巻く
文字数 14,249文字
その2 巻く
「これなんですか?私、主婦なのに、夕方出勤なんてどういうつもりなんですか!うちには一年生と三歳の子供がいるし、保育園の迎えも、児童館の迎えもあるんですよ。家に帰ったら、ご飯を食べさせて、お風呂に入れて、寝かせないといけないんですよ。分かってます?主人に協力してもらうこともできますけど、酷くないですか?」
権利を侵害されたと騒ぐ鉢巻巻いた市民団体のように、えらい剣幕で加賀美はタチバナに迫る。午前十時から十五時までの勤務シフトがタチバナの野心たっぷりの気まぐれによる皺寄せで、夕方六時から夜の十一時に勝手に変更されていたことに対する怒りだった。じっと聞いていたフリをしていたタチバナは「うるさいなあ。」としか思ってなかったが、それを正直に口に出すわけにもいかず、だからといって、反省して謝罪する気も、改心して変更する気もさらさらなく
「仕方ないじゃないですか、原因は塚本くんの無断欠勤にあるわけですよ。私も反省しているんです。昼を主に指導していましたが、夜が手薄になっていたことを痛感しました。その為のシフト変更です。協力してください。それに、別に昼のみの契約で来ていただいてるわけじゃないですか。加賀美さんにも平日のディナータイムを経験してもらって、店のオペレーション上、誰でも対応できるようにしたいんです。これは皆の為なんですよ。」
「いやいや、店長が夜出ればいいだけで、昼の時間の私とは関係ないじゃないですか!そりゃ、週末の忙しい時は夕方もたまには出てますけど、平日は無理ですよ。なんで自分の間違いを認めないんですか。適当に仕事しないでください!」
はた目から見るとタチバナは叱られているようにしか見えなかった。狭い事務所の壁際で着替えが済んだ星野はじっとその様子を見ていた。時計はもうすぐ十六時になろうとしていた。そろそろフロアに出る時間だったが、言い争いを放っておいて出ていくのも、何か関わり合いを避けたような薄情な印象を残すだろうし、だからといって二人の言い合いに割って入るのも火中の栗を拾うように面倒に感じられた。確かに店長は勝手だが、加賀美さんも噛み付きすぎだ。まあ、主婦でもあるから、家庭も疎かに出来ないのだろうけど、この先ずっとのことではないのだから、少し引いてみればいいのに。フリーターの私や広瀬さんなんかは、なんにも文句言ってないのに。加賀美さん真っ直ぐだから仕方ないんだろうけど。どちらにしろ不毛な言い争いを聞くのは気が滅入る。星野は髪を後ろに束ねながら、うんざりしながらそんなことを思っていた。
「お疲れ様です!」
急にドアが開いて、外の光が飛び込むと共に、大きな元気な声が響いた。塚本だった。無断欠勤してから一週間が経つが、連絡も無く、今日からシフトに入るようになっていたが、もう来ないものだと思われていたので、星野が代わりに急遽入ることになっていた。事の原因が笑って立っている。星野は嫌な予感がした。
「あれ、星野さん、なんで今日いるんですか?今日の夕方シフトは広瀬さんと藤本さんと僕の三人でしたよね?」
言い争いを止めたタチバナは、何事もなかったように現れた塚本に何か言ってやろうと思っていた。「何しにきた!」と直感的に怒鳴るか、「この前はどうした?」と一旦心配するふりをして、実は逃げ場を無くすように事実を並べ追い詰めるか、とにかく塚本を悪者に仕立てる必要があったが、実際のところは、タチバナの欲情を掻き立てる気怠いゼブラ母を見つけるきっかけを作ったことは事実だったので、どうしても憎みきれなかった。ただ、事の成り行き上、怒ってみせる必要がある。そうなると多少、怒りを滲ませて、常識を正す理解のある大人の口調をとってみる。
「塚本君、先週はどうした?なんで休んだ。」
「そうなんですよ。あの日、僕に彼女ができたんですよ。すごくないですか?」
塚本は一週間経っていたが、まだ舞い上がっていた。以前の実直とも根暗ともいえる控えめな態度が破れて、心機一転、どこか自信に溢れた、勢いのようなものを身に付けて、丘から街を見下ろすように颯爽としていた。今の塚本に無断欠勤の謝罪というマイナスイメージの行動は、今すぐここでナイフで首を切って自殺をすることのように、まったく思いもつかなかった。その塚本の日が昇るような勢いにタチバナはすっかり当惑していた。せっかく怒ったのだから、交通量の多い交差点を突っ切るような強気を持って、声を荒らげて「無断欠勤しやがって、ふざけるな!」と言ってみたかったが、あまりの塚本の変貌に、これ以上の追求が当て違いで、無意味なように感じられた。
「うそ!塚本、よかったね、あんまり転がっているチャンスじゃないから、大事にしたほうがいいよ。案外ラストチャンスかもしれないし。」
着替えを済ませた広瀬が一見同意のような、しかし毒の混ざった言葉を吐き出しながら、更衣室から出てきた。広瀬は三十前だが、学生のように事の真相を探るようなことなく、表面的な勢いで祝ってみせた。二十歳そこそこの塚本は身近な同意者を見つけたことに対して素直に喜んだ。同志を得た、もう一人ではない。こうなると過給機が付いたように浮き立つ気持ちはすぐに沸点に達した。
「そうなんですよ、偶然かもしれませんが、もしかしたら運命なのかもしれません。ちょうど僕は彼女のことを思い出していて、学食行ったら、違う学校なのに来ていて、うちの学校の名物のナトリうどん食べていたんですよ。で、僕はナトリうどん信者ですから、すぐにそのことを彼女に話したんです。そしたら、彼女嬉しそうにしていて、次の日メールで付き合ってみる?って展開になったんです。これって、すごくないですか?それで、返信待ってたらバイトの時間になってて、でも、これは人生で重要な局面だから、仕事は後回しにするべきだと思ったんですよ。ずっとスマホみてたら、日付が変わる頃、彼女から、いいよって返信が来たんです。ああ、やっぱり、待っておいてよかったって思いましたよ。そこは自分でもいい判断をしたと思います。」
塚本は満面の笑みを浮かべて、しかし必死に、彼にとって重要な事の経緯を、生き別れの家族と異邦で再開したような、さも奇跡的な話のように熱弁を振るったが、タチバナの耳には上手く伝わらなかったし、地球の裏側のずっと奥の異文化と交流したような混乱まで生じた。結局、何が言いたいのかさっぱり分からなかったのだ。ただ、唯一気になったのがナトリうどんの名前だった。三十代の加賀美にも塚本の話は伝わらなかったどころか、訳の分からない無責任、衝動的な学生の行動で、自分の時間が犠牲になったことが、若さから外されたようで、ひどくつまらない思いだけがした。星野は塚本と付き合うことになった女の子のことが気になった。年下でおとなしく、誠実だと思っていた塚本を可愛いと星野は密かに、いや、微かに思っていたが、こうなるとその思いが邪魔になってくる。
「へえ、塚本やるじゃん、今度、遅番の時間に、その娘連れてきなよ。藤谷と私が店長にバレないように色々サービスしてあげるから。」
広瀬はその店の主のように快活に笑った。タチバナは気づかず乗りそびれた電車を見送るように不甲斐ない気持ちを抱いた。だが、その劣情も、今回の塚本の怠惰、訳の分からない衝動的な行動に対する怒りも、すでにタチバナの中では立ち上がることなく座っていた。正直なところ、他人の車のボンネットに乗っかる猫のように既にどうでもよかった。
「じゃあ、塚本君は、出勤ってことで、代打の星野さん、帰っていいよ。」
タチバナは当然のようにそう言い、星野と加賀美は余りにも不機嫌で、言葉が詰まったように無言で事務所から出ていった。浮かれた塚本は雰囲気の悪さに気がつくこともなく、ユニフォームに着替えて広瀬と一緒にフロアに出ていった。
タチバナは今日は店に入らず、冷凍ハンバーグや冷凍チキンカツなどの数を数えていた。制服は半袖で、一畳ほどのウォークイン冷凍庫に入って棚に並んだ様々な凍った食材を数えていたが、マイナス十八度の冷気は身にしみて、メガネは曇り、毎週の行動だが、どうしても手を抜いて、一分ほどで外に出て、頭に残った記憶と提供数のデーターとを見比べて適当な在庫の数字を作り上げた。ただ、どうしても製造ロス、焦がしたとか、落としたとか、間違えたなどで廃棄したものもあり、適当な在庫管理では、どこかでオーダーに応えられなくなるときがある。実際、ある時などは、店の看板メニューであるハンバーグを出せないことが二日間あり、タチバナは本部から厳重注意を受けたが、本部は本部で離職率の高い過酷な飲食店チェーンという自覚はあり、それ以上のタチバナのミスに対する追求はしなかった。タチバナはそれから在庫を適当に取るようになった。それでも、やはり十年の経験は無駄ではなく、重要なものの在庫を切らすことは、ほぼなくなっていた。この点に関してもタチバナは発表できない自負を抱いていたが、発表できないものは何時の間にか消えていくしかなかった。そういった気持ちの消費、疲労のようなものが、タチバナの業務に対する関心を薄める要因には十分なりえていた。
「店長、三日前にもそろそろ切れるって言ったんですけど、もうフライドポテトがないんですけど、今日、今から入荷ありますよね?」
藤谷が少し焦った感じで適当に在庫をとるタチバナに背後から話しかける。タチバナは手元の在庫表を黙ってみた。フライドポテトは計算上では残り1キロ袋二つで、入荷予定は明日の昼だった。ギリギリの発注だが、電卓の上では足りるはずである。
「二袋あるはずなんだけど、無い?」
「三日前に二袋って言いましたよね?」
なんとなく聞いた覚えはある。しかし、何もしなかった。タチバナは考えるふりをして、
「そうだっけ?それより、ちゃんと計って揚げている?うちは慈善事業じゃないんだからね、勝手に量を増やされたら困るんだよ。食材はお金なんだよ。量をきちっと計らないってことは、お金をフロアにばら撒いているのと同じなんだよ。わかってる?」
タチバナは何時ものように自分の非を認めることなく、相手に責任、非を押し付けてきた。藤谷は、やはり腹が立ったが、多めに揚げていたかもしれないと自分の非を一応認めて、反論することなく、素直に反省した。
「藤谷君、やっぱりポテト無かった?仕方ないから、業務用食品店で冷凍ポテト買いに行くしかないね。店長、行ってもらえます?」
藤谷から事前に相談を受けていた広瀬は、事の結末を予期して、会話のタイミングを見計らって、顔を出して、誰にも非が無かったように、しかし、発注業務の担当者であるタチバナに不足分を買いに行かすことで、責任を取らすように計画通りに発言した。広瀬にとっては、あるかもしれないオーダーに必ず応えることが第一だったので、当たり前の行動を取ったつもりでいたが、タチバナにとっては、本部の指定以外の商品を店舗で購入して使うとなればそれに至った原因報告が必要となり、それが面倒で、それが嫌なら、報告せずに実費で食材を買って誤魔化すしか方法がない。何時もならタチバナは、報告書の提出が面倒なので、食材を買いに行く方を選んでいたが、今月はネットゲームに課金をしすぎて、千円程度のポテトの代金を立て替えるほどの現金すら財布にない金欠状態だった。
「いや、買いには行かない。ちゃんとしたものを出せない状況だから、お客さんから、万が一、もし、ポテトのオーダーがあったら、広瀬さん、丁寧に断って下さい。」
まさかのタチバナの発言に広瀬は絶句した。確かにフライドポテトは主要な商品ではないし、価格も安い、たいして美味しくもないし、だからオーダーもそんなに上がらない。しかし、食べたいというお客さんが来るかもしれないのに、対応しようと思えば出来るのに、それをはなから放棄するタチバナに対して怒りを通り越して、ひどく呆れてしまった。まあ、その程度の人間だとは思っていたが、そういった類の人物が開店から務める店の店長であることに対して、やりようのない情けなさを感じた。
「・・・わかりました。断るようにします。」
広瀬の沈んだ声にタチバナは何も感じなかった。明日の朝まで誤魔化せばいい。それは大したことではない。だいたい、ただ揚げただけの、あんなまずいもの、提供する価値なんてない。欲しがる方が悪いんだ。当たり前にようにそう思い、タチバナは在庫の続きを取り始めた。
平日の夜十時を過ぎると、客席はほぼガラガラで、いるとしたら、たまたま店に来た一日に追い立てられた疲れた人か、ファミレスに来ることが日常となっている孤独な一人客ぐらいだった。
「広瀬ちゃん、機嫌悪そうだね。なんかあったの?」
毎日のように来る年金暮らしの独居老人である谷本が水割り片手にほろ酔い気分で話しかける。広瀬も慣れたもので普通に返答する。
「フライドポテトがないんですよ。」
「そりゃ、仕方ないよ。無いものは出せないもんな。変な客だと断るの大変そうだから、俺が手伝ってやるよ。この時代、変な客が多いからな。大声で怒鳴ればいいんだ。怒鳴り返されたら警察呼ぶんだ。なに、殴りかかってきたりはしないよ。俺に任せておけ。」
広瀬はどちらかというと、変な客に分類されるだろう谷本に慰められたようで、少し可笑しく、おかげで気が晴れた。
「それより谷本さん、毎日豚汁定食と水割りで飽きません?たまにはそれこそポテトでも頼めばいいのに。」
「俺の体、気遣ってくれるのか?ありがたいねえ。でもなあ広瀬ちゃん、豚汁定食ぐらいなんだよ。まともに食べられるのは。あとは、無理だよ。油ばっかで、塩辛くて、あんなの食べてたら、それこそ寿命縮めちゃうよ。まだ、死にたくないからね。女房死んで一年経つけど、あと三年ぐらいはのんびりしたい。こうやって毎晩ここに来るのが楽しみなんだ。ここだとテレビ無いから見なくて済む。一人だとテレビだけなんだ。」
「でも、そうですね。私も一人で住んでるけど、夕方起きてここ来て、あとは家で寝てるか、テレビぐらい。まあ、最近はスマホばっかりいじってるけど。でも、豚汁定食以外もいいのありますよ。焼き鮭定食とか、うどんとか。」
「焼き鮭をレストランで食うなんて考えられないよ。うどんはうどん屋がいいねえ。本当はねえ、毎日、食べるもの選ぶのが面倒なんだよ。朝はパン、昼はコンビニのオニギリ、夜は豚汁って決まっていて、それに沿って生活してたら、それが済んだって、食ったもので、一日の区切りができるだろ?それが、一人で居る俺にとっては大事なんだ。もう、毎日はいい方向に変わりはしないから、せめて同じであって欲しいんだ。そうしておけば悪い方向に変わったとき、分かりやすいじゃないか。」
「ちょっと、まだ、私にはピンとこないなあ。あっ、お客さんだ。じゃあね。」
残された谷本は、もう少し話がしたくて、少し切ない顔をしていた。しかし、そんなことは六十億人以上もいる世界で、誰も知らない。一人も気が付かない。年金暮らしに豚汁定食550円と水割り350円の千円近い夕食代は結構つらいが、それでも、ここに来たかった。いや、ここでしか話をする相手がいなかった。今日は発見があった。広瀬が豚汁定食だけの注文を心配してくれていることが分かった。それは本当に嬉しかった。それを本当に感謝していることを広瀬に伝えたかったが、出来なかった。そんな喋り足りない部分、満足してない所を、明日こそは埋めよう。毎日がいい方向になるようにしたい。谷本は自分がしっかりと前を向いていることに気が付いてなかった。
店の扉があくとチャイムが鳴る、その音に広瀬は反応して入口を、その大きな目を向ける。視界に入ったゼブラ君を見て、今日は木曜日だと気が付く。すると、一瞬で問題が浮き上がってきた。今日はポテトフライが無いのだ。広瀬の細い眉は眉間に皺を寄せた。ゼブラ君の母、吉山めぐみは間違いなくドリアとサラダとポテトフライを頼んでくる。口数少ない吉山が一度だけ広瀬に言ったことがある。
「こいつ、ポテトしか食べないの。あとは練り梅とアイスぐらいかな。」
広瀬はその言葉を思い出し、襟足の毛が長い世武羅(ゼブラ)君がせっかく来たけど、ポテトが食べれないことを申し訳なく思いつつ、同時に、吉山の反応が気になった。おそらく普通の人ではないだろう。そういった人は、突拍子もない怒り方をすることは、長年の格安ファミレスの深夜ウェイトレスの経験で理解していた。安いものを食べている人は、冬山の天候のように、間違いなく荒れる。これは広瀬の持論だった。だから広瀬自身は一人暮らしでも、ちゃんとしたものを作って食べる様にしていた。
吉山親子は案内も受けないで当たり前のように、いつもの席に着く。広瀬はそこに行くことを少し躊躇した。その様子を広い世界で唯一理解していたのは、ほんの二メートル先、端の席に座る谷本だった。谷本も吉山親子がいつも同じものを頼んでいるのを知っていた。それに広瀬がポテトフライが無いって言ったことも覚えていた。谷本は緊張した。吉山のことを見るたびに、あれは水商売か風俗をやっているろくでもない女だと思っていたので、ポテトが無いことを告げることになる広瀬のことが心配だった。助けてやらないといけない。テーブルに置かれた水割りのグラスはすでに空っぽだった。もう少し酒が入っていれば立ち上がることが出来るだろうが、緊張で心臓が荒狂うばかりで、吉山を正すセリフを考えていたが「やめろ」「さわぐな」などの短いフレーズしか浮かばない。ただ、もう、じっとしていられない。すでに中腰になって、爪先に力を入れて、何時でも立ち上がれるようにスタンバイは出来ていた。
「いらっしゃいませようこそ!」
そこに出てきたのは奥から飛んできたタチバナだった。タチバナは吉山と接点を持ちたいが為にこの時間まで粘っていた。満面の笑み、自信を湛えてのタチバナの登場は広瀬や谷本にとってはたった一人で世界の為に戦うヒーロー登場のように頼もしかった。広瀬はホッとし、店長であるタチバナに初めて敬意を持った。一方の谷本は微かに上がった重い腰をようやく下ろすことが出来た。
「いつもご利用ありがとうございます。店長のタチバナです。ご注文はいかがにしましょうか。」
広瀬はタチバナが胸を張って自己紹介始めたのを見て、なんだか見ているだけで恥ずかしくなってきた。どういうつもりだろう?もしかして、吉山に気があるのだろうか?だとしたら、だらしない感じの女が好きなんだろうな。読み捨てる週刊誌の記事のような、どうでもいい必要のない情報だが、どちらにしろ、そのおかげで助かった。しかし、どうやって店長は断るのだろう?
「ドリア、サラダ、ポテトフライ、以上。」
吉山はいつもより明らかに機嫌が悪かった。タチバナの媚びるような態度にさえ気が付かなかったし、これ以上話したくない様に、単語を並べて吐き出すだけだった。およそ会話とは程遠い内容。しかし、タチバナは言葉を交わしたことに満足を抱いていた。タチバナはダメな女に興味を持つ。やさぐれてたり、けばけばしかったり、安っぽくて、頭が悪そうなのに目が無い。そういうのに振り回されるが、最後には布団の中でヒーヒー言わしたい。そういったのが好きだった。だからまともに女性と付き合ったことが無い。
「ハイかしこまりました。ドリアとサラダとポテトフライですね。すぐにお持ちし・・」
ここでようやくタチバナは夕方の会話を思い出した。ポテトフライは無い。その現実に気が付くと、とたんにこの場から逃げたくなった。奥で見守る広瀬にそっと視線を送るが、広瀬は巻き込まれては大変と、気配を消して厨房に逃げて行った。タチバナは動きが止まった。吉山から香水のツヤのある臭いが漂っていたが、この状況においては、胸をくすぐるというよりは、なにやらムッとするだけで、しつこい臭いがまとわりついて胸が詰まる思いだった。
「何?早く持ってこいよ。突っ立ってないで。」
メイクが落とされた吉山の顔は、色白だが、目の周りが少し赤みがかかっていた。眉は殆どなくて、風呂上りのような顔が金髪の中に埋まっている。無防備だったが、その分、剥き出しだった。野良猫のように目付きは鋭く、高めの声だが、凄みが滲んでいた。誰もが嫌がる状況だが、タチバナは剥き出しの女の姿を目の前にして、その傍若無人、洗練とはかけ離れた野性味、際限のない凶暴な目付きに魅入っていた。
「・・申し訳ございませんが、あいにく、ポテトを切らしておりまして・・。」
この言葉に吉山は瞬時に立ち上がった。半開きだった目を大きくひん剥き、獰猛な野獣のように愚鈍な豚のようなタチバナを睨みつける。
「ああ、無い?客が頼んでいるのに、無いの一言で済ますかー?おまえは舐めているのか、金払ってるんだよ、うちはここ、よく来てるんだよ!火曜と木曜にきているんだよ!知ってんのかボケ!おい、何とかしろよ。わかっているのか!くそ虫!」
この日、吉山は仕事で相手のお客にボロクソに言われムシャクシャしていた。たまたまその客はタチバナと同じ雰囲気を持つ人間だったので、その嫌な思いを思い出し、尚且つ思い通りに行かない展開に一気に怒りが沸点に達していた。大声で怒鳴っても怒りは冷めやらず、テーブルに腕をかざすとワイパーのように振って、メニューや爪楊枝入れ、紙ナフキンの束などを滅茶苦茶に落とした。隣に座っているゼブラは母の豹変に驚き、しかし、以前も見たことがあるので、すぐに、ただ黙って下を向いて、傘も持たずに横殴りの風雨激しい嵐が通り過ぎるのをひたすら待った。
タチバナは吉山の荒れもように一種のカタルシスを感んじていた。自分ではあんなことはできない。感情の赴くままに荒れてみたり、公衆の面前で大声を出したり、無理難題を人に押し付けたり。恥ずかしいとされていたことを恥ずかしげなくする。まさに剥き出し。本当は迷惑だが、しかし、なぜか、それを見ていたい。吉山という女は世俗という淵を危なっかしく歩いている。一緒に歩こうだなんて思いもしないが、ひどく欲情する。
「なに、ボケっとしてるんだよ!言ってる意味分かんないのか?お前はバカか!早く持ってこいよ。どっかで買ってくるとかするなよ。ゼブラが食べれるもの持ってこいよ!いいな、わかったな!くそ虫!」
「はい、かしこまりました!」
驚くべきことに、タチバナは、だらしない笑顔で返事した。遠目で見ていた広瀬はその様子を理解できなかった。谷本は、もしかしたらタチバナは大した男なのかもしれないと思っていた。あそこまで無理を言われて笑顔で返事なんて、普通は無理だ。
「すぐにドリアとサラダを用意して。でも、火は入れないで。すぐに調理できる状態にしておくんだ。広瀬さん、あの親子の事、少しは知ってるよね。あの子供は、何が好き?」
タチバナは至って冷静だった。その様子に広瀬は驚いた。
「はい、店長、吉山さんから聞いたのは、ゼブラ君はポテトとアイスと錬り梅しか食べないって言っていました。」
(あの女は吉山と言うのか。)タチバナは得た情報を胸に刻み込む。ポテト、アイス、練り梅しか食べない。それが事実だとしたら、生き物として、霊長類ヒト科として、大変なことだと思ったが、子供の健康など、ここではどうでもよかった。とにかく問題の解決が先だった。アイス、甘味、冷たい、練り梅、酸味、香料、ポテト、塩味、油、手掴み。箸はダメ。手で食べられて、甘くて、酸っぱくてOK、油っけがあって、熱くないもの。
「うん、分かった。母親がそういったんだね。じゃあ、子供は何が好きかとか言ったことはある?」
タチバナは名医が患者に問いかけるように、ゆっくりと聴きやすい口調で安心を与えるように広瀬に聞いてきた。間接的だが当事者としての緊張感を持っていた広瀬は、何時の間にか落ち着いてきて、聞かれたことに素直に答えようとしていた。
「ゼブラ君が好きなものは、何か言ってたな。ええっと、あ、紅しょうが!吉山さんが持ち帰りの牛丼買って帰るけど、紅しょうが嫌いで、小袋のをゼブラ君食べてたっていってたな。赤いの酸っぱいけどおいしいって、でも、あったかいご飯がダメで、上の肉は食べられるって、でもお母さんは牛丼屋遠いからあんまりいかないって言っていたかな?でも、店長、ここじゃあ牛丼なんてありませんよ。急いで買いに行きましょうか?」
タチバナの頭の中に、紅しょうが、牛肉、冷めたご飯、箸なし、甘味、酸味。情報は揃った。あとは料理の組立だが、冷凍の材料を焼いたり、揚げたりするだけで、ここで覚えた料理の知識なんてなかった。だが、タチバナ自身の料理の知識はあった。知識は情報を組み上げ、価値を創造する。一瞬のうちに答えは見つかり、すぐに行動に移した。
「藤谷君、肉うどんの肉を解凍して、一食分、五十グラム。あと、生姜焼き丼の上に乗せる紅しょうがの小袋を五つ。で、広瀬さんはラップと朝定食の卵焼き用意して。あと、ラーメンに乗せる海苔、切ってない奴。」
タチバナは二人に淀みなく指示を飛ばす。藤谷と広瀬は冷静なタチバナの指示に催眠術にかかったように支配され、何一つ疑うことなく素直に用意を始める。タチバナは調味料など見当たらない厨房でステンレスのボールにコーヒー用のスティックシュガー、小瓶に入った酢を適量入れさっと混ぜて、ジャーから熱いご飯二百グラムをその合わせ酢に放り込んだ。ムッとした酢の臭いがしたが、熱を帯びたご飯は、混ぜ合わされるうちに、合せ酢と空気とステンレスに熱を奪われて、すっかり冷めてしまった。そこに藤谷と広瀬が指示されたものを集めてやって来た。二人は何も聞かず、行儀のよい猟犬のように、じっとタチバナのすることを見ていた。
厨房は静まり返っていたが、ただならぬ熱気が漂っていた。タチバナはポリ手袋をした。まるで手術台に向かう執刀医のような貫禄をたたえていた。助手のようにタチバナの手を目で追う広瀬と藤谷。ステンレスのテーブルにラップを敷いて、その上に海苔を広げ、海苔の上に手を包丁のように立てて関を作り、酢飯を四角く同じ暑さに敷き詰めた。その白いリングに肉うどん用の牛肉大和煮が横一直線に盛り付けられた。次に細長くカットされた黄色い卵焼きが添えられ、続いて、目の覚めるような紅しょうがも平行に並んだ。広瀬は黄色、茶色、赤色の並ぶ曲線を見て、ドイツの国旗のようだと思った。電気科の大学生である藤谷は、赤、黄、茶の三本の電線が並んでいるように見えた。あの三本には別々の電気が流れている。送電、制御、違う命令を伝えている。だが、巻かれて一つに束ねられるということは、同じ対象に繋がっているに間違いない。その対象が今は見えてこないが、その対象物を上手く動かすために繋がっている。違う命令が一つの対象の為に用意されている。藤谷は配電図を見るような興味を覚えた。何処に繋がっているのだろう?その単純な興味が藤谷の頭の中に黄、赤、茶のコードを複雑に張り巡らせる。その一本一本に信号が走る。何も見た目は変わってないが、確かに信号が、命令が、目的が流れている。タチバナは助手二人のことなんて目に入ってなかった。巻き簾を使わないで巻寿司を作ることは難しい。巻き簾は横方向の直線の連続が縦糸によって繋がれている。それがないと一番困るのは、巻初めの力加減、特に左右のバランスを取ることが難しいことにある。繊細に、しかし、大胆に素早く初期動作を起こさないと、まっすぐな筒丈に巻くことができない。それを熟知していたタチバナは、緊張した。少しのバランスの崩れが、円筒を円錐に変えてしまう。タチバナは左右のラップを左右の手の人差し指と親指でそっと持ち上げると、躊躇うことなく一気に畳み込むように巻いた。広瀬が見つめていたドイツの国旗は真っ黒い海苔に一瞬に変わった。藤谷が興味を抱いていた配線は、結束テープで巻かれるように、一気に完成された太い電線束に変化した。タチバナは目の前で起こる変化に確信を抱き、ふっと力を抜いた。その脱力が巻き込まれた二人にも伝染して、三人が同時に溜まった息を吐き出した。三人は無意識に連帯感を覚えていた。感想を言い合ったり、確認し合う必要のない意識の共有。お互い見合って視線の送り合いでもしたかったが、事の成り行きがうまくいきすぎて、それを一々確認するのが、なんとなく照れ恥ずかしく、申し合わせたように次のフェイズに作業を移した。
藤谷はドリアの調理を始め、広瀬はサラダを用意した。タチバナは海苔が湿るのをまっていたが、時間が掛かりそうなので、霧吹きで湿らせて、巻寿司を切り分けた。丸い断面の中心に跳ねるようなエネルギーが詰まったような鮮やかな黄色、目を見張る鮮血のような赤、しっとりとした大地にも似た茶色が綺麗に並んでいる。
「意外と旨そうですね。」
藤谷はそう言いながら巻寿司に手を伸ばす。するとタチバナは一切れ藤谷に渡し、一切れ広瀬に渡した。
「子供に全部は多い。味見してみて。」
藤谷と広瀬は躊躇うことなく口に含んだ。海苔の香り、酢飯の微かな酸味と甘み、牛脂の旨味、甘い玉子焼き、それらを覆すような紅しょうがの刺激。合いそうにない具材が、巻かれることで、お互いを補完し、まったく違う方向の一つの味になっていた。
「これ、牛丼の味とそっくりですね。巻寿司なのに。」
「やばい、これ、結構いける。」
広瀬は違和感の無さに驚き、牛丼好きな藤谷はその味をすんなり受け入れていた。
「牛丼って、牛の油、醤油、砂糖、生姜の味なんだよ。結構単純で、それを円やかにするのに生卵入れたりするけどね。だからこれは、当たり前なんだ。さあ、持って行こう。」
タチバナは完成した巻寿司になんの興味もなかった。それより、ゼブラ君が食べてくれるか気になった。最近は海苔が噛み切れない噛む力が弱い子供が多い。そういう生きる力が弱い子供は、困難から逃げる傾向にある。
タチバナは新メニューが出るたびに柔らかさが強調されていることに嫌気がさしていた。柔らかい鶏肉は本当にうまいだろうか?噛みごたえのある鶏肉の方が味が濃い。しっかり運動してきた鶏肉は油も少ないし、軟な筋肉じゃないはずだ。霜降りの牛肉に価値があるような風潮だが、あれなんて、筋肉に脂肪が混ざるような、肥満の病気にかかったような肉なんだ。あれが旨いとされる。牛脂を注入してまで、病気の肉の味を作ろうとする。
出来た巻寿司の中で一番固いのは海苔、次に紅ショウガ、玉子と牛肉、飯は柔らかい。ゼブラ君が見た目で逃げたら終わりだ。まあ、逃げたところで後味の悪い結果になるだけで、気にする必要は無い。吉山と関係を持つための切っ掛けにでもなればと思っていたが、よくよく考えたら、そんなこと、現実的でない。しかし、あの鼻の奥を強く刺激する堕落した匂いには近づきたい。タチバナは表情の消えた顔をしてそんなことを考えていた。一方、広瀬と藤谷はタチバナの料理の腕に感心し、ただ見ていただけなのに、何か深く関わったような気になって、今後の展開にワクワクしながら、タチバナグループの一員になった気持ちで緊張して後に着く。
「三人で出しに行ったら、おかしいから、待っててよ。」
タチバナの静かな指示に二人は足を止め、黙って見守ることにした。
「吉山さま、大変お待たせしました。ドリアとサラダと、ポテトフライの代わりをお持ちしました。」
これなに?と言いたそうな吉山の不審な目をじっと見返して、タチバナは多少引き攣ってはいたが、にっこりして見せた。吉山は気味悪そうな顔をした。何か言ってやろうとしたが、腰をずらしてだらしなく座るゼブラが目の前に出された巻寿司に腕を伸ばして、そのまま掴んで口に放り込んだので、何も言えなくなった。落ち着きなく動きながら食べるゼブラは動物そのもので、しかも表情はない。吉山が育児をほぼ放棄していた為に感情がうまく表に出なかった。表情が出るとしたら、泣くときか、思い通りにならなくて怒り焦るときぐらいだった。あとは怯えたような目だが、あとは動きのない、何を考えているか分からない表情をしていた。今だって口は海苔をやっつける為にモグモグ動いてはいるが、立ち食いソバ屋でそばを駆け込むサラリーマンのように何を考えているか分からない顔をしている。だが、ゼブラは、口をクチャクチャさせながら、もう一切れの巻寿司に手を伸ばした。そしてタチバナをじっと見て、少しだけ、ほんの少しだけ顔を崩して笑ったような顔をした。不器用な感情表現だが、遠くで見ていた広瀬と藤谷はそれに気が付いた。
「ゼブラ君があんな顔したの初めて見た。いっつもね、まともに座れないし、食べたり食べなかったりなのに、なんか、すごいね。」
「そうなんですか、店長結構すごいですね。」
だが、肝心の吉山はゼブラの変化に気が付いてなかった。
「ちょっと、何時まで見てるのよ。あっちいってよ。巻寿司の代金は払わないからね。」
「はい、すみません。ごゆっくりどうぞ。」
タチバナは鼻で思い切り吉山の香水の匂いを吸い込んで、いい気分になって浮かれ足でその場から引っ込んだ。タチバナはゼブラがじっと見つめた瞬間、笑ったような顔をした気もしたが、正直、どうでもよかった。とりあえず食べてもらえたことに少しは安心したが、それ以上に自分の作った料理を店で勝手に出したことに対して、酷く後悔していた。
こんな所とは自分は関係ない。距離を置きたい。
タチバナの正直な気持ちがくっきりと浮かび上がっていた。何かをなし終えたはずだが、表情は冴えないままで厨房の入り口まで歩いた。途中、事の成り行きを見守っていた谷本が、ゼブラに何を作って出したのか聞こうとしたが、表情がさっと消えてしまったタチバナに話しかけることが出来なかった。それどころか、タチバナは谷本の席の空になった食器に気が付いて、「お下げします。」と持って行ってしまった。目の前に食器が無くなると途端に谷本は居づらくなった。
「店長、やりましたね。ゼブラ君、もう平らげちゃいましたよ。」
「いや、驚きました。」
広瀬と藤谷は「見直しました。」と言いたかったが、よくよく考えれば失礼にあたるので、その言葉を伏せて、タチバナに対する敬意のようなものを思いつく言葉で伝えようとしていた。だが、タチバナは関心を示すどころか、なにやら失敗したような敗北感に苛まれながら、二人を無視して事務所に戻って行った。広瀬と藤谷は肩透かしを食らったように、ひどくつまらない思いをしたまま、仕方ないように各自の作業に戻った。
「お疲れさまです!」
塚本が驚いた顔をして事務所に入ってきたタチバナに飛び上がる様に挨拶をした。だが、その異常な感じもタチバナには伝わらなかった。塚本は胸を撫で下ろした。それから塚本は落ち着かない様子で着替えてさっさと事務所を後にした。タチバナは塚本が出ていくのにも気が付かないで、ただ、じめっとした顔で、椅子に座りこんだ。それから原料の発注書を見て、ポテトフライの納品日を火、木の午前中の便に変更して、尚且つ、多めに発注した。
「これなんですか?私、主婦なのに、夕方出勤なんてどういうつもりなんですか!うちには一年生と三歳の子供がいるし、保育園の迎えも、児童館の迎えもあるんですよ。家に帰ったら、ご飯を食べさせて、お風呂に入れて、寝かせないといけないんですよ。分かってます?主人に協力してもらうこともできますけど、酷くないですか?」
権利を侵害されたと騒ぐ鉢巻巻いた市民団体のように、えらい剣幕で加賀美はタチバナに迫る。午前十時から十五時までの勤務シフトがタチバナの野心たっぷりの気まぐれによる皺寄せで、夕方六時から夜の十一時に勝手に変更されていたことに対する怒りだった。じっと聞いていたフリをしていたタチバナは「うるさいなあ。」としか思ってなかったが、それを正直に口に出すわけにもいかず、だからといって、反省して謝罪する気も、改心して変更する気もさらさらなく
「仕方ないじゃないですか、原因は塚本くんの無断欠勤にあるわけですよ。私も反省しているんです。昼を主に指導していましたが、夜が手薄になっていたことを痛感しました。その為のシフト変更です。協力してください。それに、別に昼のみの契約で来ていただいてるわけじゃないですか。加賀美さんにも平日のディナータイムを経験してもらって、店のオペレーション上、誰でも対応できるようにしたいんです。これは皆の為なんですよ。」
「いやいや、店長が夜出ればいいだけで、昼の時間の私とは関係ないじゃないですか!そりゃ、週末の忙しい時は夕方もたまには出てますけど、平日は無理ですよ。なんで自分の間違いを認めないんですか。適当に仕事しないでください!」
はた目から見るとタチバナは叱られているようにしか見えなかった。狭い事務所の壁際で着替えが済んだ星野はじっとその様子を見ていた。時計はもうすぐ十六時になろうとしていた。そろそろフロアに出る時間だったが、言い争いを放っておいて出ていくのも、何か関わり合いを避けたような薄情な印象を残すだろうし、だからといって二人の言い合いに割って入るのも火中の栗を拾うように面倒に感じられた。確かに店長は勝手だが、加賀美さんも噛み付きすぎだ。まあ、主婦でもあるから、家庭も疎かに出来ないのだろうけど、この先ずっとのことではないのだから、少し引いてみればいいのに。フリーターの私や広瀬さんなんかは、なんにも文句言ってないのに。加賀美さん真っ直ぐだから仕方ないんだろうけど。どちらにしろ不毛な言い争いを聞くのは気が滅入る。星野は髪を後ろに束ねながら、うんざりしながらそんなことを思っていた。
「お疲れ様です!」
急にドアが開いて、外の光が飛び込むと共に、大きな元気な声が響いた。塚本だった。無断欠勤してから一週間が経つが、連絡も無く、今日からシフトに入るようになっていたが、もう来ないものだと思われていたので、星野が代わりに急遽入ることになっていた。事の原因が笑って立っている。星野は嫌な予感がした。
「あれ、星野さん、なんで今日いるんですか?今日の夕方シフトは広瀬さんと藤本さんと僕の三人でしたよね?」
言い争いを止めたタチバナは、何事もなかったように現れた塚本に何か言ってやろうと思っていた。「何しにきた!」と直感的に怒鳴るか、「この前はどうした?」と一旦心配するふりをして、実は逃げ場を無くすように事実を並べ追い詰めるか、とにかく塚本を悪者に仕立てる必要があったが、実際のところは、タチバナの欲情を掻き立てる気怠いゼブラ母を見つけるきっかけを作ったことは事実だったので、どうしても憎みきれなかった。ただ、事の成り行き上、怒ってみせる必要がある。そうなると多少、怒りを滲ませて、常識を正す理解のある大人の口調をとってみる。
「塚本君、先週はどうした?なんで休んだ。」
「そうなんですよ。あの日、僕に彼女ができたんですよ。すごくないですか?」
塚本は一週間経っていたが、まだ舞い上がっていた。以前の実直とも根暗ともいえる控えめな態度が破れて、心機一転、どこか自信に溢れた、勢いのようなものを身に付けて、丘から街を見下ろすように颯爽としていた。今の塚本に無断欠勤の謝罪というマイナスイメージの行動は、今すぐここでナイフで首を切って自殺をすることのように、まったく思いもつかなかった。その塚本の日が昇るような勢いにタチバナはすっかり当惑していた。せっかく怒ったのだから、交通量の多い交差点を突っ切るような強気を持って、声を荒らげて「無断欠勤しやがって、ふざけるな!」と言ってみたかったが、あまりの塚本の変貌に、これ以上の追求が当て違いで、無意味なように感じられた。
「うそ!塚本、よかったね、あんまり転がっているチャンスじゃないから、大事にしたほうがいいよ。案外ラストチャンスかもしれないし。」
着替えを済ませた広瀬が一見同意のような、しかし毒の混ざった言葉を吐き出しながら、更衣室から出てきた。広瀬は三十前だが、学生のように事の真相を探るようなことなく、表面的な勢いで祝ってみせた。二十歳そこそこの塚本は身近な同意者を見つけたことに対して素直に喜んだ。同志を得た、もう一人ではない。こうなると過給機が付いたように浮き立つ気持ちはすぐに沸点に達した。
「そうなんですよ、偶然かもしれませんが、もしかしたら運命なのかもしれません。ちょうど僕は彼女のことを思い出していて、学食行ったら、違う学校なのに来ていて、うちの学校の名物のナトリうどん食べていたんですよ。で、僕はナトリうどん信者ですから、すぐにそのことを彼女に話したんです。そしたら、彼女嬉しそうにしていて、次の日メールで付き合ってみる?って展開になったんです。これって、すごくないですか?それで、返信待ってたらバイトの時間になってて、でも、これは人生で重要な局面だから、仕事は後回しにするべきだと思ったんですよ。ずっとスマホみてたら、日付が変わる頃、彼女から、いいよって返信が来たんです。ああ、やっぱり、待っておいてよかったって思いましたよ。そこは自分でもいい判断をしたと思います。」
塚本は満面の笑みを浮かべて、しかし必死に、彼にとって重要な事の経緯を、生き別れの家族と異邦で再開したような、さも奇跡的な話のように熱弁を振るったが、タチバナの耳には上手く伝わらなかったし、地球の裏側のずっと奥の異文化と交流したような混乱まで生じた。結局、何が言いたいのかさっぱり分からなかったのだ。ただ、唯一気になったのがナトリうどんの名前だった。三十代の加賀美にも塚本の話は伝わらなかったどころか、訳の分からない無責任、衝動的な学生の行動で、自分の時間が犠牲になったことが、若さから外されたようで、ひどくつまらない思いだけがした。星野は塚本と付き合うことになった女の子のことが気になった。年下でおとなしく、誠実だと思っていた塚本を可愛いと星野は密かに、いや、微かに思っていたが、こうなるとその思いが邪魔になってくる。
「へえ、塚本やるじゃん、今度、遅番の時間に、その娘連れてきなよ。藤谷と私が店長にバレないように色々サービスしてあげるから。」
広瀬はその店の主のように快活に笑った。タチバナは気づかず乗りそびれた電車を見送るように不甲斐ない気持ちを抱いた。だが、その劣情も、今回の塚本の怠惰、訳の分からない衝動的な行動に対する怒りも、すでにタチバナの中では立ち上がることなく座っていた。正直なところ、他人の車のボンネットに乗っかる猫のように既にどうでもよかった。
「じゃあ、塚本君は、出勤ってことで、代打の星野さん、帰っていいよ。」
タチバナは当然のようにそう言い、星野と加賀美は余りにも不機嫌で、言葉が詰まったように無言で事務所から出ていった。浮かれた塚本は雰囲気の悪さに気がつくこともなく、ユニフォームに着替えて広瀬と一緒にフロアに出ていった。
タチバナは今日は店に入らず、冷凍ハンバーグや冷凍チキンカツなどの数を数えていた。制服は半袖で、一畳ほどのウォークイン冷凍庫に入って棚に並んだ様々な凍った食材を数えていたが、マイナス十八度の冷気は身にしみて、メガネは曇り、毎週の行動だが、どうしても手を抜いて、一分ほどで外に出て、頭に残った記憶と提供数のデーターとを見比べて適当な在庫の数字を作り上げた。ただ、どうしても製造ロス、焦がしたとか、落としたとか、間違えたなどで廃棄したものもあり、適当な在庫管理では、どこかでオーダーに応えられなくなるときがある。実際、ある時などは、店の看板メニューであるハンバーグを出せないことが二日間あり、タチバナは本部から厳重注意を受けたが、本部は本部で離職率の高い過酷な飲食店チェーンという自覚はあり、それ以上のタチバナのミスに対する追求はしなかった。タチバナはそれから在庫を適当に取るようになった。それでも、やはり十年の経験は無駄ではなく、重要なものの在庫を切らすことは、ほぼなくなっていた。この点に関してもタチバナは発表できない自負を抱いていたが、発表できないものは何時の間にか消えていくしかなかった。そういった気持ちの消費、疲労のようなものが、タチバナの業務に対する関心を薄める要因には十分なりえていた。
「店長、三日前にもそろそろ切れるって言ったんですけど、もうフライドポテトがないんですけど、今日、今から入荷ありますよね?」
藤谷が少し焦った感じで適当に在庫をとるタチバナに背後から話しかける。タチバナは手元の在庫表を黙ってみた。フライドポテトは計算上では残り1キロ袋二つで、入荷予定は明日の昼だった。ギリギリの発注だが、電卓の上では足りるはずである。
「二袋あるはずなんだけど、無い?」
「三日前に二袋って言いましたよね?」
なんとなく聞いた覚えはある。しかし、何もしなかった。タチバナは考えるふりをして、
「そうだっけ?それより、ちゃんと計って揚げている?うちは慈善事業じゃないんだからね、勝手に量を増やされたら困るんだよ。食材はお金なんだよ。量をきちっと計らないってことは、お金をフロアにばら撒いているのと同じなんだよ。わかってる?」
タチバナは何時ものように自分の非を認めることなく、相手に責任、非を押し付けてきた。藤谷は、やはり腹が立ったが、多めに揚げていたかもしれないと自分の非を一応認めて、反論することなく、素直に反省した。
「藤谷君、やっぱりポテト無かった?仕方ないから、業務用食品店で冷凍ポテト買いに行くしかないね。店長、行ってもらえます?」
藤谷から事前に相談を受けていた広瀬は、事の結末を予期して、会話のタイミングを見計らって、顔を出して、誰にも非が無かったように、しかし、発注業務の担当者であるタチバナに不足分を買いに行かすことで、責任を取らすように計画通りに発言した。広瀬にとっては、あるかもしれないオーダーに必ず応えることが第一だったので、当たり前の行動を取ったつもりでいたが、タチバナにとっては、本部の指定以外の商品を店舗で購入して使うとなればそれに至った原因報告が必要となり、それが面倒で、それが嫌なら、報告せずに実費で食材を買って誤魔化すしか方法がない。何時もならタチバナは、報告書の提出が面倒なので、食材を買いに行く方を選んでいたが、今月はネットゲームに課金をしすぎて、千円程度のポテトの代金を立て替えるほどの現金すら財布にない金欠状態だった。
「いや、買いには行かない。ちゃんとしたものを出せない状況だから、お客さんから、万が一、もし、ポテトのオーダーがあったら、広瀬さん、丁寧に断って下さい。」
まさかのタチバナの発言に広瀬は絶句した。確かにフライドポテトは主要な商品ではないし、価格も安い、たいして美味しくもないし、だからオーダーもそんなに上がらない。しかし、食べたいというお客さんが来るかもしれないのに、対応しようと思えば出来るのに、それをはなから放棄するタチバナに対して怒りを通り越して、ひどく呆れてしまった。まあ、その程度の人間だとは思っていたが、そういった類の人物が開店から務める店の店長であることに対して、やりようのない情けなさを感じた。
「・・・わかりました。断るようにします。」
広瀬の沈んだ声にタチバナは何も感じなかった。明日の朝まで誤魔化せばいい。それは大したことではない。だいたい、ただ揚げただけの、あんなまずいもの、提供する価値なんてない。欲しがる方が悪いんだ。当たり前にようにそう思い、タチバナは在庫の続きを取り始めた。
平日の夜十時を過ぎると、客席はほぼガラガラで、いるとしたら、たまたま店に来た一日に追い立てられた疲れた人か、ファミレスに来ることが日常となっている孤独な一人客ぐらいだった。
「広瀬ちゃん、機嫌悪そうだね。なんかあったの?」
毎日のように来る年金暮らしの独居老人である谷本が水割り片手にほろ酔い気分で話しかける。広瀬も慣れたもので普通に返答する。
「フライドポテトがないんですよ。」
「そりゃ、仕方ないよ。無いものは出せないもんな。変な客だと断るの大変そうだから、俺が手伝ってやるよ。この時代、変な客が多いからな。大声で怒鳴ればいいんだ。怒鳴り返されたら警察呼ぶんだ。なに、殴りかかってきたりはしないよ。俺に任せておけ。」
広瀬はどちらかというと、変な客に分類されるだろう谷本に慰められたようで、少し可笑しく、おかげで気が晴れた。
「それより谷本さん、毎日豚汁定食と水割りで飽きません?たまにはそれこそポテトでも頼めばいいのに。」
「俺の体、気遣ってくれるのか?ありがたいねえ。でもなあ広瀬ちゃん、豚汁定食ぐらいなんだよ。まともに食べられるのは。あとは、無理だよ。油ばっかで、塩辛くて、あんなの食べてたら、それこそ寿命縮めちゃうよ。まだ、死にたくないからね。女房死んで一年経つけど、あと三年ぐらいはのんびりしたい。こうやって毎晩ここに来るのが楽しみなんだ。ここだとテレビ無いから見なくて済む。一人だとテレビだけなんだ。」
「でも、そうですね。私も一人で住んでるけど、夕方起きてここ来て、あとは家で寝てるか、テレビぐらい。まあ、最近はスマホばっかりいじってるけど。でも、豚汁定食以外もいいのありますよ。焼き鮭定食とか、うどんとか。」
「焼き鮭をレストランで食うなんて考えられないよ。うどんはうどん屋がいいねえ。本当はねえ、毎日、食べるもの選ぶのが面倒なんだよ。朝はパン、昼はコンビニのオニギリ、夜は豚汁って決まっていて、それに沿って生活してたら、それが済んだって、食ったもので、一日の区切りができるだろ?それが、一人で居る俺にとっては大事なんだ。もう、毎日はいい方向に変わりはしないから、せめて同じであって欲しいんだ。そうしておけば悪い方向に変わったとき、分かりやすいじゃないか。」
「ちょっと、まだ、私にはピンとこないなあ。あっ、お客さんだ。じゃあね。」
残された谷本は、もう少し話がしたくて、少し切ない顔をしていた。しかし、そんなことは六十億人以上もいる世界で、誰も知らない。一人も気が付かない。年金暮らしに豚汁定食550円と水割り350円の千円近い夕食代は結構つらいが、それでも、ここに来たかった。いや、ここでしか話をする相手がいなかった。今日は発見があった。広瀬が豚汁定食だけの注文を心配してくれていることが分かった。それは本当に嬉しかった。それを本当に感謝していることを広瀬に伝えたかったが、出来なかった。そんな喋り足りない部分、満足してない所を、明日こそは埋めよう。毎日がいい方向になるようにしたい。谷本は自分がしっかりと前を向いていることに気が付いてなかった。
店の扉があくとチャイムが鳴る、その音に広瀬は反応して入口を、その大きな目を向ける。視界に入ったゼブラ君を見て、今日は木曜日だと気が付く。すると、一瞬で問題が浮き上がってきた。今日はポテトフライが無いのだ。広瀬の細い眉は眉間に皺を寄せた。ゼブラ君の母、吉山めぐみは間違いなくドリアとサラダとポテトフライを頼んでくる。口数少ない吉山が一度だけ広瀬に言ったことがある。
「こいつ、ポテトしか食べないの。あとは練り梅とアイスぐらいかな。」
広瀬はその言葉を思い出し、襟足の毛が長い世武羅(ゼブラ)君がせっかく来たけど、ポテトが食べれないことを申し訳なく思いつつ、同時に、吉山の反応が気になった。おそらく普通の人ではないだろう。そういった人は、突拍子もない怒り方をすることは、長年の格安ファミレスの深夜ウェイトレスの経験で理解していた。安いものを食べている人は、冬山の天候のように、間違いなく荒れる。これは広瀬の持論だった。だから広瀬自身は一人暮らしでも、ちゃんとしたものを作って食べる様にしていた。
吉山親子は案内も受けないで当たり前のように、いつもの席に着く。広瀬はそこに行くことを少し躊躇した。その様子を広い世界で唯一理解していたのは、ほんの二メートル先、端の席に座る谷本だった。谷本も吉山親子がいつも同じものを頼んでいるのを知っていた。それに広瀬がポテトフライが無いって言ったことも覚えていた。谷本は緊張した。吉山のことを見るたびに、あれは水商売か風俗をやっているろくでもない女だと思っていたので、ポテトが無いことを告げることになる広瀬のことが心配だった。助けてやらないといけない。テーブルに置かれた水割りのグラスはすでに空っぽだった。もう少し酒が入っていれば立ち上がることが出来るだろうが、緊張で心臓が荒狂うばかりで、吉山を正すセリフを考えていたが「やめろ」「さわぐな」などの短いフレーズしか浮かばない。ただ、もう、じっとしていられない。すでに中腰になって、爪先に力を入れて、何時でも立ち上がれるようにスタンバイは出来ていた。
「いらっしゃいませようこそ!」
そこに出てきたのは奥から飛んできたタチバナだった。タチバナは吉山と接点を持ちたいが為にこの時間まで粘っていた。満面の笑み、自信を湛えてのタチバナの登場は広瀬や谷本にとってはたった一人で世界の為に戦うヒーロー登場のように頼もしかった。広瀬はホッとし、店長であるタチバナに初めて敬意を持った。一方の谷本は微かに上がった重い腰をようやく下ろすことが出来た。
「いつもご利用ありがとうございます。店長のタチバナです。ご注文はいかがにしましょうか。」
広瀬はタチバナが胸を張って自己紹介始めたのを見て、なんだか見ているだけで恥ずかしくなってきた。どういうつもりだろう?もしかして、吉山に気があるのだろうか?だとしたら、だらしない感じの女が好きなんだろうな。読み捨てる週刊誌の記事のような、どうでもいい必要のない情報だが、どちらにしろ、そのおかげで助かった。しかし、どうやって店長は断るのだろう?
「ドリア、サラダ、ポテトフライ、以上。」
吉山はいつもより明らかに機嫌が悪かった。タチバナの媚びるような態度にさえ気が付かなかったし、これ以上話したくない様に、単語を並べて吐き出すだけだった。およそ会話とは程遠い内容。しかし、タチバナは言葉を交わしたことに満足を抱いていた。タチバナはダメな女に興味を持つ。やさぐれてたり、けばけばしかったり、安っぽくて、頭が悪そうなのに目が無い。そういうのに振り回されるが、最後には布団の中でヒーヒー言わしたい。そういったのが好きだった。だからまともに女性と付き合ったことが無い。
「ハイかしこまりました。ドリアとサラダとポテトフライですね。すぐにお持ちし・・」
ここでようやくタチバナは夕方の会話を思い出した。ポテトフライは無い。その現実に気が付くと、とたんにこの場から逃げたくなった。奥で見守る広瀬にそっと視線を送るが、広瀬は巻き込まれては大変と、気配を消して厨房に逃げて行った。タチバナは動きが止まった。吉山から香水のツヤのある臭いが漂っていたが、この状況においては、胸をくすぐるというよりは、なにやらムッとするだけで、しつこい臭いがまとわりついて胸が詰まる思いだった。
「何?早く持ってこいよ。突っ立ってないで。」
メイクが落とされた吉山の顔は、色白だが、目の周りが少し赤みがかかっていた。眉は殆どなくて、風呂上りのような顔が金髪の中に埋まっている。無防備だったが、その分、剥き出しだった。野良猫のように目付きは鋭く、高めの声だが、凄みが滲んでいた。誰もが嫌がる状況だが、タチバナは剥き出しの女の姿を目の前にして、その傍若無人、洗練とはかけ離れた野性味、際限のない凶暴な目付きに魅入っていた。
「・・申し訳ございませんが、あいにく、ポテトを切らしておりまして・・。」
この言葉に吉山は瞬時に立ち上がった。半開きだった目を大きくひん剥き、獰猛な野獣のように愚鈍な豚のようなタチバナを睨みつける。
「ああ、無い?客が頼んでいるのに、無いの一言で済ますかー?おまえは舐めているのか、金払ってるんだよ、うちはここ、よく来てるんだよ!火曜と木曜にきているんだよ!知ってんのかボケ!おい、何とかしろよ。わかっているのか!くそ虫!」
この日、吉山は仕事で相手のお客にボロクソに言われムシャクシャしていた。たまたまその客はタチバナと同じ雰囲気を持つ人間だったので、その嫌な思いを思い出し、尚且つ思い通りに行かない展開に一気に怒りが沸点に達していた。大声で怒鳴っても怒りは冷めやらず、テーブルに腕をかざすとワイパーのように振って、メニューや爪楊枝入れ、紙ナフキンの束などを滅茶苦茶に落とした。隣に座っているゼブラは母の豹変に驚き、しかし、以前も見たことがあるので、すぐに、ただ黙って下を向いて、傘も持たずに横殴りの風雨激しい嵐が通り過ぎるのをひたすら待った。
タチバナは吉山の荒れもように一種のカタルシスを感んじていた。自分ではあんなことはできない。感情の赴くままに荒れてみたり、公衆の面前で大声を出したり、無理難題を人に押し付けたり。恥ずかしいとされていたことを恥ずかしげなくする。まさに剥き出し。本当は迷惑だが、しかし、なぜか、それを見ていたい。吉山という女は世俗という淵を危なっかしく歩いている。一緒に歩こうだなんて思いもしないが、ひどく欲情する。
「なに、ボケっとしてるんだよ!言ってる意味分かんないのか?お前はバカか!早く持ってこいよ。どっかで買ってくるとかするなよ。ゼブラが食べれるもの持ってこいよ!いいな、わかったな!くそ虫!」
「はい、かしこまりました!」
驚くべきことに、タチバナは、だらしない笑顔で返事した。遠目で見ていた広瀬はその様子を理解できなかった。谷本は、もしかしたらタチバナは大した男なのかもしれないと思っていた。あそこまで無理を言われて笑顔で返事なんて、普通は無理だ。
「すぐにドリアとサラダを用意して。でも、火は入れないで。すぐに調理できる状態にしておくんだ。広瀬さん、あの親子の事、少しは知ってるよね。あの子供は、何が好き?」
タチバナは至って冷静だった。その様子に広瀬は驚いた。
「はい、店長、吉山さんから聞いたのは、ゼブラ君はポテトとアイスと錬り梅しか食べないって言っていました。」
(あの女は吉山と言うのか。)タチバナは得た情報を胸に刻み込む。ポテト、アイス、練り梅しか食べない。それが事実だとしたら、生き物として、霊長類ヒト科として、大変なことだと思ったが、子供の健康など、ここではどうでもよかった。とにかく問題の解決が先だった。アイス、甘味、冷たい、練り梅、酸味、香料、ポテト、塩味、油、手掴み。箸はダメ。手で食べられて、甘くて、酸っぱくてOK、油っけがあって、熱くないもの。
「うん、分かった。母親がそういったんだね。じゃあ、子供は何が好きかとか言ったことはある?」
タチバナは名医が患者に問いかけるように、ゆっくりと聴きやすい口調で安心を与えるように広瀬に聞いてきた。間接的だが当事者としての緊張感を持っていた広瀬は、何時の間にか落ち着いてきて、聞かれたことに素直に答えようとしていた。
「ゼブラ君が好きなものは、何か言ってたな。ええっと、あ、紅しょうが!吉山さんが持ち帰りの牛丼買って帰るけど、紅しょうが嫌いで、小袋のをゼブラ君食べてたっていってたな。赤いの酸っぱいけどおいしいって、でも、あったかいご飯がダメで、上の肉は食べられるって、でもお母さんは牛丼屋遠いからあんまりいかないって言っていたかな?でも、店長、ここじゃあ牛丼なんてありませんよ。急いで買いに行きましょうか?」
タチバナの頭の中に、紅しょうが、牛肉、冷めたご飯、箸なし、甘味、酸味。情報は揃った。あとは料理の組立だが、冷凍の材料を焼いたり、揚げたりするだけで、ここで覚えた料理の知識なんてなかった。だが、タチバナ自身の料理の知識はあった。知識は情報を組み上げ、価値を創造する。一瞬のうちに答えは見つかり、すぐに行動に移した。
「藤谷君、肉うどんの肉を解凍して、一食分、五十グラム。あと、生姜焼き丼の上に乗せる紅しょうがの小袋を五つ。で、広瀬さんはラップと朝定食の卵焼き用意して。あと、ラーメンに乗せる海苔、切ってない奴。」
タチバナは二人に淀みなく指示を飛ばす。藤谷と広瀬は冷静なタチバナの指示に催眠術にかかったように支配され、何一つ疑うことなく素直に用意を始める。タチバナは調味料など見当たらない厨房でステンレスのボールにコーヒー用のスティックシュガー、小瓶に入った酢を適量入れさっと混ぜて、ジャーから熱いご飯二百グラムをその合わせ酢に放り込んだ。ムッとした酢の臭いがしたが、熱を帯びたご飯は、混ぜ合わされるうちに、合せ酢と空気とステンレスに熱を奪われて、すっかり冷めてしまった。そこに藤谷と広瀬が指示されたものを集めてやって来た。二人は何も聞かず、行儀のよい猟犬のように、じっとタチバナのすることを見ていた。
厨房は静まり返っていたが、ただならぬ熱気が漂っていた。タチバナはポリ手袋をした。まるで手術台に向かう執刀医のような貫禄をたたえていた。助手のようにタチバナの手を目で追う広瀬と藤谷。ステンレスのテーブルにラップを敷いて、その上に海苔を広げ、海苔の上に手を包丁のように立てて関を作り、酢飯を四角く同じ暑さに敷き詰めた。その白いリングに肉うどん用の牛肉大和煮が横一直線に盛り付けられた。次に細長くカットされた黄色い卵焼きが添えられ、続いて、目の覚めるような紅しょうがも平行に並んだ。広瀬は黄色、茶色、赤色の並ぶ曲線を見て、ドイツの国旗のようだと思った。電気科の大学生である藤谷は、赤、黄、茶の三本の電線が並んでいるように見えた。あの三本には別々の電気が流れている。送電、制御、違う命令を伝えている。だが、巻かれて一つに束ねられるということは、同じ対象に繋がっているに間違いない。その対象が今は見えてこないが、その対象物を上手く動かすために繋がっている。違う命令が一つの対象の為に用意されている。藤谷は配電図を見るような興味を覚えた。何処に繋がっているのだろう?その単純な興味が藤谷の頭の中に黄、赤、茶のコードを複雑に張り巡らせる。その一本一本に信号が走る。何も見た目は変わってないが、確かに信号が、命令が、目的が流れている。タチバナは助手二人のことなんて目に入ってなかった。巻き簾を使わないで巻寿司を作ることは難しい。巻き簾は横方向の直線の連続が縦糸によって繋がれている。それがないと一番困るのは、巻初めの力加減、特に左右のバランスを取ることが難しいことにある。繊細に、しかし、大胆に素早く初期動作を起こさないと、まっすぐな筒丈に巻くことができない。それを熟知していたタチバナは、緊張した。少しのバランスの崩れが、円筒を円錐に変えてしまう。タチバナは左右のラップを左右の手の人差し指と親指でそっと持ち上げると、躊躇うことなく一気に畳み込むように巻いた。広瀬が見つめていたドイツの国旗は真っ黒い海苔に一瞬に変わった。藤谷が興味を抱いていた配線は、結束テープで巻かれるように、一気に完成された太い電線束に変化した。タチバナは目の前で起こる変化に確信を抱き、ふっと力を抜いた。その脱力が巻き込まれた二人にも伝染して、三人が同時に溜まった息を吐き出した。三人は無意識に連帯感を覚えていた。感想を言い合ったり、確認し合う必要のない意識の共有。お互い見合って視線の送り合いでもしたかったが、事の成り行きがうまくいきすぎて、それを一々確認するのが、なんとなく照れ恥ずかしく、申し合わせたように次のフェイズに作業を移した。
藤谷はドリアの調理を始め、広瀬はサラダを用意した。タチバナは海苔が湿るのをまっていたが、時間が掛かりそうなので、霧吹きで湿らせて、巻寿司を切り分けた。丸い断面の中心に跳ねるようなエネルギーが詰まったような鮮やかな黄色、目を見張る鮮血のような赤、しっとりとした大地にも似た茶色が綺麗に並んでいる。
「意外と旨そうですね。」
藤谷はそう言いながら巻寿司に手を伸ばす。するとタチバナは一切れ藤谷に渡し、一切れ広瀬に渡した。
「子供に全部は多い。味見してみて。」
藤谷と広瀬は躊躇うことなく口に含んだ。海苔の香り、酢飯の微かな酸味と甘み、牛脂の旨味、甘い玉子焼き、それらを覆すような紅しょうがの刺激。合いそうにない具材が、巻かれることで、お互いを補完し、まったく違う方向の一つの味になっていた。
「これ、牛丼の味とそっくりですね。巻寿司なのに。」
「やばい、これ、結構いける。」
広瀬は違和感の無さに驚き、牛丼好きな藤谷はその味をすんなり受け入れていた。
「牛丼って、牛の油、醤油、砂糖、生姜の味なんだよ。結構単純で、それを円やかにするのに生卵入れたりするけどね。だからこれは、当たり前なんだ。さあ、持って行こう。」
タチバナは完成した巻寿司になんの興味もなかった。それより、ゼブラ君が食べてくれるか気になった。最近は海苔が噛み切れない噛む力が弱い子供が多い。そういう生きる力が弱い子供は、困難から逃げる傾向にある。
タチバナは新メニューが出るたびに柔らかさが強調されていることに嫌気がさしていた。柔らかい鶏肉は本当にうまいだろうか?噛みごたえのある鶏肉の方が味が濃い。しっかり運動してきた鶏肉は油も少ないし、軟な筋肉じゃないはずだ。霜降りの牛肉に価値があるような風潮だが、あれなんて、筋肉に脂肪が混ざるような、肥満の病気にかかったような肉なんだ。あれが旨いとされる。牛脂を注入してまで、病気の肉の味を作ろうとする。
出来た巻寿司の中で一番固いのは海苔、次に紅ショウガ、玉子と牛肉、飯は柔らかい。ゼブラ君が見た目で逃げたら終わりだ。まあ、逃げたところで後味の悪い結果になるだけで、気にする必要は無い。吉山と関係を持つための切っ掛けにでもなればと思っていたが、よくよく考えたら、そんなこと、現実的でない。しかし、あの鼻の奥を強く刺激する堕落した匂いには近づきたい。タチバナは表情の消えた顔をしてそんなことを考えていた。一方、広瀬と藤谷はタチバナの料理の腕に感心し、ただ見ていただけなのに、何か深く関わったような気になって、今後の展開にワクワクしながら、タチバナグループの一員になった気持ちで緊張して後に着く。
「三人で出しに行ったら、おかしいから、待っててよ。」
タチバナの静かな指示に二人は足を止め、黙って見守ることにした。
「吉山さま、大変お待たせしました。ドリアとサラダと、ポテトフライの代わりをお持ちしました。」
これなに?と言いたそうな吉山の不審な目をじっと見返して、タチバナは多少引き攣ってはいたが、にっこりして見せた。吉山は気味悪そうな顔をした。何か言ってやろうとしたが、腰をずらしてだらしなく座るゼブラが目の前に出された巻寿司に腕を伸ばして、そのまま掴んで口に放り込んだので、何も言えなくなった。落ち着きなく動きながら食べるゼブラは動物そのもので、しかも表情はない。吉山が育児をほぼ放棄していた為に感情がうまく表に出なかった。表情が出るとしたら、泣くときか、思い通りにならなくて怒り焦るときぐらいだった。あとは怯えたような目だが、あとは動きのない、何を考えているか分からない表情をしていた。今だって口は海苔をやっつける為にモグモグ動いてはいるが、立ち食いソバ屋でそばを駆け込むサラリーマンのように何を考えているか分からない顔をしている。だが、ゼブラは、口をクチャクチャさせながら、もう一切れの巻寿司に手を伸ばした。そしてタチバナをじっと見て、少しだけ、ほんの少しだけ顔を崩して笑ったような顔をした。不器用な感情表現だが、遠くで見ていた広瀬と藤谷はそれに気が付いた。
「ゼブラ君があんな顔したの初めて見た。いっつもね、まともに座れないし、食べたり食べなかったりなのに、なんか、すごいね。」
「そうなんですか、店長結構すごいですね。」
だが、肝心の吉山はゼブラの変化に気が付いてなかった。
「ちょっと、何時まで見てるのよ。あっちいってよ。巻寿司の代金は払わないからね。」
「はい、すみません。ごゆっくりどうぞ。」
タチバナは鼻で思い切り吉山の香水の匂いを吸い込んで、いい気分になって浮かれ足でその場から引っ込んだ。タチバナはゼブラがじっと見つめた瞬間、笑ったような顔をした気もしたが、正直、どうでもよかった。とりあえず食べてもらえたことに少しは安心したが、それ以上に自分の作った料理を店で勝手に出したことに対して、酷く後悔していた。
こんな所とは自分は関係ない。距離を置きたい。
タチバナの正直な気持ちがくっきりと浮かび上がっていた。何かをなし終えたはずだが、表情は冴えないままで厨房の入り口まで歩いた。途中、事の成り行きを見守っていた谷本が、ゼブラに何を作って出したのか聞こうとしたが、表情がさっと消えてしまったタチバナに話しかけることが出来なかった。それどころか、タチバナは谷本の席の空になった食器に気が付いて、「お下げします。」と持って行ってしまった。目の前に食器が無くなると途端に谷本は居づらくなった。
「店長、やりましたね。ゼブラ君、もう平らげちゃいましたよ。」
「いや、驚きました。」
広瀬と藤谷は「見直しました。」と言いたかったが、よくよく考えれば失礼にあたるので、その言葉を伏せて、タチバナに対する敬意のようなものを思いつく言葉で伝えようとしていた。だが、タチバナは関心を示すどころか、なにやら失敗したような敗北感に苛まれながら、二人を無視して事務所に戻って行った。広瀬と藤谷は肩透かしを食らったように、ひどくつまらない思いをしたまま、仕方ないように各自の作業に戻った。
「お疲れさまです!」
塚本が驚いた顔をして事務所に入ってきたタチバナに飛び上がる様に挨拶をした。だが、その異常な感じもタチバナには伝わらなかった。塚本は胸を撫で下ろした。それから塚本は落ち着かない様子で着替えてさっさと事務所を後にした。タチバナは塚本が出ていくのにも気が付かないで、ただ、じめっとした顔で、椅子に座りこんだ。それから原料の発注書を見て、ポテトフライの納品日を火、木の午前中の便に変更して、尚且つ、多めに発注した。