から揚げとチョコケーキ

文字数 1,588文字

 2月14日、昼下がり、紅茶は温くなっていた。外にぶらりと吊るされている洗濯物はやわらかい風にそよぎ、空は綺麗に澄み渡っていた。修斗はするするとネクタイを外し、Yシャツを脱ぎ捨てた。おかえり。千紗はそれを拾い上げてにこりと笑った。
「早かったね」
 彼は大学の時から着ているグレーの厚手のスウェットを身にまとった。今日は早く帰って来たかってんな。千紗はこっそり彼のYシャツを顔に押し当てた。暖かくなってとろけた脂に混ざった彼の優しい匂いがした。
「仕事も早く終わらせてきてんで」
 千紗はこの香りが好きだった。ひどく安心する、大きなものを感じるのだった。けれど、彼が早く帰ってきてしまったのは千紗にとって少し不都合なことだった。
「そっか」
 洗濯機に向かいつつ、千紗はこの状況をどうするかを考えて、ゆっくりと自分の部屋のドアを閉めた。
「早く帰ってきてくれて嬉しい」
 修斗の元に戻って、千紗は彼の首元に手を伸ばした。チョコレートは完成していなかったどころか、これから作り始めるところだった。

「ねえ」
 千紗はなるべくやわらかく声を出した。あのね。うん。修斗もやわらかく相槌をうった。
「あのね、今日」
 夜ごはんを頑張るから、お風呂先に入んない? と言いかけて、やめた。バレンタインであること以外は普通の日、夜ごはんが豪勢になることなんて不自然でしかないと思ったのだ。修斗は不思議そうに首を傾げた。
「どしたん、しんどいとかある?」
 ああ、あの。大丈夫。千紗は彼に少しだけ近寄って、彼の手を取った。
「しゅうくんが早く帰ってきてくれて嬉しいなって、思ってたんだよね」
 それを聞くと修斗は何かが綻ぶように楽しげに笑った。俺もはよ会いたかった。言ったあとで、千紗はしまったと思った。こんなムードになってしまったら、彼を別の部屋に行かせる理由がなくなってしまうのだった。現に彼はとすんとその身をソファーに沈め、千紗のことをいつもの優しい目で見つめている。
「なあ千紗、隣きて」
 少し迷って千紗はいいよ、と返事をした。

 夜ごはんはから揚げだった。ふたりであついあついと言いながら丁寧に揚げ、白くて大きなお皿に豪快に、いっぱいに乗せて、
「いただきます」
 手を合わせた。いまだじゅわじゅわと音を立てるそれをひと口に頬張って彼は熱がり、千紗は笑った。修斗はあついと言いながらくちをはふはふさせていたが、確かに笑顔だった。美味しかったのだろう。千紗は冷蔵庫の奥のほうで鎮座しているチョコレートケーキの材料のことを考えないようにした。さみしくなってしまうからだった。今日中にバレンタインチョコを渡すことは絶望的だった。それもこれも、自分のせいだ。千紗はやはりさみしくなってしまったが、ふたりで揚げたから揚げは確かにとても美味しかった。

「ねえ、今日はぎゅってして寝て欲しい」
 寝る間際、千紗はどうにもこうにもさみしくなってしまって、いつもならきっと言わないそんな言葉がぽろりと口から滑り落ちてしまった。
「ええ、めずらしいな」
 修斗はからかったわけではなく、心の底から珍しそうにそう言った。そうして、そろそろと千紗のほうに手を伸ばしてきて、体の下に腕を入れて、ぐいと引き寄せた。「ごめんね、しゅうくん」筋肉質な胸の中で、その声はくぐもった。なんで? なんでって、だって。声が小さくなった。「バレンタインチョコ作れなかったから」
 そう言うと、修斗は笑った。もう十分やで、千紗。から揚げもめっちゃうまかったし、俺がはよ帰りすぎてんな、明日一緒に作ろうや。やし、こんなに一緒にいても毎年チョコくれるやん。
「そんな千紗が好き、ありがと」
 私も、しゅうくんが好き。口からでた言葉に熱がこもって、涙になった。
 どことなく、今のこの場所があたたかくなったような気がした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み