第1話 白桃

文字数 2,191文字

 父は、風呂に入らなかった。
 進学や出奔に近い形でよその土地に住み、五十幾年のうち彼と間近に暮らしたのは三十数年だが、その三十数年の間に湯船に漬かったのは十ぺんあったかどうか。何しろ姉の結婚式の日にも母の葬儀の日にも、叱責同然に尻を叩かないと風呂場に向かわない。
 私どもの生家は歴史ある色街の外れに位置し、煌々とネオンを灯すソープランドの向かいにスーパーマーケットだの八百屋だのがあって、地元民はけっこう平穏に日々を過ごしている。過ごしているが、親分を出迎えるために盛装したヤクザ五十名ほどが色街を貫く県道に整列していたり、酔っぱらった出稼ぎのホステスらが真夜中に怒鳴り合ったり。
 その光景を日常として成長したので、父の風呂嫌いを当たり前に受けとめていたが、内心では世間一般の常識と照らし合わせて恥ずかしく、けれど水が怖いのか単に面倒なのか、とにかく夏でも冬でも湯に触れない彼の性質は、ヤクザの整列やホステスの怒鳴り合いと同様に、そういうものだと認識せざるを得ない。
 母が脳梗塞を患ったとき、私は三十代半ばで無職の身であり、折悪しくやる気に充ちていた。朝から「仕事をするので声を決して掛けないでくれ」と父母に厳命し、自室に引っ込んで文章を書いた。
 夕刻に至り書き物に一区切りをつけて居間に入れば、悄然と母が座っている。顔色が冴えず父は寄り合いに出かけて、問えば左足がおかしいと言う。左手にも力が入らないと。
 脳梗塞を疑い慌てて車で病院に運び、果たして入院となった。私がもっと早く異変に気づけば避けられたかもしれないけれど、退院した彼女の左半身には麻痺が残った。
 母の入院中に書いたポルノ小説が当選し、母を放置する形で私は上京した。風呂にすら入らない父と身体の不自由な母の暮らしは悲惨になると覚悟しながら上京した。
 けれど父は、家事全般を意外と甲斐甲斐しくやると、電話の向こうで母が言う。洗濯や買い物や掃除を日々行い、あまつさえ徒歩十分ほどの喫茶店へ出向く折には、母と腕を組んで歩く。母は世間体を慮り、介護用歩行器や杖の使用を試みなかったから、父を杖替わりに用いたわけである。
ご近所の方々は「熱々だね」とか「仲いいね」と冷やかしたようで、そのとき父はどんな顔をしたのだろう。苦虫を噛み潰していたのか、あるいは外面が存外によかったので、「熱々だよゥ」と冗談で返したのか。
 その母が逝き十数年、色々とありながら私は東京にしがみつき、他の同胞も同居を検討せず、父は晩年を独りで過ごした。八十に至りて自動車を運転し、しかし衰えを自覚し自ら免許証を返納して、それからは自転車を操って競輪に行き、自分でコロッケだのメンチカツだのを揚げて、毎晩大酒を飲む。私どもがそばにいれば「少し控えろ」とうるさいはずで、当人は束縛されず深く息を吸ったかもしれないし、テレビだけを唯一の音源とした広い生家の居間で、重い孤独の味を舐めつくしたのかもしれない。
 新型コロナにより移動が制限された頃、父が入院したと私は知らなかった。何度掛けても電話がつながらず、長兄に様子を見に行くよう要請した段階で、初めて伝えられた。肺に腫瘍が見つかり、父は「あいつには黙っておけ」と長兄に命じたらしい。
 独居を強いられた怒りが「黙っておけ」につながったと長兄は判じている雰囲気だが、そうではないと私は思った。五十を過ぎて何を人生の軸に置いているのか不明の末っ子、短気のくせに冷酷になれず、貧しく喧嘩に弱い己にそっくりな末っ子、そいつのいまだ安定しない自立を邪魔してはいけない、そう考えたのではなかったか。
 父は、いつも対処が遅い。麻痺を残してから母に夫婦の情愛を示したように、死にかけてようのこと息子の未来を案じる。
 けれど、その頓馬さは拭いがたく私のうちにも在る。歴然と在る。
 退院して父は生家に生還し、けれどコロナ禍であり外出を制限されて、体力を著しく失っていった。
 再び入院の仕儀へと至り、個室のベッドの上で痙攣、意識消失、危篤へと陥り、やっと長兄は不出来な末弟に連絡する気になったらしかった。
 早朝に電話を受けたのに、私は喫煙やスマートフォンのゲームに勤しみ、ぐずぐずと昼すぎまで家を出なかった。その気持ちは、自分でも説明が難しい。
 新幹線で地元に戻ると日が暮れており、自粛なのかソープランドはネオンを消して、しかしコンビニエンスストアの前では労務者風の二人連れが、顎までマスクを下げて缶酎ハイを片手に大きく談笑している。
 病院に着き、同胞やその家族である甥や姪らと簡単に挨拶を済ませた。危篤から脱した小康状態で、医師の好意により面会を許されており、独りで個室へ入る。
 父は、酸素吸入器を装着し眠っていた。ベッドの横の折り畳み椅子に座り顔を眺めて、廊下の明かりが洩れ入るだけで室内は暗い。
 十分か、それ以上が経った頃、不意に父が目を開けて私を見た。右肘で支えながら上半身を起こしかけて、濡れた目を見開きながら、私に左手を伸ばした。
「俺です。分かる?」私は椅子に座ったまま、落ち着いて言う。「大丈夫。寝ていいよ」
 父は左手を下ろして、また横になり目を瞑った。
 すぐに寝息が聞こえて、耳たぶや頬が、産毛のある白桃のように染まり、彼はほとんど安眠している。
 シーツを肩までかけ直し、私は病室を出て、それが、父を見る最後となった。
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