善光寺平生業控(六)哀しみの海

文字数 19,401文字

                           NOZARASI 9-6
 善光寺平生業控 (六)
      哀しみの海

 桜の花も散り逝き、日ごとに四囲の緑が濃くなってゆく。野辺にも道端の家々にも、いろんな花が咲き乱れ、吹く風もまた花を愛でているかのような好い季節だ。
 今日は、香澄と二人、善光寺さんにお参りに行き、ついでにこふじに寄って美味しい御蕎麦を戴くつもりでいたのであるが、無粋なことに、文蔵親分の使いが、朝の静けさを破り、豆腐の角なんぞはお構いなしよと言わんばかりの勢いで舞い込んできた。

「仕方ないですよね」と微笑む香澄に謝りながら、「どんな仕事なのかなぁ」と、訝しみながら目を合わせる。
 独りではあるが、まぁ仕方ない、善光寺さんにお参りをし、参道の石畳を下って文蔵の小間物屋の暖簾を分けた。
 不安げな眼差しを要に向けたのは、三十を少し過ぎた武家の妻女らしい女と、その子供であろう、まだ元服前の男の子であった。
 その後ろに、小者であろうか、かなり年の行った男が控え、要に小さく会釈をした。
 要は、武家の女房らしいその女の愁いを秘めた面影に、よくは思い出せないが、見覚えのあるような気がした。
「こちらは……」と文蔵が切り出そうとすると、
「今宮吉兵衛の妻、綾と申します」と女が名乗った。
「今宮様の……」
 今宮吉兵衛というのは、要が仕えていた松代藩の賄い方の上役であった。その親子が、要に何の依頼なのであろうか。
「今宮様は、行き方知れずらしいんですが……」と、文蔵が小さな声で言う。
「行き方知れず、なのですか」と要が鸚鵡返しに応える。
「はい、三月ほど前に、昆布や干物、そして塩などの買い付けに城下の商家の番頭と今町湊(直江津)の方へ出かけたきり、何の音沙汰も……」
「今町湊の方へですか。その類の出入りの商人は、確か城下の中屋さんでしたね。してその番頭は」
「同じように行方は知れませぬが、何事も無ければ共にいるのではと……」
「藩の方は動いてくれないのですか」
「はい、一度だけ、今町湊の方まで探索に行っては戴いたのですが、見つからぬと……」
「たった一度でございますか」
 賄い方などは、どうでもいいというのでもあるまいが、まぁその程度かと、要は自分の仕えていた時分のことを思いだし、一応の納得はいった。
「中屋の方々が、それはもうあらゆる伝手、人を使い、手を尽くして探して戴いたらしいのですが……」と、綾は言葉を呑み込み、藩に比べ、身を入れて探してくれたであろう中屋に対して思いやりを見せるのであった。
「商いのお金も持っていたのですよね」と、要は迷わず訊ねた。
「はい、かなりの手付金を」
 気まずい空気がその場に流れたが、それは大事なことである、訊かないという訳にはいかなかった。
「その金を失くしたとか、盗人に奪われたとか……」と文蔵が言う。
 盗賊の類に出くわしたか……。
 が、そうだとすれば、三月という刻の流れは、当然のこと、二人の生存を否定するのではないのか。
 要は自分の脳裏に浮かんだその思いを断ち切るかのように、
「今町湊の問屋には……」と、綾に訊く。
「来ていないと……」
「行っていないのですか……」
「はい」
「うーん、その他にこれはという手掛かりは無いのですか」
「済みません、普段から今宮は仕事のことはほとんど口に致しませんので」
「そういう御方ですよね、余計なことは語らず、人の心を思いやる好い御方ですから」
 今宮の性格からして、面白い出来事でもない限り、家で賄い方の仕事の話しなんぞは口にしないであろうことは要にもよく解っていた。
 今宮は、直属の上役であったが、誰が何を失敗しようが、怒ったりするようなことは決してなく、共に取り繕いをして、頭を下げてやるような男であったし、愚痴や人の蔭口を言うような男でもなかった。
「……」
 不可解なその成り行きを思えば思うほど、その場の空気は暗く淀んでゆく。
「一度、昔の同僚に会って、話を訊いてみましょう」と、要がその空気を振り払おうとするかのように少し力を込めて言うと、
「お願い致します」
「お願い致します」と、その子も母に倣って低頭する。
「あっ、陽之進殿ですね」と、要はその男の子の以前の記憶に行き当った。がそれは、極々小さな頃、男の子にその記憶のあろう筈も無かった。
「はい」
「ははははは、お会いしたのは、まだ三つの時分かなぁ」
 確か、この子の節句の折であったと記憶しているが、祝いを持って同僚と今宮の家を訪ねたことがあったのを要は思い出していた。
「はい、そう思い、こんなお願いの折では失礼になるかとは思いましたが、思い切って連れてまいりました」
「いえいえ、そのお心遣い、真に嬉しい限りです」
「宜しくお願い致します」と、陽之進が要にまた低頭する。
「心配だよね、父上が早く見つかるといいけどなぁ、全力を尽くしますよ、陽之進殿」
「お願いします、滝村様」と要を見上げ頼み込む陽之進の必死な目が哀しい。
 三月も戻っては来ぬ父に、その胸の傷みは測らずとも知れた。

 さて、引き受けたものの、雲を掴むような依頼である。
 三人が帰った後、文蔵と二人、ちょっと香澄に申し訳ないなぁと思いつつ、こふじで蕎麦を戴きながら雁首を突き合せるが、余りに情報が少なすぎる、いや、皆無と言ってもよく、手立てなんぞは浮かぼう筈もなかった。
「兎に角、すぐにでも昔の同僚に会って話を訊いて、それからですよね」
「お願い致しますよ、滝村様。あんな哀しい母子の顔、見ちゃぁいられませんや」と、文蔵までが縋るように言う。
「はい、同感です」
 要も、勿論のこと、何の手掛かりも無いからと、手を拱いては居られない、刻は一刻を争う事態やも知れぬ、早く何とかしなければなるまいと強く思うのではあった。

「そうですか、大変難しい依頼のようですね。差し出がましいようですが、是非お力になってあげてくださいね、要様」と香澄が心配顔で言えば、
「要殿、お願い致しますよ」と、母までが言う。
「はい、必ずや」と応えてみたものの、今の時点では、海のものとも山のものとも、如何ともし難いというのが本音であった。

 城を尋ね、非番だと聞いた片山という元同僚の家を訪ねる。
 よく手入れされた庭を前に、「久しぶりだなぁ」と互いに目を輝かせて再会を喜ぶ。が、今宮の話に及ぶと、やはり片山も暗い表情になってしまった。
「賄い方から三人の者が探索に出たが、二人の足取りは高田の手前辺りから先はぷっつりと途絶え、その先のことは解らなかったらしい。真、不可解なことよのう。思い当たる者も誰も居ず、賄い方だけではなく、皆首を傾げておる」
「手掛かりはないのか」
「うーん、無いと言っていいのだろうなぁ、今お主に聞いたことくらいだよ」
「昆布や干物、塩の買い付けというのは確かなのか」
「ああ、それは間違いない。中屋というのを知っているだろ、そこの番頭と出かけた」
「どうして今宮様が同行したのだ、いつものあれか」
 賄い方の役得というのであろうか、出入りの商人たちが、一年に一度、近場の名所や旨いものを食べさせる宿、小料理屋などで接待をしてくれるのであったが、今回は、商談ついでに、ちょいと遠出と洒落込み、共に今町湊までということだったのであろう。
「そうだよ、丁度今宮様がその順番に当たったということだがな」
「まぁ、いつもの慣例の範囲でということか」
「ああ、誰もが承知のことだがな、豪遊ではないし、上の方もそれは知っていて、見聞を広めるとか、ある程度仕入れ先の事情も知っておかねばならぬだろうとか何とかこじつけ、適当にお目こぼしだ。うーん、城の誰に訊いても、恐らく何も得られぬのではないのか」
「うーん……」と、二人ただただ首を傾げ合うだけであった。
「賄い方の上の方も、どう処置をしたらいいのか迷っているようだが、もう三月にもなるだろ、そろそろなぁ……」
「まさか……」と要が危惧したのは、お家が取り潰しになるかもということであったが、
「ははは、それは無いだろ、しかし、家を継ぐにしても、陽之進殿はまだ元服前だからなぁ」と、片山はそれを否定し、陽之進の心配をしてやるのであった。
「色々ありがとう、」
「だが、益々こんがらがってしまったのではないのか」
「ははは、そのようだ」
「何か新しいことを訊いたりすれば、必ず知らせるからな。こんな頼み方は切ないが、藩の方は通り一遍、型にはまった調べをしただけでとっくに匙を投げ、中屋に任せきりだ、何とか力になってやってくれ、頼むぞ、滝村」
「ああ、何が出来るか、まだ解らぬが……」
「川中島の噂は聞いてはおる故、下らぬ心配かとも思うが、こっちの方の助けが要る時は必ず知らせてくれ」と、片山は笑いながら軽く小手を敲いた。
「ありがとう」と、要は素直に礼を言うのであった。
 片山の腕は確かだ、稽古場では要と同格、何かの時は頼りにはなる。今回の件でその腕がいるとは考え難かったが、心の中で、片山の手を借りるようなことにならなければいいがと危惧はしていた。

 要はその足で中屋へ向かい、御主人にお会いしたいと告げると、丁重に座敷に通された。
 中屋に会うのは初めてではない、城勤めの折、賄い方の御用で何回か会っていた。 
「お久しぶりでございます、滝村様。お噂はこの中屋の耳にも届いております」
 挨拶が済むと、中屋はそう言って微笑んだ。
「ははははは、お恥ずかしい」
 また川中島の博徒の仲裁の時のことを言っているのだ。
「いえ、その才覚を存分に生かしての御活躍、私共みたいなも者には羨ましい限り。それに、あの連中には、時折無理難題なども押し付けられたりしておりましたので、私のみならず、町の人々の留飲も下がりました。もしもの時は御力添えを、この中屋にも宜しくお願い致します」
「ありがとうございます、ですが、話半分、いや、四分の一かな、それくらいにしといてください」と、照れを隠しながら、
「今日は……」と要が切り出しかけると、
「今宮様のことで……」と、もう察しはいっているようである。
「申し訳ございません」と、中屋がいきなり畳に頭を擦りつけるようにして謝った。
「某に謝られても……」
「それはそうでございましょうが、そのことで御手数をお掛け致しておられるのでしょうから」
「はい、今宮様の奥方様から……」
「そうでございますか、奥方様にも御心労をお掛け致し、何とお詫び致せばいいものやら」
「中屋殿も探索を出したとお聞き致しましたが、如何でございました」
「はい、今町湊迄の街道沿いの宿という宿を隈なく尋ねさせましたが、高田の手前の宿から先は皆目……」
「高田の手前ですか」
 やはり同じか、恐らく中屋は必死に探したに違いない。そこで途絶えたというのは確かなことであろうと、要は思うのであった。
「はい、街道を逸れたのではということも考えられると、脇街道の奥まで隈なく」
「それでも行き当たりませんか」
「はい」
「ところで……」
「百両ほど……」
 流石商人である、金のことを問うのを躊躇う要の心を素早く察し、少し暗い面持ちで、言葉を詰まらせるように、そう言うのであった。
 要にとっても、こういう場合、金のことは一番訊き辛い、が、先ずはそこらを疑ってみるしか手立てはないというのが現状であった。
「百両というのは……」
「はい、今町湊の海産物問屋への一年分の手付金、勿論、御城の物だけではございませんが。あっ、それにいつもより少し多めの路銀も」
 今宮の接待に必要な金額を増したのであろう。
「途中で盗賊に出遭ったとか、何かそういうこともありうるのでしょうか」
「松代から今町湊まで、人気の少ない山道もあるにはありますが、私どもの知る限りでは、一度もそんな話は聞いたことが御座いませんし、何よりも、高田の手前までは行き着いており、そこから今町湊はすぐ目と鼻の先だし、町屋の中です」
「うーん、つかぬ事をお聞き致しますが、決して番頭さんを疑ってということではありませんので」
「はい、それはもう。番頭の与吉は中野の百姓の出、ですが、お寺の紹介で、村に利発な子がいる、何とか好い商人に育ててやってはくれぬかと頼まれまして、この中屋で丁稚から叩き上げた自慢の番頭でございます」
 中屋が、その与吉に限ってそんな手落ちのあろう筈もないと言わんばかりに、自信たっぷりに言う。
「そうですか、二人一緒に行き方知れずというのも腑に落ちませんよね」
「はい。与吉にも帰りを待っている女房と子が二人おりますので、恐らく、高田か今町湊の近辺で予期せぬ何かが起こったとしか」
「それに、音沙汰なしになって三月にもなるというのも、あまりにも長いですよね。生きていれば何らかの知らせがありそうなものですよね」
「はい、ですが、私どもはまだ諦めてはおりません。必ず捜し出すつもりで、店の者達と心を一つにしております」
「とい言われますと……」
「はい、与吉は店の者達皆に慕われております、必ず生きている、何処かに居ると、そう皆で信じて……」
「今宮様の奥方様もきっと同じ御心で某に……」
「近い遠いを限ることなく、店の者が商いに出かけるときは、必ず念を押して、どんな手掛かりでもいいから、事あるごとに訊き、こんなことと思われるような些細なことでもいい、何かを集めて来よう、きっと何処かで生きているからと確認し合っております」
「それはありがたいことです」
「ですが、もう三月にもなろうというのに、未だ何の手掛かりも……」
 三月という刻の流れが、与吉を信じる中屋にさえ、その心に迷いを生じさせてきているのだろう、その心中の焦りがひしひしと伝わってくる。
「うーん」と、腕を組み考え込んでしまった要に、
「滝村様、渡りに船のようで失礼とは思いますが、この件の依頼、この中屋に一切の面倒を見させてくださいまし」と、中屋が申し出た。
「有り難きことでございますが、うーん、申し訳ございませんが、それは出来兼ねます。既に、今宮様の奥方様から手付も頂いておりますので」
 金なんぞはどうでもいい、綾と陽之進を、そして今宮を救ってやりたいという思いの強かった要には、中屋の申し出を素直には受け難かった。
「そこを曲げてお願い致します。滝村様が乗り出して戴いたのであれば、真に心強い限り。それに、こんなに手を尽くしても手掛かりすら掴めない、困難この上無き事のように思いますれば、係りのことなど気にせず、存分に動き回れますよう……」
 そう言われてみれば、この先どんな展開になるやも知れぬ、中屋の心遣いに頼った方が好いのではないか、さすれば、今宮家の負担も軽くなるであろうしと、要は中屋の申し出を承諾することにした。
 多少自腹を切ってもと思いはしていたが、勿論、長引けば滝村家にそんな余裕のある訳は無く、いつも、「この香澄にお任せください」と胸を張る香澄や、年老いた母にも心配を掛けたくはなかった。
「分かりました。では、手付の分は今宮様のご負担にして戴くことにし、それ以後のことは中屋殿にということでお願いできますか」
「ありがとうございます。では、路銀等を含めまして、先ずは十両で如何でしょうか」
「それは助かります。脇街道も含めて広く探すつもりでおりますれば……」
「もしそれで間に合わぬ時は、遠慮なく為替をお使いください。近くであれば、店の者を走らせますので」
「何から何まで、お心遣い畏れ入ります」
「いえ、今宮様も番頭の与吉も、必ずどこかで生きていると信じておりますれば、滝村様の御力、この中屋、百万の味方を得た気が致しますれば」
「忝い」

 さて、さぁてどうする。
 先ずは今町湊まで歩いてみるしかあるまいと、要は、文蔵に中屋とのことの流れを伝え帰宅すると、明日から旅に出ると香澄に伝えるのであった。
「出来るなら、香澄も一緒に探してあげたいと思いますが、それは却って足手纏い、母上様と善光寺さんにお参りし、お願い致して参ります」
「ありがとう、必ず吉報を持って帰って参りますから」
「楽しみにしております、要様」
「要殿まで迷子になりませぬよう、母もしっかり善光寺さんにお頼みしておきますからね」
「ははははは、ありがとうございます」
 香澄や母の心遣いが嬉しい。が、この旅の困難さは並のものではあるまいと、要は自らの気を引き締め直すのであった。

 そして今町湊。
 現在の直江津港であるが、昔からの湊町、西回り廻船なども中継地として寄港し、この地方や内陸の物産も集まり、ここから大きな船に積まれ大坂などへと運び出されてゆく。
 要の探索も、教えられた高田の手前の宿で途切れた。
 今町湊にある海産物問屋、小国屋を訪ねたが、現れていないということ以外、そこでも手掛かりらしいものは何も掴めなかった。
 ここまでは、藩も中屋も辿り着いている、肝心なのは、さて、この先であろう。
 一体、三月前、二人の男は、この町の何処へ消えたのであろうか。
 要は、関川沿いを今町の湊へと歩きながら、今宮の優しい笑顔を思い浮かべていた。

 要は、一度だけであるが、今宮ともう一人、台所方の料理人と共に旅をしたことがあった。藩の祝い事に供される煮貝の仕入れであったが、その時も中屋からの紹介状を片手の仕入れであったと記憶している。
 その年は、藩内に二つほどの大きな祝い事が予定され、祝いの膳には欠かせない煮貝が少し多目に欲しく、また、藩を上げてのことでもあり、他藩からの客も多人数が予定され、出来れば上物も欲しいとのことで、先ずは直接出向いて、料理人に確かめて貰おうという算段であった。
 甲府の問屋の台所を使い、共に行った料理人が幾つかの料理を作って見せてくれたが、普段は要なんぞの口に入るものではない、贅沢なほどに美味なものであった。
 その席で、駿河の海の話が話題に上り、ひとしきり花が咲いたのであるが、その夜、今宮が、「海か、儂はまだ海というものを見たこともない、要は見たことがあるか」と訊ねられたのであったが、勿論、要とて山育ち、海なんぞは見たこともなかった。
「一度でいいから見ておきたいものだな、見渡す遥か向こうまで遮るものとてなく海は続き、千石も積める大きな船の往来もあると聞く。それに何より、採れたての海の肴は、鯉や鮎なんぞとはまた違い、とても旨いらしいからなぁ」と、今宮が吐息のように言ったのを覚えている。驚くほどの好奇心の塊、甲斐の国の風物だけではなく、駿河の国や海、あらゆることに興味を示し、子供のように目を輝かせながら色んなことを問屋の者に訊ねたりしていた。

 そんなことを思い出しながら、今町湊の岸辺を歩いてゆく。
 町の外れに湊の詰め所があった。何か得られるのではないかと立ち寄ると、役人が二人と、小屋番であろうか、都合四人の男たちが暇そうに世間話をしていたが、共に、思い当たるようなことはないとのことであった。
 礼を言って去ろうとしたとき、
「お訊ねのことには関わり無き事やも知れぬが、ひと月ほど前に、北側の海岸の岩場の蔭に、草鞋を履いた旅の男らしい死骸が見つかった。大分傷んで、もう身元などの判る筈もなく、一応坊主を呼んで、その場で荼毘に付し、無縁仏として正覚寺という寺に葬ったのだが……」と、一人の役人が言った。
「何か残された物などございませんでしたか」
「うーん、漂流して流れ着いたということだろうからなぁ……」と一人が言えば、
「背格好はやや痩せ形で、着物などは擦り切れて粗方無くなっていたらしい。おい、その時の調べ書きの写しが届いておるだろ」と、一方の役人が、小屋番の男に訊いた。
「はい」と、小屋番が戸棚から杉の板で作られた粗末な書類箱を取り出して開けた。
「丈は五尺七寸ばかし、波と岩に千切られたのであろう藍染めの着物の衿が、体に巻き付く様にし残っていたとあるだけだなぁ」
 こんな調べ書きではどうしようもあるまいという風にその役人はぶっきらぼうに言った。
「待ってください」と、要は、中屋から預かった与吉の顔の似せ絵と手掛かりになりそうな事柄が箇条書きにされた半紙の入った包を取り出す。
「ここに、身の丈五尺八寸、道中合羽に藍染めの着物と……」
「なるほど、確かにそうあるな」
「似せ絵に柄も描かれてありますれば、それを見てみたいと思うのですが、叶いましょうか」
「ああ、まだ御番所に保管されてあると思うがな」
「見たいのなら、岸野という者が御番所に居る、ここで聞いたと尋ねてみるといい」
 やっと手掛かりらしいものに行き当たったと、要は、道を訊くのももどかしく、教えられた御番所へと走った。
「少しお待ち下され」と中へ消えた岸野という侍が、小さな箱を手に戻って来た。
 二人で首を突き合せるようにし、箱の中の布切れと、似せ絵に描かれたそれを見比べる。
「似てるといえば似ておるなぁ」と、岸野が呟く。
 確信というのではないが、要は何か不幸な事件の起きたであろうことを想った。
 御番所を出、詰め所に立ち寄ると、首尾を告げ、礼を言う。
「百両かぁ、廻船の加古の中には質の良くない奴らもかなりいるからなぁ」と、役人が暗い顔をして言った。
 湊で出遭った質の悪い加古達に襲われたのではないかと言いたいのであろう、さすれば、今宮も同じ運命だということになるのであろうか。
 だとすれば、捜索もここで行き詰る、が、今宮の遺体はまだ見つかった訳ではない。要は自分に、まだまだ望みは捨てぬぞと言い聞かせるのであった。

 北前船であろうか、二艘の大きな船が湊にはあった。新潟湊のほどには栄えていないと聞くが、それでも、かなりの物産が動いているらしく、湊には活気が見られた。
 要は気重になってゆく心を引きずりながら、ぼんやりと歩いてゆく。
 加古らしい男とぶつかりそうになり、肩に担いだ荷物が要に触れ、加古がそれを落とすまいと体勢を大きく崩した。
「済まぬっ」と一言、要が素早く加古の身体と荷を支え、よろけた身体を戻してやると、
「ははは、こちらこそ、申し訳ねぇ、ついぼんやりしてまして」と、笑って謝ってきた。
「あの北前船があっしの乗る船でございますが、今日は風待ち、直に西風が吹き出すと思われますので、そうしたら蝦夷地へ向けて出発ですよ」と、要が訊きもしないのにそう言うのであったが、気のいい男らしく、それからひとしきり話が弾んだ。
 「つかぬ事をお訊ねするが」と、要は、まさか一時的に寄港する北前船の加古がと思いつつも、今宮たちのことを訊いてみるのであったが、当然のこと、知る由もなかった。
 が、翌日、事態は思わぬ展開を見せてゆくのであった。

 翌日朝早く、要の泊まる宿に、昨日会った男の仲間だという加古が訪ねてきた。
「行き方知れずの方に心当たりがあるかも知れねぇという仲間がいます、間違いということも考えられますが、一応そいつの話を聞いてもらいたい、もうそろそろみんな船に戻る頃でしょうから、宜しかったら船の方まで来て戴けますか」と、丁寧に言うのであった。
 湊へ向かう道すがら訊けば、昨日の夜、仲間と飲んでいるときに、例の話が話題に上ったのであるが、仲間の一人が、ふた月ほど前に、それらしい侍を蝦夷地の松前で見かけたというのである。
 それで、皆で手分けし、今朝早くから要を探して、この辺りの宿を虱潰しに当たってくれたのだというではないか。
 要の心に、きのう偶然出遭っただけの見ず知らずの男のために、何という親切、有り難いという思いと、思わぬ希望と、不可思議な疑念が入り混じる。
 勿論、まず浮かんだのは、何故蝦夷地なんぞにということではあった。
「わざわざ済まぬ」と、七、八人ほどの加古の座る甲板の上で、要は低頭し礼を言うのであった。
「ははは、まだ西風が吹きそうもなく、暇でしたから」と、昨日出遭った加古が笑う。
 話はそう具体的なものではなかったが、恐らく、今宮に間違いは無いのではと思われた。
「松前の一膳飯屋で呑んでいるとき、その御方が、何か暗い面持ちで、すぐ後ろの席で飯を食ってましたが、傍で呑んでいる加古に、何かを訊ねていました。どうやら人を探しているらしかったのですが、詳しいことは周りが五月蠅くてよくは聞こえませんでした」
「うーん、松前ですか」
 人の情けで得られた折角の手掛かりだ、例え蝦夷地であろうとも、行かずばなるまいと心を決めた要であったが
「いえ、松前にはもういねぇと思いますよ」と、その加古はこともなげに言う。
「えっ」と、落胆する要に、
「その加古が、北前船の加古を探すなら酒田湊だよと教えていましたから、恐らく、酒田湊へ向ったんではねぇかと」と続けた。
「そうですか。酒田湊へですか」
 要の心に、また一条の希望の光が差す。
「はい、あそこの賑わいは他の湊とは比べもんにならねぇ。羽前の奥地で秋に穫れた米や何かも、最上川を船で下ってどんどん集まって来るし、蝦夷地や津軽、羽後の物産、その逆に、大坂などからの荷も集まる。荷が多いから船も人も大賑わいだ、探すんなら、やはりあそこでしょうね」と、昨日の加古が酒田湊の賑わいを教えてくれる。
「かなり切羽詰まったようなお顔でしたので、なるべく早く見つけて力を貸してあげねぇと……」と、その加古は、今宮にまで気を使ってくれるではないか。
 礼を言い、みんなの飲み代にと粒銀を渡そうとしたが、「止してくだせぇ、困ったときはお互い様でさぁ」と笑って、頑として受け取っては貰えなかった。
「兎にも角にも、酒田湊へ行ってみます」と要が船から降り、去ろうとすると、
「今夜か明日には西風が吹きます、この船が次に寄るのは酒田湊ですから、すぐ旅支度をしてこの船に来てくだせぇ、頭には今許しを貰っときましたから」と言ってくれるではないか。
 時は一刻を争うかもしれない、「忝い」と、要はその親切に重ねて甘えることにし、走るように宿へ戻ると旅支度を整え直し、今夜飲んでもらおうと、町の酒屋で酒を買い込み、酒屋の小僧に手伝ってもうと、それを手土産に船に乗り込んだ。
 風はその翌日朝から西風に変わり、船は今町湊を出帆した。

 さて、加古達の親切に縋り酒田湊へ着いたものの、探す当てなどあろう筈も無く、ただ一つ、一膳飯屋でと言ったあの加古の言葉に縋り付く様に、湊近くの一膳飯屋や旅籠の類から探索を始めてみたが、杳としてその行方は掴めなかった。
 酒田湊の賑やかさは伝え聞いた噂を遥かに凌ぐのではと思われるほどに栄えて、まだまだどこかに手掛かりのありそうな気もしないではなかった。
 少し疲れ、息抜きに最上川という大河を一度見ておくかと、湊から少し上流まで歩いてみた。
 広々とした大河の流れがその先に広がる碧い海へと繋がってゆく。その沖合を幾艘かの北前船が帆に風を孕ませゆっくりと行き交う。その雄大な風景に暫し目を奪われ、この旅の苦労を忘れさせてくれた。
 要は、こんな旅ではなく、香澄や母を連れ、この海を見せてやりたいなぁと、ぼんやりと思うのであった。
 湊近くまで戻ってくると、折しも、大きな北前船が接岸しようとし、船と河岸から大声が飛び交い、河岸には大勢の人足たちが集まり、凄い活気でごった返している最中であった。
 物珍しさ、興味津々、邪魔にならぬよう近づき、少し離れて見ていると、一団の中から一人の人足が要に近づいてきた。
 男は近づきながら、じっと要を確かめるように見つめる。その姿たるや、髭も月代もぼうぼう、見るからにみすぼらしい。が、その眼差しの優しさに、確かな見覚えがあった。
「あっ、今宮様」と、要の胸に驚きが走り、思わず叫ぶかのように声が出た。
 今宮が、驚きながらも安堵の面持ちを見せ、その体中に張り詰めていたものが失せていくように、気が抜けてゆくのが感じられた。
「やっと来てくれたか、きっと誰か助けに来てくれると信じていたが……」という言葉の力無さもそれを物語る。
 待ちに待った助勢が、まさか要だとはといった面持ちでもあった。
「一体如何なされたのですか、皆様ご心配でございますよ」
「何っ、事情を知って助けに来てくれたのではないのか」
「えっ、誰かが事情を知っているというのですか……」
「ああ、松前から事の次第を認め、これから酒田に向かうと、賄い方宛に書状を送ったのだが……」
「書状などは届いてはおらぬようですよ」
「やはりな」と、全身から力の抜けたようにへたり込む。
「やはりと申されますと」
「松前の飛脚問屋に、ここは地の果てのような所ですから、受けたものが遅れたり、時折届かぬこともあるが、それでも構わぬのであればと言われた」
「地の果てですか……」と、要も返す言葉を失った。

 要は、今町湊近くで与吉らしい遺体が打ち上げられているのが見つかり、荼毘に付されて無縁仏として葬られたと今宮に告げる。
 声を失い、目を閉じ合掌する今宮は、言葉さえ出ては来ぬ様子で俯いていたが、
「海を見に行こう何ぞと、儂が下らぬことを言い出し、与吉を誘ったのが間違いの元よ」と、唇を噛みしめる。
「海をですか」
「ああ、まだ見たこともない海がすぐそこに在ると思うと、ははは、もう気ばかりが先に立ってな、夕暮れが迫っていたというのに矢も楯もたまらず……」と、自分を蔑むように今宮は語る。
「……」
「さぁ宿を探そうと町の灯りの方へ向かい始めた今町湊の河岸の暗がりで、五人の屈強な加古たちに囲まれて……」
「金を奪われたのですか」
「ああ、奴ら、与吉の腹に巻かれた胴巻きに目を付け、畜生めらが、必死に金を守ろうとする与吉を、数回に渡って刺し、ぐったりした与吉から金を奪うと、湊の海へ蹴飛ばすように放り込んで逃げ出しおった」
 そう語る今宮の唇も手が、怒りにぶるぶると震えている。
「……」
「一人は左頬、もう一人は左の腕を斬りつけたが、未熟故の哀しさ、浅手のようで、後の連中と共に、それぞれバラバラになって闇に紛れ逃げ去りおった」
「追って来る相手は一人、バラバラになれば追いきれぬ、かなり場慣れしているということですよね」
「ああ。追いかけようとしたのだが、追うよりは先ず与吉を助けねばと思い、すぐに海を探したが、引き潮というやつだったのだろうなぁ、与吉らしい塊は、どんどん沖へと流されて行った。儂は金槌で泳げぬし、もうその先は闇で……」
 今宮の言葉尻が途切れ途切れになる、与吉を殺されたことが余程悔しく悲しかったのであろう。
「……」
「その時、船が河岸を離れだし、あの連中の二人ほどが甲板から儂を見て嗤っておるのが松明の灯りに浮かんで見えた」
「こんな失態を他藩に届ける訳にもゆかぬし、与吉はあの傷だ、もう助かるまいと途方に暮れたが、翌日から五日余りも、漁師に舟を頼んで探したり、海岸を彷徨ったり、必死に探し続けたが、遂に見つからなかった。あの船が松前に向かう船だと聞き込み、奴らは絶対に赦せぬ、機を逃せば、恐らく二度と廻り遭うことは出来ないだろうと焦り、儂は急ぎ松前に渡った」
 無念遣る方なし、与吉の仇を討たんと、無我夢中、五人の後を追って蝦夷地へまで追い縋ったのであろう。
「松前では……」
「思うようにはゆかなかった。ひと月もすれば路銀も底をつき、そのためだけではなく、その方が奴らに気取られないのではと、今日のように湊で荷揚げの人足に交じって働きもしたが、奴らも儂が追い縋って松前に来ていることに気づいたらしく、船を乗り換え、また西へ向かったか、何としても見つからぬ。その内、幾人かの者に、加古を探すなら一番の賑わいを持つ酒田港の方が好いのではと勧められここへ来てみたが、もうふた月ばかしにもなる。が、その行方は未だに掴めぬ」
「船の名は判らぬのですか」
「浪花丸という船であったが、儂が松前でその船を見つけた時はまだいたらしいのだが、迂闊にも、奴らのことをその船の加古に訊ねたのが拙かった、儂の追っていることに気づき、船を乗り換えたらしい」
「……」
「ほとほと疲れ果て、今はもう、諦めるしかない、腹でも切ろうかと思いもするが、死ぬにしても、せめてあ奴らをと……」
「滝村要、及ばずながら……」
「ありがとう、だが、これは儂の失態じゃ、要を巻き込むわけにはゆかぬ」
「いえ、中屋殿にこの件頼まれておりますれば」
「中屋殿がか」
「はい、依頼に来られ、手付金を下されたのは奥方様と陽之進殿ですが、その後中屋殿にお会い致しましたところ、与吉さんも一緒、どうしても中屋に出させてくれと……」
「流石中屋殿、店の者を想う気持ちは、どんな商人にも劣らぬのう」
「はい、未だ八方に手を尽くし、手掛かりを探し続けておられます」
「頭が下がるのう。綾と陽之進にも心労を掛けておることは重々承知だが、今は奴らをということで、儂の心はもういっぱいなのじゃ」
「解りまする、もう路銀の心配も要りませぬゆえ、二人でとことんやりましょう。与吉さんの仇を討ちましょう」
「要と一緒なればこんな心強いことはない、済まぬ……」と、今宮はその場に膝を折り泣き崩れてしまうのであった。
 ここまでの今宮の艱難辛苦が偲ばれ、要は決意を新たにするのであった。
「今宮様、先ずはそのぉ」と、要が言い難そうに自分の顎を撫でた。
「ははは、これかぁ」と今宮は、ぼうぼうの髭と月代を撫で、
「最初の頃は、奴らの目を眩ませるかと無精をして延ばしていたのだが、身だしなみを整えるその一刻さえ惜しいでのう、ついついそのままになってしもうた。が、こうまでなると、逆に目立ってしまうであろうのう。ははははは」と、やっと今宮に笑顔が戻ってきた。
 その夜、今宮は上役と中屋、そして家族に事の次第を改めて認め、翌日、飛脚問屋に立ち寄った。勿論、要もここまでのことを、綾と陽之進、そして中屋への書状に書き添えた。

 十日余りが、あっという間に流れて行った凪の続いたある日、風待ちの船がひしめき合う湊の一膳飯屋で昼を戴いている時であった。
「要殿ではないか」と、声を掛けてきたのは、何と、大坂の薬種問屋、江州屋の用心棒、あの柴田正二郎ではないか。
 互い奇遇に驚いている。
「こちらは、今宮吉兵衛様。某の元上役にございます」
「松代藩、今宮吉兵衛と申します、宜しく」
「某は柴田正二郎、ご覧の通りの浪人でございます」
 柴田に勧めれ、酒を飲みながら、
「江州屋殿がな、古い船だが千石船を手に入れた。その初航海で、松前まで薬草と昆布を買い付けに行くことになってな、船酔いに強いということで、儂がお供に選ばれた。江州屋殿は、今、船酔いで湊の宿で寝ておられるが、それでももう帰り途、だいぶ慣れてきたようだ。儂には何で船酔いなんぞをするのか、さっぱり解らぬわ」
 船酔いの苦しさは、それをする者にしか解らない、遥か彼方に見える陸まで、出来うるならば泳いでも戻りたいほどである。
「そうですか、江州屋には船酔いの薬はございませんか」
「ははは、江州屋殿もそう愚痴りながら、それらしい薬を飲まれておったわ」
「ははは、これは、どうか御内証に」
「ははは、心得た。どうだ、一緒に会いにゆかぬか」
「ですが……」
「何か事情がありそうだな、お仕事か」
「はい」
 要は掻い摘んで事の次第を話した。
「左頬と、左腕のここですね、今宮殿」と、柴田は今宮に念を押すように訊いた。
「はい、その五人、何やら古くからの仲間のようで、恐らくまだ一緒にいるものと思われます」
「よし、心しておきましょう。どうです、今夜、宿の方にお出で願えませぬか。どうしても、滝村殿と飲みとうて……」と、今宮も誘う。
「いいですねぇ、そのお気持ち、よぉく解りますが……」と、今宮は少し気後れしている。
「よしっ、それで決まった。湊の奥まったところに、朝日屋という旅籠が御座います、今夕、そこをお尋ねください」と皆まで言わせず、柴田は強引に今宮を巻き込んでしまった。
 落ち込んでいる今宮の心を察しての思いやりであろう、要は心の内で柴田に低頭するのであった。

「それはそれは、あの時に、滝村様とは深い縁がありそうだと強く感じておりましたが、やはり、そのようですね。思わぬところで再会でき、江州屋、こんな嬉しいことはございません」
 予期せぬ再会に話は弾む。
「商人としては絶対に赦せませぬ、真に腹立たしいことです。柴田様、船が出るまで滝村様の御力添えをお願い致します。手の空いている者がおりましたら、幾人でも手伝わせてくださいまし」
「心得ました」
「忝のうございます」と、今宮も要も低頭し、江州屋に感謝するのであった。

 かくして、江州屋の加勢で十数人に及ぶ者達が酒田湊のあちこちに散った。
 その翌日であった。
 色街で左頬に刀傷のあるそれらしき加古が座敷に上がったと聞き込みがあったのは。
「明石丸」という千石船の加古ということで、案内され要と今宮が湊へ様子を見に行くと、果たして、奴らが他の加古達と何やら賭博らしきことをやりながら屯していた。
「畜生めが」と勇む今宮を抑え、
「五人揃っていないのでは」と要が言う。
「しかし……」
「ここは一端退いて、五人揃うのを待ちましょう」と、要は逸る今宮を引きずるようにしその場を離れた。
「今夜か明日、風が吹きだすだろうと聞きました。今夜は船に居ますよ、そこへ乗り込むと致しますか」と、江州屋までその気で勇み立っている。
 商人を襲って殺し、仕入れの金を奪うということに、同じ商人として余程憤りを感じているらしい。が、要は、江州屋自身は、これ以上の関わりは無用、五人が逃げ出さぬよう取り囲むだけの手勢を貸してくれと頼みこむのであった。

 夕刻前、五人が船に揃ったのを確かめると、今宮を先頭に船へ乗り込む。
 いきなりのことに、甲板は一触即発の大騒ぎになった。
「板子一枚下は地獄」と俗にいわれるが、同じ船に乗る者達の仲間意識は強い。例え五人が盗人行為をやったと聞かされても、おいそれとは身柄を差し出す訳もない。
 役人を通せば、なんぞと悠長なことを言っていれば、正に、追い風に帆掛けて逃げられるに決まっている。ここは手っ取り早く五人の身柄を拘束するしかないのである。
 まぁそれでも、一応の口上は省く訳にはゆくまい。
「某は松代藩士今宮吉兵衛。そこなる五人、今町湊で我が相棒の商人を一人無慈悲に殺害、その懐から百両に余る大金を奪い、尚且つ、非常にもその亡骸を海へ蹴落とし候。速やかに身柄をお引き渡し願いたい」と、今宮が大声で奏上する。
 ざわざわと加古達の中にざわめきが広がる。
「百両だとよ、道理で奴らの金遣いが荒すぎる訳だ、おかしいと思ったぜ」といった声も聞こえてくる。
 一応のざわつきが収まると、加古達の間に、どうやら二つの意見の相違が生まれたらしく、結束は乱れ始めているようであった。
「悪に加担したくない方たちはお退きください、この五人、どうせ素直には従わないでしょうから、こちらも少し手荒になります」
 要と今宮、それに柴田が、木刀をブンブンと素振りして脅かす。
 それでも二十人ほどの加古達が口々に要達を罵りながら一歩前へ踏み出すと、一歩退いていた江州屋の加古達もそれに応じ、一歩前に体を乗り出す。
「ここは俺たちの船の上だ、他所の船の奴らに勝手はさせねぇぞ」と粋がり、手に手に持った手鉤を構えた。江州屋の加古達は、出来るだけ手荒なことは控えてくれという柴田の言いつけで、角材を二尺ほどに切りその角を丸め、今にも襲い掛からんと手薬煉を引いていた。
 とその時、一団の奥から悠然と成り行きを見守っていた、ひと際屈強な男が前へ出てきた。
「倶利伽羅の紋蔵と申しやす、お見知りおきを」と野太い声で名乗ると、
「御主が倶利伽羅のか」と柴田が唸るように言った。
「畏れ入りやす」と、倶利伽羅の紋蔵が柴田に軽く会釈をし、不敵な笑みをその顔に浮かべた。
 連れてきた江州屋の加古達に、明らかに怯えと思われる動揺が広がった。
 この倶利伽羅の紋蔵、その名の通り、背中に倶利伽羅龍王の入れ墨を背負い、難波の加古達の間では、義侠心に厚く頼り甲斐のある加古頭だと名を馳せる男であった。柴田もそれを耳にしたことがあるのであろう。
「こいつらのやったことに違いはあるまいと思われますが、皆の言うように、曲がりなりともこの船で同じ釜の飯を食った仲間だ、申し訳ねぇが、この甲板の上で渡すことは出来ねぇ」と紋蔵が宣うと、
「そうだ、そうだ」と、頭の言葉に加古達が勢いづく。
「まぁ、こんな場合は、儂らは大概喧嘩で片を付けます。が、悪い奴は赦せねぇと思いは致します。一ったん手下とした男たちだ、この船の上でそれをやられちゃぁ、この倶利伽羅の紋蔵の名が廃る。それに、皆の腹も収まらねぇ。ここはどうでしょう、陸の上でってことでは。すれば、悪いことをした奴だとは解っていても、仲間は仲間、それをおめおめと渡すことは納得出来ねぇと思う連中の気も済みましょう」
 どうやらこの男、五人を渡すことに異存はないらしい。正義はそちらにある、一応の筋を通してさえ貰えれば、他の加古達への面子も、いきり立つ加古達の気持ちも収められるという腹積もりであろう。それに、要や柴田の腕も、恐らく見抜いている、加古達が束になって掛かっても適う相手ではないと……。
「流石、噂に聞く倶利伽羅の紋蔵だけのことはある、心得た」と、柴田が応じ、引き連れてきた加古達に、ひと先ず船から降りるように促す。
 やがて、船から二十人近い加古達が下りたち、要達と向かい合う。
「畜生ッ」と、今宮に受けた頬に傷を持つ男が、恨みとばかし、いきなり今宮に襲い掛かった。
 それを合図に火蓋が切られる。
 が、三人の、いや、要と柴田といったほうがよいか、二人の素早い立ち回りに、一頻りごちゃごちゃと動きはあったものの、五人共々打ち据えられるに、そう時は要らなかった。
 あっけにとられている双方の加古達を尻目に、要が、用意してきた縄を受け取り、五人の男の一人を縛り出すまで、取り巻く加子達は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「知らぬこととはいえ、人を殺して金を奪うなんぞと見っともねぇことをしでかした連中を仲間にしてたとは、この倶利伽羅の紋蔵の不覚、申し訳ない」と、潔く頭を下げる紋蔵に、
「いや」と、柴田が顎に手をやり、困ったような顔で笑っている。
「どうぞ、焼くなと煮るなと、ご存分に」と、また頭を下げる倶利伽羅の紋蔵に、 
「流石でございますねぇ」と、進み出てきたのは、いつの間に来たのか江州屋であった。
 江州屋と倶利伽羅の紋蔵が挨拶を交わし、何やらひそひそと話をしている。どうやら顔見知りか……。
 五人以外、誰も傷つくこともなくその場はそれで収まった。
「紋蔵は、元は武士らしいですね。兎に角海が好きで、それで加古になったらしいのですが、いつの間にか人望を得、船を任されるようになったと聞きます。が、その男気は、難波に並ぶ者なしと頗る評判です。船を手に入れた時、加古頭として乗り込んではくれぬかと頼みに行ったのですが、今は出来ぬと断られました」と、引き揚げながら江州屋が紋蔵との関わりを教えてくれた。
 要は、江州屋の言葉の端に、何か思惑が秘められていることを強く感じたが、その場の高揚を乱すだけ、敢えて聞くことはしなかった。恐らく、それは柴田も同じであっただろう。
 人の命の重さなんぞを解する連中ではない、遊びの金欲しさに凶行に及んだのである、当然のことではあろうが、既に百両の金は使い果たされ、五人の懐には、幾らも入ってはいなかった。
 江州屋が今町湊まで送ると申し出、今町湊は関川の畔で、またの再開を約し、海と陸に別れた。

 高田藩今町湊の御番所に届け出、事の経緯と結末を継げ、与吉殺しの調べをしてもらい、どちらの藩で裁くのか、そんな諸々を決める松代藩の係の者の到着を待つその間に、荼毘にふされ無縁仏として葬られていた与吉の骨を受け取り、数日後、要と今宮は善光寺平への帰途に就いた。

 飛脚で一応知らせてはおいたが、帰り着くと、草鞋脚絆も解かぬその足で中屋を訪れ、与吉のことの無念を告げ、与吉の遺骨は今宮が明日にでも届けてくれるだろうと伝えた。
 中屋も唇を噛み、その体を震わせ、遣り切れぬ無念の思いを露わにする。

 今宮の書状は、酒田湊からのものの方が先に着き、すぐその後に、松前から送ったものが、三月近くも掛かり着いたのだという。
 勿論、今宮は、一応形ばかりの謹慎を三日食らったが、それは、ここまでの苦労を労う休みを与えられたようなものであろう、すぐに元の賄い方勤めに戻ったらしい。
 いや、噂はすぐに御上の耳にも届き、その執念や天晴とお褒めを戴き、近々出世の話も出ていると、後で片山が知らせてくれた。
 
 要も藩の目付に呼ばれたが、それは調べ書きの体裁を整える形だけもの、亡くなった与吉の命も、今宮の苦労も、露ほども解さぬ調べではあった。
 その数日後、今宮達が店に来ているので、皆で昼飯でもと、昼までに店まで来てはくれぬかという中屋からの使いが息を切らして走り込んできた。
 店にゆくと、今宮家の一家三人が中屋と雑談しながら座敷で要を待っていてくれた。
「滝村様、真にありがとうございました」と、綾と陽之進が要に低頭する。それを見守る今宮の笑顔が優しい。
 与吉の息子を店に入れ、与吉のように立派な商人に育て上げるのだと中屋が言う。
「いつかきっと、与吉のようにこの店を背負って立つ番頭に育て上げて見せます。それが与吉への何よりの供養になるのではと思います」と、中屋は哀しい顔の内に覚悟を秘めてそう言う。
 要も今宮も、そうなることを心から祈るのであった。

「残念でございましたねぇ、与吉さんのことは」と、母が目頭を押さえる。
「一番心を傷めておられるのは今宮様でございましょう。今町湊からずっと、与吉さんの骨壺を抱きながら謝り続けておられましたから」
「与吉さんにはご家族もいらっしゃるのでしょ」
「はい、御子も二人」
「おかわいそうに」
「残された方たちのことは、中屋殿が必ず見守ると言ってくれましたから、一安心ではありますが、やはり人としての愛しみを介さぬ者たちに殺された無念さを想うと、言葉には表されぬほど悔しいですよね」
「はい」
「要様は船にはお酔いになられなかったのですか」
「ははは、乗ってすぐの間だけでしたね、すぐに慣れ、後は平気でした。海は好いですねぇ、綺麗な碧い水がどこまでも広く続いて、やがて彼方で空の蒼に溶け込んでゆく。時折、海豚が船と一緒に泳いだり、飛魚という翼のような鰭を持った魚が海のすぐ上を何十間も滑るように飛んで行ったりするのです。香澄や母上にもお見せしたかったなぁ」
「お魚が何十間も飛ぶのですか。本当でございますか」
「ははは、初めて見た時は、私も信じられませんでしたよ。今度機会が在ったら見に行きましょう、海の物は凄く美味しいですし」と言った要の心が身構える。
「香澄さん、香澄さん、善光寺さんに手を合わせ、指切り、指切り」と、母が香澄を嗾ける。
 ほうら来たぞ。
「あ、はい、それでは要様、善光寺さんの見える縁側へお願い致します。はい、善光寺さんに手を合わせ、その指で、はい、指切り拳万、母上様と香澄に海を見せてやるとお約束を」
 ははははは、またまた上手く乗せられてしまったか、だが要、必ずやあの素晴らしい海を二人に見せてやりたいと心に誓うのであった。

 いつの間にか春の若葉もとうの昔に濃い色に移りゆき、見上げる善光寺平の空には夏を思わせる白い雲がゆっくりと東へ流れてゆく。遠くに見える千曲川の水面が、陽の光を照らし返し、記憶の隅の悔いを思い返させる。
 あの海に消えた与吉の命を、無念を、要は哀しく思いやる。その脳裏に思い出す海は、飽くまで青く美しく、今も猶要の憧憬を煽りはする。があの寄せては返すさざ波の潮騒は、人の苦しみ哀しみを優しく包み込んで時の流れの中へと刻みこんでいってはくれるのであろうが、要はその哀しみを如何なる刻が流れ逝こうが、決して忘れはしない。
 母と香澄に、いつかあの海の素晴らしさを見せてやりたい、そして、その青い海で、与吉の供養もしてやりたいと、要は、空を見上げながら目を瞑り願うのであった。

                         ‐おわり‐
     第七部へと続く。
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