(十一・一)黒猫

文字数 978文字

 海岸通で立ち止まった。大観覧車のライトはまだ灯っていた。あれもオールナイト営業なのだろうか。相変わらず暗い海の波間に、大観覧車の眩しい姿が映っていた。海の中をゆっくりと回転していた。海は絶えずさざ波が揺れており、観覧車の影も波の揺れに合わせて揺れていた。海に映ったMM21の街も揺れていた。
 午前一時三十三分。
 大観覧車の時計は日付けが替わってから、更に午前一時半過ぎを照らしていた。極寒の中、宛てもなくわたしは歩き出した。歩き出すしかなかった。しかし一体何処へ。歩いていると吹き荒れる潮風と波の音に混じって、何かが微かに聴こえた。
「にゃお……」
 それは猫の鳴き声だった。驚いたわたしは足を止めた。そんなに遠くはない。わたしは鳴き声のした方に、ゆっくりと近付いた。すると通りの端に一匹の猫がいた。黒い小さな背中。初めは夜の闇と区別が付かなかったけれど、一瞬振り向いたそのふたつの瞳がぎらりと光った。黒猫だった。黒猫はわたしのことなど気にも留めず、ただじっと暗い海に目を向けていた。港の猫、海岸通の波止場に佇むクールな一匹の黒猫。
「くろ」
 勝手に『くろ』と名を付けて、呼んでみた。呼んでみたけれど、くろは大きく口を開け、欠伸をひとつしてみせただけ。わたしになど、見向きもしてくれなかった。ただちょこんとお澄まししたまま、お利口さんの姿勢を保っている。どうにも小憎らしくて、目の前まで近付いてみようかとも思ったけれど止めた。もしかしたら夜の海を見ながら、何か物思いに耽っていたのかも知れない。ひとりぼっちで、いたかったのかも知れない。
 代わりにわたしもしゃがみ込んで、一緒に海を眺めた。何も悪さをされないと分かっているのか、くろは逃げる素振りなど見せなかった。その視線の先にはベイブリッジ、そして暗い海の彼方の遠い水平線があった。くろと共にしばらく黙って、それらを見ていた。辺りは恐い程にしーんとしていて、人影ひとつない。その静けさの中で、潮騒を聴いていた。いつまでも聴いていたかった。いつまでも、くろ、この温かなひとつの命と一緒に、いつまでも……。
 けれど出来なかった。もう寒さが限界だった。全身がたがた震えていた。くしゃみが出そうになったので立ち上がり、驚かさないようにとくろから離れた。
「じゃあな」
 くろにそっと別れを告げると、再びわたしは歩き出した。
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