第7話 横たわる母

文字数 3,061文字

 私の実家は畳屋を営み、自宅の前は隣県へと通じる交通量の多い県道で、物心ついた頃には親から「外へ出るな」と命じられていた。
 それも道理で、一家の居住スペースから外へ出るには刃物の転がる作業場を抜けねばならず、無事通過したとて自動車が右へ左へ忙しく駆けており、子どもに怪我をさせて病院に運んだり看護したりするのが面倒くさかったり、医者に払う金がもったいないという計算も働いていた感があるが、気持ちの何割かには親心が含まれている。
 真に有り難いことだけれども、「物心ついた頃」がミソで、周囲に公園だの原っぱだのはなく、親が抱っこか手を引くかしないと私は外界の空気を吸っていなかったはずで、つまり自我を得た時分にはすでに外は私にとって非日常であった。
 だから唐突に幼稚園へ行けと言われても理不尽以外の何ものでもなく、送迎のバスに乗せられるなぞは拉致同然の扱われ方で、畢竟私は車内で泣き叫んだ。入園した当初は先生も見送りに付き添った母も困惑し、なだめすかしたが、数日後には泣き叫ぶ私を無視してすみやかにバスは出発し、私は泣き腫らした目で恨みがましく窓の外の信号だの雲の散る空だのを睨んでいる。
一連の経験は私の性格形成に影響を及ぼしたと思われて、何であれ主張や交渉が苦手なのは、この時期を機にしていたのではないか。
 私の母は幼い頃に彼女の母親を亡くし、父親の手ひとつで育ち、当時としてはめずらしい職業婦人として世に出た。
 その頃に職場で仕込まれた名残なのか、旅行先なぞで写真を撮られるとなると決まって同じポーズをする。右足を左足よりも少し前に出し、つま先を前方に向ける。
 おそらく足が長く見えるポーズで、長兄を生んだ頃から中年期に至るまで例外はない。どの写真を見ても澄ました顔で右足を前に出しており、私や同胞はそういう一葉を見つけては、「また同じポーズだよ」「スタイルをよく見せたかったんだねえ」と母をからかった。
 母は横で笑っていたけれども、いま振り返るとタチが悪い。幼くして戦争を経験し苦労を重ねた娘がスタイルをよく見られたく望んで、なぜからかう理由になるだろう。
 無論、私や同胞はからかうという形で母に甘え、じゃれついていたわけだけれども、ここには看過できない問題点がある。
 すなわち、からかえる要素があればからかわずにいられない、他者を貶められる機会を見逃すことができない、それほどに私たち家族にはセルフリスペクトが欠けており、その事実が家内のあらゆる問題を運んできた気がする。
 祖母や父を相手にするのとはちがい、母を書くとなると、どうも凡庸なことしか思い浮かばない。凡庸でなんら不都合はないが、そこに旨とする冷静な客観性が足りず、それがよくない。誰にでも泣き所はあると言ってしまいたいけれども、それが強弁であることは分かっている。
 母は小説が好きであった。多読ではなかったが、当時の女流作家の本に大事にブックカバーを着けて、嫁入りの際に持参した茶箪笥にしまっていた。小説好きだがそれをつまびらかにはせず、瀬戸内寂聴さんが『源氏物語』を現代語訳したとき私は書店に勤めており、めずらしく興味を示したので全巻をプレゼントした。もっとも書店を辞めた後は何年も働かず、家の外にはエロビデオと酒とタバコを買いに出る以外をしなくなったので、親孝行をしたうちに入らない。
 母は私が中学一年生のときに胆のう炎か何かで入院した。入院を決めるまでは毎晩ゴミ箱に嘔吐し、父に怒鳴られるまでグズグズと病院に行かない。行ったら即入院が決まり、子ども心につらい記憶である。
 いかにも小説好きらしく、その入院生活中の日記をしたためていたと知ったのは、彼女が亡くなった数年の後だ。
 プライベートを侵犯していると自覚していたのだが、読むことをやめられず、担当の医師がタイプだったらしき記述などは、「アラアラ」と思って失望よりも微笑ましい。
 見舞いに来てくれた友人らに感謝を述べる一方、体調が思うように回復しない不安、あるいは折り合いの悪かった祖母を「お母さん」と呼ぶなど、あの時期感受できなかった事情が記されて、感じ入るところが多々ある。
 しかし、最もショックを受けたのは同胞らの行動である。
 私は兄弟の中で年の離れた末っ子で、母が入院した時期にはすでに同胞らは自動車免許を有していた。
 病院は自宅から数キロ離れた位置にあり、活発な子なら自転車を漕いで会いに行くだろうが、あいにく私にはそういう自発性が備わっていなかった。家の外に出ることをためらうのに、自宅から数キロ先なぞは、負担という意味において、ほぼ海外旅行である。
 しかるに同胞らは車を操り毎日交代で見舞いに訪れていたのである。
 それは感心だけれども、一度くらい弟を連れて行ってやろうとは思わなかったのだろうか。
 手術後の経過が優れず、日記の日付と私の記憶を合致させると、母は三か月ほど入院していたのだけれど。私とは別の方向で、同胞らも奇矯な面を持ち合わせていたのだろう。
 退院後、母はにわかに更年期障害の様相を呈し始めた。しんどいのか、昼間から横になる。
 それは構わないが、父との寝室に嫌悪感が生まれたのか、なぜか私の部屋の私のベッドに横になる。当方は思春期であり勘弁願いたいが、抗議したところで常にない暗いまなざしを向けるだけで返事をしない。
 この時期父の商売がうまくいかなくなり、叔父の訃報や祖母の老耄があり、家内に険悪なムードが渦巻いた。
 その一々に対処する知恵を私は有さず、加えて母の様子がおかしいと来て、いま振り返れば、私は自覚しない面で神経をすり減らしていたらしい。
 この時期から数年の後に仕事をしくじって私は自宅から出なくなり、祖母と父が派手な喧嘩をして、親戚が仲裁に訪れるなどの騒動があった。
 どうにか事態が鎮静したその夜に、母は私と駆けつけた親戚の前で、めずらしく弱音を吐いた。
 それを聞いた自分の口から、なぜあのようなひどい返事が出たのか、いまもって分からない。働いたり働かなかったり、金銭面はもちろん心身を含むあらゆる面で母に甘えて、その母を失っても平気との表明を、どうして示したのだろう。
 あのとき、母は傷ついた。けれど、同時に許してもいた気がする。
 身勝手な期待で、実際のところは不明だけれども、その期待が成立する面が母の母たる所以であるか。
 一個人の意思と自由を無視し、役割に閉じ込めていることを承知しているのだが。
 ときを経て二度の脳梗塞により母は左半身に麻痺が残り、けれどその状況で私は実家を出た。淋しそうではあったが、どこか吹っ切れた雰囲気で、母は反対をしなかった。
 実家を出た翌年に賞をもらい、電話を掛けた母は歓んでいた。平生、ゲイ官能小説でお金をいただいていたことを恥じていないつもりだけれども、セクシュアリティを伝えなかったしジャンルも教えなかったのだから、疚しさは有しているのか。親子の間柄であっても、すべてを語らなくてよいのか。
 実家の子ども部屋から出ない時期にワープロを叩きながら、『禁じられた遊び』の主題歌を聴いていた。
 不意に母が部屋に入ってきて、
「いい歌聴いとるじゃん」
 と名古屋弁で言った。職業婦人だった頃、職場の同輩とか結婚する前の父と、デートで鑑賞したのだろうか。
 どう返事をしたのか憶えていないのだけれども、そのときの母は昔を懐かしむような、どこか誇らしげな顔をしていた。
 ナルシソ・イエペスの哀切なギターの音色が、不意に耳によみがえる。
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