ウォッカ

文字数 1,445文字

 彼との会話ですらそぞろになってしまうほどの寒さだった。隣で革靴を鳴らす彼は自分から15センチほど高いところでがちがちと歯を鳴らし、手を擦っている。凛々と澄んだ空気とのコントラストが美しいイルミネーションに、仲睦まじい若者のカップルたち。目に飛び込んでくる景色は暖かいが、それとこれとは話が違う。足元から這い上がる寒気は着々と体温を奪っていって、なんだかんだで重ねてきた歳の分、じくじくと体にしみる。
「なんでこんなに寒いん? なあ、ほんまに」
 それはまさに、隣に彼がいるという高揚感でもっても耐えられないほどのものだった。俺の家に着くまで我慢しろ、そういうと彼は、そうやな、と笑ってチェスターコートの襟をぎゅっと掴み口元に寄せた。そうやな、全然耐えれるわ。

 彼のことを家に上げることにも、人の家だというのに自分よりも先に上がる彼にも、もうずいぶんと慣れてしまった。自分のより少し大きめの靴はいつも存外綺麗な光沢を放っていて、日頃からきちんと手入れされていることが伺える。寒かったなあ、エアコンつけてええか? いいけどリモコンの位置わかんの? 棚の上やろー。

 本当に、彼は見てくれに恵まれている。それは、こんな自分が貰ってしまってもいいのかと自信を失いかけるくらいには。ジレのボタンを外す動作、しゅるりとネクタイを外す動作、たったそれだけのことがただただ端正で、絵になっている。彼を初めて見た時のことを思い出す。その容姿を見た瞬間、蒼空を思った。彼は果てしのない青い空のようなのだ。
「しゅうくんはさ」
 自分のコートのついでに、彼が無造作に椅子にかけたジャケットもハンガーに掛ける。ん? とこちらに目線を向ける彼。
「なに?」
 まっすぐにこちらを捉えた瞳は、あまりに澄みきっていた。だから、彼の隣にいるのは自分でいいのか聞こうとして、やめた。きっと、そんな質問をすることを彼は望んでいない。
「あー、っと」
「え、どしたん?」
 宙ぶらりんになった会話が彼との間に浮いていて、気まずい沈黙が流れる。彼が首を傾げるタイミングで、明るいくせっ毛が揺れた。
「あー、私、今からウォッカ入りココア飲むけど、しゅうくんは入れる? あったまるけど」
 ほら、お酒苦手じゃん、しゅうくん。だから。絞り出された会話は随分と歯切れが悪くて、自分の家ではないかのように居心地が悪かった。
「え、千紗ココアに酒入れるん」
「うん」
「うまい?」
「おいしくなかったら入れないでしょ」
「ならちょっと入れて!」
「おっけい」
 緩められた襟元からのぞく焼けた肌が、シャツの白をいっそう際立たせていた。

 ミルクを温めている途中、少し邪な心が芽生えた。今宵は酒の力を借りようか。彼はお酒に弱いから。彼のマグには私よりも多めにウォッカを入れて、隠すように生クリームを乗せた。

 ダイニングの電気は落とされていた。リビングテーブルの傍で煌々と光るフロアライトは、とれたてのオレンジを連想させる。開けられたカーテンの外には彼のお気に入りの一面の夜景が広がっている。これを全て人間が作ったのだと思うと、文明の発展を感じて不思議な気持ちになるらしい。綺麗だとか、ロマンチックだとかを思わないところが彼らしい。
「おい! なんかこの照明、めっちゃ雰囲気でるやんけ」
「お気に召して何より」
 すでにソファーに身を沈めている彼の前に、すっとココアを差し出した。マグに入ったそれからは、視界を揺らす甘い香りがした。
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