第8話 綾女-8
文字数 1,756文字
やはり朝はバタバタしてて、話なんかする余裕はなかった。寝坊したらしい里見 は、青い顔をして挨拶もそこそこに飛び出していった。
残業して帰ってくると、もう里見も荷物もなかった。彼の使っていた鍵は、郵便受けの中に入っていた。
部屋の中が静まり返っているのが嫌で、テレビをつけた。着替えをして、昨夜の残りのカレーを温める。部屋中にカレーの匂いが漂い、テレビからは芸人の笑い声が響く。
あー、独りだなあ、と実感した。ほんの3日前と同じ状態なのに、やけに部屋が広い。
「……独りだから、なにさ」
18歳のあの日から、ずっと独りで暮らしてきたんだ。この性格だと、たぶん、当分独りのままだろう。気楽でいい。
スマホが鳴った。里見から「引っ越し完了!」のLINEがきた。適当に「お疲れ!」の猫のスタンプを送った。「3日間お世話になりました。今度お礼します」と返信がきたので、「楽しみにしています」の猫のスタンプを返した。
「今度」ってのは、社交辞令の常套句だとわかっている。期待なんてしないって思いつつ、この微かな繋がりをうれしいと感じてしまう自分は、佐伯 さんを会社で偶然見かけるのを喜んでいた頃となにも変わってないんだと思った。
翌朝、インターホンが立て続けに鳴らされる音で目が覚めた。時計を見ると、まだ朝の4時半。その間も、まだインターホンは鳴り続いている。マンションのエントランスからではない。ドアの前に人がいる。他の住人と一緒に入ってきたのか? オートロック仕事しろ。
「誰?」
寝起きの不機嫌な声で言うと、相手は一瞬怯んだように沈黙した。やがて、切羽詰った女の声がした。
『桜子 』
乱暴にチェーンロックをはずし、ドアを開けたとたん、桜子が飛び込んできた。
「里見は?」
人をたたき起こしておいて挨拶もない。桜子の目は、一心にリーガルの靴を探している。ムカつくけど、桜子だから仕方ない。あくびを噛み殺しながら、答えてやる。
「いないよ。新居決まって、昨日出てった」
「どこへ?」
「知らない」
それで帰るだろうと思っていたが、桜子は帰らなかった。玄関で突っ立ったまま、なにか考え込んでいる。
五月も末とはいえ、明け方は寒い。私はパジャマの上から、両腕をさすった。
「とりあえず入ってよ。茶でも淹れるから」
「綾女 」
私の言葉を無視して、桜子は言い出した。
「あたしをここに住ませて」
あまりにも唐突な申し出で、一瞬「あ、これは夢だな」って思ってしまった。
「家のこと、なんでもするから。パパが海外赴任することになっちゃったの。家族全員でシンガポールに行くって。あたし、日本を離れたくない。里見のそばにいたいの。おねがい、綾女、あたしをここにおいて」
早口でしゃべる桜子に、頭がくらくらしてきた。やはりこれは夢に違いない。目を覚ますには、熱いお茶を一杯飲まなければいけない。
無理やり桜子を居間に引っ張り入れ、熱いダージリンを淹れる。その間も桜子は、うわ言のように繰り返していた。
「あたし、里見のそばにいたいよ。里見のいないところなんて、絶対やだ」
そして、とうとう泣き出してしまった。
なんなんだろう。この嵐みたいな子どもは。
昨夜はなかなか寝付かれなかった。明け方近くなって、やっとうとうとしたと思ったら、桜子の来襲だ。頭の中に霧がかかっているような気がする。
「……高校生なんだから、下宿とか寮とか学生会館とか入るってことにすればよくない?」
「うちの高校、寮無いし。それにパパがあたしを連れて行く気満々で」
桜子はまたグスグスと泣く。先日ここに来たときは大人っぽく見えたのに、年相応、いや実年齢より子供っぽい。
「んー、でも、なんでここ?」
「パパが、家族は一緒に暮らすのが1番だって。綾女だって、一応血のつながった家族でしょ。ここならパパも反対できないよ」
「一応、ねー……」
桜子は、うちの家族解散のことを知らないんだろうか。てか、桜子自身、私のことを家族だなんて思っていないだろうに。
カーテンの隙間から、朝日が射しこんできている。今日も仕事なのに、嫌になる。
「とりあえず、お父さんとは話してみるから。あんたは家に帰って、ちゃんと学校に行きな。愛しの先生に会えるのは、今は学校だけなんだから」
そう言うと、桜子は意外にも素直にコクンと頷いた。
残業して帰ってくると、もう里見も荷物もなかった。彼の使っていた鍵は、郵便受けの中に入っていた。
部屋の中が静まり返っているのが嫌で、テレビをつけた。着替えをして、昨夜の残りのカレーを温める。部屋中にカレーの匂いが漂い、テレビからは芸人の笑い声が響く。
あー、独りだなあ、と実感した。ほんの3日前と同じ状態なのに、やけに部屋が広い。
「……独りだから、なにさ」
18歳のあの日から、ずっと独りで暮らしてきたんだ。この性格だと、たぶん、当分独りのままだろう。気楽でいい。
スマホが鳴った。里見から「引っ越し完了!」のLINEがきた。適当に「お疲れ!」の猫のスタンプを送った。「3日間お世話になりました。今度お礼します」と返信がきたので、「楽しみにしています」の猫のスタンプを返した。
「今度」ってのは、社交辞令の常套句だとわかっている。期待なんてしないって思いつつ、この微かな繋がりをうれしいと感じてしまう自分は、
翌朝、インターホンが立て続けに鳴らされる音で目が覚めた。時計を見ると、まだ朝の4時半。その間も、まだインターホンは鳴り続いている。マンションのエントランスからではない。ドアの前に人がいる。他の住人と一緒に入ってきたのか? オートロック仕事しろ。
「誰?」
寝起きの不機嫌な声で言うと、相手は一瞬怯んだように沈黙した。やがて、切羽詰った女の声がした。
『
乱暴にチェーンロックをはずし、ドアを開けたとたん、桜子が飛び込んできた。
「里見は?」
人をたたき起こしておいて挨拶もない。桜子の目は、一心にリーガルの靴を探している。ムカつくけど、桜子だから仕方ない。あくびを噛み殺しながら、答えてやる。
「いないよ。新居決まって、昨日出てった」
「どこへ?」
「知らない」
それで帰るだろうと思っていたが、桜子は帰らなかった。玄関で突っ立ったまま、なにか考え込んでいる。
五月も末とはいえ、明け方は寒い。私はパジャマの上から、両腕をさすった。
「とりあえず入ってよ。茶でも淹れるから」
「
私の言葉を無視して、桜子は言い出した。
「あたしをここに住ませて」
あまりにも唐突な申し出で、一瞬「あ、これは夢だな」って思ってしまった。
「家のこと、なんでもするから。パパが海外赴任することになっちゃったの。家族全員でシンガポールに行くって。あたし、日本を離れたくない。里見のそばにいたいの。おねがい、綾女、あたしをここにおいて」
早口でしゃべる桜子に、頭がくらくらしてきた。やはりこれは夢に違いない。目を覚ますには、熱いお茶を一杯飲まなければいけない。
無理やり桜子を居間に引っ張り入れ、熱いダージリンを淹れる。その間も桜子は、うわ言のように繰り返していた。
「あたし、里見のそばにいたいよ。里見のいないところなんて、絶対やだ」
そして、とうとう泣き出してしまった。
なんなんだろう。この嵐みたいな子どもは。
昨夜はなかなか寝付かれなかった。明け方近くなって、やっとうとうとしたと思ったら、桜子の来襲だ。頭の中に霧がかかっているような気がする。
「……高校生なんだから、下宿とか寮とか学生会館とか入るってことにすればよくない?」
「うちの高校、寮無いし。それにパパがあたしを連れて行く気満々で」
桜子はまたグスグスと泣く。先日ここに来たときは大人っぽく見えたのに、年相応、いや実年齢より子供っぽい。
「んー、でも、なんでここ?」
「パパが、家族は一緒に暮らすのが1番だって。綾女だって、一応血のつながった家族でしょ。ここならパパも反対できないよ」
「一応、ねー……」
桜子は、うちの家族解散のことを知らないんだろうか。てか、桜子自身、私のことを家族だなんて思っていないだろうに。
カーテンの隙間から、朝日が射しこんできている。今日も仕事なのに、嫌になる。
「とりあえず、お父さんとは話してみるから。あんたは家に帰って、ちゃんと学校に行きな。愛しの先生に会えるのは、今は学校だけなんだから」
そう言うと、桜子は意外にも素直にコクンと頷いた。