十三

文字数 5,996文字

 台湾、台北西門地区の外れにあるリュウの部屋。王美玲は勤め先のブティックから直接リュウの部屋に行き、夕食を作るのが日課となっていた。ずっと外食続きだったリュウのために、少し日本風に味を工夫して、中華醤油の代わりに日本の醤油を使ってみたり、日本の味噌を混ぜてみたり、美玲はそんなに料理が得意ではなかったが、リュウのためならば苦にならなかった。リュウも悪戯半分で、日本食材店から納豆やイカの塩辛、いぶりがっこ、生そばなどを取り寄せて美玲に食べさせてみた。美玲が恐る恐るにおいを嗅ぎながら泣きそうな顔で口に運ぶのを、リュウは楽しそうに見ていた。
「モウ! 意地悪!」
「日本に行きたいんだろう? 日本じゃ毎日コレだよ」
 美玲がそっぽを向いた。
「日本ニナンテ行クモンデスカ!」
 頬を膨らます。その表情が可愛くて、リュウはついついからかってしまう。まさか自分が女に本気になるなんて思ってもみなかった。リュウは自分自身に戸惑いながらも、美玲と過ごす時間に満たされていた。
「口直シニ、私、ビーフン作リマスカラ」
 美玲の十八番は干しエビの入った焼ビーフンで、これは日本橋の料亭「サエキ」で育ったリュウの舌をも唸らせた。
「美玲のビーフンだけは本当に美味い」
「ハ? ビーフンダケ? ソウ、ビーフンダケネ」
 リュウが苦笑する。
「嘘だよ、ビーフン以外も美味い。嘘じゃない」
 美玲は最近、定番の青菜炒めやらイカとキュウリの炒め物、筍のマヨネーズソース和え、牛肉と玉子の煮物など、台湾の家庭料理を幾つも作れるようになった。以前ならすぐに外食、しかもファストフードが中心だったことを考えれば、相当努力したといえる。その上ドングリを抱えたリスのように愛らしい姿を見せられると、どんなに感情を冷静にコントロールしてきたリュウであっても、心を奪われてしまう。女とはつくづく業が深いものだなと思う。男の精魂を吸い取り、抜け殻にしてしまう。このまま美玲と結婚でもして日本に帰りひっそりと暮らしたら、空虚だった心が満たされるだろうか? 実際、復讐など虚しいものだと思う日が増えた。けれどもそれを打ち消しながら生きている。
 夕食を済ませた後、美玲がコーヒーを淹れにキッチンに立ち、リュウは煙草を燻らせながらテレビを観ていた。ちょうどその日、台湾総統選挙の投票があり、どのチャンネルも選挙速報一色だった。
「結果、マダ出テナイノ?」
「ああ、郭正元、苦戦してるようだな。僅差だ。中国国粋党が結構善戦してる。台湾民民党が僅かにリードだ」
 美玲がコーヒーカップを二つ持ち、顔をテレビに向ける。
「エエッ! 台湾民民党ニ勝ッテ貰ワナイト困ルンダケド」
「兄さんが党員だから?」
 美玲が首を横に振った。
「ソウジャナクテ、台湾ノ未来ガカカッテルカラ!」
 リュウはその力強い言葉に胸が熱くなった。日本にいた頃は政治などこれっぽっちも興味をひかなかった。いつも醒めた目で世の中を見ていたし、まわりの優秀な学生たちも自分自身の将来には興味があっても、政治には無関心だった。それなのに街のブティックで働く若い彼女が、真剣に国の将来を思っている。勿論、その先には個人の将来を見据えてのことではあるが、無気力な自分に比べれば輝いて見えた。少なくとも復讐に人生を捧げつつある自分に比べれば。
「美玲、未来は変わると信じているのかい?」
 美玲がキョトンとした。
「エエ、勿論ヨ」
「未来は変わる。俺たちの手で変えることができる。それを感じられることが自由という意味なんだ。過去は変えられない。人の頭の中の記憶は未来によって変えられるけど、事実は変わらない。俺は君に未来を感じる。美玲、君は俺の未来だ」

 リュウの元に思いがけない知らせが入ったのは、台湾総統選挙で台湾民民党の郭正元が勝利して間もなくのことだった。孫小陽から携帯電話に直接連絡があった。
「シズカ、ケンゴカラ話ハ聞イタ、私ノコレクションガ観タイソウダナ?」
「はい、厚かましいお願いをしてしまいました」
「イイヤ構ワンヨ、選挙ガ終ワッテ私モホットシテイルンダ。ドウカネ、近々私ノコレクションヲ観ニ来ルカネ」
「ぜひ、お願いします」
「トコロデシズカ、私ノコレクションデ特ニ観タイモノガ有ルソウダネ」
 リュウが間を空けた。
「ええ、でもハダさんは何て?」
「タザキノボル、ト言ッテイタカナ、ケンゴハ自分モ観タイト言ッテイタヨ、今度二人デ観ニ来ルトイイ」
「小老がお持ちのタザキノボルですが、絵のタイトルを教えていただくわけには参りませんか?」
「何故ソノヨウナコトヲ聞ク?」
 穏やかだった口調が変化した。沈黙が広がった。何かを考えているようだった。
「すみません。余計なことを聞いてしまいました」
 すると孫小陽はまた穏やかな表情を浮かべた。
「ケンゴニモ同ジコトヲ聞カレタヨ。イイダロウ、今度絵ヲ観ナガラ話デモシヨウジャナイカ」

 その一週間後、リュウは小老こと孫小陽の別荘に来ていた。また例の如く龍山寺の事務所で目隠しされ、携帯していた銃も奪われ、車で一時間揺られた。温泉の硫黄のにおいが鼻に届くようになり、リュウは小老の別荘が近いことを知った。かつてここに一度来たことがある。王志明に誘われて組織に入りたての頃だった。あの頃は孫小陽が父の絵画を持っているとは知らなかった。リュウが組織に相応しい人物なのか試されていたのだと思う。あれから四年が経つ。孫小陽に会うのはそれ以来だった。実際に父の絵画をこの目で見るのも初めてだった。幼い頃の記憶などない。組織での四年間はあっという間だった。多少は台湾国内、中国本土に人脈もできた。組織内でのポジションも上った。まだまだ借金の取立てや、ビジネス上の仲裁など地味な仕事が多かったが、銃の腕前は格段に上達した。そしてついに父の絵画を目にするところまできたのである。込み上げてくるものはあるが、冷静に四年間を振り返っている自分がいる。父の絵画はネット上では殆んど見ることができない。まだ若くして死んだため、その生涯作品点数自体が極端に少ないこともあるが、現存する作品の多くが個人所有であり、メディアへの露出を好まないからだ。贋作の噂は耳にする。それも闇の世界の話であり、今となっては本物と見分ける術もない。贋作を生涯本物と信じて死んで行くコレクターもいるだろう。
 目隠しを外され、孫小陽の部屋に通されると、また以前のように椅子にゆったりと腰掛け、柔らかな笑顔をリュウに向けた。
「シズカ、ヨク来タネ、サア、ソコニ掛ケナサイ」
 部屋に香のにおいが漂っている。若い女がジャスミンティーを運んできた。
「シバラクダッタナ」
「はい。小老」
「シズカ、オ前ノ働キハ聞イテイルヨ。銃ノ腕前ガ凄イソウジャナイカ」
「いいえ、それ程でも。ただ、銃というものは面白い」
「ホウ」
「昔、日本の戦国時代の武将に織田信長という人がいました。その人が鉄砲、つまり銃を組織的な武器として使用し、戦争の方法が大きく変化したと言われています。実際、自分が手にしてみてそれがよくわかりました。自分もこの四年で大きく変革したと思います」
 孫小陽が頷いた。リュウが話し続ける。
「銃というものは、ただの武器じゃない。人は銃をただの人殺しの道具だという。でも俺はそれとは違う考えを持っています」
 孫小陽が静かに微笑んでいる。
「シズカノ考エトヤラヲ聞イテミタイノウ」
「日本には昔から、攻撃は最大の防御という言葉があります。これは言い得て妙。真理では有りますが、十分ではない。銃は哲学的に表現すれば『現在』。守るためだけに、また攻めるためだけに存在しているわけじゃない。自分で瞬間を勝ち取ることの象徴。実は現在は未来にも、そして過去にもそのベクトルは向けられていない。守ることと攻めることとがその瞬間に同居するのが『銃』であると思うんです。俺は銃を手にして『現在』を手にしましたが、それ以上の何ものでもない。かつて織田信長が失敗したのは銃で『未来』を手に入れようとしたためです。銃で未来は手に入らない。これが俺の銃に対する哲学です」
 孫小陽が微笑した。
「全ク興味深イ男ダ。ケンゴガ気ニ入ルノモ頷ケル。若イ衆ノ殆ンドガ銃ニ未来ヲ求メルダロウガナ。仕方ノ無イコトダ。ドチラガ正シイトイウ類ノ問題デハナイ。ドチラガ長生キデキルノカ楽シミナコトダナ。トコロデシズカ、今年ハ四年ニ一度ノ上海オークションガ開催サレル。ドウダネ、オ前モ行ッテミルカ? オ前ニハケンゴノサポートヲシテモライタイ。身ノ周リノ危険ヲ取リ除イテヤッテ欲シインダガ」
 リュウが孫小陽を見つめた。
「つまりボディガード」
「ソレモアルガ、シズカオ前ノ頭脳ト銃ノ腕デ、ケンゴノ経験ヲ活カシテヤッテ欲シイ。ケンゴノ目利キハ類稀ナモノガアル。アノ男以上ニ絵画ノ真贋ヲ見抜ケル男ハイナイ」
「ハダさんにそんな能力が?」
「オ前ハ知ランダロウガナ、アノ男ニハソウナルベク過去ガアル」
「小老、言われなくても引き受けますよ。俺もハダさんとは馬が合う。上海のオークションに行かせて下さい」
 孫小陽が頷いた。そして、
「今カラ、タザキノボルノ『海』ヲ見セテヤロウ」
 と言った。

 地下に降りると、肌に触れる空気が変化した。湿度の高い台湾の気候の中で、絵画の保存を最適にするための空調が効いている。
「タザキノボルハ、二枚有ル。現在ココニ有ルノハ一枚ダケ。タザキノボル初期ノ作品『海』(sea)モウ一枚ハ今ココニハ無イガ私ガ別ノ場所デ保管シテイル。タイトルハ『月』(runa)」
「月と、海か、親父らしい単純さだな」
 心の中で呟いた。父が自然をモチーフにしていたことは知っていた。微かに幼少のころの記憶が甦る。日本の山の景色が脳裏に薄っすらと輪郭を残すが、それが果たして父の絵画だったのかすら思い出せない。何かの文献で父が自然を描く風景画家だったことを知ったのは後付けされた記憶である。父の絵画に対する思いは、淡々としたものだった。元々期待していたわけでもない。ましてや重大な宣告を待つ気分でもない。単に一枚の絵画と対面する日がようやく訪れたに過ぎなかった。リュウは孫小陽に案内されて、多くの絵画が掲げてある部屋の一角に立った。今、目の前に亡き父の残した絵画『海』がある。何のことはない。白砂浜と真っ白な海。全体が白い光に包まれているような透明感がある。そして片隅にのんびりと余暇を過ごす一組の家族が描かれている。初めは何とも思わなかった。『白さ』に驚いただけだった。しかし、その一組の家族を見つめているうちに耳元で潮騒が流れ、柔らかく温かな春の陽射しに包まれたように眩しくて、思わず目を瞑った。瞼の裏に紅く熱く湧き出るものを感じ、目を開けた時に一筋、頬を伝った。瞬きもせずにその絵を見つめながら、いつまでもこうしていたいと思った。突き動かされるような激しいものが込み上げてくるわけでもなく、悲しいわけでも嬉しいわけでもない。何だろう、この感覚は。幸せの記憶を甦らせることが、これほど涙と共に存在するのだなんて想像もできなかった。リュウが長い時間その場に立ち尽くしている間、孫小陽は何も言わずに待っていてくれた。
「有難うございました。もう大丈夫です」
 この光景を生涯忘れることはないだろう。

 地下室を出て、書斎に戻った。
「落チ着イタカネ」
 目の前に孫小陽が座っている。
「はい。良いものを見せていただきました」
「オ前ニトッテ特別ナモノカ?」
 リュウは首を横に振った。
「いいえ、特別な思いはありません。ですが・・・・・・」
 目を逸らせた。
「何カネ?」
「あの絵画に特別な意味はありませんが、私の心の中には何か涙腺に触れるものがあったようです」
 孫小陽が頷いた。
「ソレガ優レタ芸術作品トイウモノジャナイカネ?」
「はい。私もそう思います」
「トコロデ、今年ノオークションニ、『月』ノ贋作ヲ出品スルコトニナッテイル」
 リュウが大きく目を開き、孫小陽を見た。
「贋作、ですか?」
「ソウダ、本物ハ私以外誰モ知ラナイ」
「本物は今、どこに?」
 それにはただ微笑むだけで答えなかった。まあいい、いずれは対面する日が来るだろうと、思い直す。しかし贋作という詐欺ビジネスに組織が絡んでいるとは思わなかった。腋に嫌な汗が浮いた。
「心配スルナ。本物ハ国内ニ有ル。ダガ場所ハオ前ニモ教エラレナイ。台湾国内ノアル場所ニ、組織ノ秘密ノアトリエガアル。ソコデ贋作ガ描カレテイル」
「そんなものが存在しているのか」
「贋作ヲ描クニハ時間ト相当ノ技術ガ必要ダ。3Dプリンターナドデコピーデキルモノデハナイ。シズカ、3Dプリンタート人間ノ作品トノ決定的ナ違イガ解カルカ?」
 孫小陽が笑う。
「時間的な構築でしょうか?」
「ソレモアル、ダガ時間的ナ構築ハ、残念ナガラコピーサレル」
「・・・・・・・・・・・・」
「偶然性ナノダヨ」
「偶然性」
「人ハ神ニデモナッタカノヨウニ、自ラノ力デ芸術作品ヲ産ミ出シタト言ウダロウガ、ソレハ驕リダ。ソノ証拠ニ芸術作品トイウモノハ易々トコピーサレル。ソウイウモノナノダ。ケレドモ模倣ハ違ウ。模倣はコピーデハナイ。贋作ハ本物ソックリナモノガ優レテイルワケデハナイノダヨ、シズカ。ワカルカネ? 本物ト全ク異ナッテイタッテ構ワナイノダヨ。ソノ証拠ニ、世ノ中ノ有能ナ目利キガ、コピーニハ騙サレナイガ、模倣ニハ騙サレルノダヨ。ソコニハオリジナルナラデハノ、偶然性ガ存在スル。ワカルカネ? シズカ」
 リュウにも理解できるような気がした。
「モウ一ツ大事ナ事ガアル。ソレハ決シテオリジナルノ存在ヲ見セナイコトダ」
 リュウが唸った。
「贋作を本物そのものにしてしまうということか」
 孫小陽が微笑んでいる。
「我々ハ本物ヲ落札シ、本物ヲ脇ニ置イテ模写シ、ソシテ、オリジナルヲ隠ス。バイヤーノ多クハ、我々ガオリジナルヲ落札シ、所有シテイルコトヲ知ッテイル。ダカラ我々ノ贋作ニ騙サレル。本物ヲ所有シテコソノ贋作ナノダヨ、シズカ、世間ハソンナニ甘クハナイノダヨ、イイカネ」
「確かに鑑定書付きで出所がわかっている時点で、半数以上の人は騙されるに違いない。それくらい人は表層しか見えない。先入観に打ち勝ち、本物の経験と感覚に基づいた判断。つまり研ぎ澄まされた自分自身の感性以外に頼るものは無いというわけか。大したものだこのビジネスを考えた奴らは。そして、ハダケンゴはそれが可能な人物だということか」
「全テガ終ワッタラ、シズカ、オ前ニ『月』ヲ見セテヤル。月ノ贋作ヲ描クノハコレガ最期ダ」
「過去にも『月』の贋作を?」
 孫小陽が頷いた。だが頷いただけで、いつどこで誰に贋作を売り捌いたのか口にはしなかった。孫小陽の表情が珍しく沈んでいるように見えた。この男にも一つや二つ、後悔のようなものがあるのかもしれない。
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