植えなんてしないし、辛い思いして鎌をもって稲刈りをしないんだ。アメリカはとても豊かな国だから、みんなトラクターで済ませるんだ。そしてねえ、そのお米は日本のお米より美味しくて、安いんだ。それで、僕は思うんだ。なんで日本の農家を守るために、あんなに美味しくて安いお米を輸入できないようにするんだろうって。お米を日本に入れるときに、日本という国は関税という税金をかけて、アメリカのお米を何十倍の値段にして、競争できないようにしているんだ。これは平等じゃないよね。みんなもアメリカの美味しいお米を食べたいよねえ。みんなが大きくなったら、この国を平和で平等な国にしてください。」
学校にはうちみたいな米農家とか兼業農家の子供が多かった。少数派の農家ではない家の子たちが、今まで田んぼが家に無かったことに対して劣等感をもっていたんだけど、この校長の話で勢いづいた。「校長先生が日本の農家は要らんって言っとった。じゃけえ、お前のうちは国から保護されて楽しとるんじゃろうが!不平等じゃ!補助乞食!乞食百姓!」あちこちで大人の言葉をつまみ食いして、土地を持たない家の子供たちは平校長の話をきっかけに偏った答えを出した。いくら煙たい校長であっても、校長先生に違いなく、農家の子供たちは、世の仕組みも知らないから、その話を聞いて世間に対して申し訳ない気持ちになっていた。加えて校長は次の週の朝礼で「こういった田舎には田んぼばかりで、文化というものがないので、町に比べて平等じゃない。もっと道路を作るべきだ。もっと買い物をするべきだ。」とアメリカの余韻を純朴な田舎の子供たちに押し付けてきた。子供たちは教師が正しいと毎日教育されているので、次第に田舎の子供たちは自分たちが文化的ではないと自分の住んでいる場所、そこに住む家族や近所の人、そして自身に劣等感を感じ始めたんだ。教師からの日常の否定って、つらいよ。」
めぐみは浅はかな松平校長に対して腹を立てた。なぜ世間を知らない人間が、教育者、しかも校長という立場になれるのだろう?よく考えてみれば分かることだ、ショッピングセンターでの買い物なんかに文化なんて欠片もないし、田植えのほうが日本の伝統的な文化に他ならないのはずだ。めぐみは個人で翻訳の仕事をしていた。日本に来た海外の人たちは、彼の地にない、昔から続いてきた稲作を立派な日本文化と認めている。
「なんか、私、腹が立ちます。それ酷い。」
「まあ、一方的に過去を責めるわけにもいかないよ。そのころの都会から来た教師たちは近代化と文化的を混同していたに違いない。八十年代ってそんなところあったよ。でもね、稲刈りなんてかっこ悪いって、成績がよい子供ほど、教師の影響が強く、農業を嫌うようになった。「田舎に文化がない」という薄っぺらな考えが次第に大勢になっていったんだよ。僕はこれでも、成績は良い方だったんだが、親父はそのことをちっとも褒めなかった。でも、学校では先生たちがそこを褒めてくれた。学校では少数は嫌われ排除されるだろ?父の念力米の話も面倒になっていたので、そのまま多少の違和感を持ちながら、結局、楽なので、その時代の多数の考えを支持して行った。つまり、堂々と農作業を嫌うようになっていた。親父を裏切ったっていっても差し支えないよ。」
車は国道から狭い道に曲がる。照らされた道の両面に雪原が闇に向かって伸びていく。その雪原の下は田んぼだ。凍った黒い土が春を待っている。めぐみは真っ暗な先に何軒かの民家を見つけた。こんな景色はテレビ以外では見たことがなかった。知らない場所での過去に口出しをすべきではない気がした。タチバナはこの先を話すことに多少の勇気を必要とした。めぐみが何か言ってくるか期待したが、結局、何も出てこなかった。だから続きを話すべきだと思い、真っ暗闇で階段を駆け降りる勢いで話を続けた。
「・・そうなると親父との距離は確実に広がっていた。いつの間にか念力米の話を「古臭く原始的で恥ずかしい与太話」と憎むようにさえなっていた。数日もすると平校長が言ったことを親父の作った米をわざとまずそうに食べながら話をした。あの日のことは忘れもしない。親父の顔色はみるみる高潮し、立ち上がると僕の顔を引っ叩いた。ゴム手袋のような厚い皮膚の大きな手ではたかれると一溜まりも無く、体は宙に浮き、すぐに畳みに叩きつけられた。泣きながら見上げる親父はとても大きかった。
「米を作ることをなんにも知らん奴に、何が分かる!それに惑わされるお前も見損なった!くそボケが!」
次の日、親父は朝一番で軽トラで学校に乗りつけ、校長室に鎌を片手に怒鳴り込んだんだ。「いなげなことを子供らに言いよったら、鎌でお前の咽喉を掻っ捌くで!」父の恫喝に平校長は泣いて謝り、体の不調を訴え、数日学校を休んだよ。今になって思えば、親父の行動は異常だが、人生かけた仕事をコケにされたんだから主張は間違いではないと思う。しかし、当時五年生の僕にとっては、その行動は世界をひっくり返すような出来事で、その後、当面学校での立場は散々だったよ。教師たちは僕に危険人物の息子という一線を置き、多数の子供たちもそれに従った。「おまえのとうちゃん人殺し」「かまきり魔人の息子」なんて言われたよ。そりゃ辛かったよ。それから、全部どうでもよくなった。で、それ以来、「農業と親父」は僕から断絶された。親父に対して他人以下の視線を送るようになったんだ。」
 車は綿帽子を被った垣根の角を曲がって広い敷地に入っていった。木造の大きな家、隣には立派な納屋。立花耕造の家だった。家の中から明かりが漏れていた。タチバナの車以外は軽トラのみで、他には誰も来ていないことをタチバナは不思議に思った。
 「ただいま。」
 玄関を開けると土間があり、外から見ると二階家の様だが、実際は屋根の高い平屋で、天井にはすすけた梁が大樹の枝のように張り巡らせている。そっと後ろから咲を抱えためぐみが緊張して珍しそうに土間を見ていた。土間には靴や長靴、草履などが並べられ、床までは高く、大きな石を踏み台にして上がるようだ。土間を上がった板間は広く、咲が遊ぶのにちょうど良さそうだった。しかし、土間に落ちたら大変だろう。板間の正面に障子戸が並び、その横に縁側に続く廊下がある。無駄に広い家だが、重厚な雰囲気があり、めぐみは大いに気に入った。土間の奥に台所がある。シンクだけが白い新しいものに変えてあって、田んぼの真ん中にガラス張りのビルが建っているように不自然だった。あれはもう少し色調が合うものに変えたい。薄暗い裸電球を使い続けているところは、温かみがあって継続したかった。めぐみはここに住む気になっていた。
 「おかえりなさい。ええっ!けいちゃん、もしかして・・おとうさん、大変よ!」
 寝間着姿の房江がめぐみの姿を見て障子を閉めた。急いで着替えようとバタバタしている姿が障子に映る影絵となって、めぐみを楽しませた。結局どてらを羽織っただけで、大して変わらない姿で房江が再び障子を開けた。
 「はじめまして、ケイの母、房江でございます。ええっ!赤ちゃん!お父さん、大変よ!」
 再び障子が締められて、今度は影が右に行ったり左に行ったり、めぐみは堪らず笑い出す。その振動で咲が目覚めた。咲は障子に動く影をじっと見て、記憶の奥にしまい込む。
 「やかましいで、寝れんだろうが!」
 奥から大きな声がした。その声にタチバナは少し身を縮めた。もう、二十年以上、まともに言葉を交わしたことが無合った。だが、それ以上声は聞こえてこなかった。障子があくと少しぼーっとした房江が立っていた。
 「もうね、おとうさんね、たまに意識が戻るぐらいで、また、すぐに寝たんよ。うちはもう、どうしてええかわからんでね。とにかく寒いけえ、はよ、入りんちゃい。また、おとうさん目が覚めるかもしれんけえ。」
 「どうなっとるの?今声が聞こえたばっかりなのに。寝とるの?」
 「はじめまして、小橋めぐみと言います。この子は咲といいます。」
 「小橋さん?今から結婚するの?けいちゃん、どういうこと?」
 「すいません、お義母さん。小橋は旧姓で、もう籍を入れさせてもらってます。まだ日が浅いので、間違えました。今後ともよろしくお願いします。」
 「日が浅い?赤ちゃんがいるのに・・・!」
 驚く房江の声に咲が目を開ける。肌の色は色素が無いぐらい雪のように白く、生まれたばかりなのに鼻筋が通った、眼の色が薄い灰色の、今まで見たことが無いような綺麗な赤ちゃん。確かに天使のように可愛いが、タチバナケイに似た部分は同じ人間であるという以外、一つも無かった。目が大きいところはめぐみに似てはいたが、どう見ても人種が違う。しかし、人形のように可愛いことは確かだ。房江は事の経緯を聞きたかったが、自分では聞くことができそうにないので、すぐに耕造が起きることを願った。どうしたらいいか分からなくなった房江は口数少なく二人を居間のふすまを開けて、隣の構造の部屋に案内する。古い家は壁が無く、ふすまだけで仕切られている。めぐみは時代劇のセットの様だと感心したが、その壁の無さ加減に、覚悟が冷やされた。
タチバナはようやく耕造と対面した。思い浮かぶ、いつも不機嫌で、頑固で屈強な男、だが、その記憶の父は、ここには無かった。耕造は目を瞑って仰向けになっていた。長年日に焼けた黒い顔を、真っ白なシーツに囲まれている。出された左腕に管が刺してある。耕造は家で死ぬと言って、帰ってきた。病院側は、せめてもと点滴を用意した。タチバナには、死を迎えようとする耕造が、まるで生き物のシミのように見えて、なにか惨めで残酷な感じがした。
 「稲刈りまでは元気だったのにねえ。寒くなるのと一緒に、数値が急に悪るうなって・・」
 耕造の姿を改めて見て消気返った房江は、気候と父の体調が関係あるかのように呟いた。
「父さんももう、七十過ぎたんだから・・」
タチバナは年を取れば人は弱って死ぬことは当たり前だよと常識を持ち出してみたが、小さく縮んだ母に対して、これは、少し意地悪な気がした。実のところ、ここで何かを言っても、どのみち行き場は無くなるのだから、素直に黙っていればいいのだが、黙っていると、目の前の現実を無条件で受け止めることになるので、タチバナは言葉を選び損なってでも口を開いた。タチバナは最後になる前に、いろいろ思い浮かべようとしたが、頭に浮かぶのはおぼろげな昔の父であって、遠い町に出てから、ずいぶん父と疎遠になっていることに改めて気が付いた。いや、素直に認めると、これまで、ずっと父を避けていた。だから、床に伏せる、老いさらばえて死にかけた父はどこか、現実味が無かった。悲しいとか寂しいとかは、耕造がこの世からいなくなってから感じるのかもしれない。
一方房江は自分の半分が無くなる様な不安と絶望をもって、耕造の遠くない死を見つめている。「せっかくけいちゃんがお嫁さん連れて帰ってきてくれたのに。こんなにかわいい赤ちゃんがいるのに!」責める様に心の中で耕造に言ってはみるが、静まり返った畳の部屋に思いは無残にも吸い込まれていく。めぐみは耕造の姿を見て、せっかく父と呼べる人が出来たのに、すぐにお別れすることになりそうだと思い、ひどく悲しんだ。少しでも話がしたい、感謝がしたい。私を知ってもらいたい。残された時間の短さに焦っていた。咲をギュッと抱きしめて、その顔を耕造に向けた。それでも足りないと思い、咲を抱えたまま座り込んで、咲の小さな手を取って、管の刺さった耕造の手に触れさせた。
今までに経験のない柔らかな感触が、終わりの淵に佇む耕造を刺激した。むず痒そうに耕造がほんの少しだけ肩を竦める。何かを感じ、何か言おうとしたのかもしれない。だが、それ以上の動きはなく、またさっきまでの状態に戻る。房江は、いよいよその時が来たのかと思ったが、耕造は、ただ、何かを感じ、それを感じ取るのに疲れてしまい、再びスッと息を吐き眠りに着いたようだった。めぐみは咲を抱えたまま、寝息を立てる耕造の顔をじっと見つめる。その顔は、日に焼けてかさかさだが、太陽と風と土に刻まれた、命そのもののような力強い皺が年輪のように広がっていた。これが本当に死にゆく人の顔なのだろうか?その顔はまるで、縄文土器を思わせる。躍動感のあるうねりは、永遠にその存在を残していく圧倒的な力がある。
タチバナは突っ立ったまま、目の前にある冬の抜け殻のような耕造の姿がどうしても気に入らなかった。記憶にある耕造の景色は、麦藁帽、強い日差し、田植えの冷たい水、真っ黒い泥、青い稲が風になびく様、それら初夏の景色だった。小さいころに見た大きな父親の背中と夏の風。その絶対的な存在感だけは変わること無かった。タチバナはあれこれ思い出すと、ようやく耕造との距離が近づいた気がした。すると、眠る耕造の顔が今までと違って見えた。イライラした。ずっと抑えていたものが、激しく脈を打ち始めた。
「起きろ!」
自分でも驚くぐらいの大きな声が不意に出た。静まり返った部屋の空気が破けた。房江は驚いて振り返り、目を見開き、引きつった顔をした。めぐみは、咲を抱えたまま、必死でタチバナの行動を止めようと口を半開きに、否定の表情をした。しかしタチバナケイは止めない。初めて父親に対して命令した。「早く起きろ!」「すぐに起きろ!」「いい加減に起きろ!」畳の床に響くような大声で何度も連呼する。咲が驚きオギャーと泣き始める。古くこびりついた家の空気がかき回される。
「うるさいで!」
腹から響く大声が空気を切り裂いた。既に意識は定かではないと医者に診断された耕造がカッと目を開けた。瞬時に家の時間が止まった。しんとした家に張り詰めた空気が流れる。しかし溜まった空気は出口を求めてもがくだろう。「お父さん!」房江が喜びの声を上げる。一瞬で世界に色が戻った気がした。それはフルカラーでなく、何かの色が途切れた覚束ないものであったが、時間が動き出したことは確かだった。タチバナケイは起きろと言った手前、何か言わなくてはと思ったが、言葉は浮かんでこなくて、思いは断片で喉に張り付き、形になりそうに無かった。
「なんや、お前も大きな声が出せるんじゃのう。知らんかったわ。」
耕造はさっきとは打って変わって穏やかな声で言った。タチバナケイは、こんなに穏やかな父親をはじめて見た。ようやくタチバナケイは理解した。耕造が壮絶な戦いを済ました事を。戦っていない父親は、ずっと身近に感じられた。あいかわらず言葉は出てきそうにないが、タチバナケイの中に今まであった絶望的な距離はもう、そこには無かった。
「・・父さん、ずっと、謝りたかったんだ。ごめんなさい。」
「・・急に何のことを言いよるんや?お前に謝られても仕方ないんじゃが?」
タチバナケイは耕造がはわざと嘯いたに違いないと思った。しかし、それで救われた。タチバナケイは糸が切れたように崩れるようにしゃがみこみ、土下座をする格好で泣いてしまった。顔を覆って泣きながら、ずいぶんの間、乾いていた目に涙は沁みて、不意に夏の夕暮れ、あぜで草をむしり、刈った草を集めて火を燃やして虫を追い払うときの煙を思い出した。煙たさに腹を立てたが、それが農家の子供として必要なことは十分知っていた。だが、長い間、それを素直に認めることができなかった。
「それより、もしかして、そちらはケイのお嫁さん・・ですか?」
横になったまま耕造はめぐみを見つめる。めぐみは委縮することなく、しかし一瞬息を飲んだ。何処から説明すればいいのだろう?
「・・はい、めぐみといいます。今後ともよろしくお願いします。」
「めぐみさんか、いい名前だのう。ケイが女なら、めぐみと名付けるつもりだったんよ。あんたはわしの娘じゃ。わしはめぐみという娘ができてうれしいよ。それに、孫まで出来た。めぐみさん、もっと近くで見せてくれ。」
咲はじっとガラス細工のような目で耕造を不思議そうに見つめる。薄暗い畳の部屋で横になった男の顔を興味深く黙ってみている。耕造は少し黙って考えて、大体理解した。
「・・かわいい赤ちゃんだのう。しかし、ケイ、お前は大した決断をした。恵みをもたらした。わしじゃあとてもまねできん。じゃが、それでいい。」
耕造の言葉にタチバナケイは顔を上げ、訳も分からず何度も頷いた。自分の判断は間違っていなかった。それが誇らしくもあり、また、この状況で自分を称える耕造の大きさに、育ってきた家に帰ってきたという実感が溢れてくる。房江は耕造がめぐみのことをすべて認めたことによって、ようやく、家族が増えることを祝う用意が出来た。
「とはいえ、眠ってばかりで、腹が減った。めぐみさん、なんかわしに作ってくれ。」
めぐみは突然のお願いに、戸惑った。母親不在で育ったために、料理を教わることがなかった。「なんか」と言われても、何を作っていいか分からない。困窮しためぐみはタチバナケイに助けを求める視線を送る。耕造の言うことは絶対であることを思い出したタチバナケイだが、勇気をもって霧中の海に助け船を出向させる。
「父さん、俺が作るよ。」
「お前は寿司しか作れんだろうが!わしは寿司が嫌いなんじゃ、知っとろうが!・・すまんが、めぐみさん、なんでもいいからサッと作ってくれ。」
助け船は泥船だった。穏やかに言われたが、めぐみは緊張した。めぐみが作れるものは知れていた。それで満足してもらえるかどうかは分からなかったが、すっと立ち上がり、咲をタチバナケイにそっと渡すと覚悟を決めた。
「お義母さん、台所に着いてきてもらえますか?」
房江はオロオロしながらめぐみの手を引いた。二人が去った後、寝そべったままの耕造は密かに目の合った先にバーと笑いかけた。咲は表情を緩ませて喜んだ。
土間の台所は寒く薄暗かった。房江は何かめぐみに助言をしようと考えてみたが、何も浮かばず落ち着きなく、散らかった台所を気が付かれない様に少しづつ片付け始めた。
「すみません、海苔と塩と醤油と味の素ありますか、あと、ご飯は炊いてありますか?」
「ご飯は今朝炊いたからジャーにあるよ。まってってね、すぐ用意するから。他には何かいらないの?白菜もあるし、蓮根とかもあるよ。お肉は買いに行かなきゃいけないけど。」
「いえ、大丈夫です。おむすびを作ります。ありがとうございます。」
房江はその答えに少し不満だったが、一通り皿に盛って用意した。めぐみは塩を7、味の素を3の割合で混ぜた。めぐみは思い出していた。母親がいなくなってから二年ほど年老いた叔母と暮らした。叔母は独り者で、狭いアパートに二人暮らし、朝早く出て、夜遅く帰ってきていたが、暮らしは貧しく、しかし、めぐみには優しかった。その叔母がよくつくってくれたおむすびを作ろうとしていた。手水の代わりに醤油をつけて、叔母命名の味塩を指三本にしっかりつけて、ご飯を手に取り、斑にならない様に、手の上でまんべんなく転がして、しっかり三角にむすぶ。海苔を巻いて出来上がり。めぐみはむすびを作りながら叔母さんのことを思い出していた。「おまえがいるとね、私はがんばれる。だから安心しなさい。」叔母はいつも疲れ切っていたが、笑顔でめぐみによくそう言った。ある日家に帰ると叔母が床に倒れて亡くなっていた。それは突然で、あまりに悲しくて、いっそのことか一緒に死ねればよかったのにとも思っていた。しかし、テーブルの上にラップをかけたおむすびが置いてあった。それを見て、叔母の思いを知り、泣きながら食べた。
出来上がったうすく茶色のおにぎりは房江が見たことが無いものだった。簡単なものだけど、醤油と海苔が合わさって、とてもいい匂いがした。房江はこんな時だが、それが食べたくなった。
「・・お、お義父さん、出来ました。おむすびです。」
 初めて使う「おとうさん」という言葉にめぐみは詰まったが、その言葉を言えることが密かに嬉しかった。三合炊かれたご飯はすべておむすびに代わっていた。小皿に二つ盛ってめぐみは耕造に差し出す。耕造は重くなった体を肘を着いて支え、タチバナケイに支えてもらいながら上半身を起こした。
 「めぐみさん、ありがとう。わしの娘の料理が食える。うれしいのう、頂きます。」
 耕造は首を伸ばして、やっとのことで、むすびにかぶりつく。醤油と海苔の香りが合わさり、食欲をそそるいい匂いがする。口に含むと醤油の風味と、塩はたっぷりついていたが、うまみ調味料がそれをまろやかにし、甘味さえ感じられる塩味が口いっぱいに広まり、耕造が作った米の味を引き立てる。もしこれを、良く晴れた日の田んぼの真ん中でそよ風に吹かれながら食べたなら、もっと美味しいだろうと耕造は思った。耕造はあっという間に二つのむすびを平らげた。
 「おいしかったなあ、本当においしかった。ありがとう。」
 耕造はケイの腕に抱かれ、房江とめぐみと咲に見守られながら、人生を平らげたように満足して、幸福感に包まれて、意識を混濁させていく。そのまま耕造は、とうとう世界を手放した。手放した途端、ゆっくりと、田んぼの底のような、真っ暗な混濁の沼に沈んでいく。なにやら声は遠くから聞こえていたが、次第に音は無くなり、暗くなっていく、しかし、それは暖かく、やり終えた耕造を迎え入れようとしている。穏やかな終わりが来た。
 だが、何かが、感覚が消えていく手の先を触れる。それはとても小さく、しかし、周りの混濁と比べ、光を放つほどの強い刺激を持っている。それは、小さな手だった。耕造の手を掴もうとしている。耕造は迷ったが、そこに微かに残る力を振り絞った。懸命にあがくと、腹の底で食べた米が疼いた。「生きろ!」確かに命令が聞こえた。すると手が動いた。手は探す、そして、見つけた。ついに耕造の手は小さな手と結ばれた。
 「かはーっ」
 水面から頭を出したように耕造は息を思い切り吸い込んだ。使命を終えたはずの肺は、無理やり空気を吸い込む苦しさに根を上げそうになったが、しっかりと膨らみ、心臓はその負担に破れそうになったが、破裂一歩手前で、再び鼓動を始めた。

 あれから半年たった。立花恵は田んぼの真ん中で初夏の風に揺れる苗をじっと見ていた。田んぼの水面には太陽が反射し、いつのまにか目をその眩しさに細めるのが癖になっていた。土と水が合わさった匂いが鼻の奥を突く。今年の天候予想を思い出し、もう少し恵の雨が降ればいいのにと思いながら、泥のついた長靴であぜ道を歩く。遠くで麦わら帽子をかぶった房江が手招きしている。
 「けいちゃん、お昼御飯よ。」
 二人して並んであぜ道を歩く。
 「めぐみちゃん、やっぱりおめでただって。こうなると咲ちゃんお乳もらえないからかわいそうよね。まあ、じいちゃんが四六時中くっついてるから寂しくないだろうけど。なんか暖かくなったから、数値も落ちついてきて、よかったわ。でもね、めぐみちゃん、身重なのにパソコンに向かって仕事してるよねえ?もっとね、農家の嫁なんだから、やることあるだろうにねえ。」
 房江は案外楽しそうに愚痴をこぼしている。立花恵は目を細めて笑ったような顔をして聞いている。しかし、頭の中では昨日の夜のニュースを思い出す、農家に対する政府の方針をいろいろ言っていたが、あまり期待できそうなものでもない。どうも先は見えないが、これは天気みたいなもので、ジタバタしても仕方がない。
 「今日の昼は何?」
 「めぐみちゃんがねえ、おいしいおむすび沢山作っとったよ。」
 「それじゃあ、急いで帰ろう。」           了
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み