目潰し効かぬ闇夜には

文字数 2,802文字

 帰宅途中のだらだら坂に不審者がいた。いや、結局のところ、私の勘違いであったことが判明したのだが、ついに死者と遭遇してしまったかと肝を冷やした。これだから夜道は侮れない。職場の女たちは皆、街灯の乏しい道を歩く夜の背後に男性がいたら、脇に避けて道を譲るか、自然小走りになると言っているが、私にしてみれば痴漢やストーカーの類は恐れるに足らない。というのも母校の女子高では護身術が必修カリキュラムに組み込まれていて、私はそこで目潰し師範代のお免状を頂戴しているから、そんな輩は瞬殺、なのである。それよりも、男女問わず「息をしていない人」が余程怖い。伝家の宝刀”目潰し”が効かないばかりか、奴らは神出鬼没で、無念の死に直接因果関係のある対象者のみに禍をもたらすなら一向構わないのだが、無辜の市民を無差別に脅かすあたりは最早手に負えない。「幽霊よりも生きている人間が恐ろしい」とはよく言われるけれど、あれは嘘である。「生きている人間が恐ろしい」のは、人間への盲目的かつ無垢な性善説礼賛から脱却できていない証左であり、この世には残虐非道な冷血漢も存在するという絶対的事実を受容できぬ己の弱さの裏返しなのだ。自分と同じ温かい血が流れているから、という前提は甘えであり、幻想にすぎないと早くから悟っていた私は、見ぬもの清しではいけないと、10代後半から凶悪殺人事件の公判記録を貪るように読み、ひたすら鍛錬に励んだ。具体的な事件名は自粛するが、裁判官が「鬼畜の所業」「日本犯罪史上稀にみる凶悪事件」と唾棄するレベルになると、被告による犯行供述個所はとりわけ凄まじく、多感な季節の精神に与えるダメージは大きくて、危うく慢性的な人間不信および鬱に陥ってしまうところであった。そこで私はこう発想の転換を図った。私には必殺仕事人に推挙されてもおかしくない技「目潰し」があるし、なんならスタンガンや銃を与えられれば、相手を気絶させられるうえ、息の根を止めることだって可能だ。何故なら、相手は生きているから。ところが霊はどうだ。既に死んでいるので無敵である。どう考えたって幽霊がより恐ろしい。霊感には鈍感な私のことで、幸いにも未だ遭遇したはないのだが、いつ開眼するか、見てしまうかと思えば気が気でなく、とにかく怖ろしいったらない。
 ちなみに本日の不審者は、20代前半くらいの女性で、泥酔したところへもってスマホを見ながら歩いていたものだから、ユラユラと千鳥足になり、その奇妙な動作が私をして「ひょっとしたら息をしていない人では?」と錯覚させたのである。夜道にて、前後を歩く人がいたら私はまず、その人から生命が感じられるか否か息を潜めて感知しようと努める。今夜のように少しでも異変が感じられたらもう堪らないので、かといってその場から逃散したら追いかけてきそうで怖ろしく、涙目になりながら次のように尋ねるのである。
「畏れ入ります、生きていますか?」と。
 至極当然の確認事項である。今夜も震える声で生存確認を試みたら、当初は、は?と怪訝な顔をされ、再度問うたところ「なにこの人超やばい」と逆に怖がられ、脱兎のごとく走り去っていく後姿を目で追いかけつつ、ああ生きている人でよかったと安堵したのである。いつだったか、パーカーのフードを被った男性が音もなく私を追い越した瞬間があり、月光が絶妙な角度でその人を照射し陰影を作ったせいで、目の端で捉えたところ足がなかった。私は絶叫し「あなた足ないです!生きていますか!?」と取り乱したのだが、イヤフォンを装着していた男性は私の狼狽ぶりに気付かないので矢も楯もたまらず、追いかけコードを引き抜いてまで生存確認したこともある。いつの日か私の「生きていますか?」の切実な問いに、「いや死んでるよ」とか「私のことが見えるの」などと返されたらどうしよう、正気を保っていられるだろうか、と怖ろしくて堪らない。やはり生きている人間が断然ましだ。
 ところで、梶井基次郎に「闇の絵巻」という、短編小説とも随筆ともとれる怪しく不思議な余韻をもたらす作品があるのだが(個人的には「檸檬」や「櫻の樹の下には」よりこちらが傑作とみている)、ここで基次郎が記す闇への畏怖や情緒は、煌煌とした明かりが闇を駆逐する夜に慣れ切って久しい現代人にとって、およそ理解しがたいものがあろう。内容はなんてことはない、静養先の電燈疎らな街道を歩いていると、その頼りない薄明りが返って闇の存在を強調せしめ、さらにそれがあらぬ妄念を呼び起こすも戦々恐々歩みを進めつつ、暗闇に触れては過る感慨のあれこれその起伏をつらつらと書いてあるだけなのだが、山の中腹にある無人駅を日々通学に利用していた田舎育ちの私にしてみれば、墨を摺り流したような闇に畏れを抱く感覚は馴染みの深いもので、積み上げられた書籍の上に檸檬を置く心情は理解しがたくとも、この作品の基次郎にはやたら親近感を覚えた。小雨そぼ降る宵などはとりわけ闇が勢いを得たように感じられて、街灯の下に辿り着くたび次の街灯までの遠さを測って溜息をつき、あわいに沈殿する闇に人間まがいが潜伏していたらどうしようと己の妄想に嫌気がさしていると、隣には決まって基次郎がいた。闇に対する恐怖をかこちあいつつ、互いを叱咤激励しながら麓の集落へと帰路を急いだものだ。ところがある夜、のちに役場の手違いだったことが判明するのだが、最終列車で無人駅に到着してみると、麓までの街灯が全て消灯してしまっていた。新月だったのか月明りは頼みにならず、駅舎より先はまったき闇である。普段はもっと街灯を増やしてくれればいいのにと不満を持っていたが、たとえ僅かでも明かりがあることの有難みをこのときほど痛感したことはない。完全なる闇のためいくら経っても目が慣れず、震える声で隣の基次郎に話しかけてみた。すると彼は「あこりゃ堪らん」と言うなり私を放って退散したのである。覚悟を以って闇の只中へ身を投じてしまえばやがて爽やかな安息を得られると書いた人間が、この体たらくである。唖然としたもののこのまま無人の駅舎で夜を明かすわけにもいかず、視界が利かない闇の中を手探りで突き進み、山肌に群生する銭苔の湿り気を含んだ感触にひやっと肝を潰し、鳥か獣か正体の分からぬ不気味な啼き声に脅かされては、その発生源が頭上にあるのか谷底にあるのか最早位置関係すら把握できず、寿命が縮む思いを繰り返しながら、通常なら15分ほどの距離を半刻かけほうほうの体で帰宅したのである。基次郎はその後、後ろめたさのせいか暫く姿を見せなかったところ、ある日「いや過日は勘弁」とひょっこり戻ってきたのだが、ほとぼりが冷めるまで私は無視を決め込んでやった。今度同様の状況に陥ることがあるならば、着物の裾をむんずと掴んで離さず、一蓮托生、まったき闇に二人して相対するつもりである。
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