(二・二)家を出る

文字数 2,245文字

 逃げる。この家から逃げ出す、母の遺体をそのままにして。つまり遺体遺棄、死体遺棄……なのだが。そこまで、その時のわたしには考える余裕などなかった。兎に角逃げたい、ただそれだけだった。決して罪から逃れようなどという、大それたものではなかった。それにそもそも逃げ切れるなど到底不可能なこと位は、幾ら何でも分かる。いや仮に警察から逃げられたとしても、良心が許す筈がない。犯した罪から、そして過去から逃れられる訳などないのだから。
 そんなことは分かっていた。そんなこと位分かってはいたけれど、それでも逃げたかった。ほんのひと時だけでいい。すべてから逃げてしまいたかった。単なる現実逃避、というか時間がほしかった。そのための一時しのぎの逃亡、逃走……。だから落ち着いたら、何とか冷静になれたら。その時、その時こそ、その時は、その時に改めて警察に出頭、自首しよう。そう心に誓い、言い聞かせながら、わたしは現実逃避へと流された。
 現実からの逃避。先ずはこの家からの脱出だった。わたしの犯行現場であり、そして貧乏の中でずっと母ひとり子ひとりで暮らして来た、この借家からの逃走。それはわたしの過去からの、わたしの人生のすべてからの逃亡に違いなかった。そしてもう二度とここへは戻れない、帰って来れない。と言っても警察の現場検証で来る事は、あるだろうけれど……。いやこの家という場所だけではない。昨日までのわたしの日常そして人生そのものへと、わたしはもう戻ることは出来ない。もう戻って来れなくなってしまった。わたしはもうすべてを失い、帰る場所を失くしてしまったのだ。家も家族もぬくもりも安らぎのひと時もすべてを失くし、これから険しい茨の道を、わたしはただひとり孤独に歩まねばならなくなってしまったのだ。

 逃げる。そう決めたからには、愚図愚図してはいられない。先ず電気ストーブを消し、母の横たわる部屋から出た。母の顔を見るのは避けた。出来なかった。次に自分の部屋に戻った。逃げる準備をした。しかし荷物など必要ないと思った。いずれ警察に行き、お世話になるのだから。兎に角今は急いで、この家から出たい、出なければ。何かに急き立てられたように気持ちばかり焦りながら、着の身着の儘。今の服装に、いつも着る安物の紺のジャンバーを羽織った。シャンバーのポケットにはマフラーと手袋が入っていた。それからズボンのポケットに財布とハンカチを突っ込むと、そのまま玄関に向かった。しかし、待てよ。外はここよりもっと寒い。だったらティッシュも要る。はたとそう気付いて、何個かポケットティッシュをズボンの尻ポケットに突っ込んだ。そして玄関のドアの前に立った。
 しかしそのまま出ずに、一呼吸置いた。ドア越しに外の様子を窺った。人の気配のようなノイズは感じない。雨の音もしていなかった。雪が降っているかどうかまでは分からなかったが、傘は要らない、持っていかないことにした。そして深呼吸。いざ外に出るのに、異様に緊張していたからだった。いや緊張ではなく、恐怖だった。恐かった、外に出るのが。恐い。このドアを開けたら、そこに人だかりが出来ているのではないか。そんな気がしてならなかったのだ。思わずその場にしゃがみ込みたい心境だった。
 でも、ここにもいられないのだ。わたしは恐る恐るドアの取っ手を握り、少しだけ開けた。僅かな隙間から外を覗いた。ほっとした。誰もいないようだ。その次の瞬間わたしは、自分でも自分の咄嗟の行動力に驚かされたが……そのままドアを大きく開き、外へ飛び出していた。そしてドアを閉めるや、さっさと駆け出していたのだ。もう無我夢中で、周りなど一切見ずに。兎に角家から離れるのだ、ただその一点だけに気持ちを集中させて。一目散に、丸で逃げるように……いや、実際逃げているのだったが……。

 意外にも、表はもう暗かった。既に薄暗くなりかけていた。日暮れ。どうやらもう夕暮れ時の時刻らしい。もうこんな時間になっていたのか、いつのまに。わたしは戸惑った。走り続け、家からはもうかなり遠ざかっていた。ここまでは運良く、人とは会わずに済んでいた。確か二、三人と擦れ違った筈だけれど、薄暗さのせいで顔はよく見えなかった。
 突然わたしは、はっとした。はっとして思わず立ち止まった。家の戸締まりをせずに来てしまったことを思い出したのだ。あれっ。ポケットを捜したけれど、そもそも鍵自体持っていなかった。しまった。恐らくいつものように、玄関の下駄箱の上に置きっ放しになっているのだろう。一抹の不安がよぎった。しかし直ぐに思い直した。これで良いのだ。この方が警察とか人が中に入れるし、その分死んだ母を早く見付けてもらえるかも知れない。だからこの方が良かったのだと、自分に言い聞かせた。
 わたしは歩き出した。兎に角歩いた。寒い、寒かった。確かに物凄く寒かったけれど、それを感じる余裕すらなかった。わたしはただ歩いた。歩き続けた、宛も無く……。わたしは何処へ向かって歩いているのだろう。一体何処へ行けばいいと言うのだ。思案したが、何処も思い付かなかった。兎に角遠い所へ、わたしを知る人のいない場所ヘ行きたい。そして少しでいいから、楽になりたかった、楽に……。しかしそれは無理な注文というものだった。それでも、それでも何処かへ行かねばならない。幽霊や透明人間のように、そっと身を隠しておける訳ではないのだから。幽霊、透明人間……どちらでも良いから、なりたいと願った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み