第8話 生活の中の人間関係は

文字数 3,069文字

食堂に行くと大須磨さんがいた。
性格がおとなしく、向こうから声をかけてくる事はなかった。
新聞を見ながら黙々と夕飯を食べている。
新聞も読んでいるようでもなくただ眺めているだけだった。
私が食堂に入って行くと、横目でチラッと見てまた新聞に目をやった。

「おばちゃん、夕飯頂きま~す」
「あいよ、早川君かい、昼間のカレーも残っているから、食べてもいいよ」
「は~い、じゃあカレーも頂きます」

おばちゃんとは少し慣れ始めてきた。
だんだん態度が優しくなってきた。人との関係は少しずつだが変化していく。
大須磨さんがカレーに興味を示した。
「なに、おばちゃん、カレーが残ってるん?」
「ああ、よかったらあんたも食べていいよ」
「なんでさっき、俺には言ってくれなかったん」
「あんたは黙って食堂に入ってきて、黙って食事をしてるじゃない」
「・・・・そうかい」
「挨拶くらいしてくれれば、こっちだって、気持ちいいよ」
「・・・・言ってなかったかな~」
「おばちゃんだって、一生懸命作っているんだからね、挨拶くらいしなよ」
「おれ、何も言ってなかったっけ」
「あんたは、ドウモっていうだけじゃない」
「そうだったかなあ・・・」
「いただきますも、ごちそうさまも、これまで1回も聞いた事がないよ」
まずい雰囲気になってきた。

ただおとなしいだけでは世間には通用しない。
気のきいたお世辞の一言が必要になってくる。食堂が気まずい雰囲気になってきた。
大須磨さんは何か言いたそうだ、おばちゃんの方を向いて黙っている。
だんだん人間関係がよくなる人とだんだん悪くなる人がいる。
人はお互いの過去の積み重ねの結果が会話の中に現れてくる。
おばちゃんのお説教が始まりそうだ。
息苦しくてなかなかカレーに手が付けられなかった。

大須磨さんとおばちゃんの言い争いが今にも始まろうとしていた。
思い切って大須磨さんに声をかけた。
「あの~、大須磨さんちょっといいですか?」
「うん・・・なに?」
「大須磨さん、今日は部屋にいるんですか?」
「うん、いるけど、何か用?」
「ちょっとお願いがあるんですけど」
「どんなこと?」
「ええ、ちょっと」
「俺にわかるんかい」
「はい、あまり時間はとりませんので」

大須磨さんと私の会話が始まった。おばちゃんは不満そうに調理場に帰って行った。
おばちゃんはもっと言いたいた事があるようだった。お互いに不満顔だった。
人はみんな心の中に貯めているものがある。何かのきっかけあふれ出してくる。
「おとなしい」は社会では通用しない。言葉を選んで失礼のない言い方をする事だ。

おばちゃんとの言い争いは回避できた。大須磨さんもほっとした表情に戻った。
「あの~、大須磨さんはいつも何時ごろ寝るんですか」
「特に決めてないけど、12時頃までには寝るかな」
「9時半頃は部屋いますか?」
「外に行くことはあまりないからいると思うよ」
「じゃあ、9時半頃、ちょっとだけいいですか」
「どんな事何だい・・・」
「ちょっとお願いがあるんです」
「要件を言ってくれよ」
「ちょっとここでは・・・・」

おばちゃんに気付かれないようにおばちゃんのほうを指さした。
大須磨さんがおばちゃんを快く思っていない事は様子でわかる。
大須磨さんはおばちゃんの件で相談があると思ったようだ。
「わかった。じゃあ9時半頃な」
「はい、よろしくお願いします」
やっと大須磨さんとの約束を取り付けた。これで風鈴と釣り糸が役に立つ。

食事を10分くらいですませた。気になっていたカレーも食べた。
「ごちそうでした、このカレーほんとうにうまかったです」
本当は田舎のかあちゃんのカレーのほうがうまかった。
でも、本音は人を傷つけるという事は知っている。
結局、大須磨さんはカレーを食べられなかった。

1課の部屋に戻ると渡辺さんが帰ってきていた。
「おお早川君、今度は俺と一緒に行ってくれるか」
「はい、お願いします」
「俺の担当は大問屋さんだから荷物が多いんだよ、小型トラックで行くよ」
「はい、荷物はもう積んであるんですか」
「そこにあるダンボールを1箱持ってきてくれ、あとはもう積んであるよ」
「どっちの方へ行くんですか?」
「秋葉原の滝沢商店と清原っていう所だよ、大型の問屋さんだよ」

小型トラックの助手席に乗って会社を出た。
京葉道路は夕方のラッシュを迎えていた。両国橋の上は3車線とも車で溢れていた。
両国橋を越えると、「京葉道路」から道の呼称が「靖国通り」に変わる。
秋葉原までは会社から距離にして1~2km程度しかない。


渡辺さんの運転はびっくりするほど軽やかだった。
宮田さんのぎこちない運転から比べると曲乗りのような身軽さだった。
少しでも車間が空いているとそこへ頭を突っ込んで車線を変える。
抜いた車からは怒りの警笛を鳴らされる。
渡辺さんは相手を見つめて指先の無い手を振って挨拶をする。
相手はやくざと勘違いしておとなしくなってしまう。
あっという間に何台も抜かしてしまった。

東京の裏通りは一方通行が多い。
向こうの通りまでいくらも距離が無いのに入っていけない道がある。
目の前に得意先があっても遠回りしていかなければならない。
渡辺さんは平気で一方通行を逆から入っていく。
「渡辺さん、ここは一方通行ですよ?」
「ここを通ると早いんだよ」
「嘘でしょ、でも警察に見つかったらどうするんですか」
「こんな所をいちいちおまわりが見張っているかよ」
「でも規則ですから、まずいでしょう」
「じゃあ、早川君は、100円拾って交番に届けるか?」
「届けないでしょうね。でも例えが違うような気がしますけど」
「同じようなものだよ。規則なんて時と場合だよ」


もうすぐ大通り出られるという時に向こうから車が入ってきた。
大通りまであと4~5mという所だった。どうするんだろう。
渡辺さんの口から出てきた言葉は思いもつかない言葉だった。
渡辺さんは窓を開けて大きな声で叫んだ。
「お~お~、おじさんここは一通だよ。だめだよ、そこから入ってきちゃあ」
「ああ、すいません」
おじさんは恐る恐るバックして戻って行った。
人は簡単に騙される。人は勢いに圧倒される。

納品するお店に入っていく時も正田主任とは違っていた。
「おお、げんさん、元気そうだな」
「ああ、ナベちゃんか、この間はごちそうさん」
「また、行こうや」
「そうだな、今度は俺がおごるよ」
「なんか注文があったら出しておいてくれよ」
「うん、あとで在庫を調べて電話するよ」
渡辺さんの会話は脳を使っている。相手によって話し方や態度を変えていた。

納品作業は1時間くらいで終わった。帰りの車の運転はゆったりとしていた。
「早川君、今日は空いているんか?」
「ちょっと用事があります。9時半に大須磨さんの所に行きます」
「へえ~、大須磨君か、何の用だい?」
「ええ、ちょっと、企業秘密です」
「あはは、やられたな」
「たいした用事じゃあないです」
「じゃあ、隣の太助で正田さんと飲んでいるから、終わったら来いよ」
「ありがたいんですけど、多分行かないと思います」
「正直だなあ。そういう時は行けるようなら行きますって言うんだよ」
「はい、すみません」
「遅くなったら、今日も泊めてくれよな」
「あの~今日はゆっくり寝たいんですけど」
「そう言わずに泊めてくれよ、いい話を教えてやるよ」
「いい話ってなんですか?」
「企業秘密だよ、泊めたら教えてやるよ」
「ああ、あの門限の件でしょ?どうやって入るんですか」
「そう簡単には話せないよ、世の中なんでもギブアンドテークだよ」
「わかりました」会話には人を納得させる力がある。
渡辺さんにすっかり丸め込まれてしまった。今日も泊まりに来る。
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