短編小説その壱:日向岬

文字数 2,724文字

その場所の名は日向岬である。
ユニコーンの角のように海を突き刺し、ちょうど太陽の目覚める場所に向いてるから日向岬と名付けられた。
その地は観光に来る人が少なく、日向岬を知っているのは地元の人だげだった。森の奥にいたから、わざわざそこまで足を運ぶ人はほとんどいないそうだ。寂しく感じなくもないが、日の出を一人で眺めることを考えると悪くないと思った。
その地に到着した翌日の朝、俺は夜明け前に日向岬に向かった。太陽が海の上に登るのをじっくり堪能しようと思っていた。
ゆっくり歩いているうちに、空はだんだん明るくなり、少し焦っていた。思わず早足になった。海の上をゆっくり登ってゆく朝日のシーンを想像して、ドキドキした。しかし、着いて見たら、岬の果てに人影があることに気付いて、少し落胆させられた。
一人で朝日を眺める楽予定が、そこに居座っていた人が台無しにしてくれた。
ぼうっと立ち尽くしているうちに、瞬きする度に空は明るくなってゆく。水平線に朝日の息はすでに溢れ出していた。最高の瞬間を逃がすわけにはいかないので、急いで前へ参った。
「おはよう」
崖の上に座っている女に挨拶をしながら隣にかけた。
その人は数秒黙って俺を見つめてから挨拶がわりに軽く頷いた。
「旅人さん?」
俺も彼女に倣って頷いて見せた。海の彼方を指差してーー
「向こうへ行くんだ」
「そうですか」
興味なさそうに彼女は素っ気なく相槌した。ほどなく水平線で朝日の一角が現した。波とともに舞い踊るように、朝日の影は沖合でゆらゆらと揺れていた。
女は側に置いてあったガラス瓶を手に取った。ポケットから便せんを持ち出して、筒型に巻いて瓶の中に押し入れた。栓をして、彼女は立ち上がって、ガラス瓶を高く持ち上げ、遠く先を目掛けて海へ投げ込んだ。
朝日は海を登りきった所だった。
「海流瓶か?」
彼女は座り直して、目線は波に揺れるガラス瓶を追っていた。
「それはわたしの希望だった」
ふっと彼女が寂しげに、しかし優しげな微笑みを見せた。
「希望?」
どこに辿り着けるか、誰かが見付けるかどうかが分からないそのガラス瓶の中に、どんな希望が詰まっていたんだろう。俺には想像できない。
「毎日海の向こうへ向けて投げ出して、いつか彼方にたどり着くように、といつも祈っているの」
「誰かさんへの手紙なのか?」
「ううん」
女は首を横に振った。
「あなたは何のために向こうへ?」
「希望を探すためにさ」
こいつは偶然だ。お互い「希望」という単語を言い出した。希望がどこにでもあり、気軽に言い出せるような物ではないかと勘違いしまいそうになった。
「海の向こうでか。見付けたらいいね」
「海流瓶、届いたらいいね」
「ありがとう」
女ははにかむように笑ったが、その笑顔に影があった。

また翌日、彼女はやはり日向岬で日の出を待っていた。
崖の上に立っていた彼女の手の中に封筒が握られていた。
「今日は海流瓶を投げないか?」
「うん。今日は最後になるの」
やや低めな声で返事した彼女はどこか元気がないように見えた。
朝日は海の上に昇ってきた。
女は手を伸ばし、握っていたはずの封筒をそっと手放した。封筒は風に運ばれて海の方へ飛んでていった。
白い封筒の表に、切手も貼っていなければ、宛先も書かれていなかった。真っ白な封筒だった。
「それは?」
「向こうからの、わたしの希望でした」
「あなたの希望は向こうにあったのか?」
彼女は軽く頷いた。
「でも、もう終わったことだ」
悲しそうな表情で彼女は言った。
「向こうへ行ってみてはどうだ?毎日ここから船が出立することを見てきたんじゃないか?チャンスはいくらでもあるはずだ」
「この世はままならないことがたくさんあるよ。そんな自由、私にないのだ」
「どれくらいの自由を得ようとすれば、それ相応の対価を支払わなければならない。自分を縛っている物はいつも自分だ。その辺は己の意思次第じゃないの?」
「そうかもしれない。でも誰しもその対価を支払う勇気があるわけじゃないの。だから言い訳をして逃げ続けるの」
「希望を抱きながら?」
「ええ。彼方に届かなくても、あれがそこにさえいれば、明日は続けられる。希望を抱いて祈っていくの」
「でも今はまさに終わりにしようとしているじゃないか?」
彼女はため息をついた。
「もう疲れたかもしれない」
彼女の疲れた顔を見て、複雑な気持ちが心の中に渦巻いていた。
「今日は出発するんだ、海の向こうへ」
「そう?良い旅を」
「ありがとう」
……
「本当に諦めるのか?」
しばらくして、黙って俯いていた彼女はポケットから一通の手紙を取り出した。
「これを彼方に送ってもらえるのかしら?」
俺はその手紙を受け取って、頷いた。
彼女の目線は海へ移り、何かを考えていてる様子であった。
「今まであそこに数え切れない手紙を出した。でもそこにたどり着けるのを一度たりとも信じたことはなっかた。それでも、わたしはずっと祈っていた。すごく矛盾してるんしょ?あなたに渡した手紙は最後になるの。今度はきっと願いが叶えるでしょう。そうしたらわたしも安心できるでしょう」
「必ず向こうまで届けるさ」
「ありがとう」
彼女は微笑んでくれた。まるで願いは既に叶ったような、今まで一番朗らかな笑顔だった。そして彼女ここから立ち去った。
朝日はもう昇りきっていた。それは出発のサインでもあった。

一週間をかけて海を渡した。旅路はとても穏やかだった。旅に慣れている俺には別れの名残もなければ未知への不安もなっかた。
あるのは知らぬ土地に立って、他所と微妙に違った感じの空気を吸って、こっから先の旅にワクワクする気持ちだった。
踏み出そうとしているところ、ふっと彼女に託された手紙を思い出した。
封筒には相変わらず宛先や切手もなく、中身を取り出してみた。その中身はやはり何も書いていなかった便せんだった。
俺は思わず海の彼方へ振り向いた。
今まで出した手紙、もらった手紙も多分これと同じだろう。
数えきれない早い朝、彼女はそこからここを眺めて、たどり着けるようにと祈り続けてきた。たどり着けたとしても、彼女が得るものは何一つないというのに、それは無事たどり着けると確信した瞬間、彼女は救われたように思えた。
何も手に入れていなかったのに。
なぜだろう。俺には理解しがたい。
手紙を燃やした。この地に着く瞬間、あれの使命は終わった。残された灰は風に乗せられて海へ飛んでいった。波とともに海の彼方に帰るかもしれないが、主のところへ帰るのは決してありえないだろう。
毎日日向岬の上で朝日に向かって祈る女はもういないだろう。
海の彼方への思いを振り払って、俺は未知に満ちる世界へ向かって踏み出した。
彼女はもう祈らない。
でも俺の希望はこの先にある。
だから旅は続く。
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