あたたかい部屋

文字数 745文字

 水に濡れたろうそくのように、いつのまにかうまく火がともらなくなって、そのまま。
 
 彼の部屋はあたたかかった。ずぶずぶと健全でないぬくもりに溺れていたから、当然、ぐずぐずと腐っていった。
 すべてが停滞していた。ふたりで指を絡めながら床にあお向けで寝ころがったら、底なしの空気の澱のなかに沈んでいくような気がした。彼の毛布にふたりでくるまっていると、睡眠薬を飲んだみたいな眠気にいつも襲われた。彼の頬をさわって、さわられて、ずっと抱き合って、キスばかりして。お互いがお互い、すこしずつ息がしづらくなっていることに気がついていたけれど、目先のあたたかさを優先したから、どんどんだめになった。
 いまでは彼とすれ違っても目すら合わせることがない。なんだって知っているし知られているのに、いまさら先輩と後輩の関係に戻れるわけがない。
 愛すること、愛されること。それにすら正解と間違いがあるだなんて知らなかった。わたしたちはただ、お互いをひたすらに愛しただけ。甘い言葉を食んで、口移しして、嚥下していただけ。心地のよいふたりきりの空間にずっと身を浸していただけ。それだけでだめになっていってしまうのだから、どうしていいのかわからずにさじを投げた。わたしたちの愛が間違いだったというのなら、なにがほんとうの愛なのか。
 
 いまでも時折思いだす。昼下がりの太陽がさしこんだ彼の虹彩のひかりのことを、わたしの髪の毛の一本一本をいつくしむように撫でるおおきな手のことを、何度も顔をうずめて泣いたあたたかい胸のことを、柔軟剤の奥の奥に確かに存在する、彼のやさしいにおいのことを。
 ああ、はやく、はやくもとの世界に帰りたいな。彼の残していった歯ブラシを燃えるゴミに捨てた。愛のない日常にまた戻る。
 
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