散らす

文字数 11,694文字

その五 ちらす

 タチバナは朝八時に出社し、深夜一時に解放されるという、休みないサイクルに捕まっていた。お店は不人気店で、タチバナは昼の間中、ベルトコンベアで流れていくにぎり寿司を眺めていた。ベルトコンベアの音は聞こえない程小さいが、始終流れており、その音がタチバナの脳裏に沁み込んでいく。暇すぎる店長の金森は、店を良くしようという努力なんて思いつくことなく、事あるごとにタチバナを呼びつけ、幼少の躾ない子供が、周囲に当り散らすように、理不尽な言いがかりをつけてきた。
 「なんで、お客が少ないんや?おまえが笑顔で対応せんからついた客が離れたんや。おまえは何の役にも立たん。ワイが作り上げた店をどうするつもりや?」
 タチバナは仕方が無く耐えていたが、そのうち、なぜ耐えているのか分からなくなってきた。あるのは、回る寿司と微かな酢の匂いだった。そのうち、幼少期の思い出の詰まったアルバムを道路に投げつけられ、まき散らされ、雨ざらしにされるような絶望感が常に胸の内に漂うようになってきた。こうなってくると、家に帰っても眠れず、ついには顔が糊付けされたように硬直し、言葉が口からうまく出なくなってくる。
 「いらっしゃしゃいませ。四名様だすか、こちらへどうお。」
 パサパサのまんじゅうを口に詰め込まれたようにボソボソと聞き取れない言葉を口からもらす。タチバナはその異変に自分では気が付いていなかった。店内を動き回り、食べ残された皿を片付け、テーブルを拭き、皿を数える。金森の説教、夜になると背骨が曲がるほど床掃除をし、洗剤で手の皮がダメになるほど作業場を掃除し、翌日に使用する冷凍ネタを凍え切れそうな手で冷蔵庫に用意する。水、床、切り身、消毒薬の匂い、生臭さ、酢の匂い、ステンレスの輝き、天井からの蛍光灯の光、ゴミ出し。鍵締め。ここに何か作る行動が入れば、タチバナの気は紛れたが、一切寿司に触らせてもらえなかった。
 「おまえの潰した店でしたことで、おまえは汚れているんや。汚いもんが食べ物に触ったらアカンのや!絶対触るなよ。おまえは汚れているんや!」
 金森の毎日の説教には、タチバナ自身への否定が組み込まれていた。ずっと上の方から唾を吐きかける様な野蛮な説教、感情だけの知性のない言葉が繰り返されると、タチバナは名前を無くしたように不安になってくる。一方の金森は朝、すこし何かしたかと思うと、あとはずっと事務所の奥にある店長室に籠って、ケバケバしいだけで、若さに縋りつこうとしている化粧の濃い長谷だけが何やら仕事するふりをして頻繁に出入りしている。タチバナは自分より程度の低い店長がいるもんだなと思いながら、その程度の人間に、朝から晩までこき使われている理不尽さに、嫌気、怒りを通り越した諦めを飲み込むようになってきた。すると、体は鉛が通ったように重くなり、常に二日酔いのような朦朧とした頭痛がして、チカチカとした刺激が体中を駆け巡る。すっかり気力も体力もはぎ取られていった。そうなると度々皿を落とすようになってきた。落ちた皿は床にたたきつけられ、花火のように四方八方に破滅音と共に尖った破片を散らす。その様がゆっくりと眼に映り、タチバナは破片の中心に吸い込まれていく。もう限界だ。
 「おまえは何一つ出来ひん奴やな!土下座せえ!皿割った分、わいに弁償せえ!」
 タチバナはその時は何も言わず、少し悩んで、三日後に辞表を本部にFAXで送った。それはすぐに受理された。そのあっけなさに、タチバナは少しだけ戸惑った。
 十二月の風は冷たく乾いていて、些細な考え事なんて直ぐに奪い取ってしまう。職を失ったタチバナは、始めは「明日からどうやって食べていこう?」などと考えていたが、どうやら今の世の中、食べ物が溢れすぎていて、飢え死に対する恐怖がどうしても思い浮かばなかった。すると、鉛色の空と海が広がる冷たい風が吹きすさぶ岬の崖っ縁に立っているような危機感は薄れ、ただ、標識のない見知らぬ山道を歩いているような漠然とした焦りが残った。しかしよく考えてみれば、そんな焦りは前から持っていたので、少しはみ出したぐらいでは、解決もないが、だからといって危険もあまりないように思えた。だが、孤独感を隠すことができなくなってしまった。好まない連中でも、いないよりマシだったとだけは思うようになっていた。なにしろ、あれから誰とも言葉を交わしていない。清々としたが、汚れのない部屋の体感温度は低い。そこではうまく考え事ができなかった。しかし、疎外感と焦りがタチバナを十分に追い詰め、必要以上に心を荒ませた。
ハローワークから出て、タチバナは冬の弱い太陽の光に眩暈がした。それだけで十分に腹が立った。路上に転がる間違えて地上に出てきたミミズの干からびた惨めな姿が偶然目に入った。放り出された自分と重なり、さらに不愉快が募る。そこに通りかかった腹の突き出た妊婦に目が行く。厚着の上からでもはっきりとわかった。手足は細く腹ばかり出ていて、歩くのも辛そうだが、タチバナの眼は、その妊婦の顔に焦点を当てていた。
目は大きかったが、鷲鼻の孔も大きく開き、鼻腔まで見渡せる。歯は大きく突き出ていて、並びも壊れた鍵盤のようにバラバラで不恰好だった。歳はタチバナより少し若く、三十代半ばであったが、独身のタチバナよりは老けて見えた。「あんなブスでも子供出来るんだな。」そう思うタチバナは複雑だった。不細工でも伴侶を見つけ、社会生活を成り立たせているというタチバナより秀でた面に嫉妬し、同時に、結局は不細工で、旦那はブスが好きな物好きで、生まれてくる子も不細工、惨めな一家になるだろうと、タチバナより劣っていると勝手に決めつけている部分に対して、実在のない優越感を持って、何も持たない負け犬特有の意地悪な視線を送っていた。だからタチバナは妊婦の一挙一動を見逃さず、例えば、髪をかき上げる仕草に「生意気だ!」とイラついたり「ブスのくせに似合ってねーよ!」と嘲笑したりと一方的な関心を寄せていた。
そんな悪意あるタチバナの視線に対して、その妊婦は全く気が付いていなかった。ただ、冷たい風が吹くとお腹を大事そうに摩り、時折、俯いて話しかける様に突き出た腹に暖かな笑顔を向けていた。ひねくれしまった上に、今は何も持たない傍観者であるタチバナは、その笑顔、幸福感を見逃さなかった。同時にその妊婦が幸福感を持っている事を認めることが出来なかった。
次の日も、同じ時間にハローワークから出ると、タチバナはその妊婦に出会った。じっと見つめては、心の中であらゆる悪態をついたり、容姿を嘲笑しようと頑張ってみたが、空っぽのバケツを振り回すように手ごたえ無く空回りして、ただ、あまりにも惨めな気分が増してきた。もう見たくないと思ったが、その次の日も、ハローワークに通い、時間になると外に出て、妊婦を見つけ、不細工加減、その後の不幸を意地悪な笑いに変えようとじっと見ていたが、妊婦が俯いてお腹に笑いかける姿を見て、ついにはどうしようもない底のない敗北感を感じた。そして、ようやくここで、取り返すことが出来ない長い長い時間を思い出した。結局、自分は何もしてなかった。認めるのが怖いが、それは紛れもなく事実だった。その証拠に何も残っていない。そうなると、ただ真っ白に焦った。もうその妊婦の姿など、見てはならないとも思ったが、次の日も、その次の日も同じ時間に用のないハローワークから出てきて、じっとその妊婦を見つめていた。
街はすっかりクリスマス一色となっていた。タチバナはクリスマスの思い出を遡ったが、賑わうグリルドファミリアの店内に座る家族連れの記憶が思い浮かんだ。だが、その記憶には表情が欠けていた。お客として来たクリスマスをお店で過ごす家族連れが、どういった表情をしていたか、どうしても思い浮かばなかった。ただ、ザワザワとして、アルバイトたちも早く帰りたそうにしていた。去年のクリスマスに星野がどうしても休みたいとお願いしてきた。そこでわざと理由も聞かず昼の時間の勤務に入れた。あのときの恨めしそうな。怒りに満ちた、逆三角の眼をした表情はよく覚えている。夕方になると彼氏がお店に迎えに来ていた。星野は嬉しそうに微笑んでいて、他人事ながら、それが面白くなかった。仕方なく、もっと前のクリスマスの記憶を思い出そうとしたが、何も無かった。小さい頃となると、尚更思い浮かばなかった。仕方なく今日も妊婦が現れるのを待った。いつもの時間になった。その妊婦は現れた。町の中心の仕掛け時計が十二時にパレードを催すのを、時計の前で見上げて待っているように、期待したものがやってくる。タチバナの気持ちは何時の間にか弾んでいた。
その日は風が強かった。雲行きも怪しく、ついには横殴りの雪が降り始めた。視界は白くさえぎられたが、その妊婦は傘をさして、不安定に歩いていた。時折、突風に吹かれて倒れそうになるが、懸命に踏ん張り、まだ見ぬ子を安心させるように、そっと悴んだ手で腹を丸く摩り、励ますような優しさに満ちた笑顔を大きく膨らんだお腹に向けていた。
じっと見つめるタチバナは雪の降る中、堪えきれずにとうとう、泣いてしまった。
健気で一生懸命な妊婦の姿にすっかりまいっていた。その幸福を守り抜くような強い笑顔をこの世で一番美しいとさえ思っていた。並びの悪い出っ歯さえ快活な印象をタチバナに与えた。すでにその妊婦はタチバナにとって唯一無比の理想の女性となっていた。
傘もささずに、肩に雪の積もったタチバナは、耳はちぎれるほど真っ赤で、足先も凍りそうだったが、そんなことは微塵も感じず、ただただ、妊婦のことが気になっていた。勇気を振り絞って、駆け出して、手を差し伸べたかった。だが、妊婦を助ける理由が見当たらない。しかし、理由なんているものなのだろうか?妊婦は理由なく、無条件で、お腹の中の子に愛情を、溢れんばかりの希望を、精一杯注いでいる。それは見て分かる。ああなりたい。いや、その一部だけでもいい。タチバナは妊婦に関わりたかった。彼女の幸せのみを願った。しかし、いざ、動こうとすると冷えきった足先は震え、心臓は激しく踊り、緊張で体の芯が縛られる。それに、いざ駆け寄っても、妊婦に不審がられ、当然のように否定される可能性もあり、それが何より怖かった。「誰か、助けてやれよ。」タチバナは焦る様に思ったが、雪降る街角で、他人に気を配れる余裕のある人間は少なく、ふらつく妊婦に視線を送ることなく、足早に雑踏は過ぎていく。「冷たい連中め!」タチバナは世間に対して怒っていた。薄情!冷酷!無責任で、自分さえよければいい連中!立ちはだかる世間に対して心の中で悪態をつき、イラつき、いてもたってもいられなくなった。その瞬間、風が強く吹き、妊婦の傘はまくれ上がり、大きな目を見開き、鼻の穴をさらに広げ、驚いた顔をしたまま、妊婦はストンと濡れた地面に尻もちをついた。
タチバナは生まれて初めて我を忘れた。頭の中は真っ白、理由などない、沸き立つ情念にかられ、全身全霊、一直線に駆け出した。
「大丈夫か!」
「ああ、痛い、わ、わたしの、赤ちゃん・・うう、生まれる。」
「安心しろ、すぐに病院に連れてってやる。あと、旦那さんに連絡しないと。」
「・・私は一人です。この子は、一人で産んで、私と家族になるんです。」
「だったら、僕がその子の父親になる。いや、ならしてくれ、俺に任せてくれ!」
タチバナは生まれて初めて自分の言葉を口から吐き出した。体裁も、後先も、損得も、過去も何も考えず、思ったように行動した。それが、ただ、その妊婦のことだけを考えての行動だった。自分のことなんて、もう、どうでもよかった。
抱きかかえられた妊婦の小橋恵は、突然のことに驚いてはいたが、凍える体で、大きな体のタチバナの体温を暖かいと直感的に思っていた。だが、それ以上に転んだことで体が驚き、腹が締まって苦しかった。小橋は、痛みであまり深く考えることが出来なかった。が、底知れぬ安心感の淵にいることだけは分かった。
「・・すみません、とりあえず、西町にある山本産婦人科に連れていてください。ちかくにグリルドファミリアっていうファミレスがあるんですけど。」
「そこは知っている。すぐに連れて行ってやる。」
タチバナは小橋の口から出た店の名前に一瞬だけ躊躇したが、それを良い偶然だと思い、軽々と小橋を抱きかかえると、ハローワーク傍の駐車場に向かい、小橋を後部座席に乗せ発進した。車中は話すこともなく、大粒の雪を掻き分けるワイパーの音だけがくぐもって聞こえた。しばらくすると小橋のお腹の痛みが和らいできた。
「もう、痛みが引いてきました。ありがとうございました。私、小橋といいます。後でお礼がしたいので、連絡先など教えて頂ければと思いますが・・」
小橋は、本当は、タチバナと一緒に居たかった。初めてのお産で、しかし頼る人もなく、心細かったし、なにより、タチバナのさっきの言葉が耳から離れていなかった。突然の申し出に戸惑ってはいたが、やはり、嘘でもいいから、タチバナの力強い言葉が嬉しく、正直なところ、頼りたかった。
タチバナは、もう、迷いなどなかった。だから、一般常識を広げる小橋の言葉に、身を切られるような切なさを感じていた。やっぱり断られるのか。そりゃ、突然、父親にならせろなんて言われたら、気味が悪いよな。そう思いながらも、小橋のあの、お腹に微笑みかける優しさに関わりたかった。いや、手に入れたかった。もう、引き下がるわけにいかない。もう、遠くから眺めることはしたくない。不意に父親のことを思い出す。あれは厳しい男だった。しかし、なんとなく、今の自分の行動を褒めてくれるような気がした。親父は何時でも何も迷ってなかった。だから、離れた。しかし、今になら、理解し、分かりあえるような気がした。
「小橋さん、僕は、あなたの力になれないかもしれないけど、お礼なんていらないから、関わらせてください。突然のことで、驚かれているでしょうが、私はここ数日間、貴方の事を見ていました。それで、どうしても、一緒に居たいと思ったんです。今は無職で、何も持っていませんが、貴方の為に何かは出来ると思っています。」
タチバナの話を聞いて、小橋は間違えたバスに乗ったのかと思ったが、正しいバスなんて、今までなかったのだから、このまま乗っていてもいいのではないかと思い始めていた。助けてもらったことは事実だし、タチバナが嘘を言っているようには思えない。
「・・・あの、私、えっと、何て言ったらいいか分からないんですが・・このまま乗っていてもいいんですか?」
「どうぞ、もうすぐつきますけど。」
すでに解体工事が始まっているグリルドファミリアの前を通りかかる。雪をかぶったショベルカーが半壊した建物の真ん中に陣取り、雪吹雪の中、窓ガラスを割り、壁を破壊し、テーブルや椅子を踏みつぶし、残酷な解体を続けていた。見慣れた景色は既に消えていて、来春にはそこにコンビニが立つ予定だ。
そこから少し離れた山本産婦人科に付く頃には、小橋の状態はすっかり落ち着いていた。小橋は後ろの席でドアに手をかけ、雪の降る外に出ることを躊躇っていた。タチバナは中々出ようとしない小橋にどうしていいか分からなかったが、これで終わりとなったら、みすみす世界を手放してしまうことになると恐れて、しかし、小橋の負担になってはいけないと、自信のない小さな声で言った。
「ここで、待ってますから。また、戻ってきてください。」
小橋は、その声に、理想の世界を見つけた。だが、まぼろしに終わることを恐れて
「すみません、着いてきてもらえませんか?」
と高鳴る胸の鼓動に負けまいと、そっと声を絞り出した。タチバナは何も疑うことなく、それに黙って従った。
タチバナは初めての産婦人科、暖房の良く効いた待合室で、外来時間だったので誰もいなかったが、場違いであるのは間違いなく、どうにも居心地悪く下を向いて待っていた。静まり返った待合室、時計の針の音さえ聞こえる。小橋を待つ時間は永遠のように感じられて、訳も分からず胸が締め付けられる。しかし、「あれ」でよかったのだろうかと今更ながら考えてみたが、その「あれ」が良く解らないでいた。じっと見つめるリノリウムの白い床、目地を辿って先を目で追う、まっすぐ行って、角に着く、そこで右か左を選ぶ、今は右、次は左、それを繰り返していると、白いミュールが目に入る。見上げるといかにもベテランの年配の看護師がこっちを見て立っている。
「小橋さんのパートナーさん?診察室にいらしてください。」
強い口調で言われるがまま立ち上がり、まるで連行されるように着いていく。ドアを開けると品のある初老の医師が何やら言いたげな顔をして座っている。
「ああ、初めまして。院長の山本です。小橋さんですが、予定日は少し過ぎてますが、順調で、次に陣痛が来たら生まれると思います・・。あなたは今まで、小橋さんを放っておいたようですが、今なら戸籍上でも完全に父親になれます。覚悟を決めて今日にでも役所に届を出すべきだ。ええっと、あなたは」
「タチバナケイと言います。」
「ああ、タチバナさん。はやく小橋さんをタチバナにしてあげてください。病院に一緒に来れるということは、覚悟はあるんでしょ?生まれてくるお嬢ちゃんの為にも、お願いします。小橋さんはねえ、出産を、本当に本当に楽しみにしているんだ。家族が出来るって本当に嬉しそうにして、たった一人でここまで頑張って来たんだ。タチバナさん、ここは一つ、男になってみないか。私からもお願いします。」
タチバナは事態を飲み込めていなかったが、涙を浮かべて頭を下げる山本院長に、ただ恐縮する以外なかった。
「はい、私もさっき、覚悟してここまで来ました。」
山本院長は、さっき覚悟してという言葉に違和感を覚えた。この男は何を考えているのだろう?最近の若い連中、いや、そんなに若くないが、生まれてくる命をなんだと思っているんだろう!しかし、不思議とタチバナの雰囲気は非常に落ち着き、どう考えても本気だった。今までタチバナ君は何を悩んでいたんだろう?何か深い事情でもあったのだろうか?山本院長は少し困惑したが、タチバナの眼を見て、大丈夫だと確信した。
「・・だったら、それでいい。しっかりやるんだぞ。じゃあ、これ、私からのクリスマスプレゼントだ。小橋さんは本当にいい母親になるよ。しっかり支えてあげるんだ。」
山本院長は引き出しから記入されていない婚姻届を取り出した。タチバナはそれを受け取ると、山本の誤解を理解したが、言い返すことなく、その場でペンを借り、自分の欄に素直に名前を書いた。山本院長は深くうなずき、隣の看護師も小橋のこれまでの苦労を思い出し、すすり泣いた。その周りの人達の雰囲気から、タチバナは小橋のこれまでを深く理解した。
「病院のみなさんが、良かったねって言ってくれたんですよ。院長とはどんな話をされたのですか?」
いきなりの祝福を受け、その場では、それが出産前に親切な人に助けてもらったことだと思っていた小橋は、うれしそうに助手席に乗り込んだ車の中でタチバナに聞いてきた。タチバナは半分書かれた婚姻届を横に座る小橋に差し出した。小橋は大きな目でそれを見て口を大きく開けて驚いた。
「院長に覚悟しなさいって、貰ったから、その場で書いたんだ。半分、書いてください、今から出しに行こう。」
 小橋にとって、いきなりの展開だったが、タチバナの様子は一仕事終えたように落ち着き払っていて、顔も穏やかだった。
改めて見ると優しそうな人だな。無職っていってたけど、私が働けばいいし、産休中の蓄えも作ってある。なにより、この人は、私と私の子供を助けてくれた。頼ってばっかりで申し訳ないけど、こういった幸運は二度と訪れてこないような気がする。
「分かりました。今更なんですけど、立花恵さんっていうんですね。今日から、この先、ずっと、宜しくお願いします。」
満面の笑みを浮かべてそういうと、小橋恵は、これまでのことを思い出し、その不遇を恨むことなく、ただ、ここで手に入った幸福のみに感謝して、嬉しさで一杯になり、関を切ったように声をあげて泣いた。それは留めなく続き、すっかり車のガラスを曇らせた。
雪の降る中、籍を入れて、タチバナの家が病院から近いこともあって、小橋恵改め立花めぐみは出産準備にまとめられた荷物一つで転がり込んだ。大きな冷蔵庫だけで、後は何もない部屋に少し驚いたが、綺麗に片付いていて、めぐみは悪い印象を持たなかった。
「ここからなら、歩いてでも病院に行けますね。ありがとうございます。」
めぐみは単純な所があり、既に安心しきって、自分の家のように寛いだ。こたつに入って、じっと座って、目の前にあるゲーム雑誌を見て、こんなの読むんだと観察していた。タチバナは部屋に女性が来るなんて今まで無く、どうしていいか分からなかったが、とりあえずこたつの上のゲーム雑誌をサッと取り上げて、ミカンを置いた。
「何もないところで、ごめんね。お腹すいたでしょ?夕食作るから、ちょっとまっててね。」
タチバナはこういった場合、何を作ればいいか解らなかったが、自分がまともに作れるものは寿司しかなかったので、冷蔵庫を開けてじっと考えた。玉子が三つ残っている。あとは昨日作った蓮根のきんぴら、実家から米と一緒に送られてきた、インスタントコーヒーの空瓶に詰められた金時豆ぐらいしかなかった。冷凍庫にはすし太大市場からクルマエビと偽装して出していて出していた殻付のバナメイエビが大量にあった。「こっそり処分しろ!」と簡単に騙されて仕入れた金森から言われて持って帰った物だった。
「少し時間かかるけど、いいかな?」
タチバナの問いかけにめぐみの返答はなかった。タチバナがこたつの有る居間に目を遣るとめぐみは横に倒れ込んでいた。タチバナは焦って駆け寄ったが、めぐみは今日一日に色々なことがありすぎて、疲れて眠りこんでいた。タチバナは安心し、ふすまの奥にある新品の毛布を取り出してそっと、めぐみにかけた。
ます、お米を研いで、ふっくらと炊き上げる為に土鍋で炊くことにした。電気釜でも十分だったが、少しでも美味しく食べてもらいたいので、多少の手間を厭わなかった。それからエビを流水で回答する。酒を少量入れて茹でた後、半分は殻を剥いて、半分はすり鉢に居れる。すりこ木で力入れてすり潰す。殻を擦り潰すと殻の赤みとエビの白身が混ざり合い、初めは斑だが、混ざり合えば混ざり合うほど、うっすらとした綺麗ないピンク色に変化する。そこに砂糖と塩、みりんで味付け、ゴロゴロ練って、一つの球に固める。それからフライパンで崩すように弱火で炒める。ピンクの球体は、熱が通って、少しずつ乾いて、バラバラになって広がっていく。タチバナはその変化をじっと見ていた。母親作っていたのを子供の時の時に見て、形を変える様が不思議で、それが単純に面白くて、台所でずっと見ていたことを思い出す。エビと砂糖が焦がされる甘い匂いが立ち込めてきて、その匂いにめぐには目を覚ました。台所までいってそっと覗き込む。
「これ、何作っているんですか。」
「もう少し寝てればいいのに。これはねえ、エビのおぼろ。そこに茹でたエビがあるだろ、あれを殻ごとすり鉢で錬って、調味料混ぜて、炒って作るんだ。」
フライパンの上では鮮やかなピンク色が次々と粉のようになって、広がっていく。めぐみは初めて見る調理に目を見張った。エビが、あんなバラバラになるなんて、不思議だ。二人は並んで立っていた。覗き込むめぐみは子供の様にはしゃいでいる。
「いい匂いだなあ。ちょっと、食べてみていいですか?」
「まだまだ、出来てからのお楽しみ。」
今度は玉子を溶いて薄焼き卵焼きを何枚も作る。それを刻んで皿に盛る。つぎに大葉を刻んで皿に盛る。それからエビの殻を剥いて皿に盛る。色々な色が小皿に盛られ沢山並んでいく。幼少期に逃げて行った母親に玉子焼きとソーセージを焼くぐらいの料理しか作ってもらえなかっためぐみは、沢山並ぶ色とりどりな皿に目を奪われる。子供の様に興奮し、何が出来るんだろう?とワクワクしながら思案し、しかし、振る舞われた経験は乏しく、見当もつかない。しかし、次々と食材が並ぶごとになんだか嬉しくなってきた。
「いっぱいですね、きれいだなあ。」
うっとりとそういうと、めぐみは味わったことのない幸福感に包まれて、胸が一杯になり、急に涙があふれてきた。
「わたし、こんなに、いろいろ作ってもらったこと、初めてで、ほんと、うれしいなあ。」
タチバナは隣で泣いているめぐみに何を言っていいか分からなくて、包丁も持っていたので、そっと、めぐみに身を寄せた。二人の体温は少し違って、だから、両方がそれを温かいと感じた。
「わたし、恵って名前、嫌いでした。いままで、何も恵まれてなくて、でも、今は、突然でびっくりしたけど、いきなり恵まれてて、うれしいんです。」
「でも、同じ名前になっちゃったね。ケイもめぐみも同じ恵で、名字も一緒になったし、手紙が来たとき困るかもしれない。でも、同じ漢字を使ったってことは、同じような思いが込められているんだろうね。だから、うちの両親は小橋さんのことを気に入ると思うよ。」
めぐみには両親と呼べる人間がいなかった。父親は生まれた時には既にいなかったし、母親も小学生になるめぐみを置いていなくなった。このことをタチバナに話すべきだとは思っていたが、まだ、言えそうになかった。
ご飯が炊きあがり、すし桶に広げられ、タチバナは甘目の合わせ酢をかけて混ぜた。めぐみはうちわでそれを扇いだ。なんだか、お祭りのような特別な雰囲気だなあとめぐみは思った。「わっしょい、わっしょい!」子供の様にうちわを持って、めぐみは燥いだ。タチバナは切る様にしゃもじを滑らせそれを返すを繰り返し、まんべんなく酢をご飯と混ぜた。すし桶に広がる真っ白な酢飯。まるでそれはタチバナの故郷の雪原を思い起こさせる。家の外も雪がすっかり積もっていた。
「ご飯って、真っ白ですね。なんだか、雪が降って、全部隠れたみたい。」
「今から、この雪の上に、色を付けていくよ。これ、何か祝いがあると、おふくろがしてくれてたんだ。まず、春になったら桜の花が咲いて」
真っ白な寿司飯の上に、淡いピンクの海老おぼろが散らされる。二人いつの間にかは雪原に立って、桜の花びらが散るのを見上げている。甘い香りが心地よく、何もなかった白い雪原に優しい色した花びらが散らされ、辺りの景色を暈すように桜色に染めていく。すっかり雪原に淡いピンクの絨毯が敷かれた。
「さあ、今度は菜の花も咲きました。」
桜の絨毯の上、つぎに菜の花のように鮮やかな錦糸卵がまき散らされる。太陽を写し込んだような明るい黄色は、希望に満ちていて、見ているだけで元気になってくる。二人並んで菜の花を見ている。いい匂いのする暖かい風が頬を撫でる。タチバナ夫妻は手を取り合って鮮やかに移ろう季節をじっと眺め、芽吹く季節に希望を乗せる。
「緑の芽吹く季節になって、祝いのエビも腰曲げる!」
大葉が散らされ、雪原は花と鮮やかな緑が芽吹いて、鮮烈な植物の臭いが鼻を突き、その青臭さに、生まれ変わるような新鮮な気持ちが湧いてくる。何時の間にかタチバナ夫婦の間には、小さな女の子が微笑んでいて、タチバナ一家は柔らかな新緑の柔らかな単子葉類の草をしゃがんで撫でていた。そんな単子葉類、イネ科の草の間から腰を曲げた鮮やかな赤い色したエビが踊りながら現れる。三人は愉快な気持ちで笑って見ている。むかしばなしの絵本をめくる様にめぐみは嬉しそうにちらし寿司を見ている。そこに金時豆やきんぴらが乗っかり、華やかに完成した。
「本当は質素なものの集まりで、あんまり豪華じゃないけど、豪華に見えるだろ?こんな事しかできないけど、僕は祝っているんだ。」
優しく言うタチバナに深い愛情を感じ、めぐみは嬉しくてたまらなくなり、また泣いた。
二人並んで食べるちらし寿司は、鮮やかで、楽しく、美味しかった。タチバナは、ボソリと二人で食べたほうが美味しいと言った。これが三人になるなんて、楽しくて、うれしいだろうなあとも素直に続けた。
「何かの本で読んだことがあるんですけど、一人で食べるのは、本の表紙を眺めるだけで終わってしまうけど、二人で食べるのは、本を開いて、物語に入っていくことができるって書いてありました。わたしはいつも一人でご飯食べてたけど、二人で食べると、美味しいし、楽しいですね。何か、物語が始まった気がするし。」
その物語が、終わることなくどんどん何処までも広がればいいと二人は願った。その願いを叶えるために、二人は残さずちらし寿司を平らげた。
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