カレー

文字数 1,663文字

 ただいまぁ。その声よりも先に、おかえり! が飛んでくる生活に、もうずいぶんと慣れてしまった。できなくなったことも多い。例えば、スーパーではなくてコンビニで野菜を買って帰る、とか、玄関を通り抜けてもまだヘッドフォンをつけている、とか、靴のかかとを揃えずに置く、とか。そういうことをしていた自分には到底戻れないなぁ、そう思いつつ、ぱたぱたと寄ってきたみやの頭を撫でた。まだぶかぶかのパジャマ姿の彼女は、はからずとも上目遣いをしながら、いつものようににへにへとした。
「体調大丈夫だった?」
「うん! カレー七千人前作っちゃったよ」
 またたくさん作ったねぇ。鼻を通るのは、たしかにかぐわしいスパイスの香り。腰まで伸びるふわふわの髪を揺らしながら、彼女はにこにこと笑った。野菜とおにくをもう使い切っちゃわないといけなかったからね、しょうがないの。でもねぇすごくおいしいよ。いいじゃん、それが本当に正しい答えなのかは未だにわからないけれど、そう相槌をうって、一緒にリビングに向かった。
 
 部屋着に着替えているうちにきらびやかに彩られた食卓、おいしそうに作ってくれた彼女に精いっぱいの感謝の気持ちをこめて、いただきます。ここのところ、ずっと彼女の器だけふたまわりくらい小さい。体調を崩しはじめる前からずっとだ。もう冬だしさ、シチューにしようと思ったんだけどね、やっぱりわたしカレーが好きなんだよねぇ。カレーって元気出るじゃん、シチューよりもこう、積極的っていうか。アクティブだよね、カレーって。
 そっか。うん、そう。
 それで、さ。うん、なに? なにかを察してか、彼女は目を伏せる。もぐもぐ、ごくん。小さくすくったカレーを彼女が飲み込む。
「今日は大丈夫だったの」
 彼女はにんじんをスプーンで持て余している。うん、大丈夫だったよ。
「お昼からは熱下がったし、ずっと部屋で絵描いてたりしてて。ギャラリーのこととかでもメールとかずっとしてて」
 心配かけてごめんね? 彼女が首元に両手を回して、後ろに垂らした髪をばさりと前にもってくる。染めていないのに、明るい茶色の髪。だからね、もう心配しないで。麦茶をひとくちこくりと飲んで、こちらを向いて笑った。
 ちがう。そんなことが聞きたかったわけではないのだ。
 ここ1週間くらい、毎朝熱を出しているのに、そんな、大丈夫って言われても。
「昨日あたりから夜ご飯とかも戻してるでしょ、何かあったの」
「なんにもないよ」
「なにか隠してるならちゃんと言ってほしい」
「なにも隠してないよ、大丈夫」
「心配なんだよ」
 彼女がうつむきがちに両手を握りしめる。ちいさくて白い握りこぶしが震えている。嫌いにならない? どうして。ならないよ。言って。固くむすんだ両手の上に涙が落ちた。
 あのね。
 呼吸が速くなる。落ち着いて、ゆっくりでいいよ、なんて言ってみたけれど、そんなこと言っても意味がないことなんてわかっている。彼女の両手に手を伸ばしてそっと乗せると、意を決したように彼女は息を吸った。
 ストーカー、されてるの。だから、怖くて、家から出られないの。嫌いにならないでね。気持ち悪いと思うけど、嫌いにならないで。彼女は泣いた。泣いて、口元を押さえた。ねえごめん吐きそ、そう言ってすぐ、彼女の華奢な身体がびくついた。ビニールを差し出すまでもなく、彼女は吐いた。まだカレーの残った小さなお皿に、ついさっき嚥下したばかりのカレーが吐き出される。
 空えずきを何度か繰り返し、口の端からは泡の混ざって半透明な涎が垂れた。
「ほら、口ゆすいで」
 なみなみのまま、あまり減っていない麦茶を差し出した。大丈夫? すら言う暇がなかった。ごめんね、ダメなの、あの人のこと、考えると。彼女はお茶を口に含んで、口の中で少し揺らしてから吐き出した。飲み込んだお茶はまだ身体が受け付けなかったのか、また吐いてしまった。
 そのまま、泣きじゃくる彼女をベッドに連れていった。だき抱えた身体はずいぶんと細くなっていた。
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