第18話 夜中に茶髪の男が侵入

文字数 4,628文字

ここへ来てからから2週間が経った。
明日からはいよいよ大学の生活が始まる。
入学式の前夜は静かだった。夜の10時を過ぎていた。
隣の二人はまだ帰っていない。二人とも門限の事を話題にしなくなった。
合鍵を作ったのかもしれない。そのことを特に話題にしなかった。
ただ大須磨さんには話していない。協調性がない人は損をしている。
用のなくなった風鈴が、思い出すように風に揺られて鳴っていた。
部屋の真ん中に布団を敷き、買ってきたキンチョールを枕元に置いた。

窓からは武蔵屋の女子寮の部屋に電気が点いたのが見えた。
覗きの衝動に駆られたが心をぐっと引き締めた。
押入れの片隅から紺色のナイロンバックを出してきた。
バックからいくつかの本を取り出して枕もとに置いた。
パジャマに着替え布団の中に入った。
受験のお守り代わりに使っていた「日本文学概論」を開いてみた。
いよいよ明日から早稲田大学の文学部に通う。
何万という学生の雑居するマンモス大学に入っていく。

まだ私にはどう生きていくかの人生観も無かった。
信条や信念を持った立派な人間ではない事は自分がよく知っている。
こんな人間が教師になって人を教えるなんて考えている事が恥ずかしい。
今は宮田さんや渡辺さんが人生の先生になっている。
人生の勉強は身近な生活の中にある。

いくら大学に行っても急に人間が変わるものではない。
「日本文学概論」は難解だった。文字を眺めているだけだった。
中々先に進まない。意味がわからぬまま眠くなってきた。
うとうととしたまま本を置いて眠りに付いた。
・・・・・・

深夜だった。誰かが足元に来て寝ている私を揺り動かしていた。
いやだなあ~、また渡辺さんかと思って目を開けた。

わあああ~、目の前には茶髪の大男が立っていた。
一度も見た事のない男だった。
派手なアロハシャツと薄汚れた青いジーパンを履いていた。
彫りの深い顔立ちだった。テレビに出てくる若いチンピラのような感じがした。
怒ったような目つきで私を見据えている。

「てめえか、今度この部屋に入った学生ってのは!」
「すみません、どなたですか?」
「てめえのほうは、何ていうんだ」
「早川って言いますけど・・・・・」
口ぶりからかなり酔っているようだ。挑戦的な目つきだった。
隣の二人がまだ帰ってきていない。何があっても助けてくれる人がいない。
恐くなって体が寒くなってきた。

夜中の1時頃だった。
今起こっている事が現実なのは間違いないなかった。
酒の匂いがぷんぷんしてくるし足の匂いも臭かった。
夢なら匂いは感じない。顔にあどけなさが残っている。20歳前後のようだ。
靴を脱いで入ってきていた。強盗やヤクザではなさそうだ。
恐ろしい中にもわずかな救いがあった。

「・・・・何か僕に用事でしょうか?」
「一人でぬくぬくと寝てやがって、頭に来るよ」
「・・・ええと、ここは僕の部屋なんですけど」
「ふざけた事をぬかすんじゃねえ!」
「・・・?」
「俺は住むとこがねえっていうのに、てめえはのうのうと寝てやがってよ」
「・・・事情がよくわからないんですが」
「もともとここは俺の部屋だったんだよ」
「ええ?あ、そうなんですか・・・」
「てめえがここに来るっていうんで、追い出されたんだよ」
「じゃあ、前にこの部屋に住んでいた方ですか」
「ああそうだよ、ここを出て船橋まで行けって言われたんだよ」
「そうですか、知りませんでした」
「あんな船橋みてえな田舎なんかに行きたくねえよ」
茶髪の大男は宮田さんと一緒にこの部屋に住んでいたらしい。
だんだん事情が飲み込めてきた。新築した船橋の寮に移された寮生の一人のようだ。

「あの~、どうやってここに入ってきたんですか?」
「そんな事はてめえには関係ねえだろ~」
「・・・何か僕が悪い事を?」
「僕じゃねえよ、かっこつけやがって、気取るんじゃねえよ」
やっぱり慣れない“僕”はまずかった。
茶髪の大男が今にでも殴りかかってくるような気がした。
少しずつ大男との距離を広げていった。

「すみませんが、それで、僕に何かようですか?」
「てめえのおかげで、会社を首になったんだよ」
「え、なんでですか?」
「船橋なんか行きたくねえって言ったら、会社を辞めてもいいってよ」
「船橋ってここからそんなに遠いんですか?」
「あんな所へいけるかよ。頭に来てんだよ、あの安田のやろうによ」
「安田って、総務課の安田課長ですか?」
「それじゃあ辞めますって言ったら、そうかしょうがねえなって言われたよ」
「それで会社を辞めたんですか?」
「あたりめえだよ、あんな所まで行けるかよ、ゴミみたいに追い出しやがって」
「そうだったんですか。でも僕にはどうにもならないです」
「てめえが原因で追い出されたんじゃねえか、生意気な口利くんじゃねえ」
「僕はどうしたらいいんですか?」
「おめえを、一発くれえぶん殴らないと、腹の虫がおさまらねんだよ」
「そのうち、隣の宮田さんや佐伯さんが帰って来ますよ」
「関係ねえよ、俺はもうここの社員じゃねえよ」
「それじゃ、警察を呼びますよ」
「ああ、呼んでみろよ、警察が来る前にぶん殴って逃げてやらあ」

殴るために来たのにしては説明が長すぎる。本気で殴る気はないようだ。
少し気持ちが落ち着いてきた。
「いまは、どこに住んでいるんですか?」
「関係ねえだろ~、てめえなんかに教える必要ねえよ」
「もう夜も遅いんで、寝たいんですけど」
「一発殴んなけりゃあ帰れねえよ」
「じゃあ、ここで殴りあいをするのは狭いですから、屋上に出ましょうか」
「なにお~、いいだろう行ってやろうじゃねえか」
「やるんなら、僕も命がけでやります」
少し強気に出て様子を伺った。こんなに狭い部屋では逃げる事もできない。


「てめえ、本気でやる気か」
「やれば二人とも間違いなく怪我をしますよ」
「この田舎のクソガキが、でかい口を叩きやがって」
「駅前に病院がありますから、怪我する前に名前を教えて下さい」
「俺は足利の島田だ、文句あっか」
「僕は隣の太田です。島田さんは足利のどこなんですか?」
「そんなこと関係ねえだろ~」
「足利へはよくバイクで遊びに行きました」
「てめえ、暴走族か?」
「足利には高校時代の仲間が何人もいます」
「俺には足利なんかに未練がねえよ、中学校を卒業してすぐに家出をしたからよ」
「島田さん、もし泊まる所がなければ、今夜はここに泊まりますか?」
「うるせえ、馬鹿やろ。てめえに情けなんかかけてもらいたくねえよ」
「初めて会った人間に、馬鹿やろうはないんじゃないですか」
「おめえに特に恨みがある訳じゃねんだけどな、腹の虫がおさまらねんだよ」

てめえから、おめえに変わった。だんだん怖さがなくなってきた。
私と同じ小心者の匂いがする。冷静に話せば危害がなさそうだ。
島田は振り上げたこぶしを下ろせない状況だった。
「島田さん、終電がなくなりますよ。また改めて来て下さい」
「おお、今日はこの位にしておくけど、いつかは必ずぶん殴ってやるからな」
「私もやられないように体を鍛えておきます」
「いちいち、小憎らしい事をほざきやがって、覚えていろよ!」
「島田さんの顔は絶対に忘れません」
「ばかやろ~、ふざけんじゃねえ、また来るからな、待っていろよ」
島田という男は部屋の入口で腰をおろし、靴を履いて帰って行った。

やっと災難が通り過ぎた。最初は生きた心地がしなかった。
それでもそんなに悪い人ではないような気がした。
私がこの寮へ入る事で色々な人への影響が出ていた。
私の幸せの影には犠牲者がいた。喜んでばかりはいられない。
こんな毎日ではゆっくり眠れない。
総務の安田課長に事情を話して、部屋の鍵を取り付けてもらおうと考えていた。

今までは受験勉強、これからは人生勉強。
運命は効率よく試練を与えてくれている。

誰かが階段を上がってくる足音がした。時刻は深夜2時を回っていた。
島田と入れ替わりに二人が帰ってきたようだ。
そういえば今日は両国劇場でストリップショーがあると言っていた。

この業界では有名な一条 さゆりが特別出演するようだ。それを見てきたのだろう。
私も誘われたが見る気になれなかった。精神的に堕落をするような不安を感じた。

電気の点いている私の部屋を見て宮田さんが声をかけてくれた。
「まだ起きてるん、今玄関で島田に会ったけど何かあったん?」
「ええ、島田さんが俺をぶん殴るって部屋に入ってきたんです」
「そうなんだ、あいつこの間会社を辞めちゃったんだよ」
「怒っていました。辞めさせられたって。少し酔っていたみたいです」
「しょうがねんだよな、みんな会社の方針で船橋の寮へ行ったんだからな」
「島田さんは、何か船橋に行けない事情でもあったんですか」
「うん、会社には内緒だけど、あいつ夜スナックでアルバイトをしてるんだよ」
「ええ?この会社で9時ごろまで働いて、まだそのあと働いているんですか」
「毎日5時間位しか寝てねんじゃねん。帰って来るのは夜中の2時頃だったよ」
「何でそんなにまでして働いているんですか」
「あいつ、田舎が足利なんだけどな、家がけっこう貧しいみてえな」
「俺のうちだって、貧しかったですけどね。いつも腹を減らしていました」
「そんなレベルじゃねんだよ、小さい頃、親父が家を出ちゃったんみてえな」
「ええ、親父さんが家出ですか?」
「あいつと、かあちゃんと、今年中学3年の妹の3人暮らしだったんだよ」
「お母さんが一人で働いて、二人の子供を育てたんですか」
「今でもメッキ工場でパートで働いているんだけど給料安いみてえな」
「じゃあ、今はお母さんと妹の二人暮らしですか」
「うん、あいつなあ、妹を高校にいかせたいんだって」
「それで、昼も夜も働いているんですか。無理すると死んじゃいますよね」

自分が貧しいと思っていた生活は普通の生活だった。
自分だけが頑張っていると思っていたがレベルが違っていた。
同じような年齢なのに、死ぬか生きるかの生活をしている人がいた。
宮田さんは島田さんと同じ部屋で暮らしていた。
色々な事情は理解できても、宮田さんにはどうにもならない事もあるようだ。
「アルバイトは会社で禁止されているんだよ。見つかったら首になるんだよ」
「ええ?厳しいんですね。社員のアルバイトってだめなんですか」
「あいつのアルバイトを知っているんは俺だけだよ。同じ部屋だったからな」
「それで、船橋に移ったらアルバイトができなくなっちゃうんですね」
「そうなんだよ、会社にはアルバイトの事は話せないしな」
「それを知らないで、島田さんに生意気な事を言っちゃったみたいです」
「それに、妹がそんな優秀じゃないんみたいでさ、私立高校なんだって」
「それじゃあ、だいぶお金がかかりますね」
「あいつも中卒だろう、何とか妹だけはって頑張っているんだよ」
「聞いて見なけりゃわかんないもんですね。茶髪だから不良かと思いましたよ」
「うん、ああでもしなけりゃ周りから舐められちゃうと思って髪を染めてんだよ」
「そうですよね、ちょっと恐く見えますからね」
「今は、昼間は道路工事の日雇いで稼いでるんみてえな。ほらニコヨンだよ」


「日雇い労働者ですか、それで今はどこへ住んでいるんですか?」
「こないだは、南千住の木賃宿って言ってたな、現場によって違うみてえな」
皆苦しみを背負って人生を歩んでいる。貧しいの苦しいになんて、人によってれレベルが違う。
聞いてみて事情がわかったが、そんな事ならもっと優しく対応してやりたかった。
これからどう生きるべきかなんて考えている自分が間抜けな人間に思えてきた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み