それでも前に進む

文字数 7,028文字

 深夜の奥多摩に光はなかった。月も星もない暗闇は、上空に浮かぶタイカの視界から、シャトルが沈んでいるはずの湖さえかき消していた。
 光学的な暗闇は、タイカの行く手を遮る壁にはならないはずだった。視覚感度をほんの少し上げるだけで、暗闇の中に景色が浮かべることができる。しかし、今のタイカはそんな特殊能力さえ疎ましく思えていた。こんな機能がなければ、自分はヒーローの道を歩もうとしなかった。進まなければ、以前あったような原因不明の強制スリープモードも、得体のしれない鈍痛のような心理現象も、自分の考えに振り回されて右往左往することもなかった。
 こんな重たい気分になるのは、地球に来て以来何度目だろう。試行錯誤を繰り返し、その都度答えを出してつもりなのに、また同じ結果になってしまう。これでは、自分が全く進化していないことになるではないか。
 そもそも、ヤマワはなぜ事故の被害者を「第2のエリー」と言ったのだろう。自分はヒワを危機から救ったことで、第2のエリーを未然に防いだのではないのか。鈍痛のような心理現象は、理解できないことに対する不安の現れなのだろうか。それとも、自分の失態を無意識に感じているのか。
 そういう時、タイカは徹底的に考える。情報を集めて分析し、最も辻褄が合う仮説を見出し、それを検証するために実験を行うのだ。彼はそうやっていくつもの新技術を発明してきた。ヒーローという選択肢も、その結果として獲得したものだ。
 視界一杯に開いた複数の網膜ディスプレイで、タイカはヤマワが言った事故の情報を調べ始めた。いつのまにか奥多摩の上空を通り過ぎ、タイカはそのまま暗闇の空を西に向かって飛び続けた。

 女性同士のカップルが、連休を利用して山奥にある温泉地に向かっていた。晴天の渓谷を走る小さなハッチバックが快調に山道を登っていく。若い二人は風切り音に負けないように大声で話しながら、時おり二人で笑いあった。道の前後に他の車はなく、まるで山を丸ごと独占したかのような、自由で開放的なドライブだった。
 そんな平和で幸福に満ちた日常が、カーブを抜けた直後に悪夢とかした。タイヤがきしむ不気味な高音が聞こえたと思った瞬間、断崖の影からスポーツカーが一台飛び出してきた。カーブを曲がり切れず対向車線に大きくはみ出して、二人のハッチバックをガードレールの向こうにはじき出した。ガードレールの向こうは切れ落ちた崖になっていて、車は急斜面を転がりながら20メートル下の川に落ちたが、スポーツカーはスピードを緩めることなく走り去った。
 運転席の女性が意識を取り戻した時、すでに首まで水に浸かっていた。助手席を向くと恋人が意識を失いうなだれている。そのため顔が水に浸かったままだった。運転手はすぐに彼女の顔を水面から引き起こすと、彼女のシートベルトを外そうとした。しかし、自分のベルトも閉まっていたので、助手席のシートベルトに手が届かない。そこで、まずは自分のベルトを外そうとしたが、何かが引っかかっていてリリースボタンを押せなかった。
 彼女は身体の痛みも忘れて水の中に顔を突っ込むと、精一杯身体を伸ばしてなんとか助手席のベルトを外した。恋人の身体が水面に浮くが、もう水は顔の半分まで迫ってきていた。彼女はダッシュボードから取り出したマジックテープ式のスリーピングバッグを恋人の首に巻きつけると、渾身の力を振り絞って彼女の身体を窓の外に押し出した。
 恋人の顔が一瞬水の中に沈んだが、自動膨張したスリーピングバッグの浮力に助けられ、頭を水面に出したまま水の流れに乗っていった。
「美佐! ごめん! 生きて!」
 美佐と呼ばれた助手席の女性は、無意識の中でも彼女の叫びが脳裏に刻まれ、後日それがフラッシュバックすることになる。しかし、それは苦痛を伴うものではなく、美佐の人生を前にすすめる原動力となるのだが、それはまた後の話。
 二人の車にはドライブ・トラッキング・システム(DTS)が組み込まれていた。これは衛星ネットワークに直結した車載コンピュータが、車の挙動をリアルタイムに自動車メーカーのホストコンピュータへ送信するシステムだ。
 事故を検知したDTSは即座に車の挙動と座標を送信し、ホストコンピュータは受信したデータを元に事故の様子を推測して、緊急アラートを発報した。
 アラートを受けた担当者が車との通話を試みた。しかし応答がなかったため、即刻警察に通報した。ここまでの所要時間は事故発生から4分。警察は最寄りの管轄署に出動を要請、数台のパトカーと救急車が現場に向かった。
 しかし、問題は現場に到着するまでの所要時間だ。人里離れた山間道路の上、管轄署側の最短コースは工事中で通れなかった。そのため緊急車両は迂回路を取らざるを得ず、どんなに急いでも現場まで2時間はかかった。
 おまけに、車は車道から20メートル下を流れる川底で、車はもちろん徒歩でも川べりに通じる道はない。狭い谷底はヘリが着陸できる場所もなく、警察官や救急隊員は人力で崖を下り、首まで水に浸かりながら被害者を探し出し、彼女たちをロープで引き上げなければならなかった。美佐が救急車に収容されたのは事故発生から4時間後。その恋人に至っては7時間かかって遺体を収容した。
 美佐は奇跡的に一命をとりとめたが、周囲の誰もそれを奇跡とは思わなかった。彼女は最愛の恋人を失い、自身も頚椎損傷という深手を負った。一生首から下を動かせない人生なら、あのまま恋人と天国へ旅立ったほうがよかったのではないか。友人の一人による率直な感想が、事故を取材したニュース記事に掲載されていた。
 これはいくつもの不運な偶然が重なった事故であって、そこまで想定して社会インフラを整えることはできない。追突事故を起こした犯人はともかく、この件に関わったすべての人々は皆最善を尽くした。それでも、あの状況では二人を救う術などなかっただろう。少なくとも地球人には。

 あいかわらず空を飛んでいるタイカは、今自分がどこにいるかもわかっていなかった。眼下を見下ろすとかすかに白波が見える。どうやら海の上を飛んでいるらしい。エマニに現在位置を確認すると、日本海の上空だった。
 タイカはリアクターの出力を下げてアイドリング状態にすると、網膜ディスプレイの現在地を見ながら言った。
「エマニ。現在位置と一緒に事故現場の座標を表示してくれ」
 エマニが表示した座標は、岐阜と長野の県境だった。飛騨山脈の南端で、タイカの現在位置と東京のちょうど中間に位置している。
 つまり、ここからの所要時間と、東京から駆けつけた場合の時間はだいたい同じということだ。直線距離にして200キロメートル弱だった。
 タイカはリアクターの出力を再上昇させると、空気を切り裂く轟音と共に急加速して現場へ向かった。
 結果は2分。
「2分…」
 タイカは川の上空から暗視スキャンを始めると、すぐに車を見つけることができた。車はまだ現在の川に沈んでいた。タイヤの一部だけを露出したまま、横転した状態で絶え間なく押し寄せる膨大な水に洗われていた。
 タイカは車の直上まで降りると、そこで浮遊したまま呆然と車体を見下ろしていたが、何を思ったのか突然自分の周囲をフォースフィールドで包み、車の脇に降り立った。
 川の水がフォースフィールドを避けて流れ、タイカと車の周囲だけ水がなくなった。タイカは車を引き起こすと、車体を両手にかかえて持ち上げた。車内の海水がこぼれ落ちてタイカの全身を濡らしたが、タイカは意に返さずリアクターの出力を上げ、そのまま上昇して山道の待避所に車を下ろした。
 すべては後の祭りで、車を戻したぐらいではなんの助けにも、誰の慰めにもなりはしない。しかし、タイカは自分にできることをやらずにはいられなかった。
 運転席側の側面は大きくえぐれ、ルーフはへしゃげ、すべての窓ガラスが割れていた。数時間前、ここには二人の女性が乗っていて、幸せな時間を過ごしていたが、その痕跡は一切見いだせず、ただ薄汚れた機械の塊となってタイカの目の前にある。感慨もへったくれもない。これが現実なのだ。
「2分…」
 この数字を思い浮かべる度にタイカを打ちのめした。
 ヤマワは彼女たちを「第2のエリー」だと言った。エリーは善人であったにも関わらず、悪意ある者の手によって命を奪われた。しかし、悪意あるものの一部は、タイカ自身が殲滅した。おかげでタイカは居場所を失ったわけだが、それでも今後二度とあの破壊兵器の犠牲になる人はいないだろう。それがあの時自分にできた唯一の対抗策だ。
 では、第2のエリーに対してはどうか。ニュースによると、追突して逃げた犯人はすでに捕まっていた。介入案件抽出アルゴリズムに不備があるなら、そのバージョンアップも早急に行う。
 しかし、タイカはそれだけで済ませてはいけないような思いにかられた。ヤマワはもういない。タイカは自分で考えるしかなかった。
 気がつけば、タイカは自分の皮膚に爪がめり込むほど拳を力強く握りしめていた。指を開いて手のひらを見ると、爪の後はくっきりと刻まれていた。力のコントロールをおろそかにすると、自分の皮膚などかんたんに傷つけてしまう。身体制御のプログラムは主にエマニがコントロールしているが、それはあくまでタイカの脳が発する指令に基づく。その指令が度を越したとき、初めてエマニのコマンドが優先されるのだ。
 タイカは再び自分の手を見た。指を閉じたり開いたり、手のひらを裏返したり、もう片方の手も同じようにしげしげと見た。
「あるじゃないか。できることがもうひとつ」

 福井県にある小さな街に、その病院はあった。美佐と呼ばれていた女性の病室は、4階建ての病棟の最上階だった。
 彼女は真っ暗な部屋にたった一人、膨大な数の機器に囲まれて眠っていた。自発呼吸ができない彼女は、人工呼吸器に繫がれたまま強制的に意識レベルを下げられている。部屋一杯に広がる窓は少しだけ開けられ、涼やかな風がカーテンを揺らしていた。
 タイカは音もなく舞い降りると、そっと窓を開けて病室に入った。初めて見る女性の顔は、奇跡的に無傷だった。きっと何が起こったかわからないまま眠り続けているのだろう。その寝顔には苦痛も悲哀も見られなかった。
 タイカはまず、居並ぶ機械たちのプログラムを書き換えた。タイカが再び戻ってくる明日の朝まで、いないはずの患者をモニターし続けるように。
 その後、右手の有機皮膚を解除すると、機械の手を女性の首筋にあてがった。手のひらから放出されたナノマシンが、浸透圧によって彼女の循環器系に注入された。ナノマシンは生命維持に必要な場所へ配置され、人工的に呼吸を促した。その後、タイカは美佐につながっている様々なコードを外し、彼女を抱きかかえてそっと窓から出ていった。

 奥多摩のシャトルに戻ったのは、日付が変わる数分前だった。病院の巡回が始まる前までに彼女を戻さなければならないが、6時間もあればサイボーグ化手術は完了できる。
 シャトルのラボに入ると、部屋の中央にはできたばかりのサイボーグ手術用ベッドが鎮座していた。タイカが美佐のサイボーグ化を決意したとき、エマニに命じてラボの分子複製機を遠隔操作したのだ。
 ベッドといっても就寝具のそれではなく、横置きされた大きな円筒形の密閉型手術ユニットだ。上半分が開閉式のシャッターになっていて、タイカが彼女のベッドに寝かせると、シャッターが自動で閉じてサイボーグ手術の準備が始まった。
 詳細な身体スキャンと様々な検査を終えると、エマニが準備完了をコールした。
「手術開始」
 タイカの一言で手術ベッドが動き出す。網膜ディスプレイの作業進捗が目にも留まらぬ速さで進んでいくが、外からは何が行われているのかうかがい知ることはできない。しかし、プログラムの中身を知っているタイカには、内部の様子が容易に想像できた。
 まず脳と身体を分離して、不要となった身体は分子レベルに分解される。それと平行して、ベッドに内蔵されている分子複製機によって機械の部品が製造され、予め指定された座標に配置される。美佐の脳は堅牢な外殻に守られ、そこから伸びた神経ネットが各部品に接続される。サイボーグ体の接続チェックが終わると、今度は有機物質によって皮膚組織が生成され、生身の身体と見分けがつかない再現度によって彼女の外見をもとに戻すのだ。
 生身の身体を失うことに、タイカはなんの躊躇もない。美佐の意思も気に留めてない。自分はサイボーグ化によって散々苦労しているにもかかわらず、サイボーグ化自体に罪悪感は感じていない。
 タイカの葛藤は生き延びたことに対するものであり、他に選択肢がなかった事実は理解していた。だからこその葛藤だった。
 タイカは美佐に対しても、サイボーグ化の結果がどういう事態をもたらすか考慮していない。ただ、これが自分にしかできない唯一の道だと確信しているだけだった。
 タイカはコクピットに戻ると、あるプログラムを組み始めた。エマニが収集した美佐の健康診断データに仕込むコンピュータウィルスだ。世界中の医療機器はすべてネットワークにつながっていて、患者のデータを共有していた。そこで、美佐が今後何かの理由で身体スキャンをかけられた場合、実際のスキャン結果を破棄して生身の身体だった時のデータに差し替えるプログラムだ。これで、実際に身体を切り開いて直接見る以外、美佐の身体がサイボーグであることを知る術はない。おまけに、美佐の身体にはメンテンナンス用のナノマシンが注入されるので、身体を切り開かれる事態に陥ることさえない。彼女は今後あらゆる疾患から開放されるのだ。

 タイカはプログラムをネットワークに放出し終わると、手術が終わるまでの短い休息をとった。エマニのコールで目を覚ました時は、予定通り夜が明ける直前だった。
 ラボに向かい手術ベッドのシャッターを開ける。そこにはベッドに入る前とまったく変わらない美佐がいた。まだ意識レベルは抑えられているが、接続チェックの結果を確認すると、すべて正常に完了しているようだった。
 タイカは再び美佐を抱きかかえると、病院に向かうべくシャトルを後にした。
 
 病院の上空から暗視スキャンで院内の様子を確認したが、ナースステーション以外に人の動きはなかった。どのみち首から下を自力で動かせず、人工的に意識レベルを下げられている美佐は、機械が発するアラート以外に病院スタッフの注意を引く存在ではなかった。タイカがサイボーグ手術を施さなければ、彼女は残りの人生も似たような環境で過ごすことになっていただろう。
 タイカは美佐をベッドに寝かせ、肩のあたりまでシーツをかぶせた。網膜ディスプレイに映る美佐の脳波レベルは、睡眠時と同程度にまで活発化していた。すでに完全な無意識から脱していて、その気になれば夢も見られる。あとは自然に覚醒するのを待つのみだった。その証拠に、タイカが病室から退散するためにリアクターを再起動した直後、彼女は寝返りをうった。
「がんばってね」
 タイカはそう言葉を投げかけて、病室の窓から出ていった。
 空は山の稜線から薄紫色に色づきはじめ、鳥の鳴き声が周囲に響いている。上空を目指しながら、タイカはなにか肝心なことを忘れているような違和感を覚えたが、これ以上自分にできることはないと考え直し、その違和感を振り払った。
 人々にとっては青天の霹靂だろう。なぜかはわからないが彼女の身体は元に戻り、今までと同じ生活を送ることができる。しかし、それは同時に彼女が事故の事実を知るということだ。そして、何を失ったのかも。
 美佐は第2のエリーを通り越し、第2のタイカになったのだ。

「さて、どこにいこう」
 シャトルに帰る理由もなく、今となっては迂闊にヒーロー活動もできなくなった。エマニが提示した介入案件も、タイカは本当に介入すべきか再考するようになってしまった。
 今に始まったことではないが、比類なき力を持つがゆえに、かえってそれが足かせとなっている。その都度方針転換を繰り返してきたが、同じ葛藤を繰り返すということは、まだ正しい道に乗っていないという証拠だった。
 ヒワと行動を共にしたことも、その結果美佐たちの事故を見過ごしたことも、単なる結果でしかない。明らかな非がタイカにあったわけではないが、タイカは迷っていた。まだ自分には足りないものがあるのか。それとも最善を尽くしているのか。他人の意見に惑わされているだけなのか。もっと自信を持つべきなのか。
 その時、タイカはある言葉を思い出した。
「お前のような力をもった人間はな、いずれその力を持て余して路頭に迷うことになるんだ。もし自分の存在意義がわからなかくなったら俺のところに来い。俺がそれを教えてやるよ」
 タイカは接続許可リストの中からジークの携帯端末を選択すると、エマニに命じて現在位置を探索した。開いた地図は東京だった。前回会ったビルのすぐ近くだ。
 思い悩んだ末、タイカは覚悟を決めた。鬼が出るか蛇が出るか、それを恐れて躊躇したところで何も始まらない。
「もし彼の言うことに納得できなければ、二度と会わなければいいだけだ」
 タイカは自分にそう言い聞かせると、朝焼けの空を東京に向けて飛び去った。
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