第21話

文字数 9,219文字

 ~2005年7月21日~
 「海に行きたい♡」という丘佐紀さんからの要望を受けて、僕は今日、バイトが休みなのをいいことに、彼女が勤めている市役所にまでやって来ていた。
海に行くための前段階として、水着を買いに行きたいとのことで、仕事が終わったその足で一緒に買いに行くために僕ははるばるやって来ていた。

 18時前の市役所の庁舎前にて待っている僕にとって、この場所は過去に訪れたことのある場所だ。
もっともこの場合の過去とは、別の時間軸においての過去のことであって、今いる時間軸では初めてやって来たことになるのだが。
僕にとっては因縁深い場所でもある庁舎の外観を眺めながら、僕は背中が痛むような錯覚を覚えていた。
かつて丘佐紀さんに付きまとっていたストーカー野郎撲滅のために訪れ、別の時間軸では彼女との接触を阻止したり、返り討ちにあって殺されかけた場所でもあるからだろうか。
ストーカー野郎に刺されたことのある背中が、鮮明にあの時味わった痛みを記憶と共に呼び起こして、ずきずきと神経を刺激して痛んできているみたいだった。
幸いにも僕の命を賭した繰り返しによる妨害の甲斐あって、あのストーカー野郎が丘佐紀さんと出会うことはなく、今いる時間軸は滞りなく流れていた。
 「奔瑚君~!!」
暗い過去を思い出しかけていた僕に向けて、入り口から出て来た丘佐紀さんが手を振って近付いて来た。
僕も手を振り返し存在を主張して、ここに待ち合わせはかなった。
「お疲れ。」
「待たせちゃった?」
「ううん、今来たとこ。」
恋人同士の待ち合わせにおける模範的なやり取りをして、恋人未満の僕たちは歩き始めていった。

 ~2005年8月20日~
 僕たちの地元近郊では、そこそこ有名な海水浴場へと僕は丘佐紀さんと一緒に来ていた。
結構前に海に行こうと約束を交わしてはいたけれど、お互いのスケジュールの都合がなかなか合わずに、お盆も終わったこの日までずれ込んでしまっていた。
 世間ではもうじき夏休みも終わる、海水浴の季節にも別れを告げる期限が間近に迫っているとはいえ、なかなかどうして波打ち際や砂浜は、まだまだ人の姿で溢れていた。

 僕は服の下に着用していた短パンタイプの海パン姿になると、パラソルを借りてせっせと設営に励んでいた。
照り付けてくる陽光は午前中だというのに大変に厳しいものがあり、瞬く間に僕の肌は焼かれてしまいそうだった。
 慣れない手つきだったがあらかたの準備を終えると、着替えを済ませた最愛の人が間もなくやって来た。
「お待たせ~!!」
その瞬間、砂浜に天使が、否、女神が降臨なされた!!
準備を任せっきりにさせてしまったことを申し訳なく思っている丘佐紀さんの姿が現出し、だがその程度の僕の費やした労力など、女神にお目にかかれるのであれば何ら問題にならない取るに足らない些事と言えよう。
控えめな丘佐紀さんにしてはかなり大胆に出た、白のビキニを見事なまでに着こなしていた。
事前に一緒に水着を買いに行っていたので、彼女が買った水着を知っていたにもかかわらず、海を背景にした丘佐紀さんのその姿は、美しすぎて言葉にならない。
「・・ど、どうかな・・・?」
恥ずかしそうに身をよじりつつ、僕に水着の感想を求めてくる丘佐紀さん。
「きれいだ・・・・、何て・・・美しいんだ・・・・・。」
はっ!?無意識に口から言葉が漏れてしまった!!
華奢でとてもスレンダーな体型なのに、出る所は結構出ているという魅惑的なギャップを目にした僕は、頭で考えるよりも先に素直な感想を吐いてしまっていた。
「うふふ、ありがとう♡」
けれど言われた丘佐紀さんには好印象だったようで、若干焦りはしたものの何よりである。
 海中も砂浜も目に付くところはどこも人で溢れていた、そのため僕たちはすぐには海に入らずにパラソルの下に陣取ったまま、しばらく海面を見つめていた。
それに正直なところ、僕は海が苦手だった。
正確には海そのものもそうだけれど、クロールしか泳げない僕にとっては、プールも含めた泳ぐ必要性を迫られる場所が全体的に苦手であり、今まで遠ざけて生きてきた。
今日海にやって来たのだって、5歳くらいの時に訪れて以来、人生で2回目にすぎなかった。
だから僕は泳がないなら泳がなくても、全然かまわないとさえ思っているほどだった。
 
 パラソルの下に腰かけて、僕たちは海に入るための準備をしていた。
とはいうものの、僕の視線は丘佐紀さんの水着姿に釘付けとなっており、意識は冷静さから離れて頭は沸騰し続けていた。
何だか近頃、大人びた落ち着いたキャラを演じることが、とても難しくなってきている気がする。
出会った頃は、同い年の男性にありがちな異性に対する前のめりながっつきを抑制して、1歩引いた位置から客観的な視線を持って、余裕のある応対を心掛けて実際に行使することが徹底できていた。
ところが、どうも映画館でデートをした際に醜態を晒してしまった辺りから、僕の予想しえない丘佐紀さんが時折見せてくる大胆な行動の影響もあってか、素の反応を示してしまうことも珍しくはなくなり、結果的に新たな1面を見せることに相成り、キャラが崩壊しかけてさえいた。
ただだからと言って、そのような僕が見せる反応が丘佐紀さんのひんしゅくを買っているのかと言えば決してそうでもなく、自分でも腑に落ちないけれど概ね好評なのだから、真に女性というのはわからないし奥深いものである。
さっきだって、水着姿を目にして取り乱してしまったというのに、僕の頭で考えてから発言する前に思わず飛び出してしまった素の感想や、童貞男子特有の慌てふためく様子にも丘佐紀さんは気に留めることもなく、むしろ飾らない僕の感想を聞けて大いに満足しているようだった。
「・・・・・・・・・。」
未だ胸の鼓動は高まり心拍数も上昇の一途の只中にいる僕だが、それでも少しずつこの場の空気にも慣れてきていたので、横目で丘佐紀さんの様子を窺っているところだった。
彼女は自分のバッグから、鼻歌混じりに日焼け防止のためのサンオイルを手に取り出しているところだった。
サンオイル、サンオイルねぇ・・・・・、何!?さ・サンオイルだとーーー!?

 「ねぇ、奔瑚君。オイル塗ってもらってもいい?」
パラソルによってできた日陰の中にいても、まぶしい笑顔は輝きを放つことを止めずに、丘佐紀さんはさも自然な会話の流れで僕にお願いしてくるのだった。
「ふぇえぇーー!?」
 夏の海、と来れば定番の「サンオイルイベント」がリアルに発動した瞬間だった。
蒸気機関車の汽笛のような奇声を発してしまった僕、動揺するなという方が無理な話だった。
何というリア充イベント、何というご褒美イベント、まさかこの僕が、彼女いない女性との交際歴無し=年齢の僕が、実際にお目にかかれるなんて!!
押し寄せてくる感動・感慨もひとしおならば、途端に身体を支配してくる緊張と酸素不足はもっと顕著だった。
あれ?酸素ってどうやったら手に入るんだったっけ・・・?
 「はい、お願いね♡」
けれど丘佐紀さんはそんな僕に待ったなし、はっけよいと言わんばかりに、オイルの入った容器を手渡そうとしてくる。
わなわなと震える鼻息の過剰排出の僕は受け取りはしたものの、どうしたらいいのか、学校では習ってこなかったぞと、自身の経験の無さを勉強不足を盛大に悔いていた。
一方サンオイルの塗布を依頼してきた丘佐紀さんは、僕の反応を楽しんでさえいて、同い年の若い女の子と言うよりは、完全なる1人の女性としての風格と色香を振りまいていた。
もはやこの場において、主導権は完全に彼女に握られていると言ってよかった。
砂の上に敷かれたシートの上に躊躇なく寝転んでから、ほとんど裸に近い白くとてもきれいな背中を見せてきて、軽く髪を持ち上げる仕草をして僕を誘ってくる。
「そんなに緊張しないで。オイル塗るだけなんだから。」
「う・・うん・・・。」
そうは言いますけどねぇ、言うは容易いんですけどねぇ!!
僕の方に向けられた横たわった彼女の後ろ姿は、ビキニという最低限な布と紐状の素材でしか守らておらず隠されてもいないのだ。
映画館でのデートの際には、初めて手を握ろうとして見事に失敗したこの僕がですよ、あろうことか丘佐紀さんの首や肩、背中などに直に触れるとは、いくらオイルを塗るための必要事項とはいえハードルは世界最高峰の標高を誇る山よりもはるかに高すぎやしませんかねぇ!!
しかし、せっかく丘佐紀さんの方から申し出てくれたのだ、ここで引いたら男が廃る。
 僕は意を決して、オイルを適量手に取ってから、恐る恐る丘佐紀さんに確認を取ってみた。
「ししし・・・失礼します・・・!!」
「はい、お願いします♡」
楽し気に答えた丘佐紀さんは、いよいよもって僕に身を委ねるかのようだった。
緊張感が尋常じゃないオイルを忍ばせた僕の手が、とりあえず比較的当たり障りのなさそうな彼女の両肩の辺りに触れた。
「んっ。」
触れた瞬間、丘佐紀さんは何とも言えない色っぽい吐息をこぼした。
「ご・・ごめん!!痛かった!?」
その反応に狼狽する僕に、彼女は優しく心配の不要を口にする。
「大丈夫、思ってたよりもちょっとオイルが冷たかっただけだから。」
「何か・・・すんません!!」
責められているわけでもないのに、謝罪の意を口にしてしまう僕は、つくづく女性に免疫のない奴だ。
続行することを望まれた僕は、次にオイルを再び手に取った時は、少しの間手の中で転がすようにして人肌に温めてから、丘佐紀さんの身体へと触れるようにしていた。
両手に全神経を集中させて、オイルを彼女の身体によく馴染ませるように、丹念にマッサージをする要領で染み込ませていく。
その間も、丘佐紀さんは時折、「んっ♡」とか「あっ♡」などの実に悩ましい声を発していたが、僕はできるだけ心を無にすることを心掛けて、オイルを塗るという使命の遂行だけに没頭していったのだった。
 両肩から徐々に南下していく手順で、丘佐紀さんの身体にオイルを塗っていた僕だったが、その箇所が胸の真裏に差し掛かったところで、新たな試練が降りかかってきた。
「ちょっと待って。」
という丘佐紀さんの言葉にいったん手を止めて作業を中断した僕に、彼女はうつぶせの体勢のまま少しだけ上体を浮かせて、胸を覆っているブラジャー(水着・ビキニの場合もそう言うのだろうか?)のホックに触れて、外してしまったではないか!!
それまでも充分に露になっていた丘佐紀さんの後ろ姿が、ホックが外されたことで腰から上の背中が完璧に晒け出された、「裸」に限りなく近い状態になってしまっている。
 いかんよ!!これはいかんよ、けしからんよ丘佐紀さん!!
僕の視覚を通してくる刺激のあまりの強さと、傷1つないただただ白く美しいむき出しで丸見えの背中は、男の本能を興奮させるにはまたとない凶器と言えよう。
「お待たせ。これで塗りやすくなったでしょう?」
「はい!!」
ええなりましたよ、塗りやすくなりましたとも!!
だけどその親切心による行為は、隠れキリシタンのための踏み絵なのか、僕の理性が存分に試されているかのようなある種の苦行とも言えよう。
はっきり言って、エロかった。
童貞の僕にはエロすぎた。
漫画の世界ならば、間違いなく大量の鼻血を噴き出しては失血死していたことだろう。
僕がオイルを塗る手は、露になった背中に滑らせてはいるが、顔だけは器用でいて不自然なまでに明後日の方向に背けて、なるべく見ないようにしながら何とか続行していったのだった。
 ホックを繋ぎとめてから、丘佐紀さんは起き上がると、いたく満足している様子だった。
「ありがとう~。何だかエステに行った時みたいに気持ち良かったよ!!」
「そそそそう、よ・・よかった~・・・・。」
息も絶え絶えにこぼした僕の言葉は、紛れもない本心だった。
未だにはっきりと両手のひらに残る丘佐紀さんの感触は生々しく、それはこれまでの人生で触れてきたものの中で最上位の感触であり、何て気持ちいいんだと頬がにやけてしまいそうになる。
と同時に、いくらオイルを塗るだけと言っても、僕が女性経験のない童貞だと言っても、危うく彼女に襲いかかりかねなかった興奮状態の最中で、最後まで理性を保ち続けられた僕は、自分で自分を褒めてあげてもいいだろう。
 「じゃあ、今度は私が塗ってあげるね♡」
何ですとー!!今日で地球が終わってしまうのかーー!?
一難去ってまた一難、あるいはご褒美去ってさらに倍と、一昔前のクイズ番組のやり取りのような、リア充イベントのバブル到来たる丘佐紀さんからの申し出が!!
勧められるままに僕もシートの上にうつぶせの体勢になると、すでに丘佐紀さんはやる気満々といったご様子で、両手にオイルを取っていた。
「じゃじゃじゃじゃあ、よろしく!!」
と、某テレビ局のヒゲのディレクターみたいにお願いした僕だったが、彼女の手が肌に触れた瞬間、すぐさま昇天しそうになってしまった。
小さな可愛らしい手で、強くもなくかと言って弱すぎもしない絶妙な力加減でオイルを塗り込んでいく丘佐紀さんの手つきに、僕の身体にはこれでもかと快感が押し寄せてきて、声を上げそうになるのをたえず堪えていた。
僕は生まれてこの方風俗とやらに行ったことはなかったが、見聞きして仕入れた情報と比較した時、現在進行形で丘佐紀さんに施されているものとサービス内容がほとんど変わらないのではないかと、邪な考えも抱いていた。
「やっぱり、奔瑚君男の子なんだねぇ~。広い背中にちゃんと筋肉が付いてる♡」
そんな僕の思考を読んでか知らずか、丘佐紀さんはより一層まじまじと僕の背中をまさぐるように触れてきては、ときめきを急上昇させてしまうようなことをおっしゃっていた。
「そ・・そうでもないと思うけどね・・・・。野球辞めてから、これと言って運動は特にしていないし・・・・。」
努めて冷静に受け答えしようとするが、僕にはとても務まりそうにないくらい気持ちが良すぎて失神寸前だったのは、口が裂けても彼女には言えない。
 そんな感じで、甘酸っぱくて身悶えせずには正気を保てない一時が流れていったのだった。

 その後も僕にとっての海水浴での初体験イベントは続いていった。
 
 相変わらず芋洗いの如き人で埋め尽くされている海中に僕たちも入っていき、本格的に泳ぐということはないものの、水着姿の僕と丘佐紀さんは海水を手にとっては、お互いに向けて掛け合った。
口の中に進入してくる海水のしょっぱさを味わいながらも、これまでに苦虫を噛み潰してきた灰色の青春時代に味わった恨めしさとは異なる、幸せを感じられる塩分濃度だった。
はしゃぐことが、あるいは場の空気感を満喫することこそが大命題なので、僕も彼女もはしゃぎながら海水をかけ合いたわむれてはいるが、もちろん本気ではなくて遠慮がちに肌に浴びた水分量とぬるさが心地良いだけで・・・・。
 ひとしきりはしゃぐとお腹も空くというもの、ランチタイムのピーク時を避けた僕たちは、満を持して海の家を訪れて昼食を取ることにした。
丘佐紀さんの水着姿で十二分に胸がいっぱいの僕は、食欲にそこまで駆り立てられてはいなかったが、彼女に合わせて焼きそばと焼きトウモロコシを揃って注文したのだった。
さらにビールが苦手な僕に気を遣っていた丘佐紀さんの様子を感じ取ったため、2人分の生ビールも注文に加えていた。
料理が運ばれてくるより先に、金色に輝く泡が気持ち多い気がするビールが注がれた中ジョッキが、僕たちの座る席へと運ばれてきた。
「乾杯しようよ!」
「うん、かんぱーい!!」
ガラスの乾いた音が席上でかすかな音色を奏でて、ジョッキを傾けては喉を通らせていった。
1/4ほど飲んでから丘佐紀さんは、僕に尋ねてくる。
「奔瑚君、ビール苦手でしょう?良かったの?」
「うん、大丈夫だよ。それに・・・・」
「それに?」
「丘佐紀さん、ビールを飲みたそうにしていたからね。」
「えぇ~ウソ、顔に出てた?」
「何となくだけどね、そんな感じがした。」
「私のこと・・・よく見てるんだね?」
「そ・そうそうかな、そうでもないと思うけど!!」
決して悪い印象は受けていない彼女は、あえていたずらっぽく聞いてきているようだ。
多分に試されている感じはするけれど、ならば僕とて応えて見せようと咳払いを1つしてから、こう言ってみた。
「仮にそうなんだとしたら、それは丘佐紀さんの魅力が、僕の目を引き付けているのかもしれないよ。」
言い終わったそばから、僕は自分自身の発言に顔面が爆発しそうな羞恥を覚えていた。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
僕の解答が予期せぬものだったのだろうか、丘佐紀さんは少し虚を突かれたようにもじもじと俯いて、僕もまた揃ってしばしの沈黙タイムへと突入していった。
 「へい、お待ち!!」
がそんな2人の間に流れ始めた沈黙は、タイミングよく店員が料理を運んできてくれたので、幸運にもすぐに破られることになった。
焼きそばと焼きトウモロコシが2つずつ並べられたテーブルを前にすると、僕たちは揃って破顔していた。
僕が割り箸を手渡して、彼女もまた笑顔で受け取った。
「とりあえず、食べようか。」
「そうだね。」
気を取り直して食事を取り始めた僕たちの、向かい側に座ってトウモロコシを頬張る丘佐紀さんの頬が、アルコールによるものではない赤みがかっていたことを、僕はこの時まだ知らなかった。

 16時を過ぎた海水浴場、次第に海水浴客たちも帰り支度を始めて人影が減っていく。
天気の良い夏の日、明るさはまだ存分に残っていたが、黄昏た気配を漂わせた夕焼けが近付いて来ている頃合いとなっていた。
僕たちはそんな中、海から少し離れた位置にある切り立つように存在する、コンクリートの階段のてっぺんに腰かけて語らっていた。
真昼の最高潮に達していた暑さに比べると、幾ばくかの涼しさを感じる風が時々吹いては、並んで座った肩を背後からすり抜けていっていた。
 「楽しい時間は・・・すぐに過ぎちゃうね・・・・。」
時間の移り変わりを肌で感じたからなのか、郷愁がこもった感慨に満ちた丘佐紀さんの言葉が、妙に意味を持ったもののように思えてならなかった。
「そうだね・・・・。僕も今日は・・・本当に楽しかったよ・・・・。」
水平線を見つめたまま、僕も噛み締めるように呟いた。
「海なんて来るの、本当に子供の頃以来だったし。」
「私も、実は結構久し振りだったんだよ。」
海面に立つ波も、僕たちの気持ちを汲んでくれたのか、穏やかに寄せては返している。
「でもさ、僕思うんだ。」
「何を?」
「確かに海で遊べて楽しかった。けれどね、きっとそれは一緒に過ごしたのが、丘佐紀さんだったからなんじゃないかって・・・・ね。」
「・・・奔瑚君・・・・・。」
僕は彼女の方に首を向けて、なおも続けた。
「どこに行こうと、何をして過ごそうと、多分それは誰と時間を共有するかで、いい思い出にも楽しい思い出にもなるんだってさ。」
「・・・・・・・・・。」
「丘佐紀さんと過ごしたから、だからこそ僕には・・・・、とても楽しくて最高の思い出になった・・・。」
そこまで言うと、僕は無性に恥ずかしくなってきて、慌てて見つめていた丘佐紀さんから目を逸らしてしまった。
今はこれが精一杯、僕の恋愛スキルはとうに限界を突破してしまっているのだから、それもまたやむなしだ。
だからこそ、これ以上多くを求められたとしても、僕は満足のいく回答を提示できる自信がなかった。
「・・・私もね・・・、奔瑚君と同じようなことを思っていたんだ・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「奔瑚君だから・・・こんなに楽しいんだなって、一緒に過ごす相手が奔瑚君だったから・・・・こんなにも心がときめくんだって・・・・。」
逸らしたはずの僕の視界に、丘佐紀さんは水面に波1つ立てることもないくらいに、自然に優しく入って来てそうこぼした。
「私ね、今までに何回か恋をしてきたことがあったけど、こんな気持ちになれたのは初めてなの。」
「うん。」
「この気持ちの正体が何なのか、私にはまだはっきりとはわからないんだけど、でも・・・でもね・・・・・」
「うん。」
思い詰めているのとはまた違うのだけれど、芯の通った凛とした強さを感じ取った僕は、決して言葉の先を急かせることはせずに、丘佐紀さんの言葉の続きを待っていた。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・奔瑚君と一緒なら、きっと素敵な答えが見つかるんじゃないかって、幸せな未来が待っているんじゃないかって、・・・・そんな風に思うんだぁ・・・・。」
 
 夕焼けの強いオレンジ色の光が辺りを照らし始め、僕と丘佐紀さんをも彩り始めている。
僕も彼女も、今現在で提示できるだけの精一杯の思いをぶつけ合っていた。
恥じらいながら視線を泳がせる丘佐紀さんは立ち上がっており、目を合わせられないけれど僕を意識している。
女の子にここまで言わせてしまっては、恋の経験の有無を言い訳にして黙っているわけにもいかない。
僕も立ち上がると、丘佐紀さんと目線を合わせるようにして、右手を差し出した。
「じゃあ一緒に行こう!!答えを見付けに、幸せを探しに!!」
勇気を出して差し出した右手はわずかに震えているが、吐き出した言葉と思いは本物だった。
丘佐紀さんはそんな僕の手を、言葉もなくしばらく動けずに見ていたが、ほんの少し目に涙を浮かべて、彼女も右手を差し出してきてくれた。
僕の野暮ったい手を、丘佐紀さんの彫刻のような繊細な手が、しっかりと握ってくれていた。
それから彼女は、とびっきりの笑顔を見せながらこう言ったのだった。
「うん、これからもよろしくね!!」

 夕刻迫る海をバックに交わした僕たちの言葉が、愛の告白だったのかは僕にはわからない。
僕の恋愛の指南役を自負している川下に言わせれば、「もっと押さんかいや!!何を生ぬるいこと言ってるんじゃ!!」と一喝されるかもしれない。
 だけど、まだ今はこれでいい。
僕はこの時間軸に戻ってきて、ゆっくりでもいいから丘佐紀さんとの愛を育んでいこうと決めたのだから。
もう後がないこともわかっている、けれども自分の足で歩んでいくさ。
世間から見れば、「友人以上恋人未満」の関係と断じられたとしてもだ。
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登場人物紹介

奔瑚雨汰・・・(ほんこ うた)。

主人公で21歳の大学生。

これまで女の子と付き合ったことがなく、恋愛に奥手の平凡な男。

丘佐紀由希・・・(おかさき ゆき)。

21歳、主人公と同い年で市役所勤務。

奔瑚の親友川下と同じ高校・少林寺拳法部に所属していた。

川下臓漢・・・(かわした ぞうかん)。

21歳の大学生。

奔瑚雨汰とは小・中学校の同級生で、野球部で共に汗を流した親友。

大沼怜美・・・(おおぬま れみ)。

21歳、川下や由希と同級生で、同じ少林寺拳法部に所属。

明朗快活な性格で、高校卒業後アパレル関係の仕事をしている。

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