耳の中に湖が

文字数 2,292文字

 五月雨の雨だれの、囁き合う響きを聴いていたら、妙な胸騒ぎに襲われた。嫌な予感がすれば案の定、雨滴が耳の穴へダイレクトに侵入している。またか、と溜息をつく。そう、内耳に雨水が溜まり、湖になっているのである。眼瞼の裏側にまで図々しくも湖が広がり、目を開けても閉じても湖の自己主張が甚だしく、何も手につかないばかりか、GW明けからは片頭痛にさえ悩まされている。花粉症が軽症化するのに反比例してこの忌まわしい症状が近年目立つようになってきたものの、面倒臭いので放置していたところ今年はいよいよ耐えられなくなってきた。恐る恐るGoogle検索してみる。「耳 湖」と打ったところで、食い気味に検索候補が多数表示され、ややたじろぐ。気を落ち着けて、リストトップにあった「耳 湖出現 超頭痛い」を選択した。大多数が同様の悩みを抱えていているのだ、と安堵する。日本人特有の国民病らしい。どうやら最近は専用外来が賑わっているようだが、まずは自己解決を図ろうと、暇を持て余した素人たちが質問と回答を披露しあうサイトを閲覧する。そこで提示されている改善策がてんでばらばらでムカついた。最も酷いのは「湖の栓を抜いて空にすれば楽になります」という回答だ。バラエティ番組の実験ではあるまいし、そもそも栓がどこにあるのか分からない。また、仮に栓を探り当てたとして、湖水をどこに放水しろというのか。訪れたことはないけれど、今年の私の内耳の湖はヴィクトリア湖くらいと目測しており、浴室で応急処置を施した場合、賃貸のバスタブが一瞬で溢れ返ってしまう。そればかりか、私の住んでいる東京都杉並区全体が浸水、いやヴィクトリア湖だから23区をひっくるめて水浸しになっても余りあるのでは?とカタストロフィを想像して空恐ろしくなってきたため次の回答へ目を走らせる。「元彼を湖でひと泳ぎさせれば徐々に軽減されていきます。お大事に」とある。説明不足にも程がある。疑問が噴出してきて苛々する。なぜにピンポイントで元彼指名なのだ。歴代の彼氏なら誰でもいいのだろうか。ひと泳ぎって、どのくらいなのか。まさか広大なヴィクトリア湖の縁を一巡させる必要まではないかもしれないけれど、危険生物や寄生虫が棲息していそうで、ひと泳ぎだけで致命的な気がする。また、今彼では効果がないのか薄いのか、仮にそうだとして理由を説明してくれって話だが、男性の恋人がいた人限定の治療法であることがユニークだ。労りの文末で結びつつ、やたら排他的なところは評価したい。
 早速に前々彼へSOSを送ろうとして(前彼は駄目だ。数年前の関西出張のとき、梅田ジャンクションで迷子になり、私に「脱出口を探れ」とインポッシブルなミッションを出してきたが、さっぱり分からず途方に暮れていたところそのまま消息が途絶え、音信不通になってしまったからだ。冷静に考えると体のいい別れの口実だったのかもしれないし、未だ梅田阪急あたりを彷徨っているのかもしれない。そういえば付き合っている間中、常に自作自演が鼻につく男であった)舌打ちしてしまった。元々彼はあろうことか金槌である。ヴィクトリア湖に放流しようものならたちまち溺れて肉食魚の餌になってしまう。無駄に命を犠牲にして、寝覚めの悪いところへ以ってなお、私の頭痛は解消しない。元彼という存在は往々にして、苦い想い出ばかりを置き土産に、いざというときは役立たずの存在だと痛感する。
 暗澹たる心持ちになったところで思い出したのだが、湖と言えば昨年、縁結び祈願にと箱根三社参りをした際、芦ノ湖を九頭竜神社本宮へと向かう船で渡っていたところ、黒一点、恋愛関連には無縁そうなおじさんが同船していた。乗船直後から船が転覆しそうなほど激しい貧乏ゆすりをしていて癪に障っていたが、湖の中心あたりに差し掛かったところで俄かに立ち上がり、女たちの顔をびし、びしと指差して
「おまえは行き遅れる」
「神頼みされたって迷惑千万」
「あんたは将来孤独死」
と甚だ失礼なハラスメント発言を放っていき、ついに私の番になって何を言われるかはっと身構えたのだが、私の面を直視した途端にあわ、あわと挙動不審となり(最初からだが)、そのまま湖面へ飛び込むと、恐ろしい速度で水底へ泳ぎ去っていった。船内は騒然となり、「私、訴えます!」と決起する女もいて、すわ集団訴訟かとの気配が張り詰めたが、湖を背景にした鳥居のSNS映え画像を撮影するのに皆躍起となっているうち、そんな緊張は雲散霧消していた。ひょっとしたらおじさんは、神社発祥の謂れともなっている、芦ノ湖に住む龍神だったのかもしれない。煩悩と妄念まみれの女たちの熱気は凄まじいから、神様もいよいよ閉口してしまい、遣いである龍神に諫止を要請したのか。だとしたら、私の顔を見て狼狽えた理由が怖い。龍神さえも怯える私の背後には一体何が憑いているというのか。「結婚できない」「孤独死濃厚」以上に恐ろしい予兆がこの世にあるのか。もしかしたら内耳に形成された湖と関係があり、ヴィクトリア湖だと踏んだ私の憶測は見当違いで、本当は芦ノ湖なのかもしれず、おじさん(龍神の化身)が湖底で嫌がらせに貧乏ゆすりをしているから頭が痛いのかも、とうんざりしていたら日付が変わり、6月1日になったところで嘘のように水が引いた。釈然としない気もするが、とりあえず、よかった。そういえば6月の異称は水無月だからか、とひとり合点したのも束の間、これから到来する長雨の時期を想うと、暦のネーミングに急に違和感を覚えだして、由来には諸説あるものの、やはりモヤモヤは収まらないでいる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み