善光寺平生業控(四)虎落笛

文字数 10,955文字

                            NOZARASI 9-4 
善光寺平生業控
   (四)虎落笛

 強い北風に乗り、横殴りに容赦なく叩きつけてくる雪が頬に痛い。
 もう春が近いとはいえ、善光寺平の冬はまだまだ寒い、が、今年の寒さは殊更だ。
 要は蓑笠で身を包み、背を丸めながら風に抗うように歩き続け、文蔵の小間物屋を目指し、吹き付ける雪の中を進んでゆく。降りしきる雪はもう踝辺りを埋めようとていた。朝になれば、善光寺平は膝を超す雪に埋もれていることだろう。

 昼前に文蔵の使いが現れ、急ぎ店まで来てくれという、正月も終わろうかというこんな季節に仕事が来るのは初めてではないだろうか。まぁそれでも仕事は仕事、香澄や母の、「断れないの」という心配顔に、
「うーん、こんな季節に、それもこんな日にわざわざ使いを立てて、すぐに来られないかと頼んでくるのですから、頼まれる方にもそれなりの事情があるのでしょう、話を聞きもしないでそんなことは出来ません」とまぁ恰好良く家を出てきたのではあったが、ははは、この雪に、ちょっぴりの後悔はなくもなかった。
 店の前で、「パンパン」と雪を払い、軒下に設えられた鉤に蓑笠を引っ掛けていると、中からガタガタと引き戸が明けられ、「すみませんねぇ、こんな日に」と、文蔵が寒いだろうから早く入れという風に迎え入れてくれたが、その面持ちには、寒さのせいばかりではない少し暗いものが漂っていた。
 やはり何かあるのだと要は思った。
 店の奥を見やると、男が一人、火鉢の前で立ち上がり要に低頭した。
 日に焼けてはいたが、若いひ弱そうな侍であった。
 年の頃は、まだ二十歳を少し過ぎたばかりであろうか……。

 上田の外れの木賃宿で、善光寺平に文蔵親分という面倒見のいい十手持ちが、小間物屋を営みながら、「万相談ごと引き受け候」と看板をぶら下げている、手に負えぬことや悩み事がおありなら、訊ねて、世間話がてら相談してみるのもいいのではと勧められ、幾日も思い悩んできたその寂しさにももう耐えきれず、探し探し訪ねてきたのだという。
 木賃宿のような安宿は、様々な人が、色んな悩みや人生を背負い流れ着いてくる。宿の者は敏感にこの若者にその翳を見たのであろう。
「非は父にあります」と、梅崎兵馬と名乗った若い侍はきっぱりと言い、少し寂し気な面持ちで事の次第を話し出した。
 最初のその一言を聞いた要は、依頼の件は仇討ちなのではと直感した。文蔵の暗い面持ちは、そのことに起因しているのであろうか、何故なら、要は文蔵に、仇討ちの助っ人などは、一切引き受けませんとはっきり伝えてある。
 が、文蔵がそれを承知でこの仕事を持ち掛けてきたところを見ると、それなりの何か慮るべき複雑な事情があるのであろう。
「父、兵右衛門は、平素は温厚な良い父でありましたが、日頃から酒癖が悪く、少しでも飲み過ぎると前後不覚、更に煽る様に酒を飲み続け、目が覚めるまでのことは大方何も覚えておらぬといった有様でした。事の発端となったのは見回り方の新年の祝いの席で、件の如く酩酊していた父は、つまらぬことで人に絡み諍いを起こし、その御方に訳の判らぬ因縁をつけ脇差を抜いて迫ったそうです。その方はただ困って逃げ惑うばかり、それを庭まで追いかけ背中から一太刀、大きな傷を負わせてしまったらしいのですが、慌ててそれを止めに入った武田鉄之助様にも刀を振り翳し大怪我を。止む無く抜いた武田様の脇差が、父の酔いも手伝ったのでありましょう、もみ合ううちに、思わぬ動きの中で刀は腹部に深く刺さり……」
「その仇討ちということですか」
「はい、私が十二の時でした、父は筆頭組頭、城代家老様の親戚筋ということもあってか、話はいつの間にか武田様に非があるということになってしまいました。が、武田様は何も弁解せず、ある夜逐電、姿を消してしまいになられたのです」
「恐らく、人を殺めたという呵責がそうさせたのでしょうね」
「はい」
 人を斬り殺すとはそういうものなのだ、悪意を持ってということでない限り、人はそれを自らの心に生涯負い続けなければならぬのである。
「武田様が逐電したのをこれ幸いと、上の方々が、それ仇討ちだと勝手に画策し、事を運び、遂には上意ということになってしまったのであります」
「それで仇討ちの旅ですか」
「はい、母と二人で、もう十年にもなろうとしています」
「母上殿は」
「旅に出て五年目の冬に流行風邪で亡くなりました」と兵馬は肩を落とす。
「それは御愁傷さまです」
「それ以来、独りで各地を彷徨い続けておりましたが、半年ほど前、三月に一度の叔父からの連絡が松本の飛脚問屋に送られてきまして、武田様は、信濃の国の何処か小さな湯治場に居るようだと、一枚の絵が添えられておりました……」
 兵馬はそう言うと、懐の中から幾重にも折り重ねられた包を取り出し、大事そうに一枚の半紙を出すと、二人の前に広げるのであった。
 それは墨で描かれた、どこか小さな川べりの湯治場らしい苫屋の風景であった。
「武田様が姉上様の嫁ぎ先に送って来た書状の中に挟まれていたものらしゅうございます」
「静けさを感じさせる、好い絵ですね」と、要は、どうして武田の姉が、仇として追われる弟の隠れ住むかもしれぬその絵を渡したのだという疑問を感じながらも、その絵に対して覚えた感想を語るのであった。
「はい、見かけに似合わぬ素敵な絵を描かれる御方だと、母からよく聞かされておりましたが……」
「この絵が頼りなのですね」
「はい、これを頼りにこの半年、あちこちの湯治場を尋ね歩きました」
「信濃は湯治場が多くて大変でしたでしょう」
「はい」
「して……」
 要のその言葉に、兵馬は言葉を失ったかのように黙り込んでしまった。
「廻り遭うことができたのですね、武田殿に……」と、兵馬の心中の何かを察した要が訊いた。
「はい」
「立ち合い、叶わなかったのですね」
「はい」
 そこまで話すのが限界のように、兵馬はおいおいと泣き出してしまった。
「……」
「相手が逃げたということではないのですか、滝村様」
 文蔵が怪訝な顔をした。
「違うようですね」と要が言い終わらぬうちに、
「ううっ」と、兵馬が堪えきれぬ嗚咽を上げた。
 兵馬が何かを話そうとして嗚咽に詰まる。そしてまた嗚咽が激しくなってゆく。
「お酒は飲めますか」と要が兵馬に訊ねると、兵馬はしゃくり上げながらも怪訝な目で要を見、小さく首を縦に振った。
「文蔵親分、お酒を少し戴けますか」
 文蔵もまた怪訝な顔で要を見た。
「燗を致しますか」と、それでも要の言葉に応じる。
「はい、温燗でお願い致します」
「承知致しました。おいっ、お富、温燗で一本つけてくれ」と、文蔵が奥の方へ声を掛けた。
 やがて女将の手で運ばれてきた酒を坏に注ぐと、要が兵馬に勧めた。
 何かを躊躇い思案顔の兵馬であったが、要の再度の勧めに坏を煽った。
 四、五杯も呑むと、軽く酔いが回り落ち着いたのか、兵馬の激しい嗚咽は間遠くなってゆく。
 そしてまた少し時間が経つと、兵馬は静かに話し始めるのであった。
「武田様は、上田の東の山奥の湯治場で湯屋番のようなことをやらしてもらっているらしく、湯治場の脇に建てられた小さな苫屋にいらっしゃいました」
「……」
「私が現れたことに驚く様子は微塵も無く、静かに低頭し、済まぬと一言。そしてここまでの旅の苦労を労って戴きました」
「……」
「無口な方です、いや、今日までの謂れなき苦しい旅がそうさせたのかもしれません。誰も居なくなった夜の湯治場の湯舟に誘われ、色々と語り合いましたが、三日目の夜に、この首を持って故郷に帰りなさいと……」
「……」
「できませぬ、あんな好い御方を斬るなんぞということは、私にはできませぬ」
「……」
「儂が腹を切る、その介錯をし、この首なり髷を切り取って、それを持って帰れと、儂だという証になる家宝の脇差もここにあると、幾度もそう言われました」
「……」
 要は、兵馬の話の節々に、武田という男に対する思い入れの様なものを強く感じていた。が、要がそれを兵馬に訊ねることはなかった。

 さて、これをどうしろというのだ、兵馬の話からすれば、要に武田を討つ助っ人をしてくれというのでも無いようであるし……。
「という訳で、どうしたらいいものやら、これはやはり滝村様にお願いするしかないのではと、手下に使いを頼んだわけなのです」と、文蔵が思案投げ首、要に縋るかのように言う。
 なるほど、これは難儀なことになったと、要は兵馬の顔を窺うのであったが、恐らく兵馬とて、如何ともし難いことなのであろう。
「一度、私が武田殿にお会いして見ましょう」と、要は申し出た。
 文蔵が脇でほっと一安心したような顔である。が、要とて心の中の整理は何も出来てはいない、兎に角一度、武田という男に会って、出来たら話を聞いて、それから先はまた考えてみるしかあるまいと要は思うのであった。それは勿論、要の中に、武田という男への興味が強く湧いてきたからに他ならなかった。
 依頼金を渡そうとする兵馬に、
「私にはまだことがよく理解できていません、謝礼は全ての片が着いたときにお願い致します」と、要は言った。
 今の要には、自分が何をすればいいのかさえ分からなかったし、兵馬の心の迷いは、自分はどうしたらよいのかということ、何を要に依頼しようというのかさえも定かではないほど、千々に乱れているに違いないと思われたからであった。

 善光寺平から上田まで十里余り、男の足なら一日ではある。が雪の道はきつい、兵馬と二人、黙々と歩き続け、辺りが暗くなる頃、やっと件の木賃宿に辿り着くことが出来た。
 翌日、街道を逸れ、教わった一里ほどの道を独り行く。一昨日の雪が二尺ほども積もってはいるが、湯治場に通う人であろうか、かなりの人が歩いて踏み固められた道はそれほど難儀ではなかった。
 墨絵のような雪景色の中、小さな沢の畔の小ぢんまりとした湯治場から、白い湯気のモクモクと上がり、湯治客であろうか、男女の楽しそうな声が聞こえてくる。そこから三、四間離れたところに苫屋がもう一軒在り、棟の煙出しから立ち昇った一筋の煙が棚引いていた。
 温泉の恵みであろうか、二軒ともに屋根の雪は無く、人の暮らしの温かみが感じられる風景であった。
 粗末な造りではあるが、雪国の大雪に備えられたしっかりとした骨組みの苫屋であった。
 板戸の前に立つと、人の気配を察したのであろう、「どうぞお入りください」と中から男の落ち着いた声が聞こえた。
「お邪魔致します」と、要が板戸を開け中へ入ると、火の焼べられた囲炉裏の前に座っていた男は、兵馬であろうと感じていたのか、明らかな戸惑いを見せた。
 野武士の如き無骨な感じのその風体とは違い、その目には、穏やかな優しさのようなものが感じられた。
「滝村要と申します」と低頭する要に、
「武田鉄之助でございますが、何か御用がおありですか」と、まさか湯治の客ではあるまいといった怪訝な顔である。
「不躾な訪問、どうかお赦しください。実は梅崎兵馬殿にお話を窺いまして罷り越した次第です」
「兵馬が……」と、要の説明に返す言葉が見つからないといった風情である。
「悩んでおられます」
「そうですか。持て余しているのでしょう、あの子は優しい子ですから」
「……」
「お聞きかもしれませぬが、昔私は非番の折に私塾を開いておりまして、兵馬は幼い頃からその読み書きの塾へ通って来ていた教え子なのです」
「教え子……」
 そう聞いて、一昨日のことで納得のゆく事がいくつかあると要は思った。
「可愛い教え子の父を、弾みとはいえ斬ってしまった、こうして流離うように旅を続けながらも、自分を探し求めて彷徨っているのであろう兵馬を思うと、早く討たれてやりたい、それまでは死ねぬと思い続けてまいりましたが、いざ兵馬が現れ、いよいよかと覚悟はしたものの、哀れこの臆病者、自分の腹が切れぬのです」と、要の話を聞いた武田は、如何にも無念そうに、そう語りだすのであった。
「……」
「ご覧くだされ、みっともないこの腹の躊躇い傷、死ねぬのです、死ねぬのですよ、死ぬのが怖いのですよ」と、着物をめくってその腹に刻まれた幾筋かのまだ新しい傷を見せ、無念やるかた無き表情であった。
「……」
「兵馬に介錯して貰えば死ねるのではと……」
「……」
「これでやっと楽になれると……」
 苦渋の面持ちを隠さず語る武田に、
「濡れ衣というではありませぬか」と、要は聞くのであった。
「そうでしょうが、こういうことは当事者の思惑は関係ありません、あらぬところで勝手に画策され、その人たちの都合のいいように動きだす、そうなればもう誰にも止められはせぬのです」
「理不尽なことですね」
「あの時、私は逃げた訳ではございませぬ、心優しい兵馬に私を怨むことも斬ることも出来ぬだろう、このまま私が罪を被って逐電すれば、家は、一人息子の兵馬が継いで安泰だろうと……」
「その心根も慮ることなく、愚かな周りの者達が……」
「そういうことです、まさか仇討なんぞということになろうとは」
「仇討ちというものが美化され、それを成し遂げれば武士の本懐、これぞ我が藩の誉れと英雄のように持ち上げられ、上の者達もまるで自分の手柄のように拍手喝采、驕り高ぶる」
「そうでありましょうな。だが、それを見抜けず逐電してしまった私の不覚ですな、ああいう奸計を廻らす輩が居ようとは……」
「武田様、お客様かね」と、外から女の声が聞こえた。
「いねさんか、いつも済まぬな」
 戸を開けて入って来たのは、少し腰の曲がった老婆であった。
 手にした木地の盆には、急須のお茶と煮物を盛った器、それに御飯が二つの碗に盛られていた。
「今、みんなで蕎麦を打っていますで、すぐに温かいのを持ってきますから」と言い、それを並べ終わらぬうちに、また一人の女が盆に湯気の立つ二杯の蕎麦を運んできた。
 話の邪魔になると思っているのであろう、二人は「どうぞ遠慮なさらず召しあがってください」と要に小さく会釈をすると、ガタガタと板戸を閉め戻っていった。
 武田は、要に「どうぞ」と勧めながら、自分も両の手を合わせ合掌すると箸を取った。
「すぐ下の村々から毎日通ってくる人がほとんどで、縁も所縁も無い私に、こうして優しく面倒を見てくれます。私が病を抱えここへ流れ着いた日も、こんな雪のある季節でした。食うや食わずで転がり込んできた病の私に、この村の人たちは親切の限りを尽くしてくれ、ここの湯は体にいい、病が治るまでここでじっくりと湯治をしたらいい、行くところが無ければこの苫屋にいつまででも住まいなされと、小さな納屋をしっかりと造り直してくれて……」と、目を潤ませ言葉を呑み込む。
「そうですか」と要は短く応えた。が、それは村人の心根の優しさもあろうが、武田の持つであろう人柄の為せるものではなかったのか……。
「今は、村の子供たちに読み書きを教えたり、ここの湯屋番をしたりといったのんびりとした暮らしをさせて戴いております。先ほどのように、食べるものも、ほとんどみながああして……」
 武田は目を潤ませ、目の前に並べられた器に両手を合わせ、また深く低頭するのであった。
 盆を下げに来た先ほどの老婆が、
「もう遅い、今夜はここに泊まらせてもらうといいですよ、湯にもゆっくり浸かれるし。後で内の爺さんが登って来るから、濁酒でも届けさせるで」と言ってくれるのであった。
「ありがとうございます」と、要は小さく低頭し礼を言った。
 まだ自分の心も定まってはいない、さて、この難題をどうしたものか。それを解決するには、兵馬と武田、この二人をもっともっと深く知らなければならぬのだと、改めて思うのであった。

 この湯治場の四季の風景であろう、板壁に何枚かの絵が貼られてあった。それをじっと見ている要に、
「下手の横好きでして、お恥ずかしい」と、武田が照れ臭そうに笑う。
「いえ、絵のことはよくは解りませぬが、心落ち着かせてくれる好い絵だと私は思います。あの絵も……」
「ああ、あの絵ですか、あれは、兵馬に、儂はここに居るぞと教えるために描いた絵ですよ」
「御自分で教えられたのですか」
「はい、たった一人の肉親の姉に頼んで、暗に兵馬の叔父へ届けてもらうよう頼みました。どこそこだと書けば、必ずや、このことを画策した連中が介添えと称して押しかけてくることは必定、兵馬一人にと思い……」
「……」
「逐電し一年ほど経ち、仇討ちになってしまったと姉からの書状で知った時から兵馬に討たれる覚悟はできているつもりでしたが、ただ偶然の出遭いを待つということでは中々。もう十年にもなろうとしている、兵馬は何処を彷徨っているのだろうかと憂いつつあの絵を描きながら、ふっと思いつき、やっと踏ん切りがついた次第です」
「姉上殿が、そんなことをよく……」
「姉が私のことは一番解ってくれています、信じてくれています。あの絵を見て、終いに、この絵のところで兵馬を待つと、そして討たれるのだと心を決めたのだ、ならばと……」
「……」
「兵馬はこれからを生きる人間です、先の短い老い耄れの命なんぞでそれを塞ぎたくはないのです」
 色んなことを思い悩みながら、この男は病んだ身を引きずりここへ流れ着いたに違いない、それは旅の途中で母を亡くした若い兵馬とて同じであったろう。
「人知れず自分が死ねば、兵馬は永遠に故郷へは帰れない、亡霊のように哀しみを抱いたままこの世の闇を彷徨い続けるしかないのです。それを思うと眠れぬ夜ばかりが続き……」
 仇討という宿命を背負わされた者は、仇が見つからなければ永遠にそれを探し求めて彷徨い続けるしかないのである。そして討たれる者は、永遠に逃げ惑うしかないのである。
 この男のように、兵馬に討たれてやりたいと望むなれば、旅の途中病で死ぬことも、自ら命を絶つことすらも出来ないのである。兵馬の目の前で死ぬか、討たれて死ぬしかないのである。
 怨讐無き仇討の悲惨さは、討つ方も討たれる方も地獄なのではあるまいか。いや、仇討なんぞというものは、いずれにしても悲惨なものなのである。
「母御も旅の途中でお亡くなりになられたと聞きました。それもまた私のせいでありましょう、この母在りて兵馬があるのではと思えるほどに、まことに好き御方でありました」
「……」
 人の心の温かさの籠った濁り酒の旨き味とは裏腹に、二人は時折黙し、また語り合いつつその流れ逝く刻を共にし、ただ坏を重ねゆくのであった。
「夕刻前には兵馬殿をお連れ致します」と、要は翌朝遅く兵馬の待つ上田へ戻った。
 
 夕刻過ぎから吹きだした風が次第にその強さを増し、苫屋の板戸を揺らす風の音と虎落笛が、寂しさを弥増すかのように、夜の闇から絶え間なく聞こえている。
 今日もまた湯治の客や村の人が届けてくれた煮物や、手土産に提げてきた濁酒などを戴きながら、
「幼き頃から酒を飲み豹変する父の姿に、己は絶対に酒は飲まぬと心に決めてはいたのですが、母が亡くなり独り寂しく彷徨い歩くうちに、自棄酒というのではございませんが、いつしか酒を嗜むことを覚えました」と、兵馬は自らを責めるかのように寂しく語る。
 そう語る兵馬の酒は、ちびりちびりと静かに坏を重ね、要の目には好ましい酒の嗜み方であるように映った。
 酔うほどに、囲炉裏に対座し語り合う二人は、まるで親と子のように打ち解け、終いには、幼き頃の兵馬の事どもを笑いながら話しだす始末。
 これが仇討という哀しみを背負わされた者同士であるとはと、要はその宿命に心の内で泪するのであった。いや、きっとこの二人の心も、同じようにその哀しみを隠し、互いを慈しみ合っているに違いないのだ、自分に何が出来るのであろうかと暗中模索、思い悩む要であった。
 が、意外、要の思惑とは無縁のように、事は展開していくのであった。
「さて、湯治の皆も帰った、滝村様も居られ丁度いい」と、厳しい顔で武田が姿勢を正した。
 それを見た兵馬が、
「非は父にあります、私に先生は斬れませぬ」と、きっぱりと応える。
「儂はもう老いぼれじゃ、兵馬、お前はまだ若い、儂を斬って堂々と故郷へ戻るがいい、堂々と生きるがいい、そして御家を再興し、好き父となるのじゃよ」
「いえ、こうしてここに迷い着き、人の温かさに、そしてこの吹き荒ぶ強い風に鳴る虎落笛に、流離い惑う旅の夜に聞いた、哀しくも侘しかったそれとは違う何かを感じ、私の心は決まりました。昨日、上田のお寺に参り、父母の供養をお願い致しましたが、その折御上人様に、雑役でも何でも構わぬから暫く置いてくれないかとお頼み致しましたところ、一年でも二年でも構わない、心の始末が出来るまで御仏の御傍にお仕えしなされと御赦しを戴きました。幸いなことに、我が家も先生と同じように、私を置いて他に家を継ぐ者もおりませぬ故、誰も困りは致しませぬ。母もまた、旅に出た当初から亡くなる間際まで、あの方を仇とすることに正義なんぞはございませぬ、あなたが慕うに相応しい御方だと母も思います、自分の心に正直に生きなさいと言い続けておりました。もう迷うことなど何もございませぬ、すぐにでもこの髷を下ろす所存です」
「兵馬……」と、武田は言葉を詰まらせた。
 それ以上は何も語らぬ二人、恐らく、心奥深く共鳴するかのように、二人の心は同じ響きを奏で続けているのであろう。
 どれほどの刻が流れていったのであろうか、この二人の大事な心根を包むかのように、優しく穏やかに要が口を開いた。
「御仏にお仕えする間に心も定まりましょう、そのまま仏門に帰依するもよし、この村で百姓をするもよし、はたまた武士に戻るもよし、兵馬殿はまだ若い、じっと己を見つめ直して、それからですよ」
「はい」と応える兵馬の目には、若き歓びの光が溢れていた。
 武田が、堪えきれぬ涙を拭うこともせず泣き続ける。その涙を拭けと、兵馬が優しく手拭を無言で渡してやるのであった。

 白々と明けゆく夜明け、重き荷を下ろした二人の高鼾と健やかな寝息を聞きながら、要はまだ寝付けなかった。
 この二人の生き様と長き旅路に想いを馳せる時、果たして己であれば、如何に心の始末をつけられたであろうか。兵馬のようにも、武田のようにも、己を処することなど出来はしないだろうと思われるのであった。
 あれほど吹き荒んでいた風もいつしか収まり、虎落笛ももう鳴りやんで、辺りは真冬の朝の凛とした空気に包まれ、雪の静寂にしんと静まり返っていた。
 今度の件で要の心の片隅に巻き起こった小さな旋風は、当分の間収まりそうもなかった。がそれは、決して心乱すそれではなく、何処か春の風に似た心地よいものを要の心に残し、善光寺平のあの春が待ち遠しく感じさせられるのであった。

 文蔵にも会って礼がしたいという兵馬と二人、千曲川に沿って雪の道を善光寺平へと戻ってゆく。
 その兵馬の晴れ晴れとした表情と軽い足取りが、要には眩しくも嬉しかった。
「寒かったでしょう、ちょっと『こふじ』の蕎麦でも食べて温まりますか」と文蔵は、兵馬のすっきりとした表情にそれと察し、二人を「こふじ」に誘った。
「ありがとうございました」と、「こふじ」で温かい蕎麦を前にし改めて深々と頭を垂れる兵馬に、文蔵が困ったような顔で言葉を探している。
「止してくださいよ梅崎様。私はなぁにもしちゃぁいません、ただ滝村様を紹介させてもらっただけのこと、たったそれだけです」
「いえ、私の存在が先生を苦しめ続けるのだということは重々承知していましたから、一目でいいから会いたいと思い続け、終いに再会できたあの時、先生が腹を斬ったり自害してしまったりしたならば、私も後を追うつもりでいましたので、文蔵殿と滝村様に廻り遭わなければ、私は恐らく自ら命を絶っていたでしょう」と兵馬は己の心中を忌憚なく吐露してくれた。
 恐らくその決意は偽りのないものであったろう、そして、武田が見せたあの躊躇い傷は、決して己の憶病からではなく、自分がそうすれば、兵馬も後を追うだろうという思いがあったからではないのか、その時十二歳だったという若き心に、武田という男の教え与えた心は如何なるものであったのか。遠く想いを馳せるに、それはあまりにも重い、余人の容れぬ人と人との心の繋がりのように思えるのであった。

 謝礼をと迫る兵馬に、
「いえ、謝礼を戴くことなどできませぬ。それよりも、人として忘れてはならぬもっと好きものを、この未熟者の心の中に植え付けて戴きました。兵馬殿とお遭いできたこと、武田殿にお遭いできたこと、滝村要、生涯の宝です」と要が辞退すれば、
「滝村様、それはこの文蔵だって同じでございますよ。梅崎様、どうしてもと仰られますなら、どうです、この温かく旨い蕎麦、梅崎様の驕りということで手を打ちませんか」と文蔵が申し出る。
「手打ち蕎麦で手打ちかぁ、さすが親分、粋ですねぇ」と、要がそれを茶化して微笑む。
「そんな……」と、目の潤んできた兵馬に、
「今日は新しい門出、祝いの日ですよ、泣いちゃぁいけませんよ、梅崎様」と、文蔵が貰い泣きしながら無理に笑い顔を返している。

「これ、お由さんに戴いた御蕎麦です、皆さんで召し上がってくださいとのことでした。それから……、済みませんね、今回はこれ以外、土産も何もありません」と、要が報酬の無かったことを謝ると、
「ふふふ、でも、もっと大事なものを戴いたのでしょ」と、香澄が微笑む。
「はい、心温まるものを戴きました。無事に一件落着し、依頼の方と文蔵親分と三人で、『こふじ』の温かい御蕎麦でお祝いも致しました」
「ふふふ、内証のことは大船に乗られたつもりでこの香澄にお任せください。でも良かったですね、無事一件落着で、今日は素敵な好いお顔をなされています、その笑顔だけで香澄は十分でございます、要様」
「ありがとうございます」
「でも、上田まで行くと家を出られたままあれっきり、母上様と二人、どうしたのかと心配していたのですよ。一体何をなされていたのでございますか」
「うーん」
「ふふふ、この香澄にも黙っていたい、心の中にもうしばらく留めておきたい、そんな大事なものに出遭いになられたのですね、要様」
「解るのですか、そんなことが」
「香澄には分かります、要様の目を見れば」
「何だか、みーんな見透かされているみたいで怖いですねぇ」
 母と香澄、何だかみんな御見通しのようで、要、少し不気味さを感じているようである。
「ふふふ」と呟く、香澄の笑いがまた恐ろしい。
「心の整理が着いたら、きっとお話し致しますからね」
「その素敵なお話が早く聞けることを祈っています。必ず話してくださいね、要様」
「はい必ず」
「では、善光寺様に向かって指切り拳万、お約束致しましょ、要様」
 母は何も知らぬげに居間の炬燵で舟を漕いでいる、縁側に出て香澄と指切りをしながら見上げる善光寺平の空は、今日も何処までも青く高く澄み渡っていた。
 

    善光寺平生業控(四)
        虎落笛
           終わり
            (五)へ続く
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