第9話 本音建前は生活の知恵

文字数 3,577文字

会社に戻ったのは午後9時頃だった。残っていたのは正田主任一人だけだった。
「ただいま帰りました」
「おお、ご苦労さん、下へ行ってタイムカード押したら帰っていいよ」
「今日は、ありがとうございました」
「おつかれさん。じゃあな、また明日な」

タイムカードの時刻は9:12だった。3:52~9:12 ときれいに刻印された。
半端を切り捨てて4時間だった。タイムレコーダーに1250円を預けた。
頭の中に「時は金なり」の諺がまた浮かんできた。
私はこのタイムレコーダーに「タイムイズマネー銀行」と名付けた。

4階の部屋に戻り、風鈴と釣り糸を持って大須磨さんの部屋に向かった。
大須磨さんの部屋は電気が点いていた。
「こんばんは、早川です」
「おお、さっきは助かったよ」
「ええ、ちょっとお願いがあって・・」
「なんだ、お願いって本当だったんか」

大須磨さんの部屋はこれといった家具もなくガランとしていた。
木製の机と椅子とわずかな本だけだった。
机の上には電熱器と小さな鍋が置いてあった。


大き目のマグカップの中には歯ブラシと歯磨きそれに箸があった。
「ずいぶんさっぱりしている部屋ですね」
「うん、今年卒業の予定だったからな、荷物は整理しっちゃったんだよ」
「法政大学の経済学部って言っていましたよね」
「もう聞いていると思うけど、3年浪人してやっと入ったんだよ」
「だいぶ頑張ったんですね」
「単位が足らなくて今年は留年だよ、勉強はあんまり好きじゃないんだよ」
「そうですか、どうして経済学部なんですか」
「親父がここの会社の社長なんだよ」
「ええ、すごいですね」
「それも聞いていると思うけど、世間でよく言う妾の子さ」
「そうなんですか・・・」
「親父がここの役員にするから、経済学くらい勉強しろって言われてさ」
「実家はどちらのほうなんですか」
「太田の呑龍様って知っているだろ~、あそこの前にある小さな料理屋だよ」

太田の実家が解体した料理屋の材料を使って新築する事になっている。
まさかと思ったが口には出さなかった。話の腰を折ってしまう。
「じゃあ、お母さんがその店をやっているんですか?」
「お袋は7年前に病気で亡くなったよ。今はお袋の妹夫婦がやってるよ」
「高校3年の時だったな、目の前が真っ暗になったよ、母子家庭だったからなあ」
「すいません、立ち入った事を聞いてしまって」
「別にいいよ、みんな噂で知っていると思うよ」
「ええ、少しは聞いていますけど・・・」
「頭の悪い妾の子って、面白おかしく噂しているだろう」
「いいえ、そんな事はありませんけど」

やっぱり大須磨さんはこの会社の社長の妾の子だった。
本では何回か読んだ事がある。妾の子はみんな悲しい境遇として書かれていた。
大須磨さんはボソボソと身の上話を語り始めた。
「高校卒業するまで知らなかったよ、親父は戦死したって聞いていたからな」
「ええ、じゃあ本当の事はいつ知ったんですか?」
「お袋の葬式の時、今まで親戚のおじさんだと言っていた人が親父だったんさ」
「うわ~、信じられないですね。そんな事があるんですか」
「複雑な気持ちだよ、お袋が亡くなって、急に一人になっちゃったしさ」
「じゃあ、そのほんとのお父さんというのが・・・・」
「うん、ここの社長さ。葬式の時この先は俺が面倒を見るから大学に入れって」
「じゃあ、それから受験勉強したんですね」
「急に親父だの大学だのって言われてもな、考えちゃったよ」
「高校を卒業したら、何しようと思っていたんですか?」
「料理屋を手伝って、病勝ちなお袋を少しは楽にして上げようと思っていたな」
「その料理屋は、今はお母さんの妹夫婦がやっているんですね」
「うん、今でも俺の部屋だけはあるんだけど、やっぱり居づらいよ」
「大須磨さんは兄弟はいるんですか?」
「いないさ、だけどほんとの親父の子供が兄弟って言う事になるんだろうな」

私には考えられない不幸な境遇があった。
食べる物が少ない、家が汚いなんてどうでもいい事に思えてきた。
両親が揃っている。兄弟がいるというだけで恵まれている。
一人っ子ならもっとご飯が食べられるのにと思った日もあった。
自分を基準にして不幸だと思っていた事が恥かしくなってきた。
大須磨さんは身の上話を続けてくれた。

「家が料理屋だから、食べるものだけは不自由はしなかったけどな」
「そこんとこだけは、羨ましいですね」
「うん、ところが肉がダメなんだよ、コロッケの中の肉でも食べられないよ」
「肉なんか、うちではめったに食べられなかったですけどね」
「小学校の時さ、お袋が生きた鶏の首を切ってたのを見ちゃたんだよ」
「うわ~、気持ちが悪かったでしょ」
「血が噴出して、首が飛んでからもまだバタバタしていたよ」
「それで肉が嫌いになったんですね」
「まだ鳥が動いているうちに足や手を切ってさ、気持ちが悪くてはいたんだよ」
「それはショックですね。それで肉が嫌いなんですね」
「だから、食事を残すだろ、食堂のおばちゃん機嫌が悪くなっちゃうんだよ」
「理由を話せばいいじゃないですか」
「一度言った事があるけど、まずけりゃ食べなくていいよと言われたよ」
「ただの好き嫌いだと思われたんですね。お腹がすいたらどうするんですか」
「即席ラーメンにお湯を入れて食べる事が多いな、けっこうあれうまいぞ」
「ほんとですか、日曜日は食事が無いから、自分もやってみます」
「電熱器と鍋を貸してやるよ、あと玉子を入れるともっとうまいぞ」

人には聞いてみなければわからない歴史がある。
他人はその人のほんの一部しか見えていない。
だからって自分の境遇を説明しながら世の中を渡る事なんてできない。

身の上話が一段落した。
「ところで、お願いってなんだい?」
「ええ、話に夢中になって忘れる所でした」
「その、風鈴と釣り糸はなにするん?」
「呼び鈴に使おうと思っています」
「呼び鈴?」
「大須磨さんは、玄関の鍵が閉まっている時はどうするんですか」
「めったに無いけど、上野のサウナに泊まった事が何回かあったな」
「あの~、玄関の鍵は内側からなら開けられますよね」
「それが風鈴と釣り糸に何か関係があるん?」
「ええ、4階のトイレの窓の所に風鈴をつけてみようと思うんです」
「ああ、それを下から引っ張って鳴らそうというんか」
「ええ、部屋にいる誰かが鍵を開けに行くっていう感じです」

4階のトイレから1階の玄関までは一直線になっている。
4階のトイレの窓に風鈴を置き、風鈴に釣り糸をつけて1階まで垂らす。
玄関の鍵が閉まっていたら、その釣り糸を引っ張って風鈴を鳴らす。
風鈴の音を聞いたら部屋にいる誰かが内側から鍵を開ける。
その計画を大須磨さんに説明した。

「先輩、要するに、呼び鈴ですよ」
「面白そうだな、やってみるか、おばちゃん気が付かないかなあ」
「窓に風鈴だから自然でしょう、透明の釣り糸なら見えないしね」
「そうか、釣り糸は細くて丈夫だから、窓が閉まっていても引っ張れそうだな」
「試してみましょうか、すぐにできますよ」
「だけど、風鈴は風に揺られて鳴るだろう」
「深夜ですよ、窓は閉めますよね、風鈴は窓の内側に置くんですよ」
「この部屋の中まで聞こえるかな?」
「大きな音がする風鈴を買ってきましたから大丈夫でしょう」
「そうだよな、深夜だから聞こえるよな」

トイレの窓に風鈴を取り付けて、透明の釣り糸の先に金属のボタンを付けた。
釣り糸の付いた金属のボタンを窓から垂らして1階まで降ろした。
それからトイレのガラス窓を閉め準備は整った。
幸いトイレの窓にはガタがある。こんな時は安普請の建物が幸いした。
ガラス窓を閉めても釣り糸は簡単に引っ張れた。

「じゃあ、僕が下に行って引っ張りますから、大須磨さんは部屋にいて下さい」
「長さは大丈夫かい」
「ええ、30mの釣り糸を買ってきましたから」
「じゃあ、部屋でドアを閉めて聞いてみるよ」
「下で3回鳴らしますから、聞こえたらトイレの窓から手を振って下さい」
「よ~し、これで門限から開放されるなあ」
「寝込んでいる時は聞こえないかも知れませんが、無いよりはいいですよね」
「じゃあ、早く下に言って鳴らしてみろよ」

裏口の玄関を出てすぐに右手の建物の壁面を確認した。
釣り糸は見えなかったが、先に付けた金属ボタンが街灯の明かりで光っていた。
釣り糸の長さを調整し何回か釣り糸を引いてみた。
4階のトイレの窓から大須磨さんが指でOKマークを出していた。
4人いれば誰かが12時ごろまでは起きている。
風鈴の音がしたら気がついた人が下に行ってドアの鍵を開ける。

共同作業は一挙に仲間意識を強くしていく。
少し大須磨さんとも打ち解けた間柄になったような気がした。
「じゃあ、宮田さんと佐伯さんにも話しておきますからね」
「うん、気がついた人が開けるっていうことな。わかった」

大須磨さんもどんどん打ち解けていく。
人は何か問題があるごとに仲間意識が深まっていく。


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