第6話 穴

文字数 3,763文字

 うつ病により失職した叔父が私どもの家で養生したのは、私が小学一年生の頃であった。季節は覚えていないけれど、寒くはなかったので春か夏か。
 叔父は何度も失職と就職を繰り返し、父は晩酌をしながら「困ったモンだ」と母に呟いていた。
 その光景を思い返すと、たぶん本気で父は困っているわけではなかった。声音に嘆きや怒りが籠っておらず、また父は弱っている人間を本格的に批判することができない性分で、たぶん世間一般の尺度から「困った」と嘆いてみたものの、心の奥底では「落ち着くまで休めばいい」と投げやりに、諦め半分に、かつ労りの気持ちから考えていたのではないか。そうであるからこそ、叔父を家に招き衣食住の面倒をみたのではなかったか。
 中学三年生のときに叔父が亡くなってからも、父は叔父の悪口を言ったことがなく、むしろ意思的に叔父の名を口にしないよう努めていた節がある。同時に、晩酌の場での情緒が安定しなくなったのは、叔父の死を切っかけにしていた気がする。いや、バブル経済が弾けた余波により、収入が激減したことも影響したのか。
 ほんとうのところは分からないけれども、小学一年生の私は、賢しげに叔父に問うた、「仕事しなくていいの?」
 父と母の会話を聞くともなく聞くうちに叔父が働いていないと知り、そのことに父と母が頭を悩ませているらしいと子どもなりに察して、浅知恵を働かせたのだと思う。その詰問が叔父にとってどれだけ残酷か一顧だにせず。
 外へ出ようと玄関を開けたところだった。逆光により叔父の顔は影に黒く染まり、けれど激した声で「何ィ」と叫んだ。悲鳴に近かった気がする。私は慌ててトイレに逃げ込み、叔父は追って来ず難を逃れた。
 逃れたと思った。中学三年生の早朝に、電話で叔父が自死したと知らされるまでは。私の不用意なひと言はそれに関係したのではないか。そう気づくまでは。
 就職氷河期に向かない営業職に就いてしくじり、何年も無職のまま実家の子ども部屋から出なかったり、ゲイ官能小説で多少稼ぐようになってからはアルバイトや派遣社員を転々としたり。
 その経験から思うに、非正規雇用の者は業務に対してチャレンジする意欲を失う。
 それは当然で、チャレンジして成果を上げたところで給与がアップするでもなく、ミスをすれば雇い止め、ならば指示されたことだけやろうと計算するのは人情である。
 また指示を出す正社員もチャレンジを非正規雇用の者に命じて、結果が芳しくなければ昇進や給与に響き、であれば無難な道しか選ばない。
 実際には己のプライドや、クモの糸に類する正規雇用の僥倖を期待して業務に熱意をもつ者も少なくないが、意欲に乏しい者が一定数点在し、目標目的の不統一が社内に充ち満ちて、その積み重ねにより我が母国の企業は発想力や競争力を失したのであり、人件費抑制なる目先の欲に直行した報いとして世界規模の経済競争に敗北して、いまも敗北を続けている。
 そうしてしみじみ思うのは、転職を繰り返した叔父は、おそらく非正規雇用だったということだ。当時はそのような言葉はなかったし、あったとしても一般的ではなかったが、叔父はいい歳をしてアルバイトか日雇いか、健康保険や厚生年金と無縁の生活をしていたのではないか。
 いまよりも精神疾患に対する偏見が強く、薬の効き目はどうだったのだろう。入院をしていた時期があった気がするし、思い違いの気もする。
 振り返ると実際にそんなことがあったのだろうかと疑うけれども、祖母から話を聞いたことは間違いない。
 戦後何年という時期、祖母と、父や叔父を含む子どもらは焼失を逃れた名古屋の木造長屋に住んでいた。
 平屋で、あの時代なので当たり前だけれども住民はみな貧しく、壁には穴が空いており、その穴から隣家の童女が祖母らの暮らしを時折覗き見た。
 幼い好奇心や退屈を厭う気持ちからの行動で、悪気はなかっただろうに、それをことのほか叔父は気にして、ある日童女の目を箸で突いた。
 失明したのか免れたのか訊かなかったけれども、「医者の治療代が痛かったぞ」と祖母は述懐した。童女の健康を損なったことを苦に病むのではなく、大金を払ったのが痛かったという話であり、ますます祖母を軽蔑したけれども、改めて考えれば罪悪感は言わずもがなであり、とにかく生活費の捻出に苦慮したことは彼女の実感であろう。
同時に訝るのは、叔父の鬱屈の濃さである。その時期は叔父も分別のない子どもで、しかし目は突かないだろう。普通。
 戦地からもどった祖父は、仕事が見つかったと告げて家を出て、しばらくもどらなかったと聞く。タコ部屋に運ばれて奴隷のようにこき使われて、逃げ出して祖母らの前に現れた彼はボロ雑巾に似ていたと聞いた記憶があるが、祖父、叔父、私と交換可能な労働力とは、話ができすぎではなかろうか。
 長屋に住んでいたのは祖父が不在の時期で、祖母がリヤカーを引いて片道何十キロの先の農家から卵を仕入れて、また何十キロを歩いて名古屋にもどり売りさばく。
 そうやって一家を養い、土地を買い家を祖母は建てたのだけれども、癇癪持ちの性格だから、その時期は子どもらにつらく当たったのではないか。当たらずとも男親がおらず、その生死すら不明で、叔父の不満や怒りは彼のうちに沈着して、ある日爆発したのか。
 叔父は整った顔をしていた。体積も大きくていわゆる役者顔というのか、舞台に立てば、さぞ映えただろうと思う。太秦辺りに生まれていれば役者にスカウトされていても不思議はなく、けれど彼が成功し大御所として扱われる姿は想像できない。翻って大部屋役者として地道に映画の世界にしがみつく姿も、やはり似合わない。職にあぶれ病状に苦しみ、途方に暮れた彼の姿だけが、淡い水彩画のように思い出されて、そのまま私のうちに染みつく。
 父も母もいなかったのか。いや別の部屋におり、私は小学生で、窓際の陽がよく入る位置に、めずらしく叔父と二人きりになった。
 叔父の手には小型のカッターが握られていた。商売柄、我が家にはその手の道具がそこら中にあった。
「これで肌を切ったらどうなるか知っとる?」と叔父が言った。「血が出るよ」
 叔父に昼間の陽が当たっていた。カッターの刃にも当たっていた。叔父はいくらか青ざめていた気がするが、これは記憶を書き換えているのかもしれない。
 私は一切の反応を示さなかった。示すことができなかったと記すほうが正確である。恐怖とは違うしおどろいたのとも違う。けれど逃げることも叫ぶこともできず、ただただ叔父の隣で固まっていた。
 それほど長い時間は経たず、叔父は顔をゆがめた。笑ったらしかった。
「冗談冗談」とタバコで黄ばんだ歯を見せて、叔父はカッターをポケットにしまった。
 あのとき、叔父はほんとうに冗談を口にしたのか、長く疑問は残った。かつて「仕事しなくていいの?」と責めた甥っ子を傷つけたい衝動を、青ざめた顔で必死に抑えていたのではないか。
 けれど最近になり、彼はほんとうにへたくそな冗談を口にして、彼なりに甥っ子との距離を縮めたかったのかもしれないとも思う。ただ、何一つおもしろくなくて裏目に出たのではないか。
 それ以上には考えが進まなくて、なぜならば考えたところで事実にはたどり着かず、けれど確実なことは、叔父との思い出はトイレの前での失言とカッター、この二点だと言うことである。いや、ウイスキーを飲みすぎて、洗面器に顔を突っ込んで吐く姿も覚えている。
 叔父と散歩や買い物に出たことはなく、どんな歌手が好きか、どんな青春時代を送ったのか聞いたこともなく、どんな仕事に就き辞めたのか、本は好きか、カレーとラーメンではどちらが好きか、そんな与太を交わしたこともない。
 おそらく、叔父は私に関心がなかった。あるいは、関心をもつゆとりがなかった。当方がこだわるほどには、先方は私にこだわっていなかったのではないか。
 その推察に思い至り気づく。トイレの前での失言を犯したとき私は小学一年生で、叔父が亡くなったのは中三のとき。つまり八~九年の月日が流れ、私の言葉は叔父を傷つけただろうけれども、亡くなる直接の要因と考えるのは無理がある。どうしてこの常識的な判断に思い至らなかったのか。
 たぶん――、叔父の死に関係した罪悪感は、私にとって甘美だった。罪を背負うことで特別な存在と感じたかったのか。しかも、黙っていれば誰に咎められることもない罪である。
 申し訳ない、という気持ちが土から滲み出る雨水の質感で湧く。私にとって都合のいい物語から、叔父であり、私自身を解放したい。
 スマートフォンのアラーム機能を止めて、のろのろとベッドから抜け出し、食パンとミルクコーヒーの朝食と喫煙を済ませて仕事に出かける。調子がよければ安定剤を服用しないし、悪ければ服む。
 五十を過ぎて小汚い独身の男に警戒を示すひとびとがいるのは自然で、しかしまじめに働いていれば、和んだ表情で接してくれる者がいつの間にか増える。さもない世間話を交わし、「食べる?」と差し出されたお菓子を、「ありがとうございます」と受け取る。
 綱渡りに似た、けれど安定に通じる暮らし。
 いつの間にか叔父の年齢を軽々と超えて、あと二三年もすれば、彼の死から四十年が経つ。
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