短編小説その弐:忘却

文字数 6,900文字

魂の在り処はどこにあるだろう。記憶その物が魂であるか、それとも魂の正体がニューロンの間に走る電気信号であるか。もしそれが分かる人がいれば、今すぐその人に会って聞いてみたい。今私の魂は事故の前のそれと同じ物であるか、と。
過去はブラックボードに書かれた文字のように、消した後に書き直すわけにはいかないが、消すことだけならばそれ程難しくないようだ。過去の全てが真っ白になった時、虚空から目覚めた自分にとって、魂は変わらずいられるでしょうか。

目覚めはとても穏やかだった。最初に目に入るのは何もない白だった。それは瞼を開ける直前に脳が見せる虚像か現実かはうまく判別はできなかった。少し時間が経ち、世界は段々色付いて、馴染みのない世界が目の前にあった。
白いシーツ、白い壁、白いカーテン、肺に入り込むアルコールの匂いさえも、まるで白い色をしているような気がする。何かに縛られた頭がジンジンと痛み出し、内側から外に伝わる痛みはちょっと不思議と思った。すると、包帯に巻かれた自分の足は空中に吊られているのを見て、はじめて頭に巻いた物は包帯だったことに気付いた。
ここは病院だ。
傍に誰かがいるのに気付いたのにやや遅れた。
五十代半ばに見える夫婦二人が、何故か感極まった眼差しで私を見つめていた。あまつさえ涙を流し始めた。
若い看護師が慌てて病室を出た。
戸惑いを通り越して恐怖さえも覚えた。
誰?なんでそんな切なる視線で私を見ているの?
それから一つ疑問が浮かんできた。
私って誰だっけ?
目の前の全てに対し、どう対応すべきか分からない、ここにいる私は私であることはわかるが、私という人間の成り立ちは全く心覚えがなかった。
簡単に言うと、私は記憶喪失になった。
後で知ったが、私を見守っている人達は私の両親だった。私は彼らの一人娘だそうだ。

それは仕事を思いっきりサボりたいほど天気の良い日だった。春の暖かい日差しが冬の寒いしこりを一掃し、並木の桜が綺麗に咲き、如何にも心地良い日だった。猫と一緒にベランダで日向ぼっこするイメージを脳裏に横切り、会社へ向かう途中だった。
安く買った中古車を運転して、一時間もかかる、程良く遠い距離にある会社へ出勤の途中で、事故が起きた。
人生において大当たりを引く確率は非常に低いと同じように、死に至るほどの事故に遭う機会も滅多にないでしょう。そいう意味では、私は大当たりを引いたとも言えるでしょう。
テレビでよく出るような交通事故が、よもや自分に見舞われるとは考えもしなかった。疲労運転のトラックが柵を破り、遠慮なく反対側の車道に突っ込んでそこで走っていた車に衝突した。
そのため、私は病院で寝ていた。

事故から半年というもの、私の記憶は段々戻ってきた。両親のこと、友達のこと、同僚のこと、そして今までの人生を思い出した。でも、全部思い出せたという訳ではなっかた。所々抜け穴があり、それは元々ある穴なのか、記憶喪失による何らかの障害なのかは今になって確かめようがなかった。 
記憶が戻ったことに、嬉しい気持ちなんてなく、ただただ困惑しただけだった。それは極めて遠くて現実味の薄い物でしかなかった。今まで歩んできた自分の人生だというのに、今の自分に馴染みが一切なく、まるで他人の記憶を無理やりに脳裏に突っ込ませたようだった。目を瞑って過去の映像を思い出してみた。全ての出来事はまるで映画や小説のエピソードみたいに、自分は物語の登場人物などではなく、観客席に座ってスクリーンを眺めている観衆でしかなかった。
あまりにも馴染みのない記憶だったから、思わずこう思ってしまった--これは本当に私の記憶かしら。例え過去のディテールが思い出せても、その時何を感じ、どういう気持ちだったかはよく分からなかった。過去と今を結ぶ糸は一度切られてしまえば、再び結び直してもそれは同じような物と言えるでしょうか。過去から成り立つ私は記憶喪失の時点でなくなった。たとえ過去が思い出せても、私は前の私ではなくなった。
「変わったな」ーーとかさりげなく言われたことがあった。言葉に出なかったとしても、表情や仕草でそのような雰囲気を感じ取った。
そういった微妙な表情を見る度、訳の分からない申し訳なさに包まれた。
彼らは私の気持ちを理解するはずもなく、同情や戸惑いといった感情を隠しつつ、彼らなりの気遣いを働かせて私と接してきた。日常的に感じ取ったぎこちなさは滲み出る水滴のように、私という器の底に溜め込んでいた。それをいっぱい溜め込んだ際、自分は窒息してしまいそうな気がした。
周りのものは昔と変わらず、自分だけが遥かどこかに置き去りにされたように、同じ場所に居ても自分の胴回りの空気だけが他より一層薄い感じがした。肌の回りはシャボン玉の膜のような物に覆われ、自分の身だけ世界から隔離されたような気がしてならなかった。
自分の人生を分析してみることにした。そう、分析。「思い出す」という言葉はこの場合当て嵌らないと思った。
私はごく普通の家庭に生まれた。父は自動車会社に勤めていて、母は主婦で、子供は私ひとりしかいなかった。そのせいか、私は甘やかされて育った。思えば親と喧嘩したことは一度もなかったし、欲しい物があれば文句言わずに買ってくれた。(無理な注文はしたことないけど)
平凡な学生時代を送って、大学を出てから父と同じ会社に就職した。その間いくつ恋をしたが、やがて愛想が尽きて別れた。
友人は結構いるが、互いに秘密を交わすほどの親友はいなかった。たまに仕事終わってからバーで一緒に飲んで、知り合いの誰かの話をして、上司への愚痴を零すくらいの友人だった。
ありふれた平凡な人生、絶望するほどの挫折もあわなければ、喜びに浸るほどの幸運もなかった。
半年前までは、そうだった。
この半年というもの、私は寡黙だった。無愛想になったと言われたこともある。以前の私はいつも柔らかな微笑みを見せて、だれとでも優しく接することができたみたい。
でも私だってわざとこうしているわけではない。ただ目の前の人とどう接すればいいのかを考えているうちに、喋れなくなった。以前の私はどういう表情をしていたのか、どう感じていたのかを必死に思い出して、なのに何一つ掴むことができなくて、気が付けば、もう弁解するチャンスさえ失った。
時に自分に問い掛けたくなる、なぜ他人にそんなに気を使わなければならないの、と。でもやっぱり自分に好意を示してくれた人達をぞんざいに扱うのは気後れしてしまう。彼らの中では、私は彼らの知った私のままで、ただ事故のショックから戻るには少し時間がかかるだけだ。でも私にとって、そうではなかった。

旅に出ることにした。
会社はやめた。この半年というもの、仕事は私にとって苦痛であった。記憶の全てが余所余所しく感じて、うまく目の前の現実と噛み合わなかった。同僚の笑顔といい、仕事の内容といい、過去の模倣物でしかない。
両親は辞任することに反対したが、私に気兼ねして何も言わなかった。旅行すると告げた時、彼らはためらいこそしたが、私の意思を尊重してくれた。
そして、明確な目的地もなく、足の向くまま旅に出た。
新幹線で関東から関西へ、続いて飛行機で北海道へ、それから反対側に飛んで鹿児島へ、船で沖縄へ行った。旅の風景は変わっていく。出会ったその一つ一つ見知らぬ世界は親しく感じられた。それは記憶が与えられない感動だった。
過去に訪れた記憶がある場所も一応行ったが、目の前の景色は初めて見たような気がして、その余所余所しさは妙に好ましい。
際限なく澄み渡った青い空、青と藍が織り成す海、うねりながら長く続く山並み、自然の美しさは記憶の檻から解放してくれた。自然はただそこにあって、優しさもなく、厳しさもなく訪れた者の全てを受け入れる。
こういう淡々と全てを受け入れる態度は好きだ。私が目の前のものに受けいれられるか否かに悩む必要もないし、立ち去ることに気が咎めることもない。
旅はまだ続いている。知らず間に三ヶ月が経ったが、三日しか経っていないような気がした。からっぽだった抜け殻に何かが注いで魂の状態を変えたのかは知らないが、息している空気がようやく重みを帯びて、体に覆われいる透明な膜も消えつつある気がした。でも、この旅が終わった後、今感じたものは消え去るかもしれない。
旅が続く間、それを考えないようにした。今まで真面目に働いて、無駄遣いを控えた生活をやってきた分、半年の間旅を続けるくらいの貯金はあるから、まだ旅が続いていく。

それは静かなバーだった。
昼間のせいか、客は私ひとりしかないくらい寂しいバーだった。
カウンターに立ち、私よりいくつ年上に見える男は退屈げな眼差しで店内を見回した。地下にあるせいか、昼間でもここは夜の雰囲気をしている。まるで外の世界と切り離れているようだ。
「いらっしゃいませ」
バーテンダーは冷たいくらい淡々とした口ぶりで一言挨拶をして、それっきり何も言わなかった。注文も伺ってこなかった。
「ソルティドッグでお願いします」
注文を受けてバーテンダーは黙々と調合し始めた。その間、私は店を見渡した。広い店と言えなかった。店の中には四つのテーブルが置いてあって、両側の壁にはそれぞれ黒い革ソファが凭せ掛っていて、カウンターの前には一列丸椅子が並べてあって、隅にはいくつの元気なさそうな鉢植えが置いてある。抑揚のあるジャズが耳に流れ込んで、緩やかな気分に誘われた。目を閉じてその場の空気に浸ってみたら、海の向こうに黒い肌の奏者が感情に富んで演奏しているイメージが脳内に浮かんできた。
グラスがカウンターに置かれた音を聞いて、視線はそちらに向けた。目の前にあるのは調合されたソルティドッグだった。
「ここのマスターですか」
私はその男に声をかけた。
男は静かに頷いた。
「いいお店ですね」
「そうか」
男は無愛想に答えた。
「旅行?」
「えっ?」
思い掛けない問いかけにわしたは一瞬反応できなくなった。頑丈かつ高い城で人を外側に隔てるように、彼は徹底とした沈黙の匂いを漂わせていたが、彼に話しかけられことは予想外だった。
「ええ…そうです」
私は慌てて取り繕った。そしてしばらく沈黙に陥った。
両手はグラスに触って、見るともなしに氷が溶けている様子を見ていた。
「静かなところですね。夜になると、もっと賑やかになりますか」
マスターは首を振った。
「こんな寂しい店、賑わい好きのやつは来ないさ」
「そうですか」
マスターには悪いが、ほっとした私であった。
「ここは好き?」
私は頷いた。記憶喪失になってから寡黙になって、自分を困らせることが多いが、静寂は嫌いではなかった。
その前の自分はずっと色んな音が入り混じっている世界に生きてきた。飛行機の音、車の音、テレビの音、人々の音…生まれてからそういう世界の中に生きてきて、違和感を感じたこともなかった。あの事故を経て、生きるコツは記憶と一緒に消えてしまった。戻ったのは記憶だけだったせいで、以前当たり前に感じていた全ての物が全て遠くなったような気がした。
何時間もそこに居座って、暇潰しに持っていた文庫本を読み終わって、じっと空気を見てぼうっとしていた。その間、マスターは小皿に載せたピーナッツを私の前に置いて、おまけだと言ったきり、私と一緒に黙々と静寂とした空気を見つめていた。
腕時計を見て時刻を確認した。夜八時。外の世界は光明から暗闇に移ったが、ここはそういった影響を受けず、来た時と同じだった。ここは光と闇の狭間のように、何もかも光に晒すこともなければ、完全に闇に飲み込まれることもない。
一時間くらい経って、いくつか客がやってきた。カウンターで注文した後、隅のソファーに座って、まるで最初からそこにいたように極自然に店の空気に溶け込んだ。
マスターの言う通りに、客が訪れる時も賑わなかった。ここにくる皆はお得意さんで、暗黙の了解とういうものがあるかもしれない。昼間のように静かだったが、マスターが言ってた「寂しいところ」とは思わなかった。
閉店するまでそこにいた。夜十二時、ほかのバーに比べれば少々早いが、他の店員もいないそうで、昼間から働いてきたミスターには休むべき時刻なのでしょう。
「結構気に入っているようだね」
閉店の時間を告げられて残念な表情を見せた私に、マスターは微笑みかけてくれた。
その問に私は頷いた。
「ここに居ると、何故か安らぎを感じました。個人的な意見でしかないですが、何気なく私のような余所者をも受け入れた気がした。そしてここにくる人達も意識の外に留まってくれた。互いに関与しないが、どこか不思議に繋がっているような気がしました。私はそういうのが好きです」
「そうか。そんな大層な言葉は初めて聞いた。そう思ったことがなかった。旅人である君こす感じれることかもしれないな」
「そうですか」
目を閉じて、最後の静寂に浸っていた。
「では失礼しました」
軽くお辞儀をして、店を後にした。

次の日もあのバーに行った。
午後に次の旅先に出発する予定だが、あそこが気に入って、もう少し滞在しようと決めた。
そして今日も昼間から閉店までそこにいた。
暇潰しの文庫本は昨日読み終わったし、本屋から買ってきた本も夕方辺りで読み終わった。それから何も言わずに丸椅子に座って、目をつぶってジャズに浸ったり、他の客の表情の細かい変化を観察したりした。すること自体はつまらなかったが、なぜかその場の独特の空気が、退屈に思えたことも苦にならず時間を忘れさせた。そうやってのんびりと過ごした。
店は相変らずあまり人気がなく、マスターも相変わらず寡黙であった。
夜十二時、私とマスターしかない残っていないそのとき、マスターは突然話かけてくれた。
「昨日の日記で面白い旅人に出会ったと書いていた。あれは君のことだね」
あんまりにも突然で返答に一瞬遅れたが、一応「はい」と返事した。
「俺はさ、記憶障害があってね、記憶は一日しか保たない。次の日は昨日のことをきれいさっぱり忘れてしまうんだ」
「えっ?」
突拍子もないことで、冗談じゃないかと考えてしまった。でも、マスターの穏やかな顔には偽りの欠片さえ見付からなかった。そして、驚きと戸惑いを見せた私に構わず、話を続けた。
「二十代後半の頃、事故にあって、脳がひどいダメージを受けた。それから一日の記憶しか保たないようになった。もちろん、前の人生は覚えていたんだが、事故の後に過ごしてきた毎日はブラックボードの文字が消されたように昨日の出来事を忘れてしまう。この十数年というものは空白だった。それで、自分の生活に支障が出ないよう、大事なことは日記に書いておいた。そうしたら忘れても、するべきことは抜けないだろ?で、昨日の日記は珍しくそれ以外のものが出てきた」
「そうですか…」
どう返答しようかが分からなくて、何を言うべきかを考えていて、また沈黙に陥ってしまった。
それを見抜いたように、マスターは優しい笑顔で自分の話を続けた。
「事故の後、俺の人生大きく変わった。友達といい、身内といい、以前のように自然に付き合うことができなくなった。彼らは努めて何もないように俺と接したつもりだったが、なんとなく同情を感じた。俺の抱えたものは誰も理解できないし、反応に困る表情もあまり好きじゃなかった。だから俺は離れることにした。若い頃にバーテンダーをやった経験があるおかげで、こうして自分ひとりでバーをなんとかやってきた」
「正直、こういう偶然は幸いだと思っていた。こうしてここに立ったり、お客さんの注文した物作ったりして、余計なことは気にしなくて済む。記憶障害の俺には、とてもありがたいことだ。君の言う通り、お客さんと関わるのを避けてきた。俺はこの世のどこかで一人で静かなに暮らしたい。お客さんは外の世界と切り離れた、一時的な安らぎの場所を求めてここへ来た。お互いに同じ空間にいて、静寂を求める同士だったから、誰も積極的に他人と関わろうとしない。そういうものは店の雰囲気を作っていると思う」
「じゃどうして私に話したんですか」
「同じ空気を感じたから。君は俺と似ていると思ってね。何かを失って、元の世界に戻らないってヤツ。だからこその旅だろ?でも強いて言えば、自分の抱えた秘密を誰かに話したい時があってね、旅人である君なら、俺のことを知っていても、どこか知らないところに持って行って、やがて忘れるだろう。そして俺は今日を過ごして君のことを忘れる。悪くない話だろ?」
「それはそうですね」
お返しとして、私は自分の話をした。
どうせ後で忘れることだし、こっちも彼のことを旅の風景の一つにするから、魂の欠けた者同士が語り合うのも悪くないでしょう。
話が終わった後、二人は長く沈黙した。
店には相変わらず静寂に満ちていた。心を落ち着かせる静寂。外の世界が喧騒に満ちていても、眠りに落ちていても、ここの静寂とは無関係だ。私と彼だけが分かち合える静寂だった。
そして、漫然な旅はも終わったような気がして、私は新たな旅に踏み出した。
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