(十三・一)うみねこ

文字数 1,868文字

 ぼーっ。船の汽笛が鳴った。驚いて飛び起きた。はっとして辺りを見回すと、そこはトンネルの中だった。トンネルの中だと思い出した。あゝ夢だったか。全身が寒さに震えていた、なのに冷や汗を掻いていた。
 夢、夢の記憶は、凍り付く潮風と寒さのために、わたしの脳裏からもう消えていた。寒さが全てを忘れさせた。忘れさせてくれた、と感謝すべきなのか分からない。兎に角わたしには、夜明け前の海の波音だけが残されていた。
 もしかしてさっきの船の汽笛は、大桟橋に泊まっていたあの外国船かも知れない。そう思った。あゝ、あの船もとうとう出ていってしまったのか。ふうっ、とため息が出た。その息は白くなって、トンネルの天井へと昇って消えた。

 そのままトンネルの中を歩き出した。直ぐにトンネルの外ヘ出た。入って来たのとは反対の方角に。外はまだ薄暗かった。まだ夜明け前だった。そして目の前は、海だった。暗い海。耳には海の音だけが、波と夜明け前の荒々しい潮風の音だけがしていた。左手がパシフィコ横浜。右手には海を越えてその先に大観覧車が聳え立っていた。海岸線に沿って石造りのベンチがぼつりぼつりと並び、パシフィコ横浜の前にある船着き場まで続いていた。
 トンネルの中で、数時間眠っていたのだろう。夜明けは間近に迫っていた。夜明け、そしてとうとう朝が来るのだ。わたしは急に恐怖を覚えた。夜が明けたら昨日犯したわたしの罪が、白日の下に曝されてしまう、そんな気がして。そしていよいよ、警察に行かなければならない。嫌だ、行きたくない。出来ることなら逃げ出したい。咄嗟にそう思った。けれど逃げ切れる訳がない。逃げた所で、じゃその先一体どうすると言うのだ。だったら……やっぱり死ぬしかないのか。今度こそ絶対に死ぬしか、ないのだ。そしてわたしの目の前には、海が広がっていた。ごくん。生唾を飲み込んで、じっと海を見つめた。
 船着き場の手前まで歩いた。ベンチの並びは尚も左方向に続いていた。ベンチの列の端に、ぽつりと公衆電話ボックスがひとつ立っていた。電話ボックスは白く、お洒落な作りをしていた。中の公衆電話も、緑色の古風で四角い電話だった。ベンチから下が石段で、石段を下りると船着き場だった。海に落ちないよう、船着き場には手すりがあった。
 わたしは一段一段ゆっくりと、石段を船着き場まで下りた。潮風がひゅるひゅると強かった。船着き場に立って、海と向かい合った。じっと海を見つめた。暗く冷たい凍り付くような海だった。ぶるぶる、ぶるっと全身が震えた。段々と夜が明け始めた。潮風が吹き荒れ今にも海に放り投げられそうになって、慌てて手すりに掴まった。なぜか必死に掴まっていた。おい、死にたいんだろ。自分に皮肉のひとつも言いたかったけれど、それ以上に寒くてどうにもならなかった。そしてがたがたと震えながら、わたしは夜明けを待った。少しずつ夜は確かに明けていった。
 海を見ていた。兎に角海を見ていた、夜明けを待って。夜が明けたら、今度こそ死ぬのだと心に誓いながら。夜明けの、そうだ、せめて眩しく暖かい朝陽を拝んでから。そうしよう。朝の光を浴びながら、海に飛び込もう。いやわざわざ飛び込まなくても、この手すりを乗り越え、そのまま海に入ってゆけばいいのだ。そしたらどぼんと、沈んでしまうだけなのだから。よし、そうしよう。今度こそ、ひと思いに。震える唇を噛み締めながら、わたしは決意した。
 段々と夜が白み始めた。しかしいつまで経っても、朝陽は射しては来なかった。眩しい太陽の日差しは。なぜなら空が曇っていた、灰色の曇が空全体を覆っていたからだった。丸で今にも冷たい雨か雪が降り出しそうな気配だった。わたしはがっかりしながら、尚も海を見ていた。ただひたすらわたしは、じっと海を……。

 突然空に白いものが現れた。何だろう。一瞬雪かとも思ったけれど違った。それは鳥の翼だった。鳥、白い鳥。何処からか一羽の鳥が飛んで来て、その鳥はわたしの目の前の、海の面に静かに舞い降りて留まった。わたしはきょとんとしながら、その鳥を見ていた。
 鳥は揺ら揺らと、穏やかな夜明けの波に揺れていた。冷たくないのか、寒くはないのだろうかと思いながら、わたしはその様子をじっと見つめていた。てっきりカモメだろうと思ったけれど、そうではなかった。鳴き声が違った。その鳥は鳴いた。それは人が泣く時のような、とても侘しげな鳴き声だった。
「みゃお、みゃお……」
 猫の鳴くような声だった。そこでやっとその鳥が、うみねこなのだと気付いた。うみねこだった。
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