善光寺平生業控 (二)戸隠参り

文字数 16,658文字

                             NOZARASI 9-2
 善光寺平生業控 (二)
   戸隠詣で

 善光寺平の春は遅い。
 弥生もやがて終わりろうかと云うのに朝起きるのが辛い。要が、今朝も布団の温かさを諦めきれず、目が覚めてもしばらく丸くなっていると、台所から御御御付けのいい匂いがして、「要様、起きていらっしゃいますか」と、香澄の声がしてくる。
 仕方なく起き出して井戸端へ出、外の冷たい空気に触れると、思わずブルブルと身体を震わす。それはそれで気分が悪くは無いのではあるが……。

 香澄が朝餉の膳を片付け終わると、
「要様、今日は?」と訊く。
「今日は、江戸の絹問屋、伊勢屋さんを追分までお送りする打ち合わせをしなければなりません。昼前には文蔵親分の店へ出掛けます、『こふじ』で御蕎麦を戴きますから、お昼は要りませんよ」
「お由姉さんによろしく伝えてくださいね」
「はい」
「江戸からの用心棒のお方が、急な病で寝込んでしまったと仰しゃってらした、あのお仕事が決まったのですね」
 香澄の声がどことなく嬉しそうである、恐らく内証が少し苦しくなってきているのであろう。
「多分そうだと思います」
「病の御方はどうだったのですか」
「大したことにはならなかったようなのですが、まだ本当に快復とはいえず、長旅は無理ではないか、まだ寒いし、暫く近くの湯治場ででも養生し、暖かくなってから江戸に戻られるよう医者に言いつけれたられたらしいですよ」
「要様もお気を付け下さいね」
「ありがとう」
 母が微笑みながら、黙って二人の話を聞いている。少し煩かった母が、香澄が来てからは、要に何か小言のようなものを言うことは全くと言っていいほど無くなった。
 母と香澄の謀に上手く乗せられ、香澄がこの苫屋に押し掛けて来て以来、母は話し相手が出来たのが嬉しいらしく、これまでよりもずいぶんと若々しく元気になってきていた。ふたりで話をしているときは、まるで本当の母と娘のようで、明るい声が家中に響き、少し五月蠅いくらいである。
 要はそれが嫌いではなかった。母の元気な声を聞いていると心が安まってゆくし、母を思う香澄の優しさも感じられ、嬉しかった。

「滝村様、お気をつけなさいませ、碓氷峠辺りは何やら物騒な話ですよ」
 文蔵が、真顔で言う。
「えっ、親分、追分までではないのですか。それから先は駕籠になるから、私は要らぬと」
「いえね、小諸、佐久と、続いて押し込みがございやした。佐久で捕り方に追われ、バラバラに山中へ逃げ込んだようで、内山峠から碓氷峠辺りは厳重な警戒とか。旅人を襲って、手形やなんか取り上げ、本人に成り済まして関所を抜けようとしたとか何とか、もっぱらの話で、伊勢屋さんに連絡致しましたら、心もとないから、賑やかになる高崎辺りまでお願いできないかと」
 町廻りの宍倉の手下、文蔵が持って来てくれた仕事である。
「上田、追分、碓氷峠を越えて松井田。高崎までゆっくり四日。帰りは滝村様の足なら三日。帰りの路銀は別払い、七日で二両。何か事がありましたら、事に応じて上乗せして戴けると」
「七日で二両ですか。助かるなぁ」
「冬の間は仕事の依頼が少のうございますからね」
 今日家を出るとき、香澄に、
「もう大分少ないのでしょ」と、内証の具合を訊くと、
「大丈夫です。まだまだ何とかなります、この香澄にお任せ下さい」と、笑って胸を張っていたが、もうそろそろ蓄えも底を突く頃であろう。これが母なれば、「要さん、お仕事頑張ってくださいね、そろそろ、御櫃の底も見えてくるでしょうから」とか何とか言われるのが落ちなのであったが、香澄は何時でも、「この香澄にお任せ下さい」と笑って胸を張るのであった。
「これは前金の一両です。残りは高崎に着いてからと云う事ですが、宜しゅうございますか。出立は明後日朝だそうです。宿の方にあっしも顔を出しますので、お引き合わせはその時に」
「分かりました。ありがとうございます」

「高崎まででございますか。まだ寒いのでしょうね、碓氷峠辺りは」
「ああ、山の春はここ善光寺平よりもさらに遅いですからね」
「お身体、気を付けてくださいね」
「ありがとう。母上を頼みます」
「はい、かしこまりました」
「御心配なく。要さんがいなくとも、香澄さんさえいれば少しも寂しくはありませぬ故、安んじてお仕事にお勤め下さい」
 母が香澄と目を合わせて微笑んだ。
 
 伊勢屋の人柄も好く、碓氷峠の関所は、殊の外厳しく詮議されてはいたが、その旅は何事もなく終わった。

 春蝉の声が少し五月蠅くなる頃、文蔵の手下が使いに来て、善光寺門前から少し外れた文蔵の店に出向くと、
「この間の伊勢屋さんから飛脚が来ましてね、月が明けたら、また善光寺まで来るので、戸隠までお付き合いお願いできないかとのことですが」
「戸隠ですか」
「はい。何でも今度は是が非にも戸隠山顕光寺にお参りしなければならないと」
「是が非にでもお参りしなければならないのですか」
「はい。そのように書かれてありますが」
「お店に何か忌事でもあったのでしょうか」
「戸隠山でなければならぬ、厄払いかなんかと云う事ですか」
「はい。でなければ、江戸からわざわざ戸隠山と云うことはあり得ないんじゃ」
「今年は寅年。式年大祭の年は去年ですよね」
「うーん、その辺りの詳しい事は。まっ、兎に角、伊勢屋さんにお会いになられてから詳しい事はお聞きしてください」
「承知致しました」

「戸隠山に行かれるのですか」
「はい、多分」
「商売繁盛なら中院ね。それとも後継ぎなのかしら。それなら宝光院ね。何れの神様に願い事がおありになられるのでしょうね」
 香澄の言葉に、
「香澄さんも要にせがんでお参りに行ってきなさい、良い子が授かりますようにって」と、母が香澄をけしかける。
「はい!要様参りましょう」と、なんの屈託もなく母の言葉に応えているが……。
「参りましょうって、いきなり言われても……」
「お仕事の無い時にでも、二人で行ってきなさい。新米の手に入る頃がいいわね」
「その方が神様もお喜びになりますよね。お母様」
「はい、きっといい子が授かりますよ」
「何を二人で勝手なことばかり言っているのですか」
「駄目ですか」
 香澄ががっかりしたような顔をして要の顔を恨めしそうに見た。
「いえ、そんなことはありませんが、ただ急にそんなことを切り出されても……」
「本当ですか」と、途端に香澄の目が輝きを増した。
「はい、季節も好いし、今度の仕事が無事終わったらお参りに行きましょうか。三人で」
「お母様も一緒にですか。嬉しい!それでは、要様、どうぞこちらへ」
 香澄が要の袖を引き、縁側の方へ出るように促す。
「やばい」と、要は思ったが、もう後の祭りである。
「はい、善光寺さんに向かって手をお合わせください。お約束いたしましたよ、要様、はい、指切り」
 母が、後ろで笑いを噛み殺している。

 要は、またも母と香澄に謀られたような気がしていた。
 あの時もそうだ。
 香澄と一緒になると云う事は心に決めてはいた事だが、まだ先の話だと、その気もなかったのに、二人に謀られ、まんまと善光寺さんの御本堂の前で指切りさせられ、押し掛け女房同然に慌ただしく祝言を挙げさせられた時の事を思い出していた。
 幼馴染の香澄は、約束事をさせる時、必ず善光寺さんの方に手を合わさせ、そのあと指切りをさせるのであった。あの頃から、そんな時の香澄には、なぜか逆らえなかった。
 母は、その要の弱みを香澄に利用させ、善光寺さんへ連れ出させたのだ。今日の事も……。
 どうもあの二人、近頃は阿吽の呼吸で通じ合うらしい。用心しなければと思いつつも、ついつい上手く乗せられてしまう。

 そんなことを思い乍ら、少し憮然とした面持ちを引きずり文蔵の小間物屋の暖簾を分けた。
「いらっしゃい」
 客の気配に気付いたのか、奥の方から少し野太い文蔵の声が聞こえた。
「お邪魔致します、急な用とお聞きしましたが」
「あっ、これは滝村様、失礼を致しました」
「いえ」
「何かございましたか、浮かないお顔のようですが」
「別に大したことではありません」
 要の照れ笑いに、ちょっと怪訝な顔をした文蔵であったが、
「それならよろしいんですが」と応えて、
「おいっ、お富、お茶はどうした」と、女房の富にお茶を催促した。
「あいよっ、滝村様宜しくお願い致します」
「お富さん、お願いするのは私の方です」
「そんなことはございませんよ、家のが、伊勢屋さんの是非にも滝村様をという御依頼だ、きっとこの間の旅で滝村様に惚れ込んじまったんだな。俺の面子も立つ、頼まれ甲斐も頼み甲斐もあるってもんだって喜んでましたから」
「その伊勢屋さんの急な用とはなんなのですか」
「はい、上尾の宿からの急飛脚が来ましてね、迎えに来てほしいと。急ぎ中仙道を下ってくださいまし。この書状に伊勢屋さんの泊まる松井田の旅籠が書いてあります。絹の仕入れでいつも使う旅籠で、そうです、この間の時の旅籠だそうです。旅籠の者に訊けばすぐわかるように頼んであるそうです。それからこれ、為替で来ました三両の礼金です。今回は勝手なお願いになってしまいましたので、先にお支払い致しますとの事です。この間の旅で、すっかり信用されなさったようでございますね、でなけりゃ、全額前払はしないでしょうから。後はこの間と同じ、何かございましたらそれなりに上積みをと云うことだそうです」
 表情を引き締め、文蔵がそう言った。
「旅籠は妙義屋ですね。何かあるのかなぁ、特別な事情が」
「そんな感じが致しますよ。江戸からも一人、新しく雇った腕の立つ浪人をお連れのようですから」
「その上に、私ですか」
「はい。この間の時、確かな腕なのかと、念を押すように訊かれました。滝村様に口止めされていますので、少し迷いましたが、川中島の一件を……」
「またあれですか、この頃では、百人斬りなんて事になってますよ」
「人の口とはそういうものです。あっしも生き証人として、敢えて、そうだそうだと……」
 文蔵が悪戯っぽく笑う。
「そんな……。数えてはいませんでしたが、倒したのは三十人ほどですよ」
「いいじゃありませんか、何度もお聞きしましたが、三十人が七十七人になろうが百人になろうが、誰も困りは致しませんでしょ」
「まさか親分が噂の出何処のひとつだったとはなぁ……」
「出何処だなんて、飛んでもありません、あたしが数えたのは、うーん、五十人くらいだったかなぁ」
「やはり、火を煽っているのは親分なのですね」
「煽っているだなんて……」
「いえ、煽っています」
 要が少し咎めるような眼をして笑った。
「そうですかねぇ、あたしは、その方が世間受けがいいから、仕事の依頼も増えるんじゃないかと……」
「それはそれでありがたい事なのですが……」
「申し訳ない」
 文蔵は、岡っ引きとしても人間としても、確かに好い男であるが、どこか悪戯っ気が抜けないようなところがある。それがまた、文蔵の良さでもあり、町の人々に親しまれる所以なのであろう。

 三両の礼金を香澄に手渡すと、
「三両もですか。そんなに危ないのですか、今度のお仕事は」と、心配そうに訊いた。
「分かりません。用心棒なのですから、危なくないことはないでしょうね」
 そう応えると、
「そうですよね、危なくなかったら用心棒なんて要りませんよね」
「そういうことです」とまぁいつものように暢気なものである。が、それだから家のことは全て任せられるというものだと、要は思っていた。
「気を付けてお行きくださいね、無事の御帰りを善光寺さんにお祈りしています」
「何だか脅されてるみたいですが、ははは、ありがとう」
 いつも何となく締まらない会話になってしまうのであったが、しっかりするところはしっかりしている、要は香澄のそんなところを好ましく思っているのであった。

 香澄と母に見送られ、その日の内に善光寺平を発った要は、翌日には碓氷峠を越え、松井田宿に入って妙義屋を訪ねる。
「いらっしゃいませ、この間の滝村様でございますね、伊勢屋様は今日いらっしゃいます」と、宿の者が、既に伊勢屋から知らせは届いていると笑顔で迎え入れてくれた。
「碓氷峠を越える前に是非とも来て戴きたいと思い、急飛脚にて無理をお願い致しました。間に合うかなと案じておりましたのですが、助かりました」と、要に少し遅れて宿に着いた伊勢屋は、ホッとしたように言った。
「これが娘婿の耕二郎と、娘の衣恵にございます」
「宜しくお願い致します」と頭を垂れた二人は、似合いの夫婦のように思われた。
「実は、一緒になりまして七年、いまだ子に恵まれません。法衣をお納めし、懇意にして戴いている寛永寺様の御勧めで、末社の戸隠山顕光寺へ祈願してはどうかと」
「それで……?」
 それでどうして用心棒が二人もいるのか、と訊きたい要の心を見透かしたように伊勢屋が続けた。
「と云うのは表向きでございます。もっとも子が授からぬは真、それも確かにございますが」
「して、どのような」
「荷の中に、寛永寺様からの大切な御預かり物がございます」
「寛永寺様からの」
「宝刀が一振り」
「宝刀?でございますか」
「はい。短い方ですが」
「その宝刀を、戸隠山に御納めする」
「はい。それも神君家康公がさる御旗本に御下賜なされたもの」
「えっ」
 驚く要に、伊勢屋が事の次第を話してくれた。

 もう何代も前に、その刀は三河以来の大臣の旗本屋敷から何者かに盗まれた。外に知れてはお家の一大事、慌てて偽物を拵え蔵に納めたのではあったが、今頃になって府内の小さな古物屋に持ち込まれ、本物の兼光ではないかと、懇意にしていた骨董好きの伊勢屋に。その古物商も伊勢屋も刀にはあまり詳しくはなく、周りに目利きもおらぬゆえ、伊勢屋が曰く因縁は全て隠し、それなりの目利きに見立ててもらったのであるが、本物に間違いはないと云うことになり、さぁ一大事。こんなものを町人が待っていたのでは騒ぎにもなりかねない、さてどうしたものかと……。その話を寛永寺でしたところ、寛永寺の老僧がぜひその刀を見たいと云う。改めて持参したところ、間違いないと、件の仔細を話してくれ、この刀の偽物を造るよう知恵を授けたのも、ほかならぬ寛永寺の当時の座主であると。徒に人の命が失われるのは神君の望むところにあらずと、御墨付きと箱が残っていたのを幸いに、ひと思案企んだのである。今になって出てきても、何代も前では話も通じぬ、また大騒ぎになるであろう事は目に見えているし、面子ばかり気にしている今の当主では、聞き知ってはいても、恐らく認めようとはしないだろう。それどころか、真実を知ってしまった者たちに危害さえ加えかねない。なればこの世から隠してしまえと、末社である家康公縁の戸隠山に奉納する事を勧められたのであるが、どこから話が漏れたのか、怪しき者たちが伊勢屋の周りをうろつきだした。これは早い方がいいと、娘に後継ぎが生まれぬことを口実に、戸隠山顕光寺へ懐妊祈願と云う事で旅に出た。旅の途中の中仙道は上尾の宿で、それらしき盗人が旅籠に忍び込んだのであるが、旅の用心棒を頼んだ福本清三郎のお陰で、すんでのところで事なきを得たのであった。が、なんと同じ夜にもうひと騒ぎ。どうも狙っているのは一人、もしくはひと組では無いらしく、これは万全を期さねばということになったらしい。

「聞くところによりますれば、善光寺より戸隠山までは六里余り。山深く、難所多しとか。盗賊を相手にしながら同時に私たちを守る事は独りでは出来ぬだろう、誰かもう一人、腕の確かな者を頼み、前後を守った方が無難ではないかと、福本様がそう申しますので、それなれば滝村様を置いて他にはいらっしゃらないと思い、先の依頼に。してまた上尾宿の一件で、この先には碓氷峠もある事だし、これは用心に越したことはないと、急ぎ文蔵親分に」
「分かりました」
「着きましたらすぐに御奉納させて戴き、翌日、この二人の祈願を済まし、善光寺平に戻るまで。それで宜しいでしょうか」
「はい」と応えて、
「福本殿と申されるお方は?」と、要が訊く。
「はい、利吉、福本様を」
 一緒に来た店の者らしき男に、福本を呼ぶように言いつけた。
 利吉の後から現れた男は、もう五十はとうに過ぎたであろう、痩せて背の高く目のぎょろりとした、一見悪人面の浪人であった。
「滝村要と申します、宜しくお願い致します」
「拙者、福本清三郎。生まれ落ちた時からの浪人にござる」
「それがしも浪人ですが、まだ駆け出しです、宜しく御教授のほど」
「ははは、お主、面白い男だのう。浪人の教授なんぞと、生まれて初めて頼まれたわ。うん、それだけは刀より自信がある、任してもらおう」
「ははははは」と、居合わせた一同に笑いが起こり、少し硬かった雰囲気が和んだ。強面の顔に似合わず気さくな男のようである。
 細かい事を打ち合わせて、
「では、今夜は福本様との顔繋ぎもありますし、一献と云うことに致しましょう、どうかご存分にお召し上がり下さり、明日よりの鋭気をお養いくださいませ」と言った伊勢屋の言葉に、
「伊勢屋殿、酒は少しで良いぞ。存分に戴くのは、刀を無事奉納し善光寺平に戻ってからだ」と、福本が皆の気を引き締めるかのように言った。
「はい。某も、その時は福本殿と大いに飲みまする」
「儂は大酒飲みだぞ、それでも宜しいか」
「はい。楽しみです」
「では、儂も楽しみにしておこう」
「伊勢屋の身代が潰れぬほどにお願い致します」
「心得た」
 伊勢屋の戯けに、福本が真顔を作ってさらりと応える。
 また一同大笑いである。
 この男は出来る、剣も、そして人柄も信用が置けると要は得心していた。

「あ奴らにございますか」
「ああ」
 要の問いに、福本がそっけなく答えた。
「つけているのは丸見え、と云った塩梅ですが」
「あ奴らはな」
「と云うことは」
「そうだ。かなり手馴れた別の連中が、あ奴らの後ろに控えている」
「手馴れているのですか」
「そうだ。恐らくそれなりの盗人の集団では無いかの」
「そんなに価値のあるものなのですか、その宝刀と云うのは」
「兼光だぞ、兼光」
「いくら兼光でも……。それに、縦しんば盗めたとして、兼光がそんなに簡単に捌けますか」
「奴ら盗人だぞ。盗人が盗んだ品を捌くなんぞ朝飯前ではないのか。でなければ、この世で盗まれるのは金だけということになる、金の他にも色々と盗まれておろうが、お宝が」
「そうですよね」
「たとえその道に流せなくとも、曰くを知っているとすれば、出どころの旗本を強請ると云う手もある。案外それが狙いなのかも知れぬな」
「なるほど。その方が稼ぎが良いかも……」
 そこまで読んでいるのだ、この男はと、要はその飄々とした風体からは想像も出来ぬ福本の懐の深さを感じ取っていた。
 新緑の清々しい碓氷峠は、意外と人の往来が多く、無事越すことが出来た。
 追分、上田。そして善光寺平へと、何事もなく入った。
 その夕方、文蔵が宿を訪ねて来た。

「襲われるとすれば、この辺りかと思います」
 かなり細かな絵図を手に、文蔵が幾つかの場所を指し、印を入れた。
 どうやら文蔵親分、下見に行って来たらしい。
「ひい、ふう、みい、四か所ですか」
「あっしも行けると宜しいのですが」
「大丈夫ですよ親分、ありがとう」
「お気をつけくださいましよ、あっ、それから、山道のあっちこちの日陰に、まだまだ雪が残ってました」
 そう言って帰った文蔵が、翌朝、一行が宿を出立してしばらくした頃、ゼイゼイと肩で息を継ぎながら追い縋ってきた。
「昨夜、五人のごろつきみたいな奴らが、手ひどく痛めつけられた上、千曲川の河原に縛られて転がっていたそうです」
「五人ですか」
「なんでも、江戸から来たとか。ひょっとしたら伊勢屋さんとの絡みもあろうかと思い、御知らせに」
「さすが親分、図星のようですね。今朝は見えない」
「何が見えないんです」
「後をつけて来ていた間抜けな盗人」
「恐らく、邪魔になりそうなので、本職の奴らに始末されたんだな」
 福本がそう言ってニヤリと笑い、懐手のまま顎を撫でた。
「邪魔になる?本職?」
 文蔵が首を傾けながら訊いた。
「そうだ。ど素人にウロチョロされたんでは仕事が遣り難いのではないのかな。恐らく、この件を仕入れたのは間抜けな連中、それを漏れ聞いたのが本物の盗人どもという寸法かな」
「なるほど。いよいよ本命登場ですか」
「そういうことだ。殿、宜しく頼むぞ」
「心得ました」
 二人の話に小首を傾げていたが、文蔵は、裾花川を渡る手前で引き揚げて行った。
 福本を先頭に、伊勢屋、そして若い二人、手代の利吉、殿の要。いよいよ戸隠山顕光寺への山道に分け入ってゆく。
「もうじき親分の言った最初の所だな」
「そのようです」
 先頭の福本の言葉に、後ろから要が応える。
 伊勢屋たちの顔に明らかに緊張が走る。
 だがそれらしき場所を過ぎても何も起こらなかった。

 新緑の眩しい山間に差し掛かると、文蔵の教えてくれたように、日陰のあちこちに白い雪が残っていた。
「来るかも知れぬぞ」
 福本が振り返って要を見た。
「来ますか」
「うん。その脇の草叢を見ろ」
「なるほど。雉打ちなら一人、こんなには乱れませぬか」
 一段高い山肌に向かう草叢の草が、かなり踏み拉かれ乱れている。
「数人ですね」
「ああ、そ奴らは後、本隊は前から来るな」
「挟み撃ちですか」
「ああ」
 怯えたように伊勢屋たちの足が止まった。
 無理もあるまい。
 少し広い所へ出た。文蔵の着けてくれた印の三番目の所であった。
「来るぞ」
 要が気配を感じたその時、福本も同じ気配を感じたのであろう、前方を見据えたまま押し殺したような声で言った。
「みなさんは固まって、そこの崖際へ蹲っていてください」
 衣恵を真ん中に、伊勢屋たちはそれぞれに道中差を抜き、及び腰で身構える。
「けして相手にしようなどとは思わないでください、刀を使うのは最悪の場合だけですよ」
「はい」
 要の言葉に応える伊勢屋の声が震えている。
 山肌の灌木のガサガサと騒ぐ音がした。道の前後を何人かの走る気配がし、広場へバラバラと旅姿の男たちが走り込んできた。
「十二人か」
 落ち着き払った福本の声が後ろでした。
「刀を出せ」
 短く一人の男が言う。
 福本が、
「渡せぬから儂らが付いておるのだ。盗人のくせに、それ位の察しがつかぬのか」と、芝居の台詞のように落ち着き払って応える。
「ほざくなっ、行くぞっ」
 頭目であろうと思われる男がひと声、十二人の男たちが、一斉に刀を抜いた。
「なるほど手馴れたもんだ」
「だろう」
 要の言葉に、福本がニヤリと笑う。
「待つか」
「いえ、某は出ます」
「そうか、儂は待ちの剣なのでな、待つぞ」
「はい心得ました。それではお先に」
 福本の魂胆は、どうも要の腕を見てみたい、確かめてみたいといったところであろうか、要もそれは重々承知というところか。
「この野郎、何をごちょごちょ言ってやがる、馬鹿にするんじゃねぇ」
 落ち着き払った二人に苛ついたように、一人の男が大声を発して斬り込んで来たのを合図のように、戦いの火蓋は切って落とされた。
 だが、要の動きは盗人たちの思惑とは違い、桁外れに速かった。
 あっと言う間に五人の男が転がった。勿論峯は返してある。
 盗人たちの表情が青ざめる。
 さらに間髪を容れず、要が踏み込んでゆく。
 一人、二人、三人。
 完全に浮足立った盗人たち。
「退けっ、退けっ」
 逃げ出し始めた盗人たちであったが、なんと、倒れた者を担いだり、脇に肩を入れたりして支え、無傷の者たちが後ろ向きにこちらを牽制しながら後退してゆくではないか。
「ほう、盗人にしては見上げた奴らだな」と、福本が感心しながらその様子を眺めている。が、追おうという気配は毛頭ない。
 辺りが急に静かになったような気がした。
 が、福本はじっと何かをその耳に捕らえようとするかのように林の奥へ耳を凝らしていた。
「強いのう、お主」
 福本が警戒を解き、微笑みながら要に言った。
「ははは、お恥ずかしい、つい本気になってしまいました」
 要が照れる。
「何を言うか。常に本気でなければ、刀なんぞ抜くものではなかろうが」
 確かにそうであろう、福本の言葉は剣の神髄に迫り重かった。
「もう一度来ますね」
「お主もそう思うか」
「はい、文蔵親分の印にある四番目の所ですね」
「俺は要らぬな、お主強すぎるわ」
「百人斬りと云う噂は本当だったのですね」
 安心したような伊勢屋の声が二人の会話に入り込んできた。
「もう落ち着かれましたか。あの話は尾鰭端鰭を付けられ独り歩き致しましたもの、実のところは三十人ほどでございます」
「そうでございますか。でも凄いお腕で、安心致しました。あまりの人数に、どうなる事かと。衣恵は未だ歯も合わさりませぬ」と。緊張は解けたようであるが、継々の息の下で言う。
 衣恵を見ると、まだ青白い顔をして震えていた。
「ははははは、無理もあるまいて」
 福本が少し大仰に笑う。
 釣られて笑う皆の顔に生気が戻ってきた。
 今の恐怖心や緊張を解してやろうという福本の気づかいであろう、その心根の温かさが垣間見てとれた。

「ここらで一休みするか」と、福本が歩みを止めたのは、片方が一間半ばかし低く落ち込んだ崖、もう片方が林になっていて、細長く広場のようになった道の入り口部分であった。文蔵の四番目の印の所らしい。
 しばらく休んで、
「よしっ」と、福本が腰を上げた。
 釣られるように腰を上げかけた皆を制して、
「皆はそのまま。滝村殿、今度は儂に任せてはくれぬか、お主を見習って峯で行くゆえ」
 福本の顔が笑っている。
「はい、宜しければ」
「済まぬな。さっきは大立ち回りを見てただけ、このままでは伊勢屋殿に心苦しいでな」
「ははははは」
 要が声を立てて笑う。
 伊勢屋たちは狐につままれた様な顔で二人を見ている。が、福本と要の雰囲気に、先ほどとは違い、大分落ち着いてきたようであった。
「おーい、いつまで雉打ちしてる、早く出て来んかー」
 福本が林に向かって、ちょっと戯けた声を出した。
 余談ではあるが、「雉打ち」とは、「野糞」のことである。藪に隠れて座るその恰好が、猟師の雉を狙う姿に似ているからという。
 林の奥の低い木々があちこちでざわざわと揺れた。
「畜生っ!甘く見やがって」
「馬鹿にしやがって」
 口々に罵り声を投げつけながら、さっきより多いのではないかと思える人数が、ガサガサと林の中から現れた。中には先程要に撃たれた傷に、手拭や晒しで包帯をしている者もいるではないか。
「なんだ、まだ他にも居るなとは感じていたが、こんなにいたのか。大した大所帯だのう、おまけに怪我にも負けぬとは、いい根性持ちだ」
 相変わらず福本は惚けた口調である。それに、あの時林の奥へ耳を凝らしていたのは、隠れている他の人数を推し量っていたのだ、この多勢に驚いた様子も無い。
「この野郎っ!」
 数人が固まったまま福本に向かう。
 のんびり飄々とした風情の普段とは違って、福本の動きは俊敏であった。どこが待ちの剣なのだと、要は福本の先ほどの言葉を思い出し微笑んだ。
 福本は崖を背にし後ろを守り、三人四人と倒しながら一団を捌いてゆく。
 明らかに一団の頭目と思しき、一番奥にいる目つきの鋭い男を狙っている。
 先ず将を討ち取り、盗賊たちの結束を乱そうという寸法であろうか。
 群れに包まれるようになりながらも福本が次第に頭目に迫る。
 頭目らしき男は平然と構え、怯む様子も慌てる様子もまるでない。
「うわっ」
 突然、福本が悲鳴に似た声を上げた。
 盗人たちは先ほどの劣勢で懲りたか、あらかじめ用意していたのであろう、何人かが懐に隠し持った石で飛礫攻撃に出た。
「まずいっ」
 要がそう感じた時、
「滝村殿、加勢じゃ、加勢っ!痛っ!」と、福本が両手で頭全体を覆うようにしながら喚き声をあげ、それでも頭目を追い詰める形で動いて行く。
 一団がそれに釣られて崖際へ動いた。
 何という福本の機転だ、この窮状で要の次の動きを予測できているのだ。いや、要が動きやすいように計算しながら動いているのだ。
 要、おうっとばかりにそれを察して動き出す。
 要たちを囲んでいた三人を素早く要が叩き臥せ、一団の背後から襲いかかる。
 一団が崩れ、要は一段低くなった崖の下へ、次から次に連中の足や胴を狙い撃ちにしながら追い落としてゆく。
 福本もすかさず反撃に出て、あっと言う間に頭目を残すだけとなってしまった。
「俺に任せてもらっていいんだな」と、福本が要を振り返る。
 要が微笑んで首を縦に振る、
 福本と向き合っていた頭目らしき男が覚悟を決めたか、やや足を開いて左足を前にし、右斜下段に構え、腰を落とした。
「お前、侍か」
 福本が少し驚いた表情を見せ男に問う。
「大昔はな」
 頭が応える。
「一刀流、福本清三郎」
「ほう、盗人に名乗ってくれるのか」
「その構えを見てはな。かなりの腕、徒や疎かには出来ぬでな」
「なれば名乗ろう。越後高田藩浪人、念流、赤崎兵衛。と言っても、知る限り、親の親の代からの浪人だがな。今は盗賊、人呼んで毘沙門の兵衛かな。兼光、家康縁の宝刀。我らを路頭に迷わせた徳川本家への何代にも及ぶ皆皆の積年の怨みも少しは晴らせるでな、盗人仲間を掻き集めて、その宝刀やらを拝ませてもらいに来たのよ。それに、伊勢屋の懐には、顕光寺に寄進する大枚も忍ばせていようからな」
 兵衛の言葉を遮るかのように福本が、
「行くぞ」と、短く声を発した。
「おうっ。しかし福本とやら、何も訊かぬのだのう」
「何を訊く。成れの果ての盗賊の愚痴なんぞ、訊いてどうする。儂とて生まれた時からの浪人よ、一つ道を間違えていれば主と同じだったかも知れぬ。世迷いごとなんぞ、言いとうも無いし、聞きとうもないわ」
「滝村様!」
 その時、文蔵が大勢の捕り方を引き連れ走り込んできた。
 素早い判断で文蔵が指図し、捕り方が崖下へも降り、悶絶した者、苦しんでいる者を縛り捕えてゆく。
「どう致しました。ここは顕光寺の寺社領。良いのですか」
 要の問いに、
「昨夜、この街道を二十人にもなろうかと云う一団が通ったと知らせが入りまして、これはと思い、急ぎ宍倉様にお知らせして駆けつけました。顕光寺とは、危急な場合は山内を除いてはお構いなしのお許しが取れています。御心配無く」と、文蔵が、息を整えながら応えた。
「滝村殿、間に合いませんでしたか」
 最後尾の殿に就いていたのか、それとも日頃の鍛錬が足りず皆に後れを取ったのか、やっと追いついたのであろう宍倉が肩で大きく息を継ぎながら喘ぎ喘ぎ前へ出て来た。
 少し威厳を込めたような硬い表情で伊勢屋たちに会釈をし、要に会釈を返すと、
「よしっ、みな縛りあげろ」と、檄を飛ばしたが、文蔵の指図でもう粗方終っている。
 照れ隠しのような笑みを浮かべて要を見る。
「少しお待ち戴けますか」
 要は福本の方を目線で指し、宍倉にそう言った。
 立ち合う寸前の二人を怪訝な顔で見た宍倉が、
「如何なることですか」と、要を見た。
「尋常の立ち会いをさせてやって戴けますか」
「尋常の立ち会い?奴は盗人では」
「はい。形は町人でも、元は侍」
「元は侍?」
 その間も、対峙する二人はピクリとも動かない。
 やっとその場の空気を察したのか、
「よーし、縛りあげたら皆その場を動くな」と、宍倉が捕り方たちに号令をかけた。
「やるか」
 徐に福本が兵衛に声をかけた。
「よかろう」
 兵衛の構えは変わらない、右斜下段のままである。
 福本が正眼から八相へ構えを移してゆく。
 じりじりとした時が流れ、やがて、福本が兵衛の右斜下段を意識し、左へ左へと体を移していった。
 兵衛が右足を軸に、正対を保とうとする。
 福本の腰が小さく沈んで、飛ぶように躍った。
 福本の撃ち下ろしを、兵衛の下段が撥ね上げるように弾き返した。
 鋭い鋼の打ち合う音が谷間に木霊し、そして四囲の静けさに吸い込まれるように消えた。
 ふたりはまた同じ構えに戻り、静かな時が流れてゆく。
 福本がゆっくりと刀を鞘に納め、そのまま腰を低く落としてゆく。
 鯉口を切る音が微かにした。
「居合いを使うのか。待ちの剣とはこのことだったのか、これは凄い闘いだ」と、要は意外な展開に驚いた。最初のあの一撃は、相手の力量と剣の速さを見るためだったのであろう。
 間合いを測りながら福本が躙り寄る。
 寄る分だけ兵衛が退がる。しかし、次第に後退し、兵衛は一段低くなる崖を背負わされた。
 兵衛の体が一瞬沈むと、攻撃を仕掛けながら体勢の立て直しを図るべく福本の右へ跳んだ。
 それを追うかと見えた福本の動きに、瞬時乱れが生じた。と、要には見えた。
 が、鞘を離れた福本の一閃はそのまま兵衛を追っていた。
「間に合わぬ。届かぬ」と、要は見た。
 迷いにも見えたあの一瞬の乱れ、そのせいなのか。
 福本の右に跳んだ兵衛が、地に着き様、刀をポロリと落とした。静まり返った周囲に、刀の地に落ちた音がやけに大きく響いた。
 血の吹き出す右手を押さえる兵衛の苦痛に歪んだ顔には、信じられぬものを見たという表情がありありと浮かんでいた。
 それは要も同じであった。
 届かぬ筈の切っ先が、何故兵衛の右の二の腕に入った。
 次の瞬間、屈んだ兵衛が左手で刀を拾うと、自らの腹を突こうと大きくその切っ先を返した。
「死ぬなっ!」
「ガキンッ!」と、福本の刀がそれを遮った。
 無念やるかたない表情で福本を睨みつける兵衛。その眼差しの奥に、何とも言えぬ哀しみの光が過った。
 福本が、その眼差しから目を逸らす。
 立ち合いに勝った者のそれでは無かった。
 要は福本のその目に、兵衛よりも、もっともっと哀しい光が宿っていたように感じた。
「捕えろ」
 宍倉の声に文蔵が動いた。
 福本は黙ってそれを背にした。

 翌日、寛永寺からの書状を渡し、速やかに兼光の奉納は終わった。鬱蒼として、いかにも霊山の名に相応しい山中の荘厳なる御堂。
 その中に包まれている。それだけで身も心も清められてゆくようである。
 長い石段を下りながら、
「宝光院で、この後すぐに二人の祈願をやってくださるそうです。今日は院坊へ泊らせて戴き、明日には善光寺平へ戻れます」
 伊勢屋の言葉に、
「宜しかったですね、無事終えられて」
「はい。これもみな福本様と滝村様のお陰でございます。本当にありがとうございました」
 深々と頭を下げる伊勢屋に、
「いえ、それが我々の役目ですから」と云いながら、要が、同意を求めるように福本を見たが、福本は応えなかった。昨日のあの時以来、福本は一言も喋ろうとはしなかった。
 この男の心に去来するものを要は思った。生まれながらの浪人暮らし、五十をとうに過ぎたであろう身に何があった。あの哀しい目の光には、一体如何なる曰くが籠められているのであろうか。
 要は思考を止めた。
「止そう。自分が入り込める世界では無いのだ」と……。
 皆、福本の寡黙は、人を斬ったことによるものだと思っているであろう。

 飲んだ、とことん飲んだ。要、こんなに飲んだのは久し振りである。
 福本も飲んだ。飲んでも飲んでも酔い切れぬ、と云った風情であった。
 哀しい心を包み隠して要に酒を注いでくれる福本の姿に、故さえも知らぬのに、要は心の奥で貰い泣きをしていた。
「先に下がらせて戴いて宜しゅうございますか。明日はごゆるりとお休みくださいませ。私共は、善光寺様へお参りに行ってまいりますゆえ」と、伊勢屋がその場の気配を敏感に感じ取り、さも眠そうに目を擦りながら下がって行った後も、二人は黙って飲んでいた。
「人とは哀しい生き物よのう」
 ポツンと福本が言った。
「……」
 要には返す言葉が見つからなかった。
「要殿、人を斬った事があるか、殺めた事があるか」
「いえ……」
「一度だけ、一度だけだが、真剣の立ち合いにて、斬ってはならぬ御人をこの手で殺めた」
「……」
「俺の居合の師だ。その御方は決して己を語ることはなかったが、人としても尊敬できる好い御方であった。その師は、剣の勝負とは斬るか斬られるか、死ぬか生きるかだと、常に厳しく俺に教え指導してくれた。俺も懸命に着いていった。が、別れの日、真剣を手に、師はこれが最後だ、命を賭して俺に挑んで来い、俺の奥義を得とくして行けと……。そして真剣で対峙した時、その師もまたあの暗闇の中に居ることを、俺は知ったのだ」
「……」
「それ以来、儂は人は斬らぬと心に誓った。なのにまた斬ってしまった。何故斬った。儂には解っている、あの時と同じなのだ」
「……」
 福本が静かに杯を口に運び、目を瞑りながら酒を飲み干す。
「あの男、俺と同じ目をしていた。眼の奥にな、俺と同じ光を持っていたんだよ。暗闇のような光をだよ」
「……」
 暗闇の光とは……。
 要にはその言葉が解せなかった。
「おかしいか。暗闇に光なんぞ無い。そう思うか」
「……」
 要は懸命に探していた、見つからぬ返す言葉を。否も応も、恐らく自分はその問いに応える事は出来ぬ、暗闇の光を知らぬと、そう思った。
「それはな、その暗闇を心に抱く人間にしか解せぬものなのだろうな。己の心の中の暗い闇から、じっとその闇を見つめるもう一つの目がある。そんなものを感じたことはないか」
「……」
「あの時、俺の心のどこかに、自分と同じ醜さを持つあの男への憎悪のようなものが生まれたのではないのかの。いや、あの男への憎悪ではなく、自分に対する憎悪かな。忌み嫌う自分を、俺は斬ったのだと思う。あと半歩踏みこんでいたら、俺はまた人を殺めていた。人とは哀しい生き物よのう」
 あの時の福本の動きの乱れは、この迷いのためだったのか。
「……」
 要には、ぼんやりとしか理解できなかった。
 生まれながらの浪人と、侍が嫌になって浪人になったと云うことの違いだけではないような気がしてはいるが、要は、福本の心の暗闇の光を、未熟な今の自分には真に解することは出来ないと、また強く思うのであった。
 そのまま二人は、そこで酔い潰れ寝入ってしまった。

 別れの朝、旅籠の前で伊勢屋たちを見送る。
 遠ざかり逝く一行から福本が笑いながら戻ってきた。
「何か?」
 要の問いに、
「忘れものだよ。御主、儂に訊きたい事があったのであろうが」と、ニヤリと笑う。
「いえ……」
 要は己の心を福本に見透かされたことに戸惑いを覚え、口籠った。福本の心を思えば、とても切り出せるものではなかった。
「そこで刀を抜いて正眼に構えてみろ」
「はい……」
 正眼に構えた要の右手指に、福本は一枚の懐紙を挟んで吊り下げた。
 福本が要に対して、あの時と同じ居合いの構えに入った。
「行くぞっ」
 鯉口を斬る音が微かに聞こえ、すぐに福本の一閃が走った。
「あっ!」
 声にはならなかったが、要の心の中にその驚きの声は響いていた。
 右手指から下がった懐紙が、福本の一閃に斬られてはらりと地に落ちた。
 あの時のように、その間合いでは切っ先は届かぬと思った要であったが、切っ先は確かに届いて懐紙を斬った。
「見えたか」
「はい」
「切っ先は、あの体からでは確かに届かぬ」
「肩ですね」
「流石だな。儂の肩の僅かな動きが捉えられるとはな」
「肩の節を使うのですね」
「そうだ、こうだよ。俺の肩を、もう一度よく見ておれよ」
 福本が、右の片肌を開けた。
 見事に鍛えられた体である。
 そして、刀を一閃する動作をゆっくりとして見せ、そしてもう一度、あの動きを見せるべく、素早く抜き放って一閃した。
「刀の重さを利して、肩の節を抜く。切っ先が一寸ほど伸びるのだよ。一寸伸びれば骨を裁てる」
「ありがとうございました」
「真似はするなよ、肩が外れて戻らなくなるぞ。鍛錬を繰り返しこの筋を上手く鍛えるとな、力を抜いた節は引き戻されるように次の瞬間元に戻る。が、これを使い過ぎると、抜けるのが癖になって如何ともし難くもなる。要殿は要殿の剣を使えばいい、久し振りに出遭う事の出来た好い剣だ、清しき剣だ、礼を言うぞ」
「畏れいります。またいつかお会いしとうございます」
「死なずにいればな、御主の優しい心とその剣に会いに来たい」と、福本は笑って背中を向けた。
 要は何時までもその背中に頭を垂れ続けていた。

「わっ、あの外に、また三両も戴けたのですか」
 伊勢屋が弾んでくれた礼金の三両を渡すと、香澄が素直に喜びの声を上げた。
「はい、ちょっとひと騒動ありましたので、特別に」
「盗賊たちが捕らえられたという噂は聞きました、お怪我はなかったのですか」
「大丈夫です。もうお一人、とても強い方がおられましたから」
「要様よりお強い方なのですか」
「はい。私なんぞはまだまだです」
「お強いだけではなく、良いお方だったのですね」
「はい。解りますか」
「ふふふ、要様のお顔が日本晴れ、とても嬉しそうですもの、香澄にはすぐに解ります」
「それは、久し振りに香澄の顔を見れたからかも知れませんよ」
「ありがとう。香澄には嘘でも嬉しいお言葉です」
 香澄が悪戯っぽく嬉しそうに笑った。
 開け放たれた次の間に座る母の顔も嬉しそうであった。
 直に夏が来る、新緑の色褪せぬうちに、二人を連れて戸隠山にでも行こうかと、要は善光寺平の蒼い空を見上げるのであった。

   善光寺平生業控 (二)
       戸隠詣で    終わり
        其の三へ続く
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