第11話

文字数 16,349文字

 丘佐紀さんの葬儀を終えて斎場を後にした僕の表情は、さぞ鬼をも凌駕する恐ろしさを滲ませていたことだろう。
だが、ある意味自分のせいで丘佐紀さんを死なせてしまって折れそうになっていた心は、未送信のまま保存されていた彼女の僕に宛てた何通ものメールを目にしたことで支えを得て、使命感を帯びて蘇っていた。

 僕はまたしてもタイムリープを行使する決意を固めていた。
早くも僕の眼前に表示されたアイコンを操作して、戻るべき時間を入力していく。
ただし、今回ばかりは時間を遡ることに関して少々利用方法が異なり、あらかじめ2回分まとめてタイムリープを申し込んだ。
僕は1回につき10万円の現金か、自分の生命力を持って支払う代金を、まとめて2回分振り込むことを辞さなかった。
これはつまり、最初から1度のタイムリープですべてを変えるつもりはないことを意味する。
もちろん丘佐紀さんとの恋を成就させて幸せな未来へたどり着くという大前提は覆らないが、その目的は2回申し込んだうちの2回目に後回しすることに決めていた。
では先に体験することになる1回目のタイムリープは、いつ・どこへ向かい何をするのか。
決まっている、丘佐紀さんに凶刃を振るい死に追いやった張本人であるストーカーに復讐するのだ。
したがって、端から捨て駒的に使用するタイムリープのうちの1回分は、僕自身の完全なる私情・私怨を晴らすために利用するという、極めて個人的な感情に支配された衝動だ。
未来を変えてしまうという時の流れの禁忌に触れながら、個人的な恨みを晴らすために復讐に走るなど、神様から見れば冒涜であり愚かな過ちと断ぜられるだろう。
しかし、この復讐だけは絶対に果たさなければならないのだ。
新たな未来を切り開いていく上で踏ん切りをつけるためにも、何より愛する人を文字通り傷付けた奴を許しておけるはずがなかった。
憎きストーカー当人はこれから法の裁きを受けるだろうが、そんなことは知ったことではない。
僕が僕の手で、僕によって裁きが実行されなければならない、これだけはたとえ神様を敵に回してしまってでも、決して譲ることはできない。
 光りに包まれた僕は、過去に飛ばされていったのだった。

 ~2005年7月22日7時~
 光りから解放された僕は、自室に戻って来た。
本来ならばこの日、僕は大沼さんとショッピングに出かけることになっている。
だが僕の決意は固く、復讐を果すために戻って来たのだ。
だから大沼さんには悪いけれど、僕は適当な理由をでっちあげて約束を断った。

~2005年7月22日15時~
 たどり着いた先は、丘佐紀さんが働いている市役所の庁舎前だった。
丘佐紀さんが殺されてしまった悲劇に際して、僕が知り得た情報からこの時間・この場所にやって来た。
あの日彼女は、18時頃市役所を後にして、夕立に降られてコンビニに立ち寄った後、電車に乗って最寄り駅から自宅に向かう道中の公園近くで、ストーカーが所持していたナイフで刺殺されたという。
今回のタイムリープの目的は、この時間軸の丘佐紀さんを助けてストーカーに復讐すること、それだけだ。

 ~2005年7月22日16時過ぎ~
 僕は市役所の前で待機していた。
庁舎へ出入りしている人々の流れや、周囲の人という人へ絶えず視線を送っては、警戒を怠ることなく注視している。
 丘佐紀さんを刺殺することになるストーカー、その犯人の顔を僕は知らない。
丘佐紀さんが殺された後逃走した犯人は、僕がタイムリープを再実行するに至る段階では、まだ逮捕されていなかったからだ。
だがストーカーという性質上、必ず丘佐紀さんの周囲に息を潜めて存在していることは容易に想像できた。
そのため僕は、来庁者を中心に出入りのある庁舎の正面入り口と、市役所勤務の関係者たちが利用する関係者入り口、加えてそれらの周辺で長時間居座っている不審者の存在まで確認できるように、道路を挟んだ少し離れた位置にそびえる木々に背を預けるように待機していた。
 今日は金曜日であるからか、市役所を利用する人の数が多い気がする。
土・日を控えているためか、駆け込みでの利用も多いのだろう。
その事実はターゲットを突き止めなければならない僕にとっては不都合な不運とも言えて、人々の姿を絶えず追いかけている自分自身の目にかかる疲労度は半端ではなかった。
老若男女を問わず、悲喜こもごもの人生模様を背負っている人々が行き交っている。
人間は必ず、心の中に何かしらの負の感情を多かれ少なかれ秘めているもの、そしてそれは自身を取り巻く環境や境遇の変化によって引き金を引いてしまうことで、暴発し爆発する危険性と隣り合わせのいわば諸刃の剣だ。
普段は温厚な善人だって、きっかけ1つで悪鬼と化してしまうことだって充分にあり得る。
復讐の鬼と化してしまっている今の僕自身が、何よりもその考えを体現している。
それもあってか、視界に捉えた人々のすべてが疑わしく思えてきて、そうではないようにも思えてならなかった。
 
 夏の日の晴れ渡っていた空模様が変化を見せ始め、徐々に雲が増え始めると共にどんよりとした空気と色へと変わりつつあった。
そう、この日は夕方からゲリラ豪雨を伴った激しい夕立となるのだ。
でも僕の手は手ぶらで傘などの雨具は持参していない、雨にどれだけ打たれようが構わないから、丘佐紀さんを助けてストーカーに復讐さえ果たせればいいのだから。
 そうこうしているうちに17時を過ぎ、市役所の受付時間が終了した。
ぞろぞろと庁舎内から出て来た人々が帰路につくために去って行く。
人の姿も気配も減少の一途をたどり、あれだけ賑わっていた庁舎の敷地内は閑散とした雰囲気に成り代わっていた。
敷地の周囲には相変わらず人々が行き交っているが、注視する対象が激減したことは素直にありがたかった。
もう間もなく、業務を終えた丘佐紀さんも出て来るはずだ。
僕は2つの入り口に特に目を光らせ、彼女の姿をくれぐれも見失わないように緊張感を高めていった。

 ~2005年7月22日17時52分~
 仕事を終えた市役所の職員たちが、入り口から姿を見せ始めてきた。
徒歩で駅へと向かう者、自転車に跨ってこぎ出す者、集団で行動し駅前の飲み屋に繰り出そうとしている者、全体的に市役所の職員という仕事柄か皆公務員然としていて地味な印象を受ける。
 数分後、そんな職員たちとは明らかに異なる華やかさに彩られたまぶしい女性が姿を見せた。
間違いなく丘佐紀さん本人であり、僕の心象による補正がいくらかかっているとはいえ、遠目から見てもやはり美しさは揺らがなかった。
が、運悪くというべきか、彼女が庁舎を出た瞬間降り始めていた雨が一気にその水量と激しさを激増させてしまい、豪雨となって降りかかっていった。
慌てて折り畳み傘をさす人や周囲の建造物の中へと避難していく人々、丘佐紀さんも例外ではなく道路を渡った先にあるコンビニの店内へと逃げ込んでいった。
あぁ、この場所に戻ってきた理由が復讐でなければ、僕が傘を差しだしてあげるというのに。
わずか数メートル歩いただけでずぶ濡れになってしまった丘佐紀さんを不憫に思いながらも、僕は彼女が雨宿りのために入ったコンビニの入り口が見える位置にまで素早く移動して、シャッターが閉まっている店の軒先にて雨をやり過ごしながら見守ることにした。
 
 丘佐紀さんはコンビニの店内の雑誌コーナーでファッション誌を読んでみたり、何となく売り場を移動しては陳列された商品を時折手に取ったりして、雨が弱まるのを待っているようだ。
このあと彼女は電車に乗るために駅へと向かうのことになるのだが、市役所から駅までは少し距離があるため、一気に豪雨の中を走って移動することを断念していた。
僕は動くことなく店内の様子を監視していた。
もちろんただ愛する丘佐紀さんの挙動を見ているばかりではない、それだと僕の方こそストーカーに成り果ててしまう。
僕が目を光らせている対象は、丘佐紀さんとほぼ同じタイミングで入店してきた数人を中心に、コンビニ店舗の周囲に怪しい人物がいないかということだ。
コンビニの周囲には時々立ち止まっている人影はあるものの、その後他の店に入って行ったりして移動していく連中ばかりで、その場から動かず付きまとうような影はなかった。
となると、俄然今現在進行形で丘佐紀さんと一緒に店内にいる人間のうちの誰かがストーカーである可能性が高い。
普通に考えれば性別は男性に限定できるのだろうが、同姓を好む人だっていることも考えられるため、等しく全員の動きに目を光らせ続けていった。

 丘佐紀さんがコンビニに入ってかれこれ1時間が経とうとした頃、雨脚の方はかなり弱まってきて、少し濡れることを許容できるのならば傘をささなくとも外を歩けそうになっていた。
店内から定期的に空模様を窺っていた彼女も同じことを考えたようで、お菓子を1つ買ってそのままコンビニを後にしたのだった。
 駅へと向かって歩みを進める丘佐紀さんから適度な距離を取って、僕は追跡している。
僕にとって生まれて初めての尾行であり、何となく探偵が女性の浮気調査をしているみたいに思えなくもなかった。
だが僕の尾行の趣旨はまるで異なる、なので迷いや妥協は一切なく任務を遂行していった。
問題は・・・、丘佐紀さんとほぼ同じタイミングでコンビニを後にして、駅へと向かう人物が2人いたことだった。
先行する彼女と僕に挟まれる形で歩く2人の男性、1人は40代のサラリーマン風の中年、もう1人は白いYシャツをラフに着こなしたどこにでもいそうな20代後半の若者だった。
限りなく絞り込めつつあるストーカーの正体は、まずあの2人のうちのどちらかで間違いはないだろう。
 エスカレーターを上り改札を抜けて、たどり着いたホームまで丘佐紀さんと同じだった。
そこから少し離れた位置で尾行し、それでも万一の事態発生時にはいつでも飛び出していける位置から僕は見ているわけだが。
あのうちのどちらかが丘佐紀さんの命を奪った犯人だと思うと、緊張感の中に純然たる殺意が燃え盛る思いだった。
 花の金曜日の夜、走行していく電車内は結構な混み具合だった。
多くは仕事を終えて帰宅の途に就こうとしているサラリーマンたちで、その反面遊び盛りのイケイケな若者たちや家族連れなどで座席は簡単に埋まっており、残る大半の乗客が立ったまま押し合いへし合いしている。
そんな混雑する車内にて、復讐の殺意に燃える僕は極めて異質な存在であり、もう1人のストーカーの2人だけが場違いな狂気に満ちていることだろう。
丘佐紀さんという1人の女性を巡って、似て非なる強い感情を抱いた僕たちは、皮肉なことにある意味で同類なのかもしれない。
 電車は次々と駅に停車していき、その度に車内の乗客たちが入れ替わり少しずつ減少していっていた。
そうしてついに停車した駅で、丘佐紀さんは下車したのだった。
続けてホームに降り立つ僕は当然として、件の2名も当たり前のような顔をして降り立っている。
丘佐紀さんが改札を抜け階段を下りて駅から出ても、金魚のフンのようについていく男たち。
ここからおよそ15分の道のりの途中、丘佐紀さんの自宅までの間に事件は起きてしまう。
惨劇を起こさせてなるものか、丘佐紀さんの未来を悲劇で染め上げてはならない。

 雨はかなり小降りになりながらも、未だ降り続いてはいた。
アスファルトにしみ込んだ雨粒は許容量を超え、水たまりとなって散見している。
駅前の賑やかな場所から丘佐紀さんが進み行く方角は、住宅街へと進路を取っている。
狭い歩幅で歩きながらも、しきりに周囲を気にしているそぶりを見せている彼女の様子から、僕に電話がかかって来た日以降も、ずっと誰かに付けられているという感覚、ストーカーに悩まされていたのだということを、僕は改めて思い知った。
手には携帯電話を握りしめている丘佐紀さんの表情や仕草は、恐怖に突き落とされそうな心を懸命に振り払おうとする、はったりにも似た強がりが感じ取れて、切なくて痛々しい気持ちになってしまう。
 
 雲で覆われているため月明かりはほぼなく、等間隔に設置されている街灯の灯りだけが頼りな一角に差し掛かろうとした頃、40代の中年サラリーマン風の男が動いた。
急にそわそわしだしたかと思うと、携帯を取り出しては周囲にキョロキョロと目配せしながら、小声で通話しているようだ。
とある一軒家の前で話していると、すぐにその家のドアが開けられ体格の良い男が姿を見せて招き入れていく。
中年男性はぺこぺこと恐縮しながらも、男に向かって言葉を交わすと、大胆にも玄関先で熱い抱擁を交わし始めたのだった。
そのまま愛を囁き合うように見つめ合いながら、いちゃいちゃラブラブと家の中へと消えていった。
「・・・・・・・・・・。」
これは・・・・あれだな・・・・・、男同士のデリバリーサービス的なやつなのかな・・・・。
僕は見てはいけないものを見てしまったと思いながら、2人が愛のさざ波に飲まれてなだれ込んでいった家の前を通過していくのだった。
これからあの家の中で行われるであろう愛の営みを想像すると、悪寒が止まらないのであった。

 ともあれ、丘佐紀さんを追跡していく影が1つ消えた。
薄暗い住宅街を同じ進行方向に歩くのは、僕と彼女を除けば残すは1人のみ。
ということは消去法によって必然的にこの男が、憎きストーカーだったのだ。
白いYシャツにビンテージ加工が施されたジーンズと、今どきの若者そのものの男は一見するだけでは、ストーカー行為に走るとは想像しにくい。
だが、僕が体験した今日という日、丘佐紀さんは確かにストーカーの手によってめった刺しにされ、確かに命を奪われてしまったのだ。
先入観は捨てよう、判断を誤らせかねない。
そしてここから数分間において、その判断の遅れ・誤りは致命的な結末を迎えかねないのだから・・・。

 前を歩く丘佐紀さんも、習慣化しているストーキングの気配を感じているようで、手にしている携帯電話で通話を試みていた。
でも残念ながら、その通話が叶うことはないことを知っている。
今彼女が電話をかけている相手とは他ならぬ僕であり、過去と同じく今も僕の携帯には電源が入っていないので繋がることはないからだ。
本心では、目の前で不安と恐怖に苛まれている丘佐紀さんの負の感情を取り除けるのならば、僕は電話口に出て言葉を交わして安心させて元気づけてあげたい。
しかし、今この場に僕がやって来たのはストーカーに復讐するため。
限りなく黒に近いとはいえ、現状では目の前で彼女に付いていっているにすぎないあの男が、ストーカーであり殺人犯だという確証はまだない。
もちろん丘佐紀さんに魔の手が伸びればすぐに飛び出していける準備に抜かりはなかったが、同時にストーカーを断定する必要にも迫られているため、僕は苦渋の決断によって彼女からの着信に応じるわけにはいかなかった。
タイムリープやタイムループでは、基本的に同様の事象を再現するには、実行者は可能な限り同じ手順をなぞらなければならないお約束が、何とももどかしい。
 
 住宅街だけあって、進行方向の道は事細かく分岐した脇道へと繋がっていた。
駅前の繁華街のような煌びやかで豪奢な佇まいこそないものの、その分入り組んだ地形が展開していて、大小様々な住宅が密集した作りで構成されていた。
 そんな脇道の1つから、思わぬ障害が僕に降りかかってきた。
手押しの台車に段ボールを積み込んだ宅配業者の配達員が不意に飛び出してきて、僕とぶつかりそうになったのだ。
幸い危機一髪のところで回避したことで衝突は避けられたのだが、急ブレーキをかけたことによって配達員は大きく体勢を崩し、傾いた台車からは段ボールが崩れ落ちていった。
古代遺跡の塔が崩壊するみたいに、絶妙の配置とバランスで積み上げられていた段ボールが散乱して、アスファルト上に散らばりを見せている。
配達員はたいそう動揺した様子となり、取り乱しながら荷物と僕に向けて交互に無事を確認して平謝りするばかり。
「す・すみません!!誠に申し訳ございません!!お怪我はありませんか!?」
「いえ、別にぶつかってませんのでこちらは何とも・・・」
こんなやり取りに構っている場合ではないのだが、職務に忠実な配達員はなかなか僕を解放してはくれない。
「本当にすみません、何もかもこちらの不注意が原因でありまして!!」
「いや、本当に大丈夫だから。」
こうしている間にも、僕と丘佐紀さんたちとの距離は広がってしまう。
けれど忠実なる仕事人間なのだろうか、配達員は制服からタオルを取り出しては、僕の濡れた服を拭きながら本当にけがをさせていないのかを、念入りにというか鬱陶しいくらいに凝視していてたまったものではない。
そんなことしていないで、さっさと散らかった段ボールを拾いなさいよ!!
 一向に荷物に手を付ける気配が感じられない配達員にひどく苛立った僕は、振りほどいて代わりに台車へと積み込んでしまいたいのだが、すがる配達員によって自由が利かない。
配達員からしたら誠意を込めた道徳的行為なのだろうが、僕はこれまで生きてきて他人の好意に対してこんなに苛立ったことはなかった。
見失ってしまうだろうが、このダボ!!
と罵ることができたならどれだけ気が楽なことか、ともかく僕の苛立ちのボルテージは上がり続けるったらなかった。
ひとしきり満足したらしい配達員は僕に向けて指さし確認をしてから、ようやく散乱している荷物を積み込みにかかった。
10個にも満たない数の段ボールとはいえ、弱く降り続く雨に晒しておくことは忍びなく、僕は今すぐ駆け出したい衝動に後ろ髪を引かれてしまい、結局手伝う羽目になってしまった。
「何とご親切な・・・・!!ありがとうございます!!」
「いいから!!拝んでないで手を動かせーー!!」

 まずい、非常にまずい。
配達員とのトラブルに巻き込まれてしまった僕は、大幅なタイムロスを強いられ、丘佐紀さんたちの姿を見失ってしまった。
「はぁはぁはぁはぁ・・・・・・・」
1つ1つの道は道幅もそれほど広くもない規模のものだが、とにかく無数に分岐して入り組んでいるのが厄介だった。
こんなことならここに来る前に、正確な丘佐紀さんの自宅の位置と通勤コースを頭に叩き込んでおくんだった。
事件現場となってしまう公園付近を目指しつつ走り続けているものの、肝心の公園の位置がわからなくなってきており、焦る気持ちが拍車をかけて自分の現在位置を迷子にしてしまう。
それほど遠い場所のはずはない、なのに選択した脇道を追いかけてもたどり着けない。
落ち着け、過去と同じ時間の流れなら、まだ数分間の時間的余裕は残されているはずだ。
 だがこのまま闇雲に走っていてはバッドエンドの再来だ。
僕は1度立ち止まり、神経を研ぎ澄ますように瞳を閉じて心を落ち着かせてみる。
「・・・・・けて・・・・・」
聞こえた、聞こえた気がする丘佐紀さんの呼ぶ声が。
僕のその確信には科学的根拠も証明できるだけの理論も何もない、そんなことはどうだっていい。
もしも彼女が助けを求めているのなら、彼女の声が聞こえたのなら、それだけで僕が信じて行動するには充分だった。
僕は再び動かした脚に全力を込めて、声が聞こえてきた方向へと急いでいった。
次第に聞こえてくる声は大きくなっている気がして、幻聴だと笑いたければ笑えばいい。
そして曲がり入った細い道の先の遠くの方に公園が見えてきた、間違いないあそこだ!!

 息を切っては視界が霞みぶっ倒れてしまいそうになるが、ここで動かずしていつ動くのかと右手で心臓付近を押さえながら走り続けた。
公園はもうすぐそこ、犯行現場は目と鼻の先となっていた。
血を吐いて倒れそうな僕が迫ると、視界の先に丘佐紀さんに跨るように押さえつけているあの男の姿を捉えた。
野郎、やっぱりあいつがストーカーであり、丘佐紀さんを殺した憎んでも許せない殺人犯だったんだ!!
ストーカーであることが確定したことで、これ以上丘佐紀さんに悲しく辛い思いをさせる必要はなくなった。
 狂気に狂った男が丘佐紀さんに向け振り上げたナイフがきらめいた次の瞬間、振り下ろされる凶刃の切っ先が飛び込んでいった僕の左腕へと突き刺さっていた。
上腕二頭筋に果物ナイフを突き刺された僕は、とっさに取った行動の代償としての痛苦を味わい、顔が歪んでしまう。
「・・・ぐっ・・・・!!」
唇からは堪え切れなかった呻きが漏れ、痛覚の増幅と共に鮮血が滴ってきた。
くぅ~・・・・・、痛い、やっぱり刺されるのって痛いもんなんだなぁ・・・。
でもこれでいい、丘佐紀さんの命が僕の行動で守られたのなら、腕の1本や2本なんて惜しくもない。
突如出現したイレギュラーな存在によって、歪み狂った愛の凶行を果せなかったストーカーは事態を把握できないのか固まっていた。
その混乱に乗じた僕は、丘佐紀さんに馬乗りになっているストーカーを払いのけて、これ以上の身体の接触を断固阻止したのだった。
 自分の身体にかかっていた重さと束縛感から急に解放された丘佐紀さんが、きゅっと死を覚悟して閉じていた瞳をゆっくりと開いていく。
数秒前に降りかかってきた状況から想像していた、ナイフで刺されてしまう痛みがまだ襲ってこないことへの疑問と、急に自由が利くようになった解放感の不明なる正体への確認衝動が徐々に芽生えてきて、光を取り戻した瞼に映るものを追い求めた先には・・・・。
「奔瑚・・・君・・・・?」
あり得るはずがない、信じられない人物の姿を捉えた瞬間、感情が決壊したように丘佐紀さんは涙を流し始めて止まることはなかった。
「大丈夫?」
僕が見下ろすような形で安否を尋ねると、まだ信じられないと言った様子で途切れ途切れに、きれいな唇から彼女は言葉を漏らしてきた。
「・・う・・・うん・・・・。でも・・・で・・も・・・、何で・・・・?何で・・・奔瑚君が・・・ここに・・・・・?」
「・・・君を・・・助けるためさ・・・・。」
ここだけを見れば、ヒロインの危機に助けに駆け付けた特撮ヒーローのようだが。
「・・・私を・・・・?」
「うん。僕は君を守るために、今ここにいるのさ。」
確かにその言葉には一切の偽りはなく、心からの本心なのは間違いなかった。
「奔瑚君!!」
丘佐紀さんは僕の答えを受けて、瞳に希望の光を取り戻しながら僕の名を呼んでくれていた。
うん、それだけでいい、それだけで。
僕は押し倒されていた彼女の身体に手をかけて、丁重に気遣いながら身を起こしていった。
やっとのことで上体を起こすことができた丘佐紀さんには、本来の平衡感覚も次第に戻って行き、絶体絶命だった窮地からの生還を果たすことができた。
呼吸も落ち着いてきて、ボロボロになっていた自分の身なりを意識する余裕が生まれ始めたことに、僕の安堵感も増していく。
「奔瑚君、その腕・・・・・!?」
するとようやくここで、僕の左腕に刺さったままのナイフに気付いた丘佐紀さんがそれを指さしながら、驚きに目を丸くしながら心配してくれた。
「あぁ・・・これね・・・・。」
僕は少しでも彼女にかかる不安を減らすために、努めて明るい表情を作りながら、一気に刺さっていたナイフを引き抜いてみせた。
相応の痛みと、結構な量の血液が噴き出しているが、僕は痛がるそぶりを見せずに左腕を動かして、平気なんだということをアピールした。
はっきり言って大いなるやせ我慢だった、刺された瞬間と同等以上の痛みをナイフを引き抜く際には感じたし、勢い良く流れ出ている血液を見ると貧血を起こして倒れそうになってくる。
「・・・大丈夫・・・大丈夫・・・・。」
僕は自分自身に暗示をかけて言い聞かせる意味も込めて、彼女に笑顔を作って応えるのだった。
「でも!!」
「いいから・・・、大丈夫だから・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
心配してくれる丘佐紀さんの気持ちはうれしいのだが、ここは彼女の身の安全を確保することが最優先だ。
「ここは僕が何とかするから・・・・、丘佐紀さんはとにかく逃げて・・・。」
優しく諭すように、けれど確かな覚悟を宿した瞳で見据えながら彼女にそう告げる。
「でも・・・でも・・・血もいっぱい出てるし・・・・・、早く治療をしないと・・・・!!」
そう言って食い下がろうとする丘佐紀さんに向けて、僕は首を左右に振りながら、今も傍らでこちらの様子を窺っているストーカーを指し示して言った。
「僕が・・・僕がすべての方を付けるから・・・・、丘佐紀さんは早く、早く安全な所へ・・・!!」
「・・・・・・・・・。」
僕とストーカーに交互に視線を送った丘佐紀さんは、なおも何かを言いたげな様子は崩さないけれど、確かに彼女へ向けたメッセージは受け取ってくれたようであった。
「本当に・・・大丈夫なの・・・・?」
「うん。だから丘佐紀さんは一刻も早く安全な場所に避難して。」
僕の妨害に遭い、凶行を中断されたストーカーは及び腰で離れた位置から状況を見つめているが、完全に戦意を欲望を喪失したとは言い切れなかった。
ストーカーから変わらぬ狂気の視線が、熱く向けられていることを感じ取った彼女の横顔がひきつっていた。
この場において女性である自分は足手まといになってしまうと悟ってくれたのか、丘佐紀さんは重くなっていた腰を上げた。
けれどその去り際に、路上に投げ捨てられていた自身の鞄を拾い上げ、その中から純白のハンカチを取り出した。
「・・・丘佐紀さん・・・・」
「今の私には何もしてあげられないけど・・・、せめてこれを使って・・・。」
と絞り出すような声で言うと、僕の左腕の傷口にそっとハンカチをあてがってくれて、「・・・私のせいで・・・・ごめんね・・・・」と謝ってくれた。
あぁ・・・この子は・・・・・、ほんの数分前まで自分が殺されるところだったというのに、身代わりに刺された僕を慈しみ気遣ってくれるというのか・・・・。
本当なら今すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたい恐怖心に襲われているのに、それでも僕のことを思ってくれている・・・・・。
「・・・ありがとう・・・・。」
僕は丘佐紀さんに向けて飛び切りの空元気でもって、極上のスマイルを見せていた。
「・・・・気を付けて・・・・」
そう答えた丘佐紀さんは、残った力を振り絞って僕の目の前から駆けて行った。
小さくなっていく後ろ姿を見送りながら、僕が時の流れの法則を無視してでも愛した女性は、本当に心が美しく、己の過ちさえも間違いではなかったんだと、改めて強く強く再確認していた。
 
 さて、この時間この場所にやって来た目的の1つは無事に果たされた。
残る問題は、目の前で身構えているこのストーカー野郎だけだ。
唯一の武器であったナイフを失って恐怖を隠せないでいるストーカー野郎に、僕は笑みをたたえながらじりじりと歩み寄り距離を詰めていったのだった。
お互いの息がかかる距離まで近付いた僕はストーカー野郎のシャツの首元をがっしりと掴み、静かな怒りを帯びた口調でこう告げた。
「ちょっと・・・付き合ってくれるかい?」
「・・・・・・・・・!?」

 勢いに任せてあの場でストーカー野郎にとどめを刺しても良かったのだが、人目を避けるために僕は強引に連行していき、公園内の周囲から死角となる物陰に移動していた。
殺す前に、こいつにはいくつか聞いておかなければならないことがあったからだ。
あれだけ丘佐紀さんに対して、力の限りの暴力に訴えていたストーカー野郎だったが、あくまでそれはか弱い女性に対しての話であって、男性同士、ごくごく平均的な運動能力の僕にさえ、簡単に窮してしまう非力な男だった。
100メートルばかり無理やり連れて来られたことで、ストーカー野郎も力では敵わないと感じたのだろう、僕に見下ろされる形で正座をさせられている。
蛇に睨まれた蛙、弱肉強食の力関係が成立したことで、ストーカー野郎は不服そうにはしているが、今のところおとなしくなってはいた。
「・・・き・・・・聞きたいことって・・・・何だよ・・・・!?」
裏返った声で聴いてくるストーカー野郎、それだけで僕の間隔を逆なでしてひどく不快になってくる。
「お前はどこの誰なんだ?」
低くドスの効いた声で質問を開始した。
「・・・・・・・・・。」
だが、ストーカー野郎は答えようとはしない。
素直に応じるなどとは端から考えていなかった僕は、先ほどストーカー野郎が使用していたナイフを手にして、あえて大袈裟な仕草を交えて男の恐怖心を煽ろうとしてみる。
ナイフの刃先を十二分に視界に映らせてから、ストーカー野郎の頬に当てていく。
「お前・・・この場においてだんまりが通用するとでも思っているのか・・・・?」
「ひっ!!」
刃物特有の刃先の冷たさを肌で感じたストーカー野郎は、情けなく悲鳴をくぐもらせていた。
「いいか、1度だけ言うからよく覚えておけよ。」
「・・・・・・・・・。」
「丘佐紀さんに手を出したからには、俺はお前を殺すことに何の躊躇いもないんだよ。何ならお前の体中を1ヶ所ずつ、順番に刺していって証明してやろうか?」
我ながら物騒なことを口走っているなと思いつつも、僕の発言はいたって本気だ。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
キョロキョロと視線を泳がせて逃げ出せないものかとこざかしく考えを巡らせているストーカー野郎を、真っすぐな殺意を内包した鋭い視線で僕は射貫いていった。
「で、お前の名前は?」
「・・・・匿名希望・・・・・」
それを聞き終えた直後、瞬時に僕はストーカー野郎の右肩から腕に向かってナイフを振り下ろして切りつけてやった。
「ぐ、ああぁぁぁぁーーーーー!!」
ストーカー野郎は、まさか本当に切られるとは思っていなかったのか、切りつけられた現実とのギャップに激しく反応して痛がっている。
「話聞いてなかったぁ~?切るぞ!!適当なこと抜かすと、どんどん刺すぞ!!」
「ひひいいぃぃぃぃぃ・・・・・!!」
傷は大したことはないだろう、聞きたいことを聞き出すまでは話せる状態でいてもらわないと困る。
「地無・・・地無頭羽雄(じむ ずぱお)です・・・!!」
怯えながらようやく本名を名乗った、ストーカー野郎。
「地無・・・頭羽雄・・・・・・」
名前なんてものは人物を識別するための単なる記号にすぎない、僕はさらに知りたかった情報を入手すべく、核心へと迫る質問を重ねていった。
「お前、何で丘佐紀さんを付け狙う?あぁん!?」
「付け狙うだなんて・・・心外です・・・・。僕と彼女は付き合っているんですから・・・!!」
「はあぁ!?」
「僕はただ、どんな時も彼女と一緒にいて、彼女のことを思いながらお互いの愛を育んでいただけなんですから!!」
真顔でいけしゃあしゃあと、そのようなことを言いやがるストーカー野郎。
「だけどな・・・、丘佐紀さんはお前のことなんて知らないんだぞ?」
「そんなはずはありません!!僕は彼女と運命的に出会いました、そしてその日から、僕は彼女に愛を捧げなかった瞬間はありません!!」
「いつ、どこで、どのように出会ったっていうんだ?」
「・・・言いたくありません・・・・。第一人の恋路を詮索するなんて・・・無粋の極みですね・・・。」
こいつ・・・、この期に及んで僕に黙秘権が通用するとまだ思っているのか。
ストーカー行為を働いておきながら、自身の行いを恋と断言できるこいつの言い分にひどくイラっときたこともあり、僕はナイフでストーカー野郎の左腕に「X」を刻むように切り付けてやった。
「ひうっ!!あああぁぁぁぁ・・・痛い・・・痛い・・・」
「・・・もう1度聞くぞ、本当のことを言うまで何度だって切り刻むぞ!!」
「ひぃひぃひぃ・・・・い・言います、言いますから・・・・!!」
勘違い野郎にはとことん自分の置かれている立場というものを、身体に言い聞かせるという僕の殺気と迫力に押されていくストーカー野郎。
「あれは・・・4月7日・・・・僕が用事で市役所を訪ねた時です・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
僕はストーカー野郎から1ミリも目を逸らすことなく、殺意の圧力を伴った視線で射貫き続けて真相を吐かせようとしていた。
「窓口の近くで順番が来るのを待っていました・・・・。それから・・・・窓口で自分の番号を呼ばれて・・・・僕は立ち上がり向かいました・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「ところが・・・持っていた大量の書類を床に落としてしまって・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「慌てた僕は急いで拾い集めようとしたところに・・・・彼女が舞い降りたんです・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・書類を拾うのを手伝ってくれた彼女は・・・・お礼を言った僕に向けて笑顔を浮かべてくれたんです!!」
丘佐紀さんからしたら職員でもあるわけだし、ごく当たり前に取った親切心からくる行動にすぎなかったのだろうが、なるほど、こいつはその笑顔に参ってしまったというわけか・・・。
人が恋に落ちる動機やきっかけなんて、第3者から見れば本当に些細なものにすぎないのかもしれない。
丘佐紀さんのあの控えめだけど可憐な花が咲き誇ったように錯覚してしまう、美しい笑顔に魅せられて惹かれたとしても不思議ではない。
丘佐紀さんを愛している僕からしても、その点だけは同意できなくもない。
だが、続けて口にしたストーカー野郎の発言が、こいつの異常性を如実に物語っていた。
「・・・・10時46分・・・・・」
「はっ?」
「・・・彼女が僕に笑顔を向けてくれた時刻・・・・、すなわち・・・僕と彼女が運命の出会いをした時刻・・・・・。」
口にしながら思い出し笑いをするように、不敵に不気味な笑みを浮かべ始めるのだった。
こいつ・・・日付だけでなく・・・・時刻まで鮮明に記憶してやがるのか・・・・。
ストーカーが一概にそうだとは言い切れないかもしれないけれど、ロックオンした相手に対する固執や執着心は相当なものだと肌で感じていた。
「・・・それで・・・彼女を付け狙うようになったのか?」
「だから!付け狙ってなんて、・・・僕はただ・・・次の日から市役所に通い続けるようになって・・・・、間もなく一緒に通勤するようになったり・・・彼女の自宅近くから見守ってみたり・・・・どこへ行くにも一緒に出掛けるようになっただけで・・・・・」
世間はそれをストーカーだと言うのだよ、このくそ野郎が!!
予想していた通り、こいつにとって自身が取った1つ1つの行動には何ら疑問を感じておらず、丘佐紀さんを思う歪んだ感情にも罪の意識は微塵も存在していないようだった。
こいつの語り口と視野がどこか定まっていない目を見てみれば明白であり、自分は一般的な恋愛をしていると思い込み、当たり前のことをしていただけという感覚なのだろう。
僕は頭が痛くなってきて、こめかみを思わず押さえてしまっていた。
「本当だな、ウソじゃないだろうな?」
そう最終確認をした僕は、返事が返ってくる前にストーカー野郎の両脚の太ももを立て続けにナイフで突き刺していった。
「あああぁぁぁぁぁーーーー!!いたあぁっぁぁぁぁぁーーーーー!!」
悲痛な叫びを上げるストーカー野郎だが、慈悲をかける必要性が僕にはない。
「はぁはぁはぁはぁ・・・ほ・・本当ですよ・・・・!!本当ですから・・・・・!!」
全身にすでにいくつもの裂傷を負ったストーカー野郎が、涙目で己の信憑性を訴えてくる。
そりゃあ痛かろう、さぞかしい痛いことだろうさ。
ナイフを抜かれた際に噴き出した血飛沫の後に、熱く赤黒い血液が大量に流れ出していた。
その脈動に呼応するかのように、先ほどこいつに刺された僕の傷口もズキズキと痛んできた。
丘佐紀さんが去り際に渡してくれたハンカチを結び付けて、とりあえずの応急処置は施しているものの、傷は塞がっていないし純白さは瞬く間に真っ赤に染まり切っていた。
でも僕の感じる痛みなどどうでもいい、さらにストーカー野郎が感じている痛みなどもっとどうでもいいことだ。
丘佐紀さんがこの数ヶ月間感じ続けていた恐怖心や、生死を分けたつい先ほどの危機に際して受けた絶望的な感覚を思えば、こいつの痛みも恐怖もこの程度では済まされていいはずもなく、生温いことこの上ない。
 それでも一通り聞きたかったことは聞くことができた。
僕の中で謎だったストーカー野郎の正体も、丘佐紀さんと出会ったいきさつなど疑問は晴れたことが収穫だった。
これで僕がこの時間・この場所に戻って来た目的は達成することができた。
ストーカー野郎の後始末だけを残して・・・・・。

 僕からの質問も途絶え、草むらに横たわったストーカー野郎はすっかり戦意喪失気味に、大の字に横たわっていた。
両腕と両脚に僕によってナイフで切り付けられた激しい痛みと、精神的なショックから口数はめっきりと減りおとなしくしている。
尋問も終わり、こいつはやっと僕から身柄が解放されるのだと思っていることだろう。
 だが、そうはいかないのだ。
この時間軸においては、僕は鬼になることを決意している。
したがって生贄となり始末されることが、このストーカー野郎を待ち受ける運命なのだ。
僕は夜空を見上げ、ごく微量な雨粒を顔面で受け止めてから、これから初めて人を殺すために精神統一をしていた。
もっと荒ぶって冷静さを失うかと思っていたのだが、予想に反して心は穏やかなのが少し意外だった。
ストーカー野郎の血糊がべっとりと付着しているナイフの刃を、自分のシャツで拭って鈍りかけた切れ味を取り戻してみせる。
 1歩1歩草を踏みしめ歩み寄り、横たわったストーカー野郎を軽蔑の笑みで見やってから、怨念に満ちた目で心臓を見据えて狙いは定めた。
そこから先の動作は一瞬だった。
僕は全体重をかけてストーカー野郎の上に跨り、完全に身動きを封じた。
それは僕を絶望に突き落とした過去の時間軸で、こいつが丘佐紀さんに凶刃を振るった際と寸分違わずに。
まさかまだ自分に危害が及ぶとは思っていなかったストーカー野郎は目をひん剥いて、頭部から上半身を起こして何とか逃れようとあがくが、そんなことを許すはずがなかった。
僕は大袈裟なくらいに天空高くナイフを握った両腕を掲げて、刃をキラリと輝かせてから一気にストーカー野郎の心臓目掛けて、振り下ろしていったのだった。
「ぎゃあああっぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!!!」
ナイフが心臓に刺さる瞬間、ストーカー野郎は住宅街に轟く断末魔を上げたが、すぐに息絶え即死した。
心臓にナイフを突き刺したまま、両手を離した僕はゆっくりと立ち上がり、一言つぶやいた。
「あばよ。」
 
 遺体も凶器も回収することなく放置したまま、僕は堂々とした足取りで行く。
この時間軸の丘佐紀さんは、あわや命を失いかけたところを僕に助けられた。
きっと彼女は僕のことを救世主か、あるいはヒーローのように思っているかもしれない。
もしもそうだとしたら、それはずいぶんと買い被りだよ丘佐紀さん。
確かに彼女の命を助けた危機を救ったかもしれない、だけどその裏には極めて個人的な動機が存在していたんだから。
「ストーカーへの復讐」
どうしてもストーカー野郎を生かしてはおけなかった、法律によって裁かれるのではなく、僕のこの手で裁き葬りたかった。
それを果たし終えた今、この時間軸では間もなく警察が駆けつけてきて、いずれ僕を殺人犯として逮捕することになるのだろう。
だから決して、僕はヒーローなんかじゃないんだよ・・・・・。
鬼、いや自己満足の復讐を果しただけの悪鬼以外の何者でもないのだから・・・・・。
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登場人物紹介

奔瑚雨汰・・・(ほんこ うた)。

主人公で21歳の大学生。

これまで女の子と付き合ったことがなく、恋愛に奥手の平凡な男。

丘佐紀由希・・・(おかさき ゆき)。

21歳、主人公と同い年で市役所勤務。

奔瑚の親友川下と同じ高校・少林寺拳法部に所属していた。

川下臓漢・・・(かわした ぞうかん)。

21歳の大学生。

奔瑚雨汰とは小・中学校の同級生で、野球部で共に汗を流した親友。

大沼怜美・・・(おおぬま れみ)。

21歳、川下や由希と同級生で、同じ少林寺拳法部に所属。

明朗快活な性格で、高校卒業後アパレル関係の仕事をしている。

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