善光寺平生業控 (三)雪蓮花

エピソード文字数 17,887文字

                              NOZARASI 9-3
善光寺平生業
 (三)雪蓮花
 
 秋冷の雨が冷たく重い空気を運び、善光寺平の緩やかな斜面を千曲川へと下ってゆく。肩を並べて歩く二人に、雨上がりの微風が少し肌寒さを感じさせ、あれほどの盛りを見せた秋の紅葉が一気に仕舞いへと向かい進んでいくのだろうなと、何とは無しの寂しさを漂わせ、石畳を往き交う人も皆袖に手を入れ、肩を窄めて足早である。
 見上げる善光寺平の空は、早く流れる雲間からやっと見え始めた晩秋の澄み渡った青空が、雨上がりの清しさを感じさせ、冬の近いことを知らせていた。
 善光寺さんにお参りを済まし、長い石段を下る要と香澄もまた同じように背を丸め、温かい蕎麦でも食べようかと話し合う言葉も、そんなに長くは続かない。
 参道を逸れ脇道へ入り少しゆくと、旨い蕎麦を食べさせてくれる小ぢんまりとした知り合いの店がある。自然二人の足はそこへと向かい暖簾を潜った。
「いらっしゃいませ、あらお二人でとはお珍しい」と、四十にはまだ間があろうかという女将らしい女が微笑みを浮かべて二人を迎え入れた。
「急に冷え込んできましたね」と女将が言う。
「はい、温かいお由さんの御蕎麦が恋しくなりまして」
「あら、香澄と仲良く手を取り合ってでは、それだけでぽっかぽかでしょうに」と、女将が微笑みを浮かべ冷やかす。
「ではこのまま裏へ抜けると致しますか、香澄殿」と要が腕を差し出せば、
「はい、要様」と、香澄が応じ、
「お生憎様、裏はお隣の塀でどん詰まりでございますよ」と女将が茶化す。
「ははははは」
 香澄の朋である、ここ「こふじ」の女将お由はそう言って笑いを誘った。
 お由は香澄と同じ足軽長屋に住んでいた武家の三女であるが、近所では蕎麦打ちの名人ともてはやされ、祝い事など何かにつけて蕎麦打ちに引っ張り出され、香澄は子供の頃からよくその手伝いをさせられたものであった。
 お由は一度軽輩の武家に嫁したのであるが、主に若死にされ、さっさと蕎麦屋に鞍替えしてしまい、それからずっと独り身を通して、この「こふじ」に実家の母を引き取り、共に切り盛りしていた。
 午後も少し遅く、この生憎の空模様で客もいない、少し待って、真っ黒い蕎麦色の蕎麦が出てくると、後は女二人賑やかにおしゃべりである。まぁ、たまにしか会えないのだ、仕方ないかと要は黙ってぼそぼその蕎麦を戴く。
 旨い。
 別にどうのこうのと言うほどの蕎麦でもないのであろうが、お由の打つ蕎麦、口当たりのあまり良くないぼそぼその生粉打ちであるが、蕎麦の風味が生きていて、ほんのり甘口の汁とよく合い、兎に角旨いのである。それに今は秋蕎麦の季節、信州蕎麦の味も香りも最高の季節であった。
「ごめんよ」と、暖簾が割れて男が小走りに飛び込んできた。
「あれっ、滝村様じゃございませんか」
「おっ、文蔵親分も御蕎麦ですか」と、二人顔を見合わせている。
「冷たい雨で急に寒くなりましたでしょ、客足も途絶えちまったし、畜生、仕方ねぇ、温けぇ蕎麦でも食うかと」
「内の蕎麦を食べるのに、仕方ねぇは無いでしょ、親分」と、お由が笑う。
「御無沙汰しています、文蔵親分」と、背中を見せていた香澄が振り返り挨拶をすると、
「あれ、誰かと思えば香澄様もご一緒ですか」と文蔵が、これは助かったと謂わんばかりに香澄に感け惚ける。 
「ふふふ、仕事が無いもので」と、香澄も負けずに追い打ちである。
「ははは、これはやられた」
「ははははは」「ふふふ」と、まぁこんな調子である。
「お由さん、同じの頼むわ」
「はい、かしこまりました」
「ところで滝村様、近々新潟湊から大坂までの仕事が入りそうですが」
「おっ、それはありがたい」
「書状によると、近江屋という大坂の薬種問屋の警護だそうですが……」
「何か面倒でも」と、要が文蔵の言葉尻が途絶えたのに何かを察して訊いた。
「詳しいことは書かれていませんでしたが、新潟湊からなんて変ですよね」
「はい、変ですねぇ」
「何が変なのですか」と、香澄が口を挟んだ。
 香澄の一言で締まらない会話になってしまい、二人の緊張が解れる。
 それに敏く気づいたか、香澄が慌てて「ごめんなさい」と謝った。
「ははははは」
「薬とかのああ云う荷はですね、普通なら西廻船か、陸路であれば富山から薬種会所の在る大坂の船場道修町へ運ばれます。わざわざ新潟湊から陸路を使い大坂までというのはあまり聞いたことはないですね」
「ふーん、何か曰くがあるのかもね」と香澄が真顔で首を傾げた。
「あっしもその曰くを色々考えてみましたが、まるっきり見当もつきません」
「それで当たり前ですよね、私もさっぱり解りません、大坂の薬種問屋さんが、なんで私なのかも」
「そうでございますよね。大坂で馴染みもあろうし、陸揚げされた荷の警護なら新潟湊でそれなりの人を雇えばいいでしょうから」
「近江屋さんというのは初めての依頼ですか」
「はい、十日後くらいに近江屋の番頭が参るそうですから」
「十日後ですね」

 近江屋の番頭、一蔵と名乗った男、その目、物腰から大方の信頼はおけそうな人物であった。
「荷は新潟湊で受け取り大坂まで運びます。ここから新潟湊までは荷も無くのんびりです。大坂に戻りつくまでということで、善光寺までお戻りになられるのは、ほぼひと月近くと長くなりますが、如何でしょうか」
「ひと月もですか」と、文蔵が吐息のように言った。
「いえ、私は構いませんが、何をどれくらい運ぶというのですか」
 要が心配するのは、荷の中身と、その量であったが、まぁ中身は兎も角として、大荷物では道中長旅、難儀であろう。
「御心配は御もっともでございます。中身は薬草。量は、私が背負う柳行李一つ」
「柳行李一つなのですか」
「はい、一つです」
 要の疑問に、番頭一蔵は語気を強めて即答する。
 それ以上は言えぬのだと、一蔵の顔に書いてある、
「そうですか、では何も聞きますまい」と、その頑固そうな顔つきに、要はそう応じるのであった。
「ありがとうございます」と、一蔵、要が自分の思うところをすぐに察してくれたことに、なんだか嬉しそうである。
「ですが、一つだけお訊ねさせてくださいね。何か危ないことが起きるかもしれないということを覚悟しておられるのですね」
「はい、理由は申せませんが、大坂まで何事もなく無事帰り着ければ、必ずお話し致します」
 何処か覚悟のほどを覗かせてそう言い切りる一蔵に、要は二つ返事で、
「お引き受けさせて戴きます」と応えるのであった。
「ありがとうございます、あのお噂の滝村様なれば、これで一安心です」
「親分」と要が、またかという風に文蔵を見た。
 当然のこと、文蔵が法螺話を撒き散らしている、あの川中島の賭場争いの仲裁の一件を、一蔵にもまた話したのだろうと要は思ったのである。
「いえ、あっしは何もお話ししちゃぁいませんよ」と、文蔵が笑いながら口を尖らしてみせた。
「ははは、お噂は大坂の贔屓の口入屋さんでお聞き致しました」と、一蔵が文蔵を庇うかのようにすぐに応えた。
「それで滝村様かぁ、すげぇ、大坂までも伝わってるのかよ」と、文蔵が感心している。
「はい、善光寺平に信用のおける凄腕の御方がいらっしゃると。それで、渡りに舟、口入屋さんにお願いし、文蔵親分にお手数をお掛けして戴いた次第です」
「滝村様、これは凄い、本当に凄いことですよ、京、大坂の町での評判ですからねぇ」
「変な噂を広めたのは親分じゃありませんか」
「噂だけなのですか」と、一蔵の目に不安が宿る。
「何人ぐらい斬ったとお聞きなされたのですか」
「百人とか」
「あーあ、これだ」
「大体そこいらが限界かなぁ、ははははは」と無責任に笑う文蔵を睨み付け、
「笑い事ではありませんよ、親分。一蔵さん、実際のところは木刀で三十人くらいを薙ぎ倒しただけですからね」と、要が一蔵に申し訳をする。
「ははは、それはもう、こういう噂はだんだん大きく法螺話になってゆきますのは百も承知の上です」
 まるっきりの法螺話ではなく、それでも三十人と聞き一安心したのか、一蔵の顔がほぐれる。
「ははははは、百人を百も承知かぁ、番頭さん洒落が上手いねぇ」
「ははははは」と、気楽な文蔵の言葉に、また三人大笑いである。

「ひと月もですか」
 香澄が少し不安そうである。
「はい、これが半金の十両だそうです」
「えっ、十両も。それも半金なのですか」と笑顔に豹変したのは、香澄の名誉もある、言っておくが、決して十両を目にしたからではない。
「はい」 
 十両に喜んだ香澄の顔色がすぐに曇って、
「ということは、かなり危ないのですね」と真顔で心配している。
「それが……」
「危なくないのですか……」
 要の煮え切らない言葉に、香澄の心に更なる不安が過ぎる。
「いえ、そこら辺りがさっぱり解らないのです。何を運ぶのか、ただ薬草ということしか分かりません」
「ふーん、怪しいお薬を作る薬草なのかなぁ」
「それは無いということでしたから安心ください」
「不老長寿の秘薬かも」と、香澄が悪戯っぽく笑いながら言う。
「ははははは、明後日の朝出立だそうですので、よろしくお願いしますね」
「はい、明日ではないのですね」
「はい、明後日です。番頭さんは、明日は善光寺さんに旅の無事をお願いに参るのだそうですよ」
「大事な荷を運ぶのだから、道中安全を善光寺さんにお参りするのは解るけど、やはり何だか怪しいなぁ」
「香澄の鼻に匂いますか」
「はい、ぷんぷんと」
「でも、一蔵さんという番頭さん、好い御方のようですよ」
「そうですか、要様がそう感じたのなら大丈夫ですね、安心しました」

 新潟湊までゆっくり六日、さて着いたかと思っていたら、湊の廻船問屋に立ち寄った後、さらに先の安田へ向かった。
 その夜、阿賀野川の川岸で夜陰に紛れ、いとも簡単な荷物の受け渡しが行われ、朝を待たずそのまま大坂へ向け出立したのであった。
「もういいでしょうから」と一蔵が改まり、事の次第を話し出したのは、長岡へ向かうだだっ広い田畑の中で昼の弁当を使う時であった。恐らく、その方が人に聞かれる心配もないということであろうとは察しがいった。

 背中の柳行李を下ろし、その荷を広げて、薬草であろうか、乾燥された長さ一尺ほどのそれを目の前にし、一蔵は語り始めた。
「これが何の薬だか、滝村様、お分かりになられますか」
 そう聞かれても、要に判る薬草と言えば、千振や験の証拠、後は蕺草くらいなもの、「いえ」と応えるしかない。
「そうでございますよね、私ですら滅多には拝めないものなのですから」
「拝むってことは、余程貴重な物なのですか」
「はい、不老長寿、万病に効く、その上に強壮効果も大という秘薬にございます」
「秘薬ですか」と鸚鵡返しに応えながら、要は香澄の冗談を思い出し、心の奥で苦笑いをしていた。
「ここまでの旅で、滝村様のお人柄はよぉーく分かりましたので、もう全てをお話ししても大丈夫だと」
「畏れ入ります」
「この薬草の名は、せつれんか」
「せつれんかですか」
「はい、雪に蓮の花と書きます」
「ほうっ、如何にもそれらしき名ですね」
「明の国の更に西、吐蕃の山奥も山奥、天山という高山に人知れず咲く幻の花なのだそうです。唐薬は、明の船が多くの薬草と共に長崎に持ち込みます、それを大坂まで運び船場の改会所にて調べ、薬種問屋へと流れていきますが、雪蓮花は斤目も極少量、これまでの慣例では、江州屋という薬種問屋が独占して扱っています」
「ということは、これは抜け荷の品ですか」
「ははは、違います、違います」と、一蔵が笑いながら顔の前で手を横に振る。
「ははは、安心致しました」
 いや、要、一蔵の話に瞬時驚きと疑いを覚えたのは確かであった。
「名は出せませんが、ある大藩の医者が、何処からか手に入れた雪蓮花の種を、伝え聞いた天山の気候を考慮しながら十年以上も掛け、高い山の奥で栽培に成功したものらしゅうございますが、果たして真に雪蓮花としての効能を有しているのか調べて欲しいと、出入りの近江屋に依頼がありました次第です。御存知かもしれませんが、薬草の類は改会所を通しその真物であるかを鑑定しなければなりません。先ずはこれをそこに持ち込むのですが、下手をすると、本当に抜け荷と疑われるかもしれませんし」
「で、何故極秘に大坂まで運ぼうという訳ですか」
「第一に貴重希少高価な薬草であること、それに、船場の店を怪しい男が探っていたりと、どうも狙われているような節が幾つか御座います」
「誰にですか」
「恐らく、同じ船場道修町の薬種問屋かも知れぬと」
「同業者ですか」
「はい、先ほども言ったと思いますが、明から運ばれた数少ない雪蓮花は、昔から江州屋という薬種問屋が全てを取り仕切っております」
「他所の店には扱わせたくないということですか」
「いえ、狙っているのが江州屋さんという確かな証はございませんし、御大名や分限者、挙って御所望でございますから、他の問屋も、折あらば内もと手薬煉引いているようでして……」
「敵は多いということなのですね」
「はい。ところが、幾つかの藩の中にもその薬種問屋と手を組み一獲千金を狙おうという良からぬ企みを抱く者がおるようでして、何かと不穏な動きが」
「それほど高価な薬草ということなのでしょうが、人の欲とは哀しいものですね」
「薬九層倍とか、医は算術などと嗤う人もおりますれば、薬種問屋の蔵には金が唸っているのではと、蟻のように群がってくる者もおりまして、虚々実々、ははは」
 一蔵が自嘲のように笑った。巷の悪口、恐らく本人も的を射ていると思っているのであろうか。
「今ここにあるだけで恐らく三百両は下らぬでしょうし、これを煮出したり焼酎に浸け込んだりして薬として売る時は、ざっと三倍以上、千両にもなります」
「この小さな柳行李一つがですか」
「はい、今ここにあるのはたったの二十五株です。が、やがて種を増やして、更なる増殖に成功すれば、恐らく、秘薬に群がる者は雲霞の如くに増えるかと」
 一蔵が言葉を切った意味は、要にもよく理解できた。
 まぁそれで大体の事情は呑み込めたが、果たしてこの先はどうなるのやら、それは要のみならず、一蔵にも確と分かることではなかった。
「これから先は、滝村様の従者として旅をした方が怪しまれないかと思いますので、そのようにお願い致します」
「なるほど、柳行李一つしか持たぬ旅の商人に警護が着いているなんぞは、誰が見ても余程の値打物を運んでいるのではないかと疑いますよね」 

 清水峠を越え、高崎から内山峠を行き、岩村田から下諏訪へ出たが、道中何事も起こらなかったし、怪しい者の気配も感じられなかった。
 木曽路に入り、藪原を過ぎた辺りで、要は後を付けているらしい者の気配に気づいたが、確信は持てず、また、気を遣わせてはと、一蔵には何も告げなかった。
 果たしてその夜、木曽福島の宿で初めての異変が起こった。

 真夜中、軽い鼾を掻き寝入る一蔵と要の枕元に置かれた柳行李を狙って、一人の賊が侵入してきた。
 廊下に面した床は当然のこと要であるが、一蔵は柳行李に麻縄を括り付け、その先を手首に縛り布団の中に抱き込んで寝ていた。
 襖が明けられた時から気付いていた要は、賊の手が柳行李に掛けられた瞬間跳び起き、むんずと賊の首根っこを押さえると、すかさず当て身を食わす。
 慌てて跳び起きた一蔵が騒ぎ、真夜中の宿は時ならぬ大騒ぎである。
 口裏を合わせた要と一蔵は、役人の取り調べに、路銀目当ての枕稼ぎであろうと応え、固く口を閉ざした賊に、調べもそれで終わったようであった。
「藪原辺りから狙っていましたし、迷わずその柳行李に手を掛けましたから、間違いなく雪蓮花が目的だったのでしょうね」と言う要に、
「やはり来ましたね、来るとすれば木曽路に入ってからだろう、そろそろかなぁと私も思ってはいました」と、一蔵も驚いた様子は見せない。
「恐らく何処かで雇ったのであろう小悪党で、先ずは様子見ですか」
「ねちっこくしぶといのが浪速の商人です、これで諦めるようなことはないでしょうから」と言う一蔵に、
「次は大泥棒できますかねぇ」と要が笑うと、
「滝村様が付いていてくだされば、日本駄右衛門だろうが石川五右衛門だろうが怖れることはございませんね」と、一蔵が真顔で言う。
「ははは、油断は大敵、用心して参りましょうか」
「はい」
 が、危難は立て続けに襲ってきた。

 木曽福島を過ぎると、街道は木曽川に沿って下ってゆき、往来の人も少なく、襲ってくるには好都合の場所が次から次へと現れて来る。
「来ましたよ」と要が一蔵に声を掛ける。
「えっ」
「前方の祠の蔭に二人。その脇の藪に二、三人」
 姿は見えなかったが、気配は芬々。
「だって、昨夜ですよ」と一蔵も呆れて、目を大きく見開いているではないか。
「ははは、ねちっこくしぶといのでしょ、難波の商人は」
「はい、ははははは」
 二人が祠の前に差し掛かる寸前、バラバラッと現れた五人の浪人に取り囲まれた。
「祠を背にして身を守ってください」
「はい」と、要の言葉に一蔵も道中差しを抜いて構える。
「怪我をしたくなければその荷をよこせ」と、頭目らしい浪人が一蔵に向かって言った。
「よこせと言っていますが、如何致しますか」
 要の言葉に一瞬ぽかんとしていた一蔵であったが、
「ははははは、御冗談を」と引き攣ったような表情で笑いながら、首を激しく横に振った。
 だがそれは、恐怖感からではなく、場違いな要の冗談にであろうか。
「己ッ、愚弄するかっ」と叫んだ浪人たちが、一斉に刀を抜き払った。
 早い。
 要の動きは早い。
 浪人の一人を打ち据えると、間髪を容れず素早い身の熟しで動く。
「行きましょうか」と、要が一蔵に声を懸けた後にはもう誰も立ってはいなかった。
 一蔵が慌てて道中差しを鞘に戻すと要の後に追い縋る。
「大丈夫なのですか」と一蔵、なんと倒された浪人たちを気遣っている。
「ははははは、お優しいのですね一蔵さんは。手加減はしたつもりですが、余り甘くするとまた悪いことをしかねませんので、少々痛いのは致し方ないですよね」
「あの方たちも悪いお人を襲わされたものだ、ははははは」と一蔵が笑い顔で、ちょっと申し訳なさそうに後を振り返る。
 まだ五人の浪人たちは起きあがれず、苦しがったり蹲ったりしたままであった。

 山また山の木曽路もやっと終わる馬籠宿を過ぎても、美濃路に差し掛かっても、それらしき敵の動きはなく、岐阜、そして関ヶ原と何事も無く過ぎていった。
「嵐の前の静けさみたいで、何だか嫌な感じですよね」と、ちょっと寂しい景色で如何にも賊の現れそうな関ヶ原の宿を過ぎた辺りで、一蔵が周りを見渡し不安がる。
「次の襲撃の準備に時間をかけているのでしょうね」
「用意周到ですか、でも、あんなに簡単に五人も倒されては、向こうさんだってそれなりに本気にならざるを得ないでしょうから」
「京から先、大坂までの街道は結構賑やかになるのでしょうね」
「はい、京までとは比べ物になりませぬ」
「とすると、京に入るまでが一番危ない」
「ということになりますか」

 関ヶ原を過ぎ、直に今須の宿に入ろうかという山中であった。
 三人の浪人が二人の行く手を塞いだ。
「やっと来ましたか」と、要が一蔵を振り返る。
「たった三人ですが、何だかえらく強そうですね」と一蔵が言うのであったが、前の件のこともあるのであろう、どことなく浪人たちの立ち居振る舞いに落ち着きが見られ、腕も立ちそうに感じられた。
 浪人たちは二人を囲むようにし、もう解っているだろう、何も訊かず街道脇の道へ入れという風に目線で促す。
 恐らく人目を避けようというのであろう。
 それはこちらとて好都合、役人が駆け付けるような大騒ぎになっては後が面倒である。
 少し開けた林の中で、
「諦めて、その荷を渡してくれ」と、頭目らしい男が穏やかに言うのであった。
 要が見るに、三人は、やはりかなりの手練れと感じられた。
 要も一蔵も黙したまま。
 それを頑な拒否だと察したのであろう、
「よしっ、渡さぬとなれば俺がゆく」と、その内の一人が刀を抜くと後の二人の浪人たちが少し後退し、その場を大きく広げた。が、他の二人の浪人は、鯉口を切るどころか柄に手を掛けようともしない。
 何となく不気味さを感じさせる浪人たちの動きであった。
 同じ難波は船場の道修町に店を構えているのだ、幾度も顔を合わせているのだろう、
「お話し致しました江州屋という薬種問屋の用心棒ですよ、見覚えが御座います、噂ではとても強いと」と一蔵が小声で要に言ってくれたが、要は真剣な面持ちで、一蔵に離れているようにと促した。
 それに構わず、
「ゆくぞっ」と、正眼に構えた浪人が要を促すと、一蔵は慌てて要の後方に下がった。
「宜しく」とこの場にはそぐわぬ要の応じ方に、その浪人が苦笑を浮かべる。
 恐らく、先ずは要の力量を知ろうというのであろうか。
 要が、抜き放った刀の峰を返すと右八相へ構えた。
 なんと、それを見た浪人もまた峰を返したではないか。
 そして、静かに正眼から上段に構えを移すと、空かさず小手を狙って撃ち込んできた。
 要は僅かに体を退いてそれを躱すと、袈裟斬りに出た。
 素早く小さく後ろに跳んでそれを躱した浪人が、小さく踏み込み、返す刀で逆袈裟にくる。
 鋼の擦れる音が短く鋭く響いて四囲の静寂に消え、そのまま二人が睨み合う。
 暫く睨み合いが続いたが、
「なるほど、強いのう。代わってくれ」と、頭目らしき浪人が進み出てきた。
「おうっ」と、要に対していた浪人が退く。
「陰流、柴田正二郎」
「滝村要と申します、拠る流派はございませぬ」
 まるで礼を失せぬ剣術の試合のような流れになってしまったことに要は驚いていた。
 対する浪人たちにも殺気のようなものはまるで感じられないし、腕を組んだままその場の成り行きを興味深そうに見ているだけで、一蔵から荷を奪おうというような素振りすら微塵も見られない、一体どうなっているのだ。
 柴田は刀を静かに抜き放つと峰を返し、右斜下段に構えて動かない。
 その構えからして技量は一目瞭然、要を凌ぐのではなかろうかとさえ思われた。
 が、勝負は時の運、それに、先の浪人もそうであったが、久方ぶりに秀でた武芸者と純粋に立ち合うことができることに、要の心は打ち震えていた。
 泰然と構え微動だにしないその様は、畏怖さえ感じさせ、無闇に撃ち込むことを赦さなかった。
 じりじりとした時が流れてゆく。
 要が柴田の放つ気に、言い知れぬ哀しみのようなものが在るのではないかとふと感じたその時、恰も己のその気を払うかのように柴田が一歩踏み込み逆袈裟にきた。
 八相からそれを迎えた要の剣が、辛うじてそれを弾くと、素早く逆襲に出る。
 が、まるで風のようにふわりふわりと切っ先を躱し僅かに後退するだけで、柴田はそれ以上の攻撃を仕掛けてくる気配は見られなかった。
 この男、死霊のようなものを背負うている、がそれは、よくある邪気のようなものではなく、寂しさというのか、哀愁といえばいいのか、そんな不可思議なものに包まれているように感じられた。
 が、飄として躱し続けるその動きの中に一歩でも深く入り込み過ぎれば、一撃の下に撃ち据えられることは目に見えていた。
 間合いを確実に取りながら必死に挑む要の心は、どこか嬉しさに満ちていた。
 追い詰めるように、連続的に攻撃を仕掛ける要の切っ先が、柴田の袖を掠めてピタリと止まった。
 形としては小手を取った、が、要は負けたと確信していた。
 要の剣を受け続けるその動きの中で、これほどの腕であれば、幾度かは撃ち込みを決められる機会はあった筈である。
「参りました」
「参った」
 両者同時にそう声を発し構えを解いた。
「ほうっ」と息をつく要に、
「ははははは、好い剣じゃのう、儂なんぞは疾の昔に忘れてしもうた若さ溢れる好い剣じゃ、羨ましいのう」と、柴田が満足げに言う。
「有り難き幸せ、有り難き廻り合わせ、かたじけのうございました」
 要は心を込めて礼を言うのであった。
 しばしの沈黙がその場を包んだ。
「もう宜しゅうございますか、柴田様」
 その時、後ろの方から野太い声が聞こえ、五十絡みの落ち着いた感じの男が現れた。
「おう江州屋殿、お待たせ致しました」
 柴田に言われ、何処か離れたところから見ていたのか、突然の江州屋の登場に一蔵が驚いているが、勿論、要とて同じであった。
 江州屋は要に低頭し、「好いものを見せていただきました」と言うと、一蔵を見、
「一蔵さん、お久しぶりです」と、また軽く低頭した。
「はい」と一蔵が低頭しながら応えたが、本当に驚いているらしく、言葉が続かない。
「この雪蓮花の絡繰りはご存知ですよね」と、落ち着いた表情で問う江州屋に、
「絡繰りですか」と、一蔵が腑に落ちない様子である。   
「御存じではないのですか」と、江州屋が少し驚いている。
「何のことやら、私には」
「その柳行李の中の雪蓮花は、その筋に届は致しておりませぬが、違いなく、一年ちょっと前に内の蔵から何者かに盗み出されたもの」
「えっ」
 一蔵が声を失った。
「その時盗み出された雪蓮花は一縛り三十株、盗み出したのが何処の誰なのか、どうしてあの藩に渡ったのか、藩の誰かが盗ませたのか、ここにこうしてあるのが縦しんば偶然としても、理不尽な手段であったろう事は違いなき事」
「十年もの年月をかけ、やっと栽培に成功したのだと聞いていましたが」
「雪蓮花の栽培は、その貴重さから、遠い昔、秦の国や唐の国と長きに渡って試みられてきたらしいのですが、一度たりとも成功したことはなく、一万尺、いやそれ以上の高地、そして乾燥した気候、その困難な植栽状況と、聞き知る限り、この我が国の何処であろうと栽培に成功するということはまず考えられません、十年と雖もとてもとても。この経緯、何か裏があるような気がして仕方がございません」
「裏ですか」
 応える一蔵の声に張りがない、思わぬ展開とその話に、かなり気落ちしているのであろうと思われた。
「はい、有りもしない話をでっちあげ、金儲けを企んでいるのではと」
「誰が一番得を致しますか」と要が問う。
「私が考えますには、勘定方の」と一蔵が即答し、名前だろうか、言いかけて止めたところからすれば、それなりに思い当たる節があるのであろう。
「勘定方ですか」
「はい、上方屋敷の……。商いにも通じ、尚且つ藩からも遠く、規律が行き渡らないのが上方屋敷の常、取り分けあの藩の勘定方は……」
 いかにも陰でこそこそ悪さをしていると言わんばかりの一蔵の話しぶりであった。
「近江屋さんという確信がある訳ではございませんが、恐らく、出入りの商人と手を組んで企んだか、騙されたかしてなのではないでしょうか」
「一蔵さん」と、要が一蔵を振り返る。
「まさか、うちの旦那様がそんなことをするとは、私は信じたくはございません。が、この雪蓮花が盗み出されたものだとすれば、恐らく江州屋さんの御推察なされることの方が正しいのではないかと……」
 一蔵が臍を噛みしめるかのように苦し気に呻いた。
「私と致しましては、大藩を相手に致し怨嗟を残すようなこともしたくはないし、不老長寿なんぞと浮世離れした薬草のこととて、このこと余り世間様には知られたくはございません。何軒かの問屋に目を付けていたのですが、一蔵さんが旅姿で独り西へ向かい出かけたと聞き、あ、これは何かあるなとピンときましたので、ずっと塩尻を見張らせていたのですが、藩から雪蓮花を受け取ったらしく、警護の方を連れ木曽路に入ったと連絡があり、大坂までの旅の何処かで取り返すことが出来れば事は穏便に済むのではと」
 江州屋の出方を見届けた要は、
「差し出がましいようですが、近江屋さんを説き伏せる役目、某にお任せ願えますか」と申し出た。
「滝村様が……」
「はい、乗り掛かった舟であろうと、間違ったこと判れば、それへ加担し続けるのは我が本意に非ず、最後まで事の成り行きを見とうごいざいます」
「分かりました。先ほどの立ち合い、あの真っ直ぐな剣を見させて戴き、滝村様のお人なりは解ったつもりですので、委細お任せ致しましょう」
 江州屋、要の申し出に即断の応えである。
「それから、この雪蓮花、一応は一蔵さんに近江屋さんまで届けさせてくださいますか、どういう形になるかは分かりませぬが、その後で必ずお返し致しますので」
「そうですね、その方が近江屋さんも納得がいくでしょうし、一蔵さんの役目も遂げられたということになりますね、滝村様に全てお任せいたします」
「ありがとうございます」

 近江屋は、まだ四十を少し出たくらいか、どことなく育ちの良さを漂わせていた。
 どうやらこの企み、勘定方の木村という者から近江屋に持ち掛けられたらしい。
「近江屋殿、雪蓮花の栽培に成功したというのは違いなく嘘、ここは、その勘定方の木村様に、あの雪蓮花は保存方法の拙さから既に黴てしまっており、質の良い物でなければ薬としては使い物になりませぬし、改会所の御調も通りません、次の雪蓮花の採取を待って再び試してみたいと申し上げ、手をお引きになられればと思いますが。誰ぞの手に残ったか使われたかした五株は諦めるよう、江州屋さんは必ず某が説得致します、何れ本当に黴るか使い果たされてしまうのでしょうから」
 要は、近江屋に悪意はなかったことを自分の内で確かめるとそう申し出た。
 違いなく盗品であろうし、次の雪蓮花の採取なんぞは有り得ないこと、向こうも後ろめたきことは重々承知、それ以上の無理強いをすることも無いであろう。
「実を申せば、雪蓮花という薬草は、我が近江屋にとっては三代に渡る夢の薬草なのです。子供の頃、蔵の中で遊んでいる時に偶然見つけた祖父の覚書のようなものの中に、雪蓮花に対する思いが切々と綴られておりまして、そのことを父に話すと、父もまた、祖父の死後それを見たらしく、同じ思いを抱いていたと聞き、私もいつか雪蓮花をと」
「……」
「その思いが、勇み足のように、この度のことに踏み込ませたのかもしれません。一歩踏み留まって、人の義、己の義、商人の義というものに気づくことが出来たなら、こんな過ちは犯さずに済んだものを、一蔵さんにも命がけかもしれぬ旅をしてもらうなどの苦労を掛けることも無かったものをと悔やまれてなりませぬ。私の不徳のいたすところ、どうか御赦しを」
「旦那様……」
 一蔵の信じていたように、近江屋はそれなりの義を持った商人であったことに、要は胸を撫で下ろすのであった。
「木村様のお話では、御殿様は幼少の頃から病弱で、良い薬があればと御望みのようでしたから、恐らく家臣の誰かが雪蓮花のことを知り、財政も苦しい折から盗品ではないのかと疑いを抱きつつも愚挙に出たのではないかと思われます。それに、もし栽培が軌道に乗れば藩の財政も潤うし、幕府への献上品にもなると思い巡らし……。それに奔走するうちに、やはり叶わぬことと知り、諦めたのでありましょうが、さて、残された貴重な雪蓮花の束を前にし、その莫大な金の動きに目が眩み、木村様も一枚加わり……」と、近江屋は一蔵の広げた柳行李の雪蓮花を前にし、腕組みをしながら、推察を交え語り続けるのであった。
 が、明らかに、その口の何処かで、木村、もしくは藩を庇っている、商人であれば、悪戯に事を大きくし、大藩との取引を失うよりは、ここは泣き寝入りをした方が得策と踏んだのかもしれなかった。
「それにしても、盗んだ雪蓮花であることを気取らせぬよう、わざわざそれらしく新潟湊まで受け取りに行かせるなんぞと、随分手の込んだ狂言を書き上げたものですね」と、要は鎌を掛けて見たが、
「藩の雪蓮花を一手に取り扱うことを引き受けてくれれば、この近江屋を介して藩のほとんどの産物をこの近江屋が仲介し、廻船問屋から物産屋、米穀商と多岐に渡り仕切らせるという約定になっていましたし、丁度廻船を増やし手を広げようとした矢先でもございましたから」と、近江屋はこの企みの一端を垣間見せただけで、それ以上を語ることはなかったが、
「大きな金ですか」と、吐息のように問う要に、
「お武家様とは違い、哀しいかな商人は金ですから、ご存知の通り、西廻船を使いこの難波に運び込まれる北国の米や物産は膨大なもの、あの大藩の上方での権利を占有することが出来れば、後は自ずと膨らんでいきます。利が利を呼ぶ、商いとはそういうものなのです」と苦しい胸の内を語りはした。
「……」
「ですから、多少の疑いを抱きながらも、こんな話に乗せられてしまったのでしょうね、我ながらお恥ずかしい次第です」と、自嘲気味に言う近江屋に、要はそれ以上返す言葉は無かった。
 商人の世界というものをよくは知らぬ要であったが、近江屋の言うことは自らに甘く、厳しく問えば、赦されることではないような気もした。やはり三代目、その育ちの良さがなせるものであったのかもしれない。
 
 雪蓮花は、お詫びがてら近江屋が必ず返しに来ると言う、古くからの付き合いもあり、互いに信用できる同業の商人であるらしく、それでこの件は決着を見た。
「某が推察するには、近江屋さんの言うような、勘定方などの方たちだけでなされたことではなく、どうも藩のもっと上の方も絡んでいるのではないかと。しかし、近江屋さんは、自分の欲から出たことと、それ以上は語ってくれませんでした」と、要が首を傾げながら報告すると、
「ははは、それは聞かなかったことにさせてくださいませ、近江屋さんに限らず、私とて同じ穴の貉、商人というもの、有体に言えば欲の塊、時には理不尽と判ってはいても、苦渋を呑んでそれに屈しなければならぬこともままございますれば、この度のこと、木村様方の一存でなされたことなれば、藩を相手に事を荒立てるという七面倒なことも無し、商人からすれば、それはそれで好しですよ、滝村様」と江州屋は意外とあっさりしたものである。
「なるほど」
「近江屋さんの先々代も先代も、とても出来たお人で商売上手、今の近江屋さんの礎を築いたといっても過言は無いでしょう。近江屋さんも、それに並びたい、超えたいと、日々骨を折られているのでしょう、ですから、ついつい怪しい話に乗せられてしまった。所詮商いなんてものは騙し合いと決めてしまえばそれだけのもの、しかし、詰まる所は人と人、心と心、それが無ければ虚しいものです。近江屋さんにはその大事な心がちゃんと御座います、必ずやもっともっと良い商人になられることでしょう」
 消化不良のような結末ではあったが、要としてはもう納得せざるを得ないであろう、そこから先は商人の世界、自分とは無縁といえば言える別世界のことなのかも知れなかった。
「いろいろお世話になりました。善光寺平へは何時の御出立ですか」
「明日は近江屋さんを離れ、二日ほど大坂見物を致し、それから善光寺平へ向かいます」
「一日だけ、いえ、一晩だけ、この江州屋の宴にお付き合い願えませぬか」
「はい、それは……」
「では二日後の夕刻前、お待ち致しております」
「はい、宜しく」
「勿論お酒はいけますよね」と、江州屋が悪戯っぽい笑顔を見せ、要に念を押してきた。
「はい、勿論」と、要も笑顔で応える。

 大坂の町の賑わいの中を少しぶらぶらとしては見たが、やはり人混みは性に合わぬと、二日目は朝から宿で寝坊を決め込み、その夕刻前、早めに道修町の江州屋を訪ねた。
 中から出てきたのは、江州屋と柴田の二人であった。
 江州屋は、一つ仕事を片付けてすぐにゆくから先に行って二人で飲んでいてくれということで、柴田がそう遠くない小料理屋まで案内してくれた。
「あれ以来気分が頗る好い、御主との出遭いを思い出しては酒の肴にして毎夕呑んでいるのだよ」と柴田は笑う。
「恐れ入ります。しかし御強いですねぇ、負けたのは本当に久しぶりです」
「ははは、負けたのは儂の方だよ、小手に入った刀を寸止めにしたのは御主であろうが」
「いえ、あれは、撃ち込んで来ようとしない柴田殿の懐の中で踠いて踠いて、これで諦めようとやっと刀を収める機会を得た一撃でしたから」
「ははは、あの動きの中でよくその機を掴めたものだ、感服だな。それにしても爽やかで一途な剣だ、真似しようとしても出来るものではない。流派は無いと申されていたが、何処で誰に教わったのかな」
「はい、私が教わったのは、妻の父、義父は江戸詰めの折に小野派一刀流の道場に通っていたと聞いておりましたが、皆伝なんぞは戴いておらぬと申していました」
「世の中広いのう、見知らぬ強い御方がうじゃうじゃといる、御主のような好き剣に出遭うと、またぞろ修行の旅に出とうなるのう」
「剣術修行の旅をなされたのでございますか」
 思えば、要も若き頃、剣術修行に出たいと憧れを抱いたものであった。が、一人息子、そして父の若死に、独り残される母のことを思うと諦めざるを得なかったのであった。
「ああ、十八の時からずっとな」
「十八の頃からずっとですか」
「ああ、帰るところも無いでなぁ、三十有余年の間ずっと、ははは、未だにだ」
「帰るところが無いのですか」
 自分の生まれる前からではないか……、と要はその旅の果てしなさと苦労を思った。
「ああもう無いな。我が家は軽輩子沢山でなぁ、儂は次男坊、藩も二万石の小藩だしな、剣術修行の旅とは名ばかり、実のところは体のいい口減らしだよ」と笑う柴田に、要は返す言葉が見つからなかった。
「五年ほど前に、この大坂に身も心もボロボロになって流れ着いてな、偶然江州屋殿に廻り遭うことができた。素晴らしいお人だ、儂に言わせれば、仕えるのはこの方を置いて他にないと思わせてくれた、あのお人は一国の主、名君だよ」
 立ち合いの時に感じたあの哀愁のようなものは、その剣術修行の旅の果て、身も心もボロボロになって流れ着いたということに起因するのであろうかと要は思った。が、それを柴田に問う勇気はなかった。
「解るような気が致します」と、要は頷きながら小さな声で言うのであった。
 要の沈んだ心に気づいたのであろうか、柴田は己を語ることを止め、話題を変えた。
「常雇いはあの時の二人と儂の三人だが、皆同じような境涯よ。だがな、江州屋殿の人柄かなぁ、人を見る目も確か、二人とも、件の腕も立つが、正義感の強い気の置けない連中だよ」
「江州屋さんには、人を惹きつけるものがおありなのでしょう」
「あとの二人は、今日は荷の警護で京まで出ており、この席へはこられぬ、宜しくとのことであった」
「恐れ入ります、柴田殿からよろしく御二方にお伝えください」
「承知した」
 やがて席に座った江州屋も忌憚なく語る。
「善光寺様ですか、まだ一度もお参りしたことはございません、近くに行く機会がありますれば必ずお参りさせて戴きますので、その折は案内宜しくお願い致します」
「心得ました」
「しかし、あの寸止めといい、柴田さんと対等に渡り合う方を初めて目に致しましたが、剣術の良くは解らぬ私にも、真、清々しい試合のように感じられました、まだお若いのに見事なものでございますね」
「畏れ入ります。が、あの立ち合いは某の負けです」
「えっ」
「ははははは、そんなことはござらぬよ、御主の勝ちじゃよ」
「いずれにしても、心に残る好い立ち合いを拝見させていただきました」
 酌むほどに三人互い打ち解け合い、また坏を重ねゆく。
「ははははは、雪蓮花の効能ですか、これを手に入れた彼の国の皇帝たちが殊更に長生きしたとか、病に罹らなかったとか、そんな話を聞いたことは一度たりともございません。滋養強壮とかには確かに好いようですので、それで健やかな体になり、体の基礎をしっかり作ることが出来れば、様々な病にも罹り難いということはいえるのでしょうが……」
「そんなものなのですか」
「人の口とはそういうものです、薬九層倍、増して不老不死などという見果てぬ夢のようなものが伝説のように付き纏う薬草であれば、人の欲みたいなものが強く介在するのが世の常、効くも効かぬもまた人の欲の中ということでしょうか」
「病は気からですか」
「ははははは、薬種問屋の主人ともあろうお人の言う言葉ではありませぬな」と、柴田が茶化す。
「ははははは」
「いつかまた、こうして坏を酌み交わしたいものですね。この出会い大切に心に仕舞い、またの再会を夢見ております。どうか御気を付けて」と、別れ際に言う江州屋に、柴田も笑顔で頷いている。
 同じ思いをその胸に抱き、翌朝少し遅く、眠い目を擦りながら要は善光寺平への帰途に就いたのであった。
「人の欲かぁ」と要は街道を一人歩きながらこの度のことを思い返す。
 不老不死なんぞとは願わないが、長生きしたいとか、病に罹ることが心配とか、自分にその欲が無いとは言えまい。その運命みたいなものに遭遇した時、果たして自分は心乱さずにそれを受け入れることが出来るのであろうか。
 雪蓮花を廻る人々の欲、そんなものを自分が嗤うことなど出来はしないのだ、出来得れば、人皆穏やかに生き、微笑んで死ねるような世の中になってもらいたいものだと、要は柄にも似合わぬことを願う帰り途であった。
 
「長旅、ご苦労様でした」
「御無事で何よりです、要さん」と、要のやっとの帰宅に、留守を預かっていた二人は、ほっと胸を撫で下ろしている。
「長らく留守に致しましたが、何事もございませんでしたか」
「はい、母上様とふたり、楽しくやっていましたから」
「香澄さんとふたり、善光寺さんに要の無事をお願いに何度もお参りしたのですよ」
「その御蔭ですね、こうして無事戻ってこられました、ありがとう」
「好い旅だったようですね」
「分かりますか」
「はい、要様の目を見ればすぐに」
「ははは、琵琶湖の手前辺りで剣術の試合を真剣で致しまして、見事に負けましたよ」
「えっ、要様より強い御方がいらしたのですか」
「はい、敵方の用心棒に」と、要は二人を揶揄う。
「でしたら、無事にではないでしょうに」
「お怪我をなされた様子もございませんし、嘘ばっかし」と、ふたりには信じられないらしい。
「あっ、それから、あの新潟湊から運んだ薬草、香澄の言っていたことが当たりましたね、明の国の奥、天竺の山中に人知れず咲くという幻の薬草、雪蓮花という不老不死の秘薬でしたよ」と、要が雪蓮花のことを細かに話すと、
「雪蓮花ですか、素敵な名前ですね。でも、そんなもっともらしい不老不死のお薬なんぞのお話しを作り上げて香澄を揶揄おうなんて、嘘ではないと善光寺さんに指切り拳万、お約束できますか」と、半信半疑の様子である。
「はい」と、要が香澄の目の前に小指を差し出す。
「えっ」と、香澄が目を剥き、
「ははははは」「ふふふ」と三人の賑やかな笑いが苫屋に響いた。
 自分には温かい帰るところがここにある、要は、柴田のあの哀愁を帯びた目の翳りを想った。そして柴田の剣の修行の旅に何があったと……。がそれは、今の要には解することの出来ぬものであろう、心の中に浮かび来た柴田の笑顔に、小さく低頭するのであった。
 今日もまた何処までも蒼い空の下、善光寺平の冬はもうすぐそこまで来ていた。

    善光寺平生業控
       (三)雪蓮花 終わり
        (四)へ続く
 
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