文字数 3,391文字

 錦糸町。煌びやかなネオン街。JR総武線の黄色い電車が通る度に高架が揺れて音を立てる。折り重なるようにして建つ雑居ビル。その中の一つに『阿修羅』の事務所があった。阿修羅は広域指定暴力団北陽会の下部組織で、東京支部の若手ホープと言われるエビサワユウジが仕切っている。実はエビサワ自身は北陽会の構成員ではない。つまり正式な杯を貰っていない。阿修羅は指定暴力団の指定をされておらず、所謂『半グレ』と呼ばれていた。以前は街の至るところで北陽会との衝突があった。けれどもエビサワユウジが北陽会とのビジネス上の折り合いをつけた。今では形式的には北陽会が阿修羅の面倒を見ている形だが、事実上のビジネスはエビサワユウジたち半グレのものだった。元々、この半グレたちに帰属意識などない。錦糸町で風俗絡みの商売をするために、北陽会と対等に手を結んだと考えている。勿論、エビサワユウジには北陽会からの誘いはあった。しかし、その誘いを断ってきた。暴力団対策法で縛られるのが嫌だったし、姉のビジネスに迷惑をかけたくなかった。それに、自分たちは自分たちであり、誰の指図も受けたくないという反抗心のようなものが根底にあった。それは自分のルーツがこの国に根ざしていなかったからかもしれない。
 錦糸町はすでに、この若いエビサワユウジの手に落ちていた。逆らう者などいない。金髪を肩まで伸ばし、一見ただチャラチャラした男に見えるが、その背後には北陽会と、在日三世で構成された阿修羅がついている。特に警視庁から暴力団指定を受けていない阿修羅は、やりたい放題だった。今では阿修羅がやらかした事件の尻拭いを北陽会がやらされているような始末で、正直、北陽会も頭を悩ませていた。阿修羅はこの街のソープランドやファッションヘルス、ピンクサロン、キャバクラに至るまで、夜の水商売のケツ持ちの一切を請負っている。当然、毎日のように起こるトラブルに備えて、事務所には常に若い衆が夜通し詰めていた。エビサワユウジの舎弟でワタナベタイチというチンピラが、事務所のソファに寝そべりながら肩肘をついて、テレビ番組を観ていた。田舎の高校を中退し、今年ようやく十八歳になったばかりである。他に数人の仲間が煙草をふかしていた。
「この女、よくないっすか?」
「誰?」
「だから、今、テレビ映ってるお姉さん。ほら、美人過ぎる料理研究家とかいう」
「ああ、タイチお前、年上の女が好みか?」
 タイチが顔をくしゃくしゃにする。
「そうっす。同年代は無理っすわ」
 周りの男たちが苦笑する。
「そんなこと言ったって、お前もまだ十八の子供だろ? お前なんかが相手にされるような玉じゃねぇよ」
「そんなことわかんねぇっすよ。どうにか知り合うキッカケないっすかね。エビサワの兄貴にでも頼んじゃおうかな? 兄貴、芸能界に顔が効きますもんね」
「そう言えば先日、エビサワさん、そのミウラユキナとかっていうタレントにどっかのバーで会ったらしいぞ。で、声かけて・・・・・・」
タイチが額に皺を寄せた。
「で、どうなったんすか? ヤッちゃったとか言わないっすよね?」
「ああ、心配すんな。完全に無視されたらしい」
 オオッと声が上る。タイチの表情が一瞬緩んだ。しかしエビサワユウジが声をかけたと聞いて、額に手をあてた。エビサワが声をかけたということは、その気があるということである。兄貴が狙っている女を、下っ端の自分がものにできるはずもなかった。そんなことをしたら、指を詰まされるだけでは済まないだろう。
「しかし、兄貴を無視するなんて一体どんな女なんすかね。それに兄貴がすぐに引き下がるなんて、珍しいこともあるんすね」
「ああ、話によると、マネージャーとかいう男と一緒だったんだそうだ」
「でも、いつもの兄貴なら、そんな男がいたって全く気に留めないっすよね」
「それがな、兄貴が言うには、そのマネージャーとかいう男、そこら辺の男じゃねえって言うんだよ。どっかの組の者じゃねえかって」
「うひゃあ、それじゃあ無理できないっすね。そうなんだ、もうすでにどっかの組が目をつけたってことっすか?」
「まぁ、タイチ気を落とすなよ。所詮お前には高嶺の花だったんだ。諦めろ」
 タイチが再びテレビ画面を観た。ユキナが天然ボケしたコメントを言って、スタジオが笑いに包まれていた。自分は一生陽の当たらない夜のヤクザな仕事。それに比べて彼女は今や人気絶頂で、光り輝く天使のようだった。ものにしたい、けれどもそれはどう考えても無理だった。エビサワの兄貴が狙っているというだけではなく、他の組の息がかかった女に手を出すことは、組同士の抗争を招く恐れがある。タイチは不貞腐れて、両脚をテーブルの上に放り出した。
 深夜十二時近くになって、事務所の電話が鳴った。近くのファッションヘルスの店長からだった。店にヤクザ風の男が来て、ヘルス嬢に本番を強要した挙句、サービス料を払わないと言ってわめいているという。エビサワがタイチを連れて店に向かった。たいていは二人で対応すれば済むが、念のため若い衆を数人店の外に待たせておいた。店に入ると、店長が青ざめた顔をして立っていた。エビサワの姿を見つけると、ほっとしたように目配せした。タイチはいつものようにエビサワとは逆の立ち位置へと移動した。目を合わせるのは苦手だった。田舎ではそれなりに突っ張ってきたつもりだったが、東京に出てきてその鼻っ面を折られた。ヤクザの使いっ走りになるところを、エビサワユウジに拾われた。エビサワはまたいつものように、切れ長の目で戦況を見ているだけだった。
「お客さん、こんなところで騒がれると困るんすよ」
 男が目を剥く。
「何じゃコラ! この若造が」
「おっさん、いいですか、よく聞いてくだせえよ。ファッションヘルスっつーのは、本番無えんすよ。わかってます? 本番がしたかったらソープでも行けや」
「何だとコラ? ワレ、ワシをなめとんのかコラ! しばくぞワレ」
 タイチがエビサワをチラと見た。
「おっさんこそ、ウチのシマでいい度胸やないけ、どこぞの組のもんか知らんがさっさと金払って、お引取り願えまっか?」
「何だとボケ、ワシを誰だと思っとんのか! 北陽会の盃もろうてんのやぞ!」
 するとエビサワがタイチを制して前に出た。
「知らんなぁ、アンタなんか、知らんよな? タイチ」
 タイチが頷く。
「ウチはヤクザとか関係ないんだよ。そりゃね、こういう商売やってるんで北陽会さんは知ってる。本部長のセリザワさんとは古いが、アンタのことは知らねぇな。それにな、ウチは北陽会にケツ持ってもらってるわけじゃねぇんだよ。俺たちゃ、俺たちでこのシマ守ってる。そう言ってもわかんねぇかな?」
 すると男の顔色が変わった。チッと舌打ちし、店を出ようとするのをタイチが呼び止めた。
「おっさん、何か忘れてねぇか?」
 掌を差し出す。男は見て見ぬ振りをして、強引に自動扉から店の外に出ようとした。すると店の外に待機していた若い衆が男を取り囲んだ。特攻服の肩の辺りに『阿修羅』と刺繍が入っている。
「げっ、阿修羅か」
 男の表情が青褪めた。若い男たちの中の一人が男のみぞおちに膝蹴りを入れた。腹を抱えて折れ曲がった背中から首裏を肘撃ちし、数人で両腕を捻じ曲げ床に倒した。その後は全員で顔面や腹を蹴りつけた。男の口の中が切れ、白い床に鮮血が飛び散った。集団リンチはそれだけでは収まらなかった。倒れて意識を失いつつある男を無理やり立たせ、雑居ビルのエレベーターに乗せると屋上へと連れ出した。男の目は震えていた。水溜りの波紋のようだった。
「た、助けてくれ!」
 掠れた笑い声がエレベーター内に籠もる。そして一人が男の顎の辺りに拳を入れると首が項垂れた。男を数人で担いで屋上のフェンスを越え、片足に軽くロープを引っ掛けただけで突き落とした。男は意識を取り戻し、呻き声とも叫び声ともつかぬ声をあげた。手足をばたつかせたが、片足にしかロープが掛かっていないことを悟り、急に動きを止めた。ロープで宙吊りにされ、ビルのコンクリートに激しく打ちつけたれた顔面は腫れあがっていた。すでに原型を留めていない。それを見て、若い男たちが声をあげて笑っている。
「死んじゃった?」
 一人がロープを揺らす。反応が無い。
「ウケるう、まだじゃね?」
 ペッと唾を吐きかけた。
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