(十三・二)クリスマスケーキ

文字数 2,023文字

 うみねこはなぜか、じっとこっちを見ていた。わたしの方を見ている気がした。うみねこと目と目が合って、思わずどきっとした。何だかその目が、わたしを憐れんでいるように思えたから。何もかも見抜かれているような、わたしの心の中をすべて見透かされているような、そんな気がしてならなかった。今わたしが死ぬつもりで、海を見ているのだと。そんなわたしを、一羽のうみねこが憐れんでくれている。うみねこがそんな目でじっとわたしを見ている、どうしてもそう思えてならなかった。
「大丈夫だよ。少なくともおまえがそこにいる間は、飛び込んだりしないから」
 わたしはうみねこに言うように、呟いた。呟いてみた。あゝ参ったなあ。これじゃ死ねないじゃないか。わたしはまた死に損なった気がした。あーあ、駄目だ。また死ぬチャンスを、逸してしまったか。
「みゃお、みゃお……」
 うみねこの鳴き声を聴きながら、わたしは野良猫のくろ、しろ、そして子猫のことを思い出した。しろの、あの目の潰れた子猫のことを。あゝそうだった。やっぱり、これじゃ死ねない。死んじゃいけないんだ、あの子猫のためにも。生きなきゃならないんだ、俺も……。うみねこはやっぱり、わたしの方をじっと見ていた。丸で小さな船のように、揺ら揺らと波に揺れながら。そしてわたしはとうとう、死ぬことを諦めた。
 遂に夜が明けた。横浜の街に海に港に、この船着き場にも遂に朝が訪れた。気付いたらうみねこの姿は消えていた。わたしをこの凍り付く船着き場にひとり取り残して。あいつは自由に翼を広げ、あの水平線の彼方にでも飛んで行ってしまったのか。
 何か不思議な気がした。あのうみねこは何だったのだろう。たった一羽のうみねこのために、わたしは死ぬことを諦めてしまったのだから。もしあのうみねこがいなかったら、今頃わたしは死んでいただろうか……。うみねこがいた海の面を、じっと見つめた。凍り付く程冷たそうな朝の海を。どんよりと曇った灰色の空を映した波は、それでも穏やかに揺れていた。
 寒さに凍えたわたしの手には、コンビニの袋に入ったクリスマスケーキが残っていた。結局どうすることも出来ず、一晩中持ち歩いたクリスマスケーキが。どうしよう、まさかこのまま警察に持っていく訳にもいかないし。死に切れなかった以上、わたしは警察に行くしかないのだ。ではここで食べてしまおうか、もう朝だし。けれど腹は空いていなかったし、ケーキを食べる気にはなれなかった。持て余したケーキを石段の上に置くと、潮風がヒュルヒュルとコンビニの袋を揺らしていった。不意にわたしの脳裏に、母とのクリスマスケーキの思い出が甦った。

 子どもの頃、せめてクリスマス位人並みに味合わせて上げたいと、母は毎年立派なクリスマスケーキを買って来た。それはわたしが中学の時まで続いた。
 しかし中学生にもなると、わたしも人並みに反抗期になった。中二の年だったか、わたしはその日も機嫌が悪く、折角母が買って来たクリスマスケーキを無視した。
「こんな物、いらねえよ」
 母の目には、薄っすらと涙が滲んでいた。その涙にわたしは内心、自らの言動を恥じ後悔した。けれど素直に謝罪したり、ケーキを口にすることは出来なかった。そんなわたしに、母はかなしそうに告げた。
「半分残しとくから、明日食べなさい」
 そしてひとりぼっちで黙々とクリスマスケーキを頬張っていた母の後姿が、今から思うと不憫でならない。あゝあの時どうして母と一緒に、ケーキを食べられなかったのか。今でも思い出すと、後悔に胸が苛まれてしまう。翌日あのケーキをちゃんと食べたのかどうか、それすら今はもう思い出せなかった。

 そうだ。だからやっぱりこのケーキは、母に買ったのだ。わたしはケーキから目を離し、灰色の海を振り返った。そして見つめた、幾重にも幾重にも重なりながら、沖へと至る波の連なりを。そうだ、そうしよう。わたしはクリスマスケーキが入った箱を、コンビニの袋から取り出した。袋は潮風にさらわれ、直ぐに何処かへ飛んで行ってしまった。わたしはケーキの箱を抱えると、船着き場の海の手前でしゃがみ込んだ。
 そして手すりの隙間から、ケーキの箱をそっと海に浮かべた。クリスマスケーキを海へと。母の元に届く筈など無い。それは分かっていた。けれどこうすること以外、今のわたしには思い付かなかった。
 ケーキは海には沈まず、浮かんだまま波に乗った。波に揺られながら、ゆっくりゆっくりと流されていった。ゆっくりゆっくりと沖を目指すかのように、わたしの前から遠ざかって行った。ふう、良かった。なぜかわたしの胸は安堵を覚えた。良し、これでもう何も思い残すことはない。少しずつ遠ざかる白いケーキを見つめながら、遂にわたしは決意した。さあ、自首しよう。もう自首しなければ。
 直ぐに交番の風景が浮かんで来た。昨夜、伊勢佐木町のアーケード街近くで目にした、あの赤い交番のランプ。その光を思い出した。
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