捨てられた青年

文字数 12,854文字

 埃と煙の鉄の臭いがひっきりなしに鼻を刺激している。
 足だけがふらふらと、どこかに向かって動いていた。靴底は疲労を感じさせない柔らかな素材である筈なのに、足の裏が平べったく伸びているようだった。
 目の周りが痛い。網膜に投影されたPIが示す避難勧告の文字がそれに拍車をかける。数回瞬きをしてもそれは変わらず、擦ろうとして顔の前まで持ち上げた腕にはべっとりと血がこびりついている。
 鳴り響くエマージェンシーコールの中に、悲鳴と何かの駆動音が混じって消え、吹き付ける粉塵と、あちらこちらで発生した火災の黒煙が喉を詰まらせていた。
 どこまでも安全で優しく、健全で穏やかな暮らしを半永久的に継続させる事を目的に構築されたエリア社会には、全く似つかわしくない光景と轟音が四方から感覚器官を揺さぶっているが、僕の体はせいぜい擦り剥けた膝がヒリヒリとするだけで、正常と認識している範囲内から逸脱してはいない。
 ただ、頭の中はだけは空っぽだった。ボディを外され、機械部分が剥き出しになったロボットを目の前にした時、そのあまりの複雑さに一瞬、思考が停止するような状態がさっきからずっと続いている。
「おい、大丈夫か!? どうしたんだ、こんな血まみれになって。早く手当をしないと。ご両親は? はぐれたのか?」
 背後から肩を掴まれ振り向くと、見知らぬ男が立っていた。きちんと撫で付けていたであろう金髪と衣服は乱れ、汗にまみれている。遠巻きで見ている女は、この男の妻だろうか。そわそわと周囲を見渡し落ち着きが無く、僕より少し年下くらいの子供はそんな母親にしがみ付くように立っていた。
「私はモーガンだ。君はライリーだね? 私達はこれからシェルターに向かう所なんだ。向こうは危険だ、一緒に行こう。手当をしなければ。さぁ、こっちへ」
 引こうとした手を振りほどくと、男は眉を下げて「ライリー?」とか細く言う。僕から言う事は何も無かったからそのまま、また歩き始める。
「どこに行くんだライリー、そっちは危険だと……」
「モーガン早く! きっとその子にはその子の事情があるのよ!」
 追ってきた男の声に妻の金切り声が被さると、それ以降何も聞こえなくなった。住宅が崩れる破砕音と空気を震わせる炎だけがまた耳朶を支配する。
 彼の手を払ったのは、手が汗と埃にまみれて汚いと思ったからではなかった。ここがどこなのかすら分からないのだから、少なくとも僕よりも冷静さを保ち、判断能力がそこまで欠落していなさそうな彼に付いていくべきだったのかもしれない。だが、今しがた両親を失ったばかりだというのに、彼が持っていた暖かみの中にはどこか、入り込みたくなかった。そんなことを言っていられるような状況ではないと分かっていても、それはどうしても嫌だった。もっと心細くなってしまいそうだったから。
 初めて、僕は僕が心細いと感じている事を理解した。不安故なのか、両親2人を1度に亡くした喪失感故なのか、細部まで心理状況を分析できなくとも、心細い、という単語は妙に腑に落ちた。
 しまった、と思った。見慣れた景色が崩壊して行く中、それに気付いた以上、むくむくと膨れる雨雲のような寂しさを押し殺さなければならなくなった。
 明らかな負担だ。歩みが鈍くなる。胸も苦しく、呼吸が乱れる。これからどうするかなんて考えられるような状態に変わりなければ、この足がどこに向かって歩いているのかも知らないというのに。
 助けが欲しかった。見知らぬ人間の善意や優しさではなく、信頼の置ける人物の温もりが恋しかった。
 微かに鳴った小さな機械の駆動音に顔を上げる。突如として出現した暴走した機械達の破壊活動は、エリアの至る所で行われている。こんな道の真ん中を歩いていれば、いつか遭遇してしまうのは当然で、頭を上げたのはどんな奴が僕を殺すのか、少しだけ気になったからだった。
 まだ死にたくはない。そう思わせているのはあくまで本能であり、本心を言ってしまえばとにかく、楽になりたかった。抗った所で所詮、こんな柔く小さい体では勝ち目はないのだ。死んでしまえばこれ以上重たい体を引きずらなくてもいいし、なにより寂しさも心細さもない。不本意だけど、それを許容できてしまうくらいには生命への執着は薄れ、諦めの方が勝っていた。
 そいつはずいぶんと小さく、子供のような体躯をしていた。腕と脚は太くて短く、手と足が妙に大きい。炎上する建物から昇る赤を背負っているせいか、陰になって見えない部分が大半を占めているが、頭部らしき部位の中心で青いモノアイだけが、冷ややかに光っている。
 その隣にはひょろ長い男が立っていた。角張った体格で男だと分かった。右の肩と左手にケースらしき物を下げており、2つの陰はこちらに近づいて来ているようだった。
 1つ身震いする。堰を切ったように、涙がこぼれて詰まった鼻がぐずぐずと音を立てる中、PIに男の基本情報が表示される。僕はその男を知っているし、男もまた僕を知っている。
 キッド。陰りが徐々に晴れ行く中、自然と男の名前が溢れた。目の前で足を止めたキッドはすこし疲れているようだった。瞼の下がどことなく黒ずんでいる。しかし、いつもの仏頂面に変わりは無く、双眸は何故か、いつにも増して据わっている。
 鼻から息を吐き出しながらしばらく思案した後、ちょっと困った声でキッドは僕に「1人か」と問う。硬そうな、骨張った手が伸びてきた。頭上に差し掛かったが、キッドの指先は髪に触れずに戻り、ケースを背負い直す。
 〝着いてくるか?〟
 それに答えられる程、僕に余力は無かった。声の出し方をすっかり忘れていた喉を振るわせ、久々に声を上げて泣いた。

『本日の睡眠時間は5時間48分29秒です。就寝前のアルコールの大量摂取は睡眠を浅くし、臓器に悪影響を及ぼします。尚、空腹状態が続き、体力が低下しております。規則正しい食生活を身につけ、健康に留意しましょう。詳しくは健康福祉管理局までお問い合わせください』
 目を開けると廃墟の一室だった。炎も、目の前に立っていたキッドの面影も消失し、代わりに少し離れた所で捻れて歪んだ鉄骨が、斜めに床に刺さっている。崩落した天井の穴から差し込む陽光に照らし出されている様子がぼんやりと見えた。
 目を擦った手が滲んだ涙に濡れた。それの正体が夢による作用なのか、寝起き直後の生理現象なのか判別は着かないが、連日のように繰り返されるあの日の追憶には慣れたと思う。
 口の中がいがらっぽい。伸ばした足が軽くて硬い物を蹴飛ばし、その方向を見ると酒の瓶が数本転がり、揺れている。昨晩1人で開けた名残だったが、これだけ飲んでも、体内監査ナノマシンが全て分解してしまい、アルコールが残っている感覚がこれっぽっちもしないのが逆に気分が悪かった。
 シーツ代わりのボロ布は体から落ちている。もう一眠りしようとそれを引き寄せると、幼い少女の裸体が現れる。 
 寝息で胸が膨らんだり萎んだりしなければ寝相も変わらず、閉じた睫毛が揺れる事もない。使い終わったままの、一糸まとわぬ姿でスリープモードに入っているカーリーは、温もりの気配すら発さず、死んでいるかのようで思わず、揺り動かしかけた手を止める。
 横に3回揺らせばカーリーは目を覚ます。それがスリープモードの解除アクションだったが、起こした所で別に何をするでもない。脱ぎ捨てた服を振って砂埃を払い、袖を通す。カーリーをその場に残して廃墟の一室から外に出る。
 停めっぱなしのトレイルの傍に立っていたダニーの青いモノアイが点滅し、開いた片手を頭上に掲げた。ご苦労さんと言ってやる変わりに軽くタッチしてやると、夜間警戒モードから通常の自立行動モードへと切り替わる。安心してトレイルを置き去りにできるのは、ダニーが一晩中警護してくれているからだった。
 ロックを外し、トレイルのトランクを開けた。生成機から汲んだ水で口の中を濯ぎ、食料のケースを開くと残っていたのは低カロリーのチョコバー1本だけである。無遠慮に掴み、包装を破るとコーティングされたチョコレートは溶けかけていた。構わずかぶりつき、剥がれて包装に移ってしまったチョコレートを舐め取っていると、
「おはよう、ライリー。ダニー」
 そんな一言がどこからか投げかけられ、視線を向ける。廃墟を出てすぐの所にボロ布を纏ったカーリーがいた。
「起きたのか」
「ええ。スリープモードのタイマーはいつも6時間よ。私は時間にルーズじゃないわ」
 中身が無くなった包装を投げ捨て、唇に付いたチョコレートを手の甲で拭い、その上に舌先を這わせる。
「食料が尽きた」
「そう。続きは無しになったのね。解った、服を着てくるから待っていて頂戴」
 端的に言い放ち、カーリーは廃墟の中へと引っ込む。彼女の判断は正しい。これから探索に出なければならないのだから、今ここで疲れるわけにはいかなかった。
 戻ってきたカーリーが隣に乗り込む。目星を付けていた場所をコンソールに打ち込むとスティックを握り、表示されたマップに引かれたルートを辿る。
 しばらく整備していないせいか、ゴトゴトと走り出したトレイルのボディは埃にまみれて所々が錆び付き始めている。気になるくらいには揺れや軋みも激しく、動力部分にもガタが来ているのかもしれないが、俺にはどうする事もできなかった。キッドのように機械を弄る真似はとてもできない。せいぜい大事に扱ってやるくらいである。
 あいつがいればな、と脳内で呟き、意図せず皮肉っぽくなってしまった事に気が付く。自分で殺しておいて、それはないだろう。
 とっとと忘れるべきなのは重々理解しているし、日常的に考えないようにも勤めている。でなければあいつが俺に寄越した穴蔵を放棄し、エリア中を彷徨う生活なんぞしていないが、連日のように夢に出てこられてしまうと、どうしようもない。
 人や建築だけでなく、規律や倫理といったあらゆる秩序が崩落して行く中で、ダニーを連れて佇んでいたキッドに声を掛けられた時から、あいつは俺の拠り所だった。だからあの穴蔵に固執した。
 キッドは俺が自分の元から離れなかった理由を少し曲解していたみたいだが、別にあいつが何をやろうと、あんな事にさえならなければいつまでも引っ付いているつもりだった。
 あいつがいたから廃墟だらけになってしまったエリアでも自分を見失わずにいられた。毎晩アルコールを摂取し、カーリーを使って即物的な快楽を得て、気を紛らわすハメにならなくて済んだ。
 あの時、止めを刺した事はもう後悔していない。ああも体がズタボロになってしまった以上、助かる見込みは無かった。キッドは最後、俺に殺される事を望んだが為に、腹の内を全て曝け出したのではないだろうか。
 この解釈はとても自分勝手なような気がしなくもないが、そういう事にしておかなければ、俺も死んでしまいそうだった。
 それができなかった頃は時たま、ナイフの切っ先を喉元に突きつけていたのを覚えている。
 この命は別に、キッドに拾われたわけではない。あの時、着いてくるかと聞かれたから頷いただけで、それ以降、キッドからの施しも無ければ、共に動くのは利害が一致した時のみだった。
 腹を満たすのも、生活に必要な物を集めてくるのも、全て自分でやってきた。なんならキッドの世話までした。だからいつ自分で自分の命の終了を決めても、支障はどこにも出ないのだが、自分で死ぬ勇気も無い情けない体たらくである。
 腐ったまま生きるのは、なかなか惨めだ。三大欲求を満たす為だけの、思考が欠如した生活を営む為に動いていると、いつの間にか本物の獣になってしまいそうだ。
 こんな時、キッドがいたらと思う。あいつは何もせず、穴蔵の中に引きこもって機械を弄っているだけだがそれでも、拠り所になるくらいの刺激の持ち主だった。例え偏屈な捻くれ野郎で人間嫌いな機械オタクでも、あいつの存在が俺を腐らせなかった。
 隣の座席に目をやるとフロント越しに真っ直ぐ、カーリーのカメラは正面を見据えていた。かつて妹のように可愛がっていた横顔にあった筈の愛らしさは、既に消失している。キッドが生きているうちに、ダニーにコミュニケーションツールと言語プログラムを導入しておくべきだった。あいつが死んでからと言う物の、唯一の話し相手は彼女だけだ。人間とはもうずいぶんと、接していない。
 飽き、なのだろうか。それがあるのは間違いないが、それ以前の問題なのかもしれない。俺がカーリーに干渉しようともカーリーは揺らがず、カーリーは俺の領域にまで踏み込んではこない。俺とカーリーはそもそも、根本から相容れない者同士だ。
 生き物と機械。有機物と無機物。いくら感情表現が他の機械に比べて豊であっても、体を構成している物質が異なればそれを動かすシステムも違う。
 幾度と体を重ねたとしても擬似的な行為に留まり、俺達の間に引かれている絶対的な境界線に綻びは生じない。それがもたらす均衡が保たれている限り、この薄ら寒い物悲しい感覚は消えてくれないだろう。
 今更悔やんでも遅すぎる事が沢山ある。毎晩見るあの日の夢がそれを彷彿させている。
 端から見ていた限り、キッドが求めていたのは無機物が持つ冷静で合理的な判断のように思えた。あいつはそれを優しさと称していたが、そまた別物だ。
 あれだけ不器用な男はそういない。それだけ繊細だったのだ。外部から否応無しに入り込むノイズに揺らいでしまいそうになる自身を、機械や部品と向き合って保っていたのかもしれない。それがキッドには心地良かったから、あいつはそれを優しさだと誤認したのだ。
「そんなんだから、死んじまうんだ」
 カーリーから視線を外し、1つ嘯く。薄らと、窓に映った幼い顔がこちらを一瞥し、また前に戻る。
 人間でいながらその立ち位置を踏み越えようとしたが為に、キッドは死んだ。あいつは馬鹿だ。だからエリアという1つの社会を崩してしまう程の力を振るえた。愚か者にでもならなければ、そんな真似はできやしない。
 死の間際に放ったあいつの言葉が反芻する。エリアをこんな有様にまでしてみせたというのに、俺がいたせいであいつの願いは叶えられなかった。その代償として、あいつが俺に寄越した物はどれも手に余る物ばかりである。
 一体俺にどうしろというのだ。俺に何ができる。いくら考えた所でその答えは、今はでてくれそうになかった。
 機能を止めてから久しいメガストアの中は、蒸し暑く、腐敗した食品の臭いがどんよりと溜っていた。口と鼻をマスクで覆い、ライトの明かりを頼りに倒壊した貨物やら機材やらをダニーに押しのけさせると、ぶわりと黒い塊が舞い上がる。
 大量の羽虫が顔や肌の上を動き、衣服の隙間から入り込むむず痒さは、いつだって不快である。ライトが照らし出した腐った肉にこびり付いたり、周囲で蠢いたりしている蛆や、白骨化した死体に辟易しながら奥へと進む。
 缶詰や栄養化合食のスティック、パッケージングされた菓子等の食品の他、新しい衣服や薬品類を集め、数回に分けて外に運び出す。途中、堪えていた物を地面に思い切りぶちまけてやると、気分はいくらか楽になった。
 生成機の水を煽り、回収した物の中からさらに使えそうな物を厳選してトレイルに積み込むとまた新たな目的地へと移動し、同じ作業を繰り返す。
 動かなくなった機械や金属はわんさかと出てくるが、俺にその価値の決定はできず、うまく扱えた唯一の知り合いは死んだから放置しておくしかない。
 キッドのように扱えたら色々と使いようはあるのだろうけど、これらに関しては本当に適正が無いとしか、言いようが無かった。
 5つの場所を回り、確保できた食料は7日も持つかどうかも怪しい量だった。比較的損壊の少ない住居のドアを破壊して入り込むと適当に寝床を作り、その上でトレイルから持ってきた食料を貪り、酒を飲む。慢性的な空腹で感覚が麻痺しているのか、ドッグフードですらうまいと感じるが食い終わった後の口内にこびり付いた生臭さにそれ以上食欲は沸かず、半分まで齧った栄養化合食のスティックの残りは明日の朝に回す事にした。
 アルコールで舌を洗い、寝転がる。1日中動き回ってもさほど疲れは感じなかったが、いつの間にか体力が落ちていたようだ。体が重い。しばらく、ろくな物を食べていないからかもしれない。
「食事はもう済んだの?」
 カーリーの声で顔を上げると、部屋の入り口に立つ彼女が見えた。カーリーの声には抑揚が無く端的で、興味が引かれず頭を元に戻す。
「何故こんな所で寝てるの? ここは民家なんだし、寝室くらいあるんじゃないかしら?」
「そこで眠りたかったらお前はそこで眠ればいい。床の方が冷たくていいんだ」  
「ダメよ。それだと疲れが取れないわ。柔らかいベッドの上に行きましょう。床よりも、もっと気持ちがいいわ」
「だから、行かねぇんだよ」
 今、マットレスに体を預け、シーツに包まったら起き上がれないような気がしたから。
 カーリーはそれ以上、口を開かなかった。小さな足音が近づき、目の前に細い足が並ぶ。隣に寝転んだ幼く形作られたカーリーの顔が、灯したライトの光の中に浮かび上がった。
「他にも廃墟は沢山あるのに、あなたはいつも住宅を選んで床に寝るのね」
 頬に触れた両手はゼリーのように柔らかく吸い付く。寄せられた体に血は通っていないはずなのに、あり得ない温もりを放っているようで、腕が自然と彼女を抱いていた。
「私がいるもの。あなたは寂しくないわ。あなたがいるから、私も寂しくない」
「馬鹿を言うな。機械が寂しさを感じてたまるか」
「そうかもしれないけど、寂しさがどういう物かくらい、理解しているわ。今のあなたにはこの言葉が当てはまると思ったの。私はただ、あなたの傍にいる事ではないわ。こんな所で生活していれば、すぐに心がささくれてしまう。それを癒すのが私の役目。だってあなたは、私の主人なんだもの」
 そんな機械的な言い分を聞きながらされた口付けに、味気は無い。虚しい柔らかさだけが残る。それでも、体のど真ん中に空いているような風穴を多少なりとも、彼女が埋めているのも事実だった。
 狂わずに保ててしまっている正気が、胸を締め付ける。半身を起こし、残りの酒を飲み干した。瞬く間に体が熱くなり、カーリーを組み敷く。もたもたしていると、ナノマシンがアルコールを分解してしまう。
 これから行おうとしている擬似的な行為を、かつてできていた時のように、本物と同じく捉えられればさぞかし、気持ちが良いだろう。
 言葉にする代わりに、カーリーにぶつける。言葉にした所でカーリーはそれを、半ば機械的に処理してしまうだろうから。今日もまた、何もかもが晴れやしない。そしてあの夢に苛まれながらまた、明日を迎えるのだ。

 じんわりと網膜内に現れた睡眠時間は1時間弱だった。確認するなり、煩わしいそれを素早く消すと、暗闇の中で目が覚めた事を理解した。アルコールが残っている感覚はもう、ほとんどなかった。
 別に、尿意をもよおしたからでも、毎晩繰り返される夢に耐えられなくなったからでもない。耳元でしきりに電子音が鳴っている。PIのメニューを開き、内蔵型PI連動スピーカーのアラームを切ると、冷たい静寂の中に置いてけぼりを食らった気分になって少し心細かった。
 できるだけ最低限の動きでPIを操作し、ダニーの位置を探るとトレイルのアイコンの傍でジッとしている。モノアイのカメラウィンドウを呼び出すと、上下左右と小刻みに景色が動いていたが、警備対象のトレイルはどこにも映っていない。ダニーが見ているのは、この建物だった。
 耳を澄ませながら頭上を探る。寝る直前に外した持ち物はすべてそこにあった。その中からナイフの鞘を探り出し、胸の前まで持ってきたところで抜刀する。深い呼吸と瞬きを数回。逸る気持ちを抑え体が完全に覚醒するのを待ち、なるべく音を立てぬよう注意を払いながら起き上がった。
 セミオートモードに切り替えたダニーを住居の中へ呼び寄せ階段を登らせる。一通り部屋を調べさせたが、かつていた住人の生活の痕跡が残っているが、もぬけの殻だ。カメラウィンドウを意識しつつ、こちらも目を凝らしながら差し足で闇の中を警戒する。
 目が慣れた辺りでほんの僅かに、背後で物音がした。反射的に反応しそうになったが直前で踏み留まり、2階のダニーを呼ぶ。
 壁の陰から、寝床を作った部屋を覗き込む。カーリーが微動だにせず眠っている隣にぼんやりと、人影が見えた。それ以外に、人間の気配はしない。どうやら1人のようである。
 身じろぎした人影のつま先が、カーリーを転がす。しばらく様子を見て動かない事を確認すると、首を傾げるような動作を織り交ぜながら、俺の持ち物がある辺りにしゃがみ込んだ。
 薄い包装の乾いた音に続き、咀嚼音。あの場にある食える物は残した栄養化合食だけだ。食われてしまうのなら、さっき食い切ってしまえばよかったと後悔したが、幸いにも人影は完全に油断している。
 カメラウィンドウを見る限り、ダニーの狙いは既に定まっていた。
「ダニー……やっちまえ」 
 命令を囁くと持ち上がったダニーの右腕が勢い良く伸び、硬く握ったマニュピレーターが人影を吹き飛ばす。その瞬間に上がった悲鳴で、人影の正体が男だと分かった。
 するするとダニーの腕が戻る傍ら、吹き飛んだ勢いで壁に叩き付けられ、動かなくなった男に物陰から出て近づく。持ち物の中からライトを探り、灯した光を向けた。
 鼻血を流して白目を剥いた顔の隣にPIの基本情報が表示される。名前はエドワードというらしく、顔つきはまだ若いがそこに少年らしさは感じない。年齢は25歳と、俺よりも6つ程年上だった。
 この男がしたのと同じように、俺もこの男の持ち物を漁るがこいつは使える物を1つとして持っておらず、纏っているのはだいぶキツい臭いを放っている衣服だけだった。こんな状況で栄養化合食を食べるくらいだ、腹も相当減っているのだろう。
 助けを乞われたら厄介だな、と思った。生憎とこちらにそんな余裕は無い。ナイフの刀身をエドワードの首に持って行く。
 久方ぶりの人間との邂逅だったのに、こんなにもあっさりと終わらせてしまってもよいのだろうかという疑問が脳裏をよぎったが、このまま放っておくと目を覚ました時に反撃されるかもしれない。だからといって縛り上げたとしても、なにか使い道があるでもなかった。
 この身なりを見た限り使えそうな情報を持っていそうにも見えなければ、こいつの肉や内蔵なんか食いたくない。悪戯にいたぶって面白がれる程、性根は腐っていない自信はあるが、それはまた別の話だ。
 夜中に叩き起こされ、食料まで食われ、このまま逃がしてしまうのはなんだか腹の虫が収まらなかった。
 次にまた同じ人間から物を盗まれたり、キャンプを襲撃されたりしなくなる。そんな落とし所を見つけるのにさほど時間はかからず、俺自身もそれに納得してエドワードの首元に添えた刃を引いた。
 鮮やかな赤を吹き上げながら倒れたエドワードの体が痙攣し、やがて動かなくなる。それでも尚、溢れ出る血液に汚されぬよう、手早く装備とカーリーを回収し、ダニーとトレイルまで行く。死体と一晩を共にしたくなかったし、それにもう眠れそうにない。
 カーリーとダニーを乗せ、ドアを閉める。喉が渇いていた。裏手に回り、トランクを開けて水を汲むが出が悪い。メーター照らしてみるとタンクの中身は3分の1を切っている。少し補給を控えなければ。
 思う程、罪悪感は覚えていない。分泌されたアドレナリンにより脳が未だ興奮状態にあるとは言え、それが終息してもきっと精神的ダメージは残らないだろう。既に俺の手は汚れているのだ。これ以上汚れてもなにかが変わってしまうでもない。そんな達観がそうさせている。
 こんな所に、もう用は無かった。少し早いが移動を開始しよう。生成機の稼動状態を確認し、トランクを閉めた。やや傾きかけの月光が作りだした自分の影が心無しか、いつもよりも大きかった。
「何も殺さなくなっていいだろう」
 体が引っ張られ、訳も分からずひび割れた地面の上を転がった。受け身を取るのに失敗し、曝け出した背中を重たい物が押さえつける。意志とは関係無しに両手を後ろに回され、細くて硬い物が両手首同士を拘束し、我に返った時には全てが終わっていた。
「まぁやっちまったからには仕方が無い。取り返しがつくようなもんでもないしな」
 淡々とした擦れて野太いた声に聞き覚えはなく、押さえつけられたまま首を左右に振ってもかろうじて見える物は、俺の背中を抑えている人間が履いているブーツの黒いつま先だけだった。もう1人いたのか。
「食い物が欲しいなら勝手に持っていけ! とっとと退けよ!」
「マジで? じゃあ、ありがたく頂こうかな」
 腰の辺りをまさぐられたかと思ったら、何かが遠くへ飛んで行く。さほど大きくはなく長細い。試しに足を動かしもがいてみると、いつもの体に食い込む感触が消えている。飛んでいったのは恐らく、エドワードを切り裂いたばかりのナイフだった。
「もう武器は持ってねぇな。苦しいか? いい加減退いてやるよ。ただし喚くな、暴れるな。命を預かっているのは俺だ」
 ブーツの底が地面を踏みしめ、圧迫が緩くなった。潰れていた肺に酸素を入れたり出したりを繰り返しながら横に1つ転がると、30代くらいの銃を背負った男が俺を見下ろしている。
 短く刈り上げた頭髪は逆立ち、目を細くさせ口元は不適に笑んでいた。その横に現れた基本情報によると、アレックスという名前だった。
「よお。ライリーってんだな。へへっ。さて、約束通り食い物を貰おうか」
「……仲間が殺されたってのに、食い物か。なんだよ、目の前で食料を荒らして惨めな気分にでもさせるつもりかよ。悪趣味な野郎だ。それともなにか? 殺す勇気も無いってか。その銃は虚仮威しかよ」
 悪態をつきながら上体を起こし、なんとか立ち上がってみせるが、両手が動かせないと掴み掛かる事もできないのが情けない。それを悟られたくなくて、口調ばかりが激しくなったところへアレックスの蹴りが腹にめり込んだ。
「喚くなと言ったの忘れてませんかー? お前が殺した奴は赤の他人だ。俺はあんなの知らねぇからどんな話だってできるんだよ」
 どこからか取り出した小さな刃物を手に、アレックスが近づいてくる。空いている片方の手で腕を掴まれ、またうつ伏せにされたがさっきのように押しつぶされたりはせず、不意に両手の拘束が解かれた。
「おら、立ちな19歳。こっちを向いたまま後ろ向きで歩け。PIを操作したり、妙な真似をしたら殺す」
 初めて、アレックスは銃に手をかけた。渋々了承しトレイルのトランクに収まる食料のケースを地面に置くが、思わず少し乱暴になってしまった。開けろ、という指示に従い上蓋を開く。端の方を蹴って中身をアレックスの方に向けると、彼の顔がにんまりと笑う。
「良く集めたな。お、スースのビスケットがあるじゃん。挟まってるチョコがうまいよねこれ」
「これで満足かよ。全部やるから、失せろ」
「おいおい、誰が動いていいって言ったよ。まだだぜライリー。そのビスケットの封を破ってこっちに持って来な。食べさせてくれよ。お前に銃口を向けていなけりゃならないから1人じゃ食えないんだ」
 言葉が詰まり、続いて急激に沸いた怒りが顔を熱くさせる。何故俺が、そこまでしてやらなければならないのだ。
 こいつの目的が全く見えなかった。幼稚な悪ふざけをしたいだけなのか。悪戯に人を弄びたいだけなのか。それを聞いた所で、アレックスが答えるとはとても思えず、ただただ、歯がゆい。
 早くしてくれよ、とアレックスの催促が飛んでくる。今にも殴り掛かってしまいそうな衝動を押さえつけながら、指定されたビスケットの袋をケースの中から取り、封を破った。たった今蹴られたばかりの腹がズキリと痛む。
 半ば密着する所まで歩み寄りビスケットを1枚取る。目の前に食い物が出されているというのに、アレックスの視線は俺を射抜いたまま逸れる気配がなく、大きく開かれた口の中へビスケットを放り込むと、したり顔を崩さぬままアレックスはそれを咀嚼する。
「甘ぇな。へへっ」
 何も難しい事や、不可能な事を強要されたわけではない。ただビスケット1枚を食わせてやるだけの動作はあまりにも簡単で雑作も無いが、屈辱に、体の色々な部分が震えている。この男が俺に向けている物全てが、煩わしくて仕方が無かった。
 不意に伸びてきたアレックスの腕が首に巻き付く。強く引き寄せられ、頭部に硬い衝撃が走った。気が付くと、頭のすぐ横にアレックスの顔が置かれている。突き刺さる無精髭が顔の側面に気味悪く、ビスケットの甘い臭いが助長した強烈な口臭に吐き気を覚える。
「なぁライリー。お前さん、威勢は悪くない。歳の割りに、無抵抗な人間をさぱっと殺して、動じないでいられる気概も気に入った。そうでなきゃとっくに殺してる。だのに、ありゃなんだ。お前、ドールなんかと暮らしてんのか?」
「お前……まさか、見てたのか?」
「何を? ヤッてるとこ?」
 そう訪ね返されては、閉口するしかなかった。困惑と苛立ちの中に羞恥心も混ざり、いよいよ訳が分からなくなってくるが「お前さん、かっこわりぃなぁ」と続けるアレックスに容赦の兆しは全く見えず、黙っている以外に良い方法が思いつかない。その間もアレックスからの追い打ちは続くが、何を言い返してもさらに気分が憂鬱になるのが何となく、目に見えた。
 カーリーは少女型の性処理用の機械以外の何物でもない。決して拠り所になりえず、なったというのであれば、錯覚である。重々、それは承知していたが、彼女は唯一の、会話的なコミュニケーションと肉体的なスキンシップを交わせる身近な相手だった。
 孤独の中にいると、即時的な反応を返してくれる物体はなんであれ、掛け替えの無い物のように映る。しかし、脳は異質な関係という認識のまま、順応できていない。それを解消しないまま野放しにしているせいで、誰かにそれに触れられると、恥なり、なんなりというネガティブな感情が沸き上がる。
 カーリーに酔えないのは人間に近い容姿と言動をしている機械という前提だけでなく、ぎこちなさであったり、極端に冷静であったりと、細かな所に垣間見える機械的な部分で目が覚めてしまう事にも原因がある。俺はキッドのように人間嫌いな訳ではないのだ。
「ライリー。おい、ライリー! もしもーし」
 アレックスの声で我に返る。腕を撥ね除け突き飛ばすが、逆に跳ね返された。へっ、と口の端をつり上げ、開いた距離を大股で詰めたアレックスは、
「こんな世の中になっちまったんじゃあ、自分から動かねぇ限り暇過ぎて困るくらいだ。動き方すらわからねぇと、そりゃあもう、腐るしかねぇし、そんな奴なんか見ちゃいられねぇ。トレイルを貸せよ。ちょっと付き合え」
 すれ違い様に手からビスケットの袋を取り上げ、胸を少し強めに平手で打たれる。食料のケースを閉じ、トレイルに積み直したアレックスは振り返ると、もう1枚ビスケットを齧り、空いた袋の口をこちらに向ける。夢の中の自分がそうしているように、ふらふらと、足が勝手に動きだした。
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