第1話  薄汚れた社員寮の生活

文字数 4,995文字

1968年 3月25日(月)
アルバイト先の社員が千葉の独身寮まで車で迎えに来てくれた。
2つ年上の宮田さんという人だった。宮田さんはまだ免許の取立てだった。
引越しの手伝いは長距離運転の練習代わりなのだ。
アクセルの踏み込みが体にそのまま伝わってくる。
ぎこちなくブレーキを踏むので何回も体が前に傾いた。
時々前のトラックと接触しそうになるくらい近づく。
恐かったが言葉に出せなかった。できるだけ声はかけないようにした。
宮田さんは信号が赤になるたびに話しかけてくる。前方に集中してもらいたい。

偶然にも宮田さんのお兄さんと私のねえちゃんが結婚する。
運命は見えない所で脚本を書いている。

千葉の八幡宿から墨田区の両国までは京葉道路でまっすぐだった。
江戸川を過ぎた辺りから道路の両側のビルが高くなってきた。


眩しい程の夕日がビルの谷間から車の中に射し込んできた。
東京というとてつもない大都会の生活が始まる。夢にまで見た大学の生活が始まる。

アルバイト先の会社は国鉄両国駅からすぐそばにあった。
4階建ての小さなビルだった。
アマリリスという社名の服飾付属品を製造している会社だった。
そこの4階の独身寮で生活する事になった。
ビル全体は薄汚れていてあんまりかっこいい建物ではなかった。
ビルの中は薄暗くて狭かった。それでも今の自分にはふさわしいと思った。

今日からら寝泊まりをする部屋に行った。4階の部屋の畳は茶色に近い色をしている。
畳の上にはブリキの灰皿がポツンと1つ置かれていた。
畳にはタバコの焼け跡が何箇所もある。
北側の押入れには前の住人の布団が4~5枚残されていた。
布団はかび臭かった。押し入れの中では一匹のゴキブリが忙しそうに歩いていた。
南側の窓の枠は鉄でできていた。開ける時にガラガラと重い音がする。
木製の薄っぺらな部屋のドアには鍵は付いていなかった。
窓からはドーム型をした日大講堂が見えた。



食堂のおばちゃんに挨拶に行った。
ビルの中の狭い階段を2階まで降りて行く。廊下には殆ど窓がなく薄暗い。
今日は日曜日なので会社には誰もいなかった。
2階には食堂、貿易部、営業部、応接室の4つの部屋がある。
各部屋のドアにはプラスチック製の名札が貼り付けてあった。
どこの部屋も鍵はかかっていない。
部屋の広さはそれぞれ8~10畳くらいの小さな部屋だった。
おばちゃんの部屋だけは名札がかかっていない。
おばちゃんは2階の食堂の隣の部屋に下宿している。
以前この会社を訪問した時に一度顔を見ていた。

「こんにちは~早川です」と声をかけた。
中ではテレビからの声が聞こえている。いるのは間違いなさそうだ。
しばらく待たされた。
背の小さいおばちゃんだった。髪の毛をダラッと肩まで下げていた。
髪からは洗剤のにおいが漂ってきた。肩には白い手ぬぐいが掛かっている。
茶色の和服の上から白いエプロンをかけている。
「あんた、誰」
「今日引っ越してきた、早川です。よろしくお願いします」
「ああ、安田さんから聞いているよ。今日の夕飯はないよ」
「はい聞いています。明日の朝からお願いします」
「朝7時から8時までだからね。それを過ぎたら食べられないよ」
「はい、大丈夫です。よろしくお願いします」
「あんた、どこの生まれ?」
「群馬県の太田市です」
「ああ、宮田君とおんなじか、年はいくつなんだい?」
「はい、今年19歳になります」
「どこの課へ入ったの?」
「アルバイトとして、営業の手伝いで荷物の配達をするって聞いています」
「ふ~ん、どっか学校へ行くんだって?」
「4月の7日からなんですが、早稲田大学の文学部に行きます」
「ふ~ん、どこへ行ってもいいけど、玄関の鍵は夜11時で閉めちゃうからね」
「ああ、そうですか。それより遅くなる時はどうしたらいいですか」
「そん時は先に言っておくれ、いつもじゃ嫌だよ11時は私の寝る時間なんだから」
「はいできるだけ門限は守るようにします」

おばちゃんは次から次へとルールを話してくる。
「それから、夕飯は6時から8時までには食べておくれ、あとは片付けちゃうよ」
「はい。わかりました」
「寮には今4人だから、4人分がガラスの戸棚に入れてあるからね」
「はい、わかりました」
「ご飯は電気釜から適当に食べておくれ、味噌汁は冷たかったら自分で温めてね」

年齢は40歳前後だろう、ずいぶんぶっきらぼうな話し方をする人だった。
「あとね、トイレは綺麗に使っておくれ。あたしが掃除するんだからね」
「はい、気をつけます」
「それからさ、宮田君や佐伯君の真似しないでおくれ」
「なんでしょうか」
「門限が過ぎると隣のビルから昇ったり、玄関のドアを叩いたりさ、やんなっちゃうよ」
「はい、気をつけます」
「あと、初めっから言っておくけどさ、隣の武蔵屋の女子寮なんて覗かないでよ」
「ああ、そんなことがあるんですか」
「あそこの食堂のおばさんと顔見知りなんだよ、恥かしいったらありゃしない」
「できるだけ覗かないようにします」
「できるだけじゃないよ、先輩の真似しないでおくれ」
「はい、覗きません」
「近所で評判になっているんだからね、まったく」

初対面の時からこれでは先が思いやられる。
以前送っておいた山口のお土産の効果はなかったようだ。
「部屋の掃除は毎日やってね、あんたらの部屋の前を通ると臭いんだから」
「はい、掃除道具はどこにあるんですか」
「大部屋の入り口の所に、箒と塵取りがあるからそれを使いな」
「掃除したゴミはどうするんですか」
「ゴミ入れが廊下のトイレの所にあるからそこに入れておくれ」
「はい、わかりました」
「あたしゃ、掃除婦じゃないんだからね、あんまり汚くするんじゃないよ」
「はい、気をつけます」
「宮田君も佐伯君も、空き缶や食べカスをそのまま廊下に出してさ」
「そうなんですか、気をつけます」
「あと、屋上からオシッコしちゃダメだよ、前の染物屋から苦情が来たんだよ」
「それはないと思いますけど」
「屋上で酒飲んで酔っ払ってオシッッコするんだよ、あんたは真似しないでね」
「はい、気をつけます」

おばちゃんは、今までのうっぷんをみんな私に話してくる。
すでに立ち話で30分以上経っている。
「ああそうだ、前にお土産を貰ったんだね、ありがとうね、うまかったよ」
「いいえ、たいしたもんじゃないです」
「困った事があったら何でもいいな、お金以外のことなら相談にのるからね」
「はい、その時はお願いします」
「あんた真面目そうだね、先輩の真似しちゃダメだよ、じゃあねそういうこと」

やっとお土産の事を思い出したようだ。
少し口ぶりが優しくなってきたのがわかった。
やっと開放された。
だいぶ説教されたおかげで、一気におばちゃんと親しくなれたような気がした。

4階に戻ると隣の宮田さんの部屋が開いていた。
部屋には二人いた。宮田さんが声をかけてきた。
「だいぶ遅かったな、おばちゃんになんか言われたろ」
「はい、これからの注意を聞いていました」
「おばちゃんの言う事を全部聞いていたら、息がつまっちゃうよ」
「ええ、でも・・」
「いいよ、適当にやれよ」
「はい、お願いします」
「ああ、それからこっちが同じ部屋の佐伯君だよ」
「お世話になります。早川です」

佐伯さんは背は小さいがひげが濃く目がギョロッとしていた。
子供っぽい顔と大人の顔が混ざっている。
「ああ、こんちは、俺、佐伯、よろしくな、あんちゃんは年いくつ?」
「今年の11月で19になります」
「ええ、俺より歳が一つ上か、でもここでは俺が先輩だな」
「はい、佐伯さんですね、よろしくお願いします」
「まあ、そう丁寧に言うなよ、じゃあ早川君でいいよな」
「はい、お願いします」
「ちょっと部屋へ入れよ」

佐伯さんは去年この会社に入り、ボタンの染色の仕事をしているといっていた。
北海道の中学を卒業して今は定時制高校へ通っている。
今年の4月で2年生になるといっていた。
佐伯さんにとっては私が始めての寮の後輩だ。先輩としての言葉がまだぎこちない。

宮田さんは今年で定時制高校の4年生になる。この寮の寮長という事だ。
奥の部屋にはもう一人、大須磨という大学生がいる。
3年浪人したあと法政大学の経済学部に入ったようだ。
この会社の社長の親戚だという話だった。
ここでアルバイトをしながら大学へ通っているといっていた。
今年が卒業のはずだったが落第したと聞いている。
引っ込み思案な性格で普段の付き合いは殆どないといっていた。
大須磨さんは一人で部屋の中に篭っている事が多い。
宮田さんと佐伯さんは大須磨さんの話になるとニヤニヤしながら話す。
心の中で馬鹿にしているような雰囲気だった。

今日は私の引越し祝いをしてくれる事になっている。
「さあ、6時になったら出かけるぞ」
「どこへ行くんですか」
「最初は隣で一杯やって、そのあとは錦糸町のロンドンでも行くか?」
「ロンドンって、キャバレーですか?」
「そうさ、おもしれえぞ」
「高くないんですか?」
「たいしたことはねえよ、今日は俺のおごりだよ」
「何時ごろまでですか?」
「10時ごろまでだよ」
宮田さんは水色のカッターシャツに白い綿パンに履き替えている。
頭にリキッドをつけドライヤーで髪の毛を立てている。
佐伯さんも同じようなオシャレを始め出した。
私はスーツを1着持っているがキャバレーにはふさわしくないような気がした。
茶色いズボンと白いワイシャツ、あとは草色のカーデーガンしかなかった。

「ちょっとそれ渋いな、ほかにないん?まあいいか」
「あとは学生服がありますけど」
「おお、それいいかもしんねえ~」
「ほんとうですか?」
「学生服は面白えな、そうするか?」

宮田さんは冗談とも本当とも取れない話し方をする。
「冗談だよ、学生服なんか着て行ったら笑われるよ」
「そうですか、じゃあこれでいいですか」
「なんでもいいよ、お見合いに行くんじゃねえんだから」

この寮には4人いるのに、3人で行くのが気になっていた。
「奥の部屋の大須磨さんは誘わないんですか?」
「誘っても来ないよ。ちょっと変わっているんだよ。誘ってみな」
「そうですか、じゃあ、初めてなんで挨拶してきます」

一番奥の部屋の大須磨さんに挨拶に行った。
「こんにちは~」
大須磨さんがドアを開け、顔だけを出してきた。
「・・・・何?」
「今日からお世話になる早川と言います。よろしくお願いします」
「ふ~ん、もうおばちゃんには挨拶してきたん?」
「はい、さっき挨拶してきました」
「そう、俺、大須磨。よろしく」
「はい。大須磨さんは今勉強中ですか?」
「そうでもないけど、何で?」
「今から、飲みに行くんですけど、一緒に行きませんか?」
「俺、飲めねんだよ、悪いけど3人で行ってきたら」
「はい、じゃあまたあとで伺います」
「いいよ、みんなそれぞれ自主的にやろうや」
「そうですか、じゃあ、行ってきます」
人と群れをなすのが嫌いな人のようだ。
3年浪人、今年落第。それもわかるような感じがした。
人づきあいが悪い人は情報が少ない。情報が少ないと解決策も少ない。
自分だけでやろうとしても中々うまくいかないのは経験していた。

宮田さんの部屋に戻った。
「どうだった?誘っても来ないんべ」
「一人で部屋にいるほうが好きみたいです」
「あの人、ケチなんだよ」
「そうなんですか、お金がないんですか」
「金はいっぱい持っているんじゃねん。あれでも会社の役員になってるんだから」
「ええ?アルバイトじゃないんですか?」
「社長の妾の子らしいよ、名前だけの役員みてえな」
「学生で役員ですか?」
「同族会社だからさ、社長の奥さんやおっかさんもみんな役員だよ」
「そうなんですか」
「だから俺達とはあまり付き合わないようにしているんじゃねん」
「じゃあ、お金じゃないんですね」
「会社がだいぶ伸びているんだよ、だから身内をみんな役員にしているみてえな」
「そうですか」
「飲みながらゆっくり話してやるよ、さあいくぞ」

この両国寮は下町のど真ん中、近所にはお店や飲み屋が立ち並んでいる。
会社の裏口を出ると狭い路地になっている。
その路地の並びには染物屋、酒屋、一杯飲み屋、マージャン屋、喫茶店があった。
向かい側は料亭、自動車修理工場、民家が2軒並んでいた。

昨日までの千葉寮は、周囲は林ばかりでお店は何にもなかった。
千葉寮では3交代なのでみんな自主的にやっていた。
勉強するのも寝るのも、全て自分の思い通りに進められた。

千葉の独身寮とは全く真逆の環境を運命は準備していた。
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