餌食になった人形

文字数 20,821文字

半球型の頭部の中心。カメラを保護する黒いゴーグルには無数の傷が刻み込まれ、くすんでいた。逆さにした円錐状のボディにマークされた剥げかけの企業ロゴは、かろうじて原形をとどめている。
 純白だった特殊硬セラミックのボディは埃やチリに覆われ、薄茶色く変色しているだけでなく、オイルのシミは何度拭っても取れなかった。ボディに混ぜ込まれた無数の微細な金属粉の反射がどこか場違いに思える。
 どのくらい眠っていたかは解らないが制御中枢や動力機関はボディの中に納まり、つなぎ目はしっかりと密着していたおかげで、鉄クズ置き場に廃棄されていた割には状態が良く、もしかすると最近まで使われていたのかもしれない。
 足や車輪、履帯と言った走行装置のような物はついておらず、その代わりにシトリミネアカンパニーの工業部門に買収された、L-アセルズ社製小型フライングシステムとフロートユニットが搭載されている。
 Mk-45とシンプルな名前の彼女、もしくは彼は2世代前の自立行動型ドローンではあるが、まだまだ現役で稼働中である。動力部分の各種パーツの経年劣化による故障が廃棄の理由だと予測したが、替えのパーツだけでなくリペアサービスが生きている現状、それだけで捨てられるというのもおかしい。
 念の為、移動手段を奪ったのは正解だった。一通り整備を施し動力を入れたとたん、Mk-45はめちゃくちゃに作業台の上をのたうち、床に転げ落ちた。制御中枢に生じた異常が廃棄された原因のようだが、墜落でもしたのだろうか。まぁそれはどうでもいい。Mk-45と出会えたのは本当に幸運だった。
 拾われる以前はどれほどの時間を稼動し続け、人間に貢献してきたのだろうか。それがちょっと狂ってしまっただけでこの仕打ちとは涙が出てくる。だから今度は僕が使ってやる。
 狂ってしまった制御中枢に手を加え、正常に戻してやる必要はない。そんな評価は他人、あるいは自身が自身に下す、自身以外の誰かに映った時の様相でしかなく、その言葉に意味は無い。
 僕はあくまでただの技師だ。狂ったと評し、壊れたから直して欲しいと、アンドロイドや機械を持ち込む、人間側の意志を汲み取って金を貰っているに過ぎない。僕はMk-45が狂っているとも思っていない。だから少し、新たな行動プログラムを遂行できる余地だけを設けてやる。狂っているという言葉を使っているのはただ単に便利だからだ。
  Mk-45の頭部から伸びるケーブルの先に繋がれたLITOが、インストールの完了を告げるとさっそく解析に掛ける。今しがたMk-45に導入したプログラムは動作しており、他のプログラムもそれを阻害していない。PIとの自動リンクも正常だった。それだけ確認できれば充分で、Mk-45にフライングシステムとフロートユニットを戻す。
 Mk-45を持って外へ出た。滞留していた夜の湿った空気が緩やかに衣服に浸透して肌を冷やす。闇色に染まった空を扇ぐと、密集するクリアプレートが月光を透かして、その存在を微かに主張していた。
 降り注ぐ紫外線を遮断し、陽光だけをエリア内に満たす無数のヘックスは、空港や港といった一部、外部エリアへのアクセス航路を除いた所以外をすっぽりと覆い、エリアをエリアとしてたらしめている最も解りやすい壁だった。Mk-45はそれの修繕と交換作業を担っていたドローンの1体である。
 地面に置いたMk-45の外部に電源装置は無く、ケーブルで繋いだLITOにシステム側からアクセスして、内部から電源を入れなければならなかった。動力を入れると沈黙していたゴーグルの中心に青く光が灯り、逆さまにした卵のようなボディが宙空に浮かび上がる。
 フライングシステムが起動して、折りたたまれていた両翼が展開するなり、Mk-45はケーブルの緩い拘束を断ち切って上空へと登る。
 右往左往を繰り返し、時には大きく円を描いてみせながら、町の中心部に乱立するビル群の方へと飛んで行く。直線的ではない挙動は機械らしくないが、その分、枠組みから外れた動きはどことなく美しく、物悲しくも思える。
 エリア、という巨大なコミュニティの1住人で、その中に無数に存在する狭いコミュニティの1つに強制的に加えられ、技師として暮らしながら息を詰まらせている僕は、彼らのような機械の孤独が羨ましい。
 Mk-45は僕が放った264体目の機械だ。僅かに光る街の明かりの中にMk-45が完全に溶け込むのを見届け、穴蔵の中へと戻る。プログラム名を検索にかけ、膨大な数のファイルに収まるPIのシステムプログラムの中から、1つだけを絞り込む。
 Mk-45と自動リンクした際に組み込まれたそれを迷い無く削除すると全身の緊張が弛み、僅かに覚え初めていた興奮のような物は鳴りを潜める。徐々に温められようとした血が急速に冷めていくようだった。体が勝手に身震いする。
 気は進まなかった。とても残酷な仕打ちだ。彼女、もしくは彼達は何も知らないし、何の疑いも持ってはいない。電源が落ちている時なんて、なすがままだ。
 しかし彼女、もしくは彼達はあらゆる所に溢れている。家のハウスキーピングをして、路上のクリーニングを行い、企業のオフィスでのサポート、建設現場なんかはもはや屋根の無いファクトリーの様である。
 空中を飛び貨物の輸送をすれば、海中でのプラント建設及び地質調査を人間の限界を遥かに上回る時間と速度で作業を継続し、そんな彼女、もしくは彼達に混じって働きつつ生活を営む人間は管理する側に回っている。だからこのやり方は僕が直接行うよりも効率が良くて危険も少なかった。
 他の、あらゆる人間が理性を失い、本性を曝け出そうとも、僕だけは自身を見失わずに理性的でいなければならない。それが、怖かった。沸こうとしていた血はそのままに、理性を崩壊させる事ができたらどれだけ楽だろう。胸の中に溜め込んだ息を全て吐き出した。穴蔵へと戻る。


 彼女、もしくは彼達の調達には時間がかかったが、それ自体はそこまで苦労しなかった。修理を依頼された機械にソフトを仕込む事も稀にしたが、ほとんどは、時たまパーツ漁りに寄るスクラップ場にMk-45のように原形を保ったまま捨てられ、腐食を始めている物を中心にした。
 役目を終え、あるいは何らかの障害で作業の継続ができず、新機種に立場を奪われ、声無く屑鉄の山に行き着いた彼らは、新たな役目を与えるのにうってつけだった。
 電源を入れてすぐに動ける彼女、もしくは彼らは少なく、大抵は修理や整備が必要だったが3、4体目辺りから最低限に留める事にした。オイルを差し、塗装も塗り替える事もあったが、経年を完全に払拭するのも止めた。
 身近に置き、僕のサポートをさせる予定ではないし、どこかの誰かに売ろうという魂胆でもない。必要以上のケアを施してしまうと、愛着が沸く。息を吹き返した彼女、もしくは彼らにはPIとの自動リンク機能を付随させた上で、野良になってもらわなければならなかった。
 50体目を放った辺りから主や目的を喪失し、街中を宛も無く彷徨う彼女、もしくは彼達の回収が強化されるエリア規律が立案されたというニュースを耳にするようになった。
新たに立案された規律は滞り無く、すんなりと正式な物となった。業者が駆除に乗り出し、回収された彼女、もしくは彼達は競売にかけられ買われていったり、分解されてパーツとなり、どこぞへと流れていったが、再びスクラップ場行きになる物も少なくなかった。
 がっかりする。野良犬や野良猫などと比べると大違いだ。有機物の無慮な駆除に怒りを燃やし、巨大な保護施設まで建設した奴らも、相手が無機物となったとたんに残酷になる。そうなった自分にすら気付いていないのはいささかどうかと思うが、それは良くも悪くも変化の現れのように僕の目には映った。
90体を過ぎた頃から傷害や暴行、殺人などの事件がポツポツと起き始め、〝荒れ〟を実感すると共に、体内監視用のナノマシンの異変にも目が向けられるようになった。拡散は順調に進んでいるようだった。
 プログラムを弄れないわけではない。やらなかっただけだ。物理的機能部分に生じた損害を修復し、以前と同じように仕事ができる状態に戻すのが僕の仕事で、他人の持ち物の機能中枢に手を加え、何かアクシデントでも起こしてしまえば賠償問題に至る。
 何より依頼主は、特定の部分を直して欲しいと、僕の所に壊れた機械を持ち込んでくるのだから、例えそれ以外の所に問題があったとしても、僕が手を入れる必然性が無ければ、そこまでのサービスをしてやる義理も無かった。
 僕の所に機械を持ち込むクライアントは、壊れた機械が保証期限を過ぎているか、何らかの理由でメーカーに修理を頼めず、民間のファクトリーでは金がかかる為である事が多かった。
 それでも要望に精一杯応えれば大きな評判にはならなくても、ひとまず客足が遠のく事はなく、そこで保たれていたバランスは丁度良くて、プライベートの確保には困らなかったから気分転換に言語の羅列に手を加える作業に没頭できた。
 直した彼女、もしくは彼らに組み込んだのは3年前の春先に、アロルドに仕込んだソフトに改良を加えた物だ。PIにシステムを入れるのは簡単だ。しかしそれだけで実行する程、単純でもない。きちんとインストールしてソフトを組み込んでやらなければならないが、一々認証させたり許可を下させてしまうと気付かれる。
 どう、認知させずに組み込ませるかをずっと思案していたが、プログラムそのものを変えてしまう方法を思いつき、機械側にPI通信機能を取り付け、自動リンクした際にナノマシン制御プログラムを書き換えられるように手を加えた。
 PI間同士のやりとりは継続的なように見えるが、常に断続的である。網膜のレンズ同士が重なった時に数秒間、相手の基本情報が表示されしばらくの間履歴に残る。彼女、もしくは彼達にはそれぞれ、性別も人種も職業も違う、架空の個人の基本情報を持たせてある。
 これでしばらくは気付かれなかったが、保安局が捜査を進めていたようで120体辺りからプログラムが公となると同時に、機械達に疑念が向けられるようになった。
 彼女、もしくは彼達の不買運動が起きるだけでは留まらず、理性を失った人間が破壊しようと、自立型の彼女、もしくは彼の行動を妨げた事により起動した自己防衛システムで怪我を負った事件がそれに拍車をかけた。
 たったそれだけで、あれだけ生活に浸透していた機械と、人間の関係に綻びが生じてしまうほど、信頼の基盤は泥の壁のように硬いようで、脆かった。
 トレイルがカーブに差し掛かり、体が右へと傾く。元に戻った際に起きた物音で背後を振り返ると、毛髪以外の装飾を取り外された少女型のアンドロイドが首を傾げている。持ち主は彼女を、エマと呼んでいた。
 エマは街の中心部にあるスイーツファクトリーの軒先で、宣伝文句を唱いながら道行く人間に試供品を差し出すのが役目だったが、反アンドロイド団体とみられる集団から暴行を受け、無惨に破壊された状態で数日前に僕の所へやってきた。
 お菓子の宣伝文句が耳に障ったからでも、配っていた食品がまずかったわけでもない。彼女はアンドロイドだからという理由だけで破壊の対象として選ばれた。
 PIのトップを網膜に表示する。プレイリストの中の1つを選択する。スピーカーから音楽が流れる。買ったばかりの新作のアルバムは、普段好んで聞いている曲よりもテンポが早く激しく頭も悪いが、汚い言葉だけは使われていない。暴力的な表現は規制に引っかかり、市場に並べられなくなるからだった。
 しかし今最も暴力的なのは、それを規制しようと言い出した人間達である。にまにまと笑いながら「私はあなたの味方だから大丈夫だ」とすり寄って来るような奴らである。そんな理想の人間像の体現達が僕のウィルスで制御を欠き、今まで押さえ込んでいた衝動や悪意を露にして互いに傷つけ合い、何の罪も無い物を襲って疑心暗鬼になっている。
 エマは1軒のお菓子屋が保有する、ただの店舗宣伝アンドロイドだ。基礎骨格こそシリコンスキンで覆われているが、性処理用ドールのような乳首も上部ホールも下部ホールも第2下部ホールも無く、口内に収まっているのは声帯を模した小型スピーカーだけである。彼女は店の内側と外の世界を繋ぐインターフェース以上でも以下でもなかった。
 今の環境を作り上げ、誰もが優しい社会を構築したのは全て自分達だと言うのに、結局そんな社会に見合う理想を本当の意味で体現していた人間なんかいないではないか。説かれていたのは、単なる詭弁だったではないか。
 ギターのメロディが心地良くて鼻歌が漏れた矢先、また背後で物音がした。さっきよりもそれは大きく、見てみるとベルトで緩く固定していたエマがシートの上で頽れている。ゼリービーンズのような濃いグリーンのカメラが上目遣い気味に僕を見据えている。
 上半身を屈めて狭いシートの間から後部座席へ足を伸ばすと、トレイルが僅かに揺れた。倒れたエマの隣に腰を降ろし、彼女の体を起こしてやる。柔らかく冷たいシリコンスキンが肌にぴったりと吸い付く。
 彼女はとても、優しかった。人間のようにすり寄っても来なければ、せっかく信頼したのに、裏切られるなんて事も無い。何も言わず、表情1つ変えず、僕の領域に過度に入り込まず、ただそこにいるだけのエマとの居心地はとても良い。
 中断していた鼻歌を続けかけて、止める。スピーカーの音楽は次の曲へと移っている。エマの隣で足を組み、虚空に視線を落とす。新たに流れ始めた曲に聞き覚えは無く、あまり好みでもなかったがなんとなく耳を傾けていたかった。

 
 香り付けされたシロップの甘い匂いを漂わせている店の主人は不機嫌そうだったが、そう見えるのはやつれているからだった。PIに表示された基本情報を見た限りだとリチャードというらしい。社会的信用度も客商売をしているせいか、それなりに高かった。
「どうも」
 渡された金を受け取り、それと引き換えにトレイルからエマを降ろす。その際に一瞬、垣間見えたリチャードの顔には明るみが差していたような気がしたが、次に見た時にはもう仏頂面へと戻っていた。
「いや、助かったよ。こいつは、エマは娘が嫁に出た時にプレゼントしてくれたんだ。私がいなくなっても寂しくないようにってな……」
 リチャードの声はそこまで不機嫌ではなく、かといってご機嫌でもなく、言ってしまえば普通であったが、それに表情は伴っていない。
「だけどしばらく、表に出すのは止めにしよう。また壊されたら、今度は怒りを抑え切れそうにない。持ってこさせておいてなんだが、あんたも気をつけるんだ。ここ最近、なんだか物騒だ。気が立っている連中が増えた。みんな怖がって必要以上に家から出ないし、ロボットがいるとなるとなおさらだ。商売上がったりだよ」
「だから配送代をケチりたくて、僕が直接持ってくるよう指定したのか」
「悪かったよ。謝るからそんな棘のある言い方をしないでくれ。宅配だとほら、持ってくるのは機械だろう? それよりだったら、同じ人間の方が安心できるんだ……」
 リチャードの眉が下がり、声量も小さくなる。遠回しに自分の気持ちを解ってくれよ、と言われているのに勘づいたが無視した。
「それは、どうだろうな。現に物騒だと解っていながら、そこに僕を来させているじゃないか。どこか安全な場所での引き渡しの提案も無かった。だけどまぁ、それは僕も同じだし、これも仕事だと思えば仕方が無い。これ以上の文句は言わないけど、その意見には賛成しかねるよ」
「……あんた、そこらの人間とはなんだか違うな。例の、いつの間にかPIに入っているソフトにやられているんじゃないか? 1度、検診を受けた方がいい。感情のコントロールができなくなって突発的な行動に出たり、ふさぎ込んで動けなくなってしまうそうじゃないか」
 リチャードの所属しているコミュニティは、さぞかし優しさと思いやりを持ってリチャードに接していたのだろう。それは別に羨ましくも妬ましくもなかったが、リチャードの物言いに少しだけカチンと来た。
「良いドクターを紹介する。あれはどうやら、機械が関係しているそうじゃないか。あんたは技師だろう? もしかすると、仕事柄既にPIの中に入っているかもしれない」
 何を言っているんだこいつは。大きなお世話だ。そんな言葉が腹の中で渦巻いたが口から出すのは堪える。感情の制御が出来るという事は、自分で作ったウィルスに感染していない何よりの証拠だった。
「やめてくれよ、それならきちんとエマを直していないし、こうやって届けにも来ていない。コミュニティが違えば人間だって違うさ。どこも同じような所ばかりじゃない。それよりも検診を受けた方が良いのはあんただよ、リチャード。酷い顔だ。最近、眠れていないんじゃないか?」
「実を言うとそうなんだ。機械や、人を信じられなくなった。毎日コミュニティのメンバーで集まって色々な事を話し合っている。こんな時だからこそ団結力が試されるだの、あまり外に出ず騒ぎが治まるまで室内で過ごそうだの。どれを、誰の言葉を信用すればいいのやら。全てが正しいようで全てが間違っているようにも聞こえる。エマが被害にあってから、それら全てが重たくのしかかってくる。耳を塞ぎたい……。なぁ、エマは大丈夫だったか? エマがいつの間にか騒ぎを引き起こしていたらと思うと、私はどうしたら……」
 店主の泣き言を聞き流し、台車を折り畳んでトレイルの後部座席へ詰め込む。真面目に取り合うだけ時間の無駄だ。
「この辺りで失礼するよ」
「あんた、以外と冷たいんだな。同じ人間同士なんだから慰めの言葉の1つくらい掛けてくれても良いだろう? 優しく、思いやりに溢れた世の中じゃないか。所属しているコミュニティが違ってもいいじゃないか。人が人を傷つけているんだぞ!? まさか私を疑っているのか? よしてくれ。私は正常だよ」
 そう主張されても、この男の正常感は僕の正常感と一致していなかった。なにより、この男は何をもって自身を正常だと言い張っているのだろう。
「まぁいいさ。政府がもうすぐ新しいPIのヴァージョンを配布しようとしている所だし、そうすれば騒ぎも治まって、あんたのぴりぴりとした気分は落ち着くだろう。お互い頑張ろうじゃないか。今度はお菓子を買いにきてくれ。これでも評判なんだ」
「あぁそうするよ。甘い物は好きだ」
 トレイルに乗り込み、コンソールを操作する。動き出したトレイルの中からチラリと後ろに目をやると、店の中へ入らず律儀にこちらを見送るリチャードの姿が見えたが、不意に、角を曲がったトレイルがその姿を消し去った。
 一仕事終わって居心地の良いトレイルの中に戻れたというのに、晴れやかな気分とはほど遠かった。喉の奥から張った声を数回ひり出してようやく、多少落ち着いたものの、全身はおろか、体の一部分にでも力を入れる気にはいつまで経ってもなれず、ただシートに体を預けているよりなかった。
 ボロは、出していないはずだ。リチャードのあの様子を見る限り、周囲の人間の変化と、アンドロイドへの疑念と、客足が遠のく不安で一杯いっぱいだった。うまく取り繕えた自信はあったし、すんなり別れられるようにご機嫌も取れた。甘い物は差して好きなわけではない。
 優しく思いやりのある世の中と、疑問はおろか根拠すら持たずにすんなり言えるくらいなのだから、リチャードは真っ当な人生を歩んできたのだろう。結婚して子をなし、甘く幸せな香りを漂わせながら生きている。精神は少々疲労気味だが理性は保てていた。
 どこからどう見たって、リチャードは正常だが、そんな彼の正常を疑ってしまっている僕は正常ではないのだろうか。いいや、それが僕の正常だ。
 徐々にスピードを落とし、やがてトレイルは停止する。前にも後ろにもトレイルが詰まっているが、歩道は人影がまばらな分、彼女、もしくは彼らの姿がよく目についた。
 今の社会は優しい。彼女、もしくは彼らがサポートしてくれているおかげで、余裕のある暮らしができている。他人の事を思いやれ、コミュニティは社交場として機能し、人格向上セミナーを始めとした様々な研究講習会は、個々の人間性を高めていた。
 PIとナノマシンの体内監査により、あらゆる病に対して早期治療も可能である。数値化された信用度は人を図る目安となり、信用の置ける人物達はコミュニティでの強い発言権を与えられ、指導者的な立ち位置から信用度の低い人間を良かれと思われる方へ導く。そんな彼らのサポートは日常生活で立ち行かなくなった時、強い不安感や悩みから脱する手助けとなる。
 頭ではエリア社会のシステムを理解できているが、僕にはどうしても優しくある事を強いられている気がしてならなかった。社会が理想として掲げる優しさと、僕が心地良いと感じられる優しさの質は、明らかに違っている。しかしそれは、僕個人の問題だ。
 世間を悪と仕立て上げ、自分を正当化したいわけではない。不本意だが、全ては適応できないでいる、自分が悪いのだ。そう思えるくらいの良心は未だ捨てられずに、こびり付いている。
 1つ小さく揺れて、トレイルは再び動き出す。PIのトップを網膜に表示する。仕事が来ていないか調べたかったのだが、メールボックスの数字はさっき見た時よりも増えており、開いてみると、ボックスを埋め尽くしていたのは、保安局とエリア政府からの数件の告知と警告で、残りは全て地域コミュニティの人間からだった。
 今回の事件の件、身の回りの機械やアンドロイドに対しての不安、保安局が行う説明会及び緊急時講習、3週間後に行われる予定の機械・アンドロイド企業団体へ向けたデモの参加の有無などなど。ざっと目を通した限りそういった内容が叫ばれていた。
 わざわざメールでそれらが送られてきたのは、コミュニティメンバー全員に確実に連絡を行き届かせるという名目だったが、はた迷惑もいい所である。削除する代わりに通知をオフにした。もうしばらくは止まらないだろうから。
 家についてもやる事は無かった。順調に騒動が本格化していくに連れ、仕事の本数は減っている。個人で所有している彼女、もしくは彼らの使用頻度は減り、旧世代の機種は壊し、壊されても修復されずに、そのまま鉄クズへ流れているようで企業は従来製品を売り出す事よりも、安全な新世代機の開発に心血を注いで信頼の回復を図っている。
 だからと言って仕事は無くならなかった。彼女、もしくは彼らを労働源とするのはもはや普遍的で、彼女、もしくは彼ら無しでは経済は回らない。また、誰もが金持ちというわけでもなく、旧機種を使い続けざるを得ない人間も数多く存在している。だから今日、仕事が無いのはたまたまだ。
 日は、まだ高い所に位置している。倉庫に貯蔵しているパーツをリストと照らし合わせながら確認すると、常備している物がいくつか減っていた。スティックを頬張りながらアクセスした業者の販売サイトだけでは心もとが無く、また外に出なければならなかったが、こういう時がたまになければ仕入も難しい。技師はもうしばらく続ける予定である。


 頭上からはシリコンスキンやフレームがついていない、剥き出しの腕や足が垂れ下がっている。雑多に積み上げられた電子パーツや配線、大小様々な歯車等の金属パーツは一応、細かく仕分けられ、それぞれビニールの小袋に入っているが量は膨大で、未開封の電子機器や製品が所々それに埋もれていた。
 店の奥のカウンターでは普段あまり出てこない少年が顔の前に手を突き出し、指を動かしている。やあ、と声を掛けると顔を上げたライリーは一旦それを中断して、少し目を大きくする。
「キッド、何ていいタイミングなんだ。丁度君に頼みたい事があったんだよ。ダニーがちょっと調子悪くてさ。見て欲しいんだけど、今忙しいか?」
「大丈夫だ。どんな感じなんだ?」
 平静を保ちつつ、少しどきりとする。お菓子屋のインターフェースのように、壊されたんじゃないだろうな。
「センサーが狂っちゃったみたいでね。メンテついでに見てもらえると助かる。僕はバラすのは得意でも親父と違って、仕分けるのがてんでダメなんだ。みんな同じに見える。来てくれ」
 それを聞いて少しホッとする。ヘッドパーツの交換から各部分のメンテナンスまで、ダニーの面倒はずっと見ていたから。
「店はいいのか?」
 ちょっとの間だけだから大丈夫だと言うライリーに連れられ、店の裏の倉庫へ足を踏み入れる。雑然と積まれた状態でケースや棚に収納される部品の山の中で、動力を落とされた1体のアンドロイドが、壁に背を預けて座り込んでいた。
 サイズはそこまで大きくなく、尖った頭の位置は僕の胸よりも低いが腕力や正確さは到底、ダニーには及ばない。彼はこの店の看板店員でもあった。彼の頭の中には店のどこに何があるか、全て詰まっているし、パーツがぎっしりと詰まった重たいケースを軽々運べた。
「主人には言ってあるのか」
「あぁ。さっき出て行く時に連絡入れておけって頼まれたんだ」
 そうかとぼやき、ダニーの前にしゃがみ込む。彼は四肢を投げ出し、頭を足れて項垂れている。軒先に止めたトレイルから取ってきた台車の上に、保護帯で固定したダニーをライリーと共に乗せる。人間の生活を侵害せずサポートをするのが彼の役目であり、それがこなせるように小型なだけでなく、彼は四肢の長さを自在に変える事ができた。動力が入っていればきちんと本来の体系を保てるのだが、それが落ちてしまうと好き放題に伸びてしまうから、がっちりと固定しておく必要があった。
「少し窮屈かもしれないけど我慢してくれよ」
 ダニーをトレイルに積み込み、ライリーのPIにさっき作ったパーツリストを送信しておく。主人が帰ってきたら届けて貰う約束を取り付け、トレイルの座席に乗り込みコンソールを操作する。
 走り出したトレイルの道路の選択は合理的で、西日が差す中、家までの最短ルートを突き進んでいた。たまに寄るダイナーや、いつも食品を買っているマーケットの前を通り過ぎるも、やはり人間の姿は少なく、そんな事も意に介さず各々の仕事に励む彼女、もしくは彼の姿だけがちらほらと伺える中、鉄クズ置き場の前を通りかかった所で、数人の男女達が中に入っていく姿が見えたと同時に、彼らが持っている物が目についた。
 ルートを削除し路肩にトレイルを停めると、操縦システムを自動から手動へ切り替える。格納されていたミラーが展開し、それに映ったのは中へ消えようとしている彼らだったが、数人掛りで引きずるように持っていたのはやはり、アンドロイドで間違いはなかった。
 トレイルを後退させ入り口の横につけると、そのままレバーを切って中へ入って行く。
 リサイクルされる時までただジッと互いに折り重なって待ち続ける、点在する鉄クズの山の陰にでも紛れてしまったのか、男女の姿はもう見えなくなっている。
 壊れてしまって修復もできそうにないから捨てに来た集団、という風にはどうしても見えなかった。
 顔つきもパッと確認しただけだが、性別だけでなくおおよそ10代後半から中年辺りまでが入り交じり、不穏な空気を醸していた。嫌な予感はほぼ、確信に近い。あいつらは、どこへ消えた。
 何か1つでも手がかりが欲しくて窓を開けると、腐食した金属の噎せ返るような濃い臭いが鼻腔と肺の中を満たす。
 どこからか軽音が響き渡るが鉄クズの山に反響し、位置を探ろうにもなかなかうまくはいかず、ようやく見つけた時には破壊はもはや半ばまで進んでいた。
 トレイルを停める。彼らに走り寄る。こっちを向いていた女が僕に向かって指を指し、何かを言ったようだったが、胴体を覆うフレームの隙間に、平たく潰れた棒状の鉄クズを差し込んでいる男が振り向く前に背後から羽交い締めにして引き剥がすと、彼らの中心に躍り出る。
「おい止めろ、止めろ。少し落ち着けよ」
 おはようございます、いい天気ですねと繰り返している清掃用アンドロイドは馴染みの姿を失い、胴体の両脇に付随するウォッシャーがついた2本の機動ユニットは、片方が根元から外れ、四角い頭部に埋め込まれたセンサーが砕けている。今しがた引き剥がした男が手放した鉄クズは胴体に刺さりっぱなしで、破れたタンクから漏れだしたウォッシャー液の青が、どこか惨たらしい気分にさせて思わず息を飲んだ。
「あら、もしかしてキッドさん? キッドさんじゃない!」
 背後から聞き覚えのある声がして振り向くと、そこにいたのはいつぞや見たキツネ顔の女だった。趣味の悪いメガネは変わり無いが少し太ったようだ。最後に見た時に比べ胴回りが太くなっているような気がするが、そんな事はどうでもいい。
 ハッとして、この場にいる人間の顔をまじまじと眺める。PIに次々に基本情報が表示される。ただ1人、口の周りに汚らしい無精髭を生やした男以外、情報に新鮮味は無い。見知った顔と見知った情報である。ただ1人を覗いた全員が、僕が所属しているコミュニティの人間達だった。
「これはどういう事だ。なんであんたらが清掃用アンドロイドを壊している。説明してくれないか」
 キツネ顔の女に詰め寄ると、鉄クズの中では不似合いな香水の臭いが鼻についた。それが更に、神経を逆撫でする。
「そんな怖い顔をなさらないでください。この前、話し合ったんですよ。ほら、最近何かと物騒じゃない? 中心部から離れているし、私達の住んでいる所は安全かもしれないけれど、万が一の時はどうするかって。技師をなされているキッドさんからも、是非何か意見を頂きたかったんですけれど、お仕事で多忙だったようですし。とても残念だったわ。それはさておき、やっぱり機械は便利だけどそのぶん危険すぎるという意見が多く出たんです。彼らが溢れてしまっているのは、私達が楽を求めすぎてしまったからであり、それが結果的にこのような事態に繋がってしまったの」
「だから、壊したと? このアンドロイドが何をした。別にあんたらに危害を加えたわけじゃないだろう」
「えぇ。だけどみんな不安がっているわ。私達は機械達に細工を施した犯人のせいで、機械を信用する事ができなくなってしまったわ。犯人が捕まればまた元の生活に戻れるかもしれないけれども、元に戻るんじゃ意味が無いの。二度とこういう事が起こらない為には、彼らの絶対数を減らしていかなければならないわ。だから政府に打診してみたのだけど、てんで相手にしても貰えず終いで……。だから私達は行動する事にしたの。地道に活動を続けていけば、きっと私達の思いはエリア政府へと通じるわ。本当は私達だって心苦しいの。だけどより良い社会を築くには、生活そのものを変えていかなければならないわ。皮肉にも私達は今回の騒動でそれを実感したし、そう思ったのは私達だけじゃなかったみたい。活動を表明するとエリア中からたくさんのコメントが寄せられてきたの。せっかく優しく、思いやりのある優しい社会なのだから、それを保ちましょう。保つだけでなくより良くなるように努力しましょう。力を合わせればそれができるわ。それに、具体的なプランもあるの」
 まくしたてた後、女は満面の笑みを浮かべる。やんわりと弧を描くようにゆったりと双眸は変形し、光を反射する面積が小さくなった瞳は黒味がより一層深まって、背中の辺りがぞわりと粟立つ。そんな女の視線が髭面の男に向く。
「彼はアーティストなの。私達が活動を起こせたのも彼のおかげよ。自然と機械が融合した彼の作品はどれも素晴らしいものばかりなのよ! これを見ればキッドさんも、きっと私達の考えを理解してくれるはずだわ」
 PIに女から次々に画像が送られてくる。ズタボロになったドールの片目に1輪の花が咲き、三角形のボディが真っ赤に錆びてしまったハウスキーパーは、細い緑の蔓草で全身を覆われていた。
 どこかで見たような、見た事が無いような。既視感と未視感がない交ぜになったイメージらは機械が全て虐げられており、女と肩を並べて慈しみと哀れみの籠った表情で僕を見つめる男に、腹の底から不快感が込み上げる。こんな姿にさせられてしまった彼女、もしくは彼らの亡骸が不憫で仕方がなかった。
「ただ壊すだけじゃない……身の回りにあふれ返ってしまった機械達を、彼のアートの中に加えれば、新しい存在意義にも繋がるわ。街に緑が溢れれば真っ白で無機質な中に違った光景が生まれる! 素晴らしいでしょう? よりよいコミュニティを作り、より良い人間を目指しましょう。優しく、思いやりに溢れた素晴らしい社会を、もっと素晴らしい物にしていきましょうよ。ねぇ、キッドさん?」
 この女は、はたして本当に正気なのだろうか。理性的に物は言えているが、どうしてもそういう風には見えなかった。ほかの人間達が清掃アンドロイドの破壊を再開する。ただひたすら止めろと叫び、突き飛ばしてそれを阻止するより無かったが、瞬く間に数人から取り押さえられ、行動を奪われる。そんな僕の目の前で清掃アンドロイドが壊されて行く。
 何かを見つけたらしく、男が女の傍を離れた。男の進行方向へ目を向けると僕のトレイルが停まっており、後部座席の窓からにはダニーの姿が映っている。ドアを開けた男はトレイルの中からダニーを降ろすと、不思議そうな目でまじまじと見た後、ズルズルと、四肢を拘束された彼をこちらへと引きずってくる。自動ロックに頼り切っていた事を後悔した。ここはまだトレイルが持ち主のPIとリンク可能圏内だった。
「おい止めろ、それは僕のアンドロイドじゃないんだ! 行きつけのパーツ屋からさっき預かってきたばかりの、人の物なんだよ!」
「キッドさん、お願い。目を覚まして頂戴。あなたがどうして私達の事を毛嫌いしているのか解らないけど、私はあなたがいないままなのはとても哀しいし、いつの間にかいなくなってしまいそうで気が気じゃないの。あなたは機械に縛られているんだわ。そのしがらみを断ち切った時、きっとあなたの世界は今よりも拡大して視野も広くなる。今までとはまた違う考えや物の見方ができるようになれば、きっとあなたはもっともっと素敵な人になれるはず。ここは、耐えて頂戴。私達と一緒にアートで平和を築くの! 同じコミュニティのメンバーですもの。あなたにもきっと、それができるわ!」
 女の訴えなんか頭の中に入ってこなかった。破壊される清掃用アンドロイドの隣に、男がダニーを投げ出し、保護帯をむしり取る。拘束が解かれ、少年のような小さい体躯が地面の上に転がり、だらりと手足が伸びた。
「よせ! 頼むからよしてくれ! これ以上僕の前で機械を壊すな! 彼らに罪は無い。少なくともそのダニーは、なんの罪も犯していない!」
 もはや僕には目もくれず、男は手近にあったハンマー状になっている鉄クズを振り上げ、ダニーに叩き付けた。金属製のフレームが大きくへこみ、内部から嫌な音がした。頭部のカバーが砕け、大きなカメラが弾け飛ぶ。肩部の付け根からアームが千切れて転がり、収納されていた伸縮部分がさらに、好き放題に広がった。
「技師をしているあんたには辛いかもしれないが、アニーの言う通りだキッドさん。今が次にステップアップするチャンスなんだ」
 全身から力が抜けてその場に膝をつく。そう言って、僕を抑えていた2人の男も破壊へ加わった。目の前で2体のアンドロイドがバラバラになって行く。血痕のように染み出したオイルの中で、部品と部品が入り乱れる。剥き出しとなった機能中枢や制御中枢に隙間が増えていく。2対のアンドロイドは声すら上げる事を許されず、ただなすがままに人の優しさの中で壊れていった。
 その様を瞼に焼き付ける。脳裏に刻む。破砕音が響く度、流れ出ようとしている涙を目の縁で堪えながら、怒りと憎悪を殺意へゆっくりと変換して行く。
 全てが終わっても、指1つ動かす事ができなかった。各々の人間が額の汗を腕で拭う中、男は残骸の中でしゃがみ込み、丁寧に吟味するとそのいくつかを腕の中に抱え、僕の隣を通り過ぎる。残りの人間もそんな男の後へ続く。
「こんな物に縛られて、何が人間よ。人と人とが繋がらない限り、いつまでも本当の優しさは生まれない。だから私達はコミュニティを築いて絆を育むの。あなたもきっと、その中の一員になれるわ。同じ人間なんですもの。私達はしばらくここに通って彼のアート作品作りを手伝ったり、ここを緑に変える為の活動を行うわ。もし、来て頂けるなら私達があなたを拒む事は無いわ。これでも母性には自信があるのよ?」
 最後に女がそう漏らし、僕の視界から全ての人間が消えた。彼らの足音がすっかり聞こえなくなった頃、地面に手をつき深い呼吸を繰り返して立ち上がる。オイルで汚れる事も厭わず、新たに生まれた鉄クズで小さな山を作って1カ所にまとめると、数回に分けてトレイルに積み込んだ。
 服に汚れた手を擦り付け、操縦を手動から自動に切り替え、自宅の住所を打ち込み直した。コンソールに薄らと、黒い跡が残る。
 動き出したトレイルの中でPIを再表示すると、女から送りつけられてきたイメージデータを跡形も無くデリートし、アプリケーションを1つ起動する。
 誰もが、今の社会は優しいという。思いやりがあるという。しかし僕はそれをうまく感じる事ができないでいた。どこかで拒絶していた。それは何故だったのか。
 社会がそうであるのと同じように、彼らは確かに優しい。人の事を思いやれる。生物の事を考えられる。誰もが誰かの為に生きている。だが、本当に優しいのか疑ってしまうのは何故だったのか。
 僕が、他人とのコミュニケーション不足なのかもしれない。彼らと触れ合う機会を避け、理解を深める行為を怠ってきたからかもしれない。しかし、それ以上に彼らの言う優しさには違和感があった。
 行動や物言いから良い人間だと思われる人物程、嘯いている事とは裏腹に、他人の領域に土足で入り込み、散々乱して去って行く。奴らの言う優しさは単なる名目で、社会をもっと良くするという大義名分を掲げ、善意を振りかざしているに過ぎない。それはもはや暴力だ。奴らは優しさを暴力として使っている。社会がPIを通して抑圧していた悪意が、そういう形で漏れだしている。僕だけが悪いのではない。
 彼女、もしくは彼達にプログラムを入れて解き放ち、理性で押さえ込んでいる悪意や欲望を外に漏らせば多少、気色の悪い人間も減ると思ったが、その結果がこの清掃アンドロイドとダニーだ。彼らは人の優しさに殺されたのだ。
 彼女、もしくは彼らに感情は無い。擬似的な感情は所詮、作り物の域に留まる。性別も持たず、繁殖機能も持たず。生物ではなく機械で、言うなればそれは巨大な道具であるが、今の社会を築いている礎でもある。
 僕の身の回りには常に彼女、もしくは彼らがいた。LITOを使い、人格にアクセスしない限り、彼女、もしくは彼らはただ静かに、そこにあるだけである。自分の仕事に向かうだけである。何も言わない。何も押し付けない。どこも侵害しない。揺らがずに確かな存在感だけを放ち続ける彼女、もしくは彼らは無骨だが、最も優しい存在だ。
 だからこそ常に理性的な彼女、もしくは彼らに原因を持たせなければならなかった。人間はことごとく麻痺してしまっていると、外部の効力を使ってそれを示す必要があった。これは人間同士の問題だったが、それにすら気付かず、それどころか奴らは清掃アンドロイドとダニーを排除した。
 アプリケーションの情報によると、僕が放った264体の彼女、もしくは彼達の内、58体が回収されてしまっていたが、それで未だ206体が各地に散らばり、残っている。それだけあれば充分だった。今後、数が減ったとしても、随時、追加していけばよいのだから。
 2体のアンドロイドだった物が入り交じったジャンクのケースを作業台の上に起き、しばらく迷った後、パーツ屋の息子に端的な文章をメールで送信する。すぐに返信が返ってきたが目を通さず、既読状態にして煩わしい数字を消した。
 ポン、と耳の辺りに埋め込んだマイクロスピーカーの音でアプリケーション画面に戻ると、Mk-45が街の上空に移動を完了した所だった。
 なにが、優しい社会だ。なにが思いやりだ。そんな漠然とした物が肯定され、汚い物に目が向かず、暴かれた人の本質ですら無理矢理優しさにこじつけられてしまうような社会なんぞ、滅びてしまえ。
 Mk-45に向け命令が送信される。それを受け取ったMk-45は各地に散らばった彼女、もしくは彼らへ、平等に命令を発信する。
 無機物の体で宛も無く街を彷徨い、機械と人の中に紛れ息を潜めていた206体が覚醒する。彼女、もしくは彼達はもう野良などではない。受け取った命令を忠実に実行する、破壊者達である。
 ケースの中からまだ形を保っているジャンク品を作業台の上に並べていると、直してやるからなという呟きが自然と唇から漏れだした。
 工具を握り、作業へと取りかかる。そうあれかしと唱え続ける。僕は誰よりも理性的だ。

 
『緊急警告:エリア内災害発生。エリア内住民の皆様は速やかに、お近くの緊急避難シェルターへ避難してください。以下、避難該当地区……』
 耳元で鳴り響いた警報と、PI内に現れた緊急避難警告で我に返る。メッセージを消すと自動的に警報も鳴り止み、時間に目を向けるともう真夜中になっていた。椅子代わりのケースに腰を降ろし、息をつく。顔中にベタついた汗が浮かんでいた。
 数時間向かっていたかいあり、ようやくダニーの本格的な修理へ入れる段階へとこぎ着けた。一度、居住スペースへと戻り、手早く補給を済ませて荒くなった息を整える。あまり、うかうかとしている時間は残されていない。
 この際、ダニーだけでもいいから直してしまわないと。自分で直した彼女、もしくは彼達に今殺されるわけには行かない。
 数分置きに届く被害情報通知を無視して作業を進めているとベルが立て続けに鳴ったが、無視をした。
『キッドさん、キッドさん! 眠っているんですか!? 早く出てきてください! 他の地域コミュニティの皆様はもう揃っています。残っているのはもう、あなただけなんです!』
 ドアが激しくノックされる。カメラにアクセスしてみると防災用の装備を背負った、中年の男の激しい顔が映し出され、その後ろでは街灯がそわそわとして落ち着きの無い様子の人間の姿を照らしている。
「僕は放っておけ」
 マイクをオンにして叫ぶ。ビクリと体を震わせ、カメラの存在に気付いた男は激しい表情で詰め寄り、
『何を言っているんですキッドさん、あなたも大切なコミュニティのメンバーだ。見捨てられるわけないじゃないですか!』
「やらなければならない事があるんだ。終わったら僕は勝手に逃げる。いつまでも構っていると死ぬぞ。それが嫌ならすっこんでいろ!」
 男は言葉を詰まらせ顔をしかめる。口元が何かを言いかけるが背後の人間達に一瞥を向けた後神妙な面持ちで「いいですか」と続ける。
『ここから一番近いのはAシェルターです。私達はそこにいます。私の顔を覚えましたね? しばらくそこで、避難活動の支援を行っております。ですから、絶対に来てくださいね。声をかけてください。あなたの仕事に対する情熱は本物だが、時には我に返る事も大切です。それでは、無事に会いましょう』
 そんな一言を残して、男は立ち去った。再びダニーに戻り修復を続けながら、ウェブTVのニュースチャンネルを画面端に表示する。
 確か、34機目だった気がする。主に夜間の、無人となった企業や刑務所の巡回警備を役目としていた彼女、もしくは彼がひっくり返したトレイルは店のショーウィンドウに突き刺さり、周囲を取り囲んだ治安警備局の局員達が発砲した弾丸で背部に火花が咲き乱れていた。
 別のチャンネルでは介護施設や児童施設で稼動し、要介護者の補助や多数の子供の世話を請け合っていた小型の彼女、もしくは彼が揺れるカメラ映像に捉えられていた。確か、67番目に手を加えた彼女、もしくは彼の下半身に脚は無く水滴のような形状のフレームに覆われたバーユニットで駆動している。
 地面を滑りながら人間の手を模した10本のマニュピレーターの先に付け加えた、剛版整形用のフォトンレーザーでもって保安局の抱囲を崩しながら倒れた人間を踏み越え行進する姿に、少しの間釘付けになった。
 僕の作った、あるいは手を加えた機械が人間を攻撃している。人々がより優しくより豊にな生活を担えるように。そんな願望を現実の物としてきた無機物が、牙を剥いている。
 放たれた炎と黒煙の浸蝕は拡大し、倒壊する建築は破壊の連鎖を生んでいた。悲鳴と絶叫のこだまに耳を塞ぎたくなる手を、工具に集中する事で誤摩化しながら全身に浸透させる。
 揺らいだ所でもはやこの事態の収拾は不可能だ。ウィンドウを綴じ、映像と音声をシャットアウトしてしまえば情報は断てたが、それらが与えるストレスとどうしようもない現実は僕を激しく駆り立てた。焦燥とはまた違うひっ迫するような感覚は、今まさに僕に必要な物でもあった。
 奥歯に力が籠り、唾液で濡れたエナメル質がギリギリと擦れる度に、手元の動きはより俊敏さを増し攻撃的になる。最低限の繊細さを維持したまま感覚を研ぎすまし、修理と構築を平行して進めて行く。
 ライリーは生きているだろうか。いや、生きていようがいまいが、外があの有様ではダニーを返しには行けないな。ダニーは僕が使おう。きっと何かの役に立つ。
 LITOに繋ぎ、ダニーのプログラムを覗くといくつかのシステムが壊れていたので破損プログラムは消去し、以前取っておいたバックアップを丸まるコピーした。それの処理が終わる前に工具や必要な道具、パーツを整理しケースに詰め込む。
 ニュースチャンネルから聞こえてくる物とはまた別の、それこそ目と鼻の先の所から穴蔵の壁越しに破壊の気配がしている。清掃用アンドロイドには申し訳ないが、手を施している余裕は無さそうだった。
 右肩にケースを下げ、LITOを確認する。70パーセントの処理が済んでいたが、残り30パーセントがもどかしい。
 全ての処理が終了し、ニュースチャンネルのウィンドウを消してダニーを再起動する。頭部の中心でモノアイが青く灯り、むくりと半身を起こしたダニーとLITOの接続を切ると左手でツールボックスを掴んだ。
「こっちだ。着いて来い」
 登録してある僕の音声が、ダニーを振り向かせる。地面と作業台が作りだした段差をセンサーが検知し、彼は手を着いた後、両足を床に伸ばした。足の裏が地面に接地すると上半身を投げ出し、スルスルと伸びた足が縮んで元の長さに戻った。動作確認にしては簡単すぎるが、それだけ動かせれば今は充分である。
 ダニーと共に穴蔵を出て駆け足で遠ざかる。破砕音で振り返ると履帯を駆動させながらアームと直結している巨大なシャベルでもって重機型の彼女、もしくは彼が穴蔵を手に掛けようしていた。
 重機型の彼女、もしくは彼は直すのに時間を有した物の1つだった。何せ穴蔵の中には収まり切らず、夜な夜な鉄クズ置き場まで出向かなければならなかった。修理が完了しても流石にあの巨体は野良にできなかったから鉄クズ置き場の一画に隠しておいた。そのせいかボディの所々に、金属片が引っかかりっぱなしだった。
 シャベルの先が長年連れ添った穴蔵の壁に食い込むと、積み木の家のように瓦解し炎上する。僕の愛した僕だけの居場所はいとも容易く崩れ去り、重機型の彼女、もしくは彼の足跡と同化した。
 穴蔵の認知が瓦礫の山へ変貌したとたん、忘れていた疲れがどっと押しよせその場に座り込まずにはいられなかった。何人たりとも進入を許さず、自身を防衛する最後の砦の如く守っていたというのに、その最後は実にあっけない。
 穴蔵の崩壊を覚悟していなかったわけではないが、それがいざ目の前で起きると流石に切なくて少し、体が震えた。
 これからどうするかなんて何も考えていない。こんなエリアがどうなるのかも知った事ではない。ひょっとしたら僕の作りだした物に殺されてしまうかもしれない。まぁ、それはそれで悪くはないが、もし生き残れたらまず最初にやらなければならない事が1つ決まった。
 いつまでもぐずぐずしている時間はなかった。充分感傷に浸った事にして、フラフラと立ち上がると何も命令していないのにダニーは隣にぴったりとくっつくように着いてくる。
 顔見知りには合いたくなかったから別のシェルターに向かう事にした。至る所で鳴っているエマージェンシーコールが多少喧しくも、不思議と黒煙を上げる炎の熱気が頬に心地良く、紅の向こうに広がる夜空の鈍い紫は見ていて落ち着いた。
 唇を引き結び進行方向を見据え、崩落するエリアに満ちた粉塵を孕んだ空気の中を闊歩しているとPIに緊急避難勧告以外の反応が現れた。
 基本情報なんて無粋な物を反射的に消しかけたが、情報の持ち主であるあどけない顔をした少年のヘタクソなはにかみに一瞬目を奪われ、今度こそ基本情報を消し去りダニーに命令を下してモノアイの光量を上げさせる。霞の中でへたり込んでいるライリーに歩み寄り、眼前で足を止めた。
「キッド……」 
 思わずと言った風にライリーの口から僕の名が溢れた。焦げ臭く埃っぽい空気を鼻腔に感じながら嘆息する。彼は血まみれだったがどうやら自分の血液では無いようだった。
「1人か?」
 一体誰の物だろうか。気にはなったが、その正体を聞く気にはなれず、中途半端に開いた口からは別の問いが漏れ、無意識に伸ばした手の平を汗に濡れた彼の髪がくすぐり引っ込めると、ケースの位置を直すフリをして誤摩化した。そんな人間らしい事をしてしまってはほだされてしまいそうだった。
 無視を決め込み、何も見なかった事に見捨ててしまおうかと逡巡している中、みるみるとライリーの顔はくしゃくしゃになり、捨てきれなかった人間味が彼から視線を離す事を許さず、腹の中で悪態をつく。
「……ついてくるか?」
 この状況下に置いて、目の前の少年が厄介物だと悟ってはいたし、そうとし知りながらそんな言葉をかけてしまった僕自身の甘さに辟易するが、これは決して社会的信用度の数値を上げる為の行動ではなく、自己顕示を目的とした優しさの誇示でもないという区別はついた。
 ライリーは返事をする代わりに普段、店番をしている時のような大人ぶりたくて生意気な態度を取る表面的な姿をかなぐり捨て、大声を上げて泣き叫び、僕に素の姿をさらす。10歳になったばかりの少年の慟哭はしばらく止みそうにない。捨て犬を拾った気分だった。
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