文字数 4,653文字

 「ユキナ、今度の土曜日空いてないか?」
 珍しくショウからの誘いの電話だった。
「おっ、どうしたんだ? 珍しいじゃん。土曜は夕方まで収録あっけど、その後だったらいいぞ。久しぶりに飲みにでも行くか? 最近アタシも小銭稼いでっからさ、たまにはアタシのおごりでもいいぞ」
 ショウが受話器の向こうで苦笑した。
「六本木グリーンシアターって行ったことあるか?」
「ああ、知ってるよん。行ったことは無いけどテレビ局の近くだから、それがどうしたの?」
「たまには飯食って、飲むだけじゃなく、舞台でも観ようかと思ってな」
「またまたショウったら、お前らしくない。どうせ何かの事件と関係があんだろ?」
「お前、最近妙に鋭くなったな、図星と言えば図星なんだが、実はそれだけでもない。お前が舞台から遠ざかって、少し寂しいんじゃないかと思ってな。本当は舞台のほうがいいんだろ? 無理してタレント活動してるんじゃないのか?」
 ユキナが受話器の向こうで首を横に振った。
「ううん、そんなことねぇぞ。料理は心底好きだから全く苦になんねぇし。でも、あんがとな、気遣ってくれて。じゃあ、せっかくだから舞台観に行こうよ。最近デートらしいデートしてなかったかんな。お互い以前より忙しくなっちまったし」
「ああ、楽しみにしてる。収録が終わった頃に迎えに行く」
「おお、わかった」
 ユキナが鼻唄を歌いながら、通話を切った。

 土曜日の夕方、ショウは刑事になってから購入した濃紺のアウディA6クワトロで、ユキナを迎えに六本木に向かった。グリーンシアターでは光と影のパフォーマンスショーが開催されており、最終公演時間の十九時に合わせてチケットを用意していた。神保町から六本木までの道は混んでいたが、三十分ほどで到着した。ユキナからの連絡を待つために、外苑東通り沿いにある喫茶店で時間を潰していた。近頃ではユキナのほうがショウを待たせることが多くなった。以前は逆だった。だからというわけではないが、ショウにとっては恋愛のリズムが少し狂っていた。ショウにとってはこういうリズムで女と付き合うのは初めてだった。決してそれが嫌なわけではなかったが、ユキナという人間は、やはり自分の影になるべきではなく、光として表の世界で輝き続けたほうが幸せになれるのではないかと思うようになっていた。ユキナには生まれ持った華がある。学生の頃からそうだった。ユキナがいるだけで周囲は明るい雰囲気に包まれ、言葉遣いは乱暴でガサツだが、それを補って余りある美貌と純粋な心を持っている。ショウは正直、現在の自分にはもったいないくらいの存在だと思う時がある。だからユキナの父に別れるように言われても、諦め切れなかった。そのユキナの魅力に世間が気付き、タレントとして人気が出たのは当然のことだったのかもしれない。ユキナは自分自身の弱さを知っている。女優になることを諦めたのも、多くのファンの思いをまともに受け取ってしまう自分の心の弱さをわかっていたからだった。受け止め切れなくて自分の心が疲弊してしまう前に、芸能人として向いていないと見切りをつけたのである。しかしユキナも昔の弱く自信のない心のままではなかった。ショウとの絆を深めることで、自分に自信を持つことができた。だからいつだってタレントを辞めて、ショウの元に帰ることができる。その心の余裕がタレント活動を支えている。ショウの存在無しではやって行けない。元気の源は、やはりショウなのだ。ショウのためならいつだってひとりの平凡な女に戻ることができる。
 十八時過ぎ。ショウの携帯電話が鳴った。ユキナからだった。
「ショウ、本当にゴメン! 収録長引いて、まだ終わりそうもない」
「ああ、わかった。気にするな」
「後でこの埋め合わせは必ずすっからな、悪りぃ」
 プツリと通話が切れた。珍しくショウの心に穴が空いた。本気になるということはこういうことかと苦笑する。ショウは舞台を観ることなく、車を飛ばして神保町の自宅に戻った。

 ユキナの人気はその後も上り続けた。最近では料理番組よりも、バラエティ番組への出演依頼が多いらしく、毎日不規則な生活をしていた。調布にある「ミキちゃん家」でのアルバイトも辞めざるを得なくなった。時間的なものもそうだが、ユキナのファンが店に押しかけて、店に迷惑がかかるようになったのだ。CMも何本か決まった。ドラマへの出演オファーもある。自分一人でのマネジメントが困難になり、大手芸能プロダクションと正式に契約を結ぶことになった。ユキナが電話口で話す。
「なぁ、ショウ、アタシ本当にこれでよかったのかな?」
「珍しいな、お前が弱音を吐くなんて」
「でもよ、毎日朝から晩まで仕事仕事って、最近はお前にも会えてないし」
「売れたくても売れない奴が五万といるんだ。そう言わずに、一度きりの人生を楽しんだらいいじゃないか」
 笑いながら突き返した。
「何だよ、他人事だと思って。わかったよ、もう少しだけ頑張ってみる。だけどショウ、どんなに忙しくなって会えない日が続いても、アタシを信じてくれる?」
「ああ、心配するな」
「でもよ、アタシはお前に会えなくて、寂しい」
 寂しいという言葉の響きが、ショウの胸に突き刺さった。寂しさは子供の頃から嫌というほど味わってきた。だからユキナの気持ちも痛いほどわかる。けれども、その寂しさを埋めようと、自分以外の誰かに求めることの無意味さも知っている。結局、寂しさは自分自身で埋め合わせる以外に無い。寂しさは両刃の剣に似ている。自分を見失えば自らを傷つけ、そして最愛の相手をも傷つける。寂しさは自らが作り出す「獣」である。ショウは子供の頃からその獣を飼い慣らしてきたつもりだった。寂しがれば寂しがるほど、相手の心が離れて行く。皮肉なものだ。でも、そのことを理解できた時、寂しさをコントロールできるようになった。

 夏の終わり頃、ある週刊誌にユキナと実力派若手俳優Sが仲良く喫茶店で話している写真が載った。ユキナはすぐにショウに連絡を入れた。
「ショウごめん。アタシの不注意だ。本当に何も無いからな」
「何のことだ?」
「週刊誌の写真のことだよ」
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって何だよ、アタシはお前が心配してるんじゃないかって、それで」
「お前も芸能人っぽくなったじゃないか」
「何だよ、それ。イヤ味な奴だな。人がせっかく心配して電話かけてるってのによ。全くお構いなしかよ。心配して損した」
 ショウが静かに笑っている。
「しかし週刊誌も暇なんだな。お前みたいなタレント追っかけてるなんてな」
「ああ、ショウ、お前アタシのことバカにしてんな。そんなこと言ってんと、お前よりもっと素敵な男にアタシを取られちゃうぞ」
「芸能界ってのは、そういう世界なのか?」
 ショウが笑う。
「冗談だけどよ、ただ、業界に入ってみてわかったんだけど、毎日毎日会う奴が、イチイチ人として魅力的な奴ばかりで、それは男だけじゃなく女もそう。学校の俳優科が草野球なら、やっぱり芸能界はプロ野球なんよ。若い頃からチヤホヤされてきたもの同士だから、そう簡単には惚れちまわないけどよ、ありゃ、素人ならすぐおかしくなっちまうぜ」
「そりゃ、そうだろ。生物学的に見たって、生物はより優れた遺伝子を残したいという本能が働くだろうからな。美しいものや、才能豊かなものに惹かれるのは自然なことだ。むしろ正常なことだと思うがな」
「お前って本当に、心底冷静な男だよな。取り乱したりすることなんて一生無いような気がするもん」
「まぁ、そう言うな。俺だって心を乱すことはある。乱したことがあるからこそ、それを他人に見せなくなったに過ぎん」
「じゃあ、お前もアタシに会えなくて、寂しくなることもたまにはあるの?」
 ショウが受話器の向こうで苦笑する。そして、
「あるよ」
 と言った。

 週刊誌の影響はこんなところにもあった。ユキナが調布の自宅に帰ると、珍しく父が寝ずに待っていた。ユキナの顔を見ると、何か言いた気にしながら、ビールをグラスに注いだ。テーブルの上に例の週刊誌が置いてある。ユキナは面倒だと思い、すぐに自分の部屋に行こうとしたが、そんなユキナを父が呼び止めた。
「ユキナ、ちょっと来なさい」
「何だよ親父、アタシ疲れてんだけど」
「いいから、ここに来て座りなさい」
 ユキナがぶつぶつ言いながら、キッチンの冷蔵庫からビールを取り出した。
「親父、一杯もらうよん」
 缶のプルタブがプシュと音をたてた。ユキナは父の顔が見えないように缶を口にあてたままグッと飲み干した。
「やっぱ仕事の後のビールは美味えなぁ」
 いつもなら苦笑する父が表情を変えない。
「だから何だっつうんだよ、週刊誌のことだろ?」
 すると父が額に皺を寄せた。
「ユキナ、一体どうなってるんだ? この俳優Sって誰だ?」
 ユキナが手で髪をくしゃくしゃにする。
「別に何も無いよ。番組で共演して、たまたま時間があったから一緒にお茶しただけだろが! 何だよ、皆、過剰に反応しやがって。恋人以外の男とお茶くらいして悪いのかよ、全く」
「じゃあ、週刊誌の彼とは何でもないんだな?」
「当たり前だろ、アタシにはショウがいるし」
 すると父がまた表情を曇らせた。
「まだショウ君と付き合っているのか?」
「は? 親父、今更何言ってんだよ。まだも何も、アタシはいつかショウと結婚するんだかんね、親父、よく覚えといて」
「ショウ君はお前に何も言ってないのか?」
 ユキナはそれを聞いて首を傾げた。
「ん? 何のことだ? ショウがアタシに何か言いたいのか?」
 父が口を噤んで、またビールを煽った。
「親父、アタシに何か隠してんな?」
 父が目を逸らした。
「実はな、父さん、前に一度ショウ君に会いに行った」
「え?」
 ユキナが大きく口を開けて父を見た。
「いつ?」
「ちょうどニ年くらい前」
「何しに?」
「・・・・・・・・・・・・」
 気まずい沈黙が広がった。
「父さん、ユキナのことが心配だったんだ。あの時、ショウ君が新宿の誘拐事件で撃たれたって聞いて、そんな危険な仕事に就く男とユキナを一緒にさせるわけにはいかないと思ったんだ」
 ユキナが目を紅くした。
「父さん、酷いよ、そんなの・・・・・・」
「すまんユキナ、いくらなんでも父さんやり過ぎたと反省してる。でも父さんはユキナのことが心配だったんだ。警察の仕事は立派な仕事だと思うよ。だけど、そんな危険と隣り合わせのような男に大事な娘をやるわけにはいかないと思ったんだ」
「それでショウは何て?」
「少し時間を下さいって」
 ユキナが席を立ち無言で部屋に戻って行った。ユキナもその当時のことを思い出した。ショウが銃で撃たれたと聞いて、心臓が止まりそうになった瞬間のことが甦る。わけもわからず病院に駆けつけたが、その途中で妙に冷静を装う自分に気が付いた。夢のようであり、全く実感が湧かなかった。ベッドでニコニコしているショウの顔を見ても安心できなかった。あの時の時間がずれたような感覚は今でも忘れられない。だから父の気持ちが理解できないわけではない。だけどユキナに言わせれば、それは思いやりでも何でもない。父自身の心の不安を取り除きたかっただけなのだと思う。世間はそうは思わないかもしれない。そんなことはわかっている。けれども最も大切なことを父は忘れている。それはユキナの気持ちがどうであるかということ。ショウは傷ついただろうか? 傷つかないわけはない。それを思うと眠れなかった。
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