第2話 焼かにゃあ治らん

文字数 2,252文字

 コロナ禍およびその影響下においてあらわになったのは、どんな珍妙な理屈に基づいていても、ヒトは信じたいものを信じるという点ではなかったか。
 もっとも科学をベースに解明された現在の常識から過去の常識を再検討すれば失笑を禁じ得ず、だから先人らを愚かと切り捨てることは、天に唾することなのかもしれない。現在の当たり前だって十年もすれば古くなる。
 私の祖母は実子である私の父と茶碗の飛び交う喧嘩を繰り広げたり、過失により家を半分燃やしてしまったり、下血により緊急搬送された病院の医師に「今日明日には」と宣告された夜に意識を取りもどして、輸血の管を引っこ抜き入院着を脱ぎ捨てて病院を脱走、および捕獲されたりした豪快な明治生まれの女であり、畢竟親族に疎まれ友はおらず、内孫の私が飯を運んだり背中を拭いたり、徘徊に出た彼女を拾いに夜の街を車で疾走したり。
 貧乏くじを引いた気分であって、しかし振り返ると、それだけではない気持ちも混じっている。
 二三十代の私は自分に自信がなく社会との格闘を避けており、代わりに祖母の世話に徹することで「俺も役に立っている」と偽の自己肯定感を得て、彼女を嫌いながら彼女がいつまでも手のかかる存在であることを望んでいた。分かりやすく共依存である。
 それから、元来うちの家系は守備型の生活を選びがちであり、それはカタルシスに遠く魅力に欠けて、だから万事攻撃型の祖母に眉をひそめながらどこか仰ぎ見ていた。けれど、祖母が安牌という概念を持たなかったから、私の父やその同胞たちは、祖母を反面教師に防御型となったのかもしれない。
 家を半分燃やしたことに因して祖母が高齢者向け介護施設に入所したとき、久しぶりに彼女の娘から電話を受けた。この叔母はうちの家系においてはめずらしく情が濃く、親の面倒を見たい気持ちはあるが、自身が病を得て他者の助けなしに生活が成り立たない。
 祖母の世話を私が嫌々ながらに務めていたと彼女は知っており、「いままでありがとうね」と絞り出す声で言った。「あのひとは烈しい性格だから……焼かにゃあ治らん」
 祖母は親族ともめると、幼い私を連れて墓参りに出かけた。古いタオルで御影石の墓を曇りなく磨き上げて、掘られた墓の文字に指を突っ込み、汚れを拭い落とす。
 墓の周りの雑草を抜き、下手をすると左右両隣の墓周りの草まで抜き始める。
 ようやく清掃が済むと花を供えて線香に火を点けて、砂利の敷かれた地面に膝を突き、数珠と共に手を合わせて首を垂れる。
 私は横で退屈しながら祖母の真似をして手を合わせ、ときどき目を開けて祖母の皺だらけの顔や、草履をはいた足の踵の、渇いた大地に似たひび割れを盗み見ている。
 下血し運ばれた病院に、私は週に二回見舞いに行った。当時はパチンコで口に糊しておりスケジュールに制約がなく、長く悩まされたがその分関心を寄せた祖母の最晩年を見届けないと、私自身の何かの決着がつかない、そんな思いがあったのかもしれない。
 祖母は肉体を酷使する仕事に従事していたためか爪水虫を患っており、大げさではなく両手の親指の爪の厚さが一センチ近い。
 けれどベッドにちからなく横たわる彼女の爪は薄く、病院の看護師さんが処置したに相違なくて、なんとはなしに申し訳なく、けれど現実には「プリンをなぜ買ってこない薄情な孫」「見舞いに来ただけで感謝しろ。他の孫は顔も見せないのに」と通常運転の会話をしてしまう。実際彼女は死ぬのを忘れたかのように元気で、けれど半年ほどの後に思い出したごとく亡くなって、あれから四半世紀、祖母について考えることもめっきりへった。
 けれど先日ある光景が脳裏を一閃し、直後、慄然とした。
 入院した病院で孫ほどの年齢の女性看護師に何かを伝えられて、祖母は、我に返ったように「はい!」と大きく返事をしたのだ。
 目撃した瞬間から違和感があった。けれど何から違和が生じたのか考えを進めなかった。五十の年齢に至り遅まきながら気づいたのだが、あれは、あの大きな返事は、集団生活に飼い慣らされた者の反応ではなかったか。
 介護施設には海千山千の介護職員がいるだろうし、祖母には太刀打ちできない強者たる先輩入所者がいたことであろう。攻撃一辺倒では通用しない施設に入り、祖母は従順な姿勢の表明として、いつの間にか「はい!」を体得したのだろうか。
 ――ずっと、豪快な女だと思っていた。けれど、ほんとうにそうか。一族のもろもろの問題を直視しないためには、祖母をスケープゴートにするのが最も楽だったのではないか。祖母の通夜に参列してくれた介護施設の職員が指先で涙を拭いていた、「とても温厚で、笑顔の素敵なおばあさまでした」
 祖母は単に荒んでいたのではなかったか。老いて疎まれ冷たく扱われて、焼いてでも治す何ほども彼女は有しておらず、治すべきは優しさを欠いた私どもの酷薄な性質ではなかったか。
 ちがう。そうではない。それもあるけれどもそれだけではない。
 私は思春期後半には物書きを標榜しており、けれど凡庸たる自分にはネタがなく、祖母を実態以上に豪快と定めることで、ひとつ武器を得た錯覚に陥っていたのではないか。だから、彼女を実態以上に異端視したのか。
 墓参りを終えると、祖母は霊園近くのマクドナルドへ私を連れてゆく。フィレオ・フィッシュを共に食べて、テーブルの向かい側、祖母が銀歯をむき出しに笑っている。
 マクドナルドは明治生まれの彼女にとって、ハイカラであり、そこで過ごす時間はほぼ非日常であった。
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