(九・二)山下公園

文字数 1,687文字

 海に沿ってハーバーライト、公園の灯りが並んで灯っていた。あゝとうとう海に来てしまった。しかしそんな感慨よりも、兎に角寒かった。吹き荒れる潮風が刺すように冷たく、凍えてどうにもならない。公園の中はまだちらほらと何組か、カップルが残っているようだった。けれど思った程の賑わいではなく、その点だけは良かった。わたしは恐る恐る、公園に足を踏み入れた。
 公園に入るとベンチにも座らず、まっ直ぐ海へと向かった。公園の岸壁へと打ち寄せる波また波。見下ろすと、海はまっ暗だった。さざ波を立てて揺れる海の面には、ちらちらとハーバーライトと公園の灯りが瞬いているばかり。そんな暗い夜の海を目の前にして、のんびりと潮騒に耳を傾けたり感傷に浸ったり……そんなことが出来れば良かったのだが、生憎余りの寒さにわたしはがたがたと震えるばかりだった。立ちっぱなしも辛いので試しにベンチに座ってみたけれど、やっぱり寒かった。尻が冷たかった。さっきの雨がまだ残っていて、湿ったままだった。仕方なくわたしは矢っ張り突っ立って、ぼんやりと海を見下ろしているしかなかった。背後をカップルたちが楽しそうに通り過ぎていった。
 凍り付くよな真冬の夜の海を前にして、わたしに出来ることは何もなかった。穏やかではあるけれどまっ黒い波が、何処までも何処までも果てしなく続いている。その姿をじっと見詰めるわたしの胸に、希望など有ろう筈は無かった。それどころか浮かんで来るのは、自殺願望ばかり。死にたい、死にたい、あゝこのままこの暗い海の中に飛び込んで、海の底に沈んでしまいたい。さっき中村川で失敗した癖に、性懲りもなく……。
 しかし川と海とは違うのではないか、とも思えた。何処がどう違うのか。海は大きく果てしない。それに深さも充分だろう、飛び込むのに。海なら、この大きな海だったら、わたしをやさしく包み込んでくれるかも知れない。わたしのすべてを、わたしの深いかなしみ、絶望を。そしてわたしが犯した罪と哀れなわたしのこの命を、やさしく受け止めてくれるのではないか。願望を込めて、そう思った。海よ、海ならば……。
 ごくん。生唾を飲み込んだ。本気で海に飛び込もうと考えている自分にはっとして。しかしもうそれより他に、何もやれることはないのだ。わたしは寒さと緊張に震えながら、海に向かって手を合わせた。海よ、この汚れたわたしを、どうか受け止めて下さい……。手を合わせたけれど、やっぱりじっと海を見下ろしたままだった。せめて砂浜だったなら、海の中へと一歩一歩、ゆっくり歩いて入ってもいけただろう。けれどここの海は、高い岸壁の下にある。それがわたしを躊躇わせた。
 波に揺れながら暗い海の面に、遠い夜空の月が映っていた。月、月の光が。思わずわたしは顔を上げ、空に目を移した。そして月を見上げた。まん丸いお月様だった。あゝあんなに丸いお月様が……。有り難い。星も無数に瞬いていた。きらきら、きらきらと銀河が空一面に。わたしは吸い込まれるように、星空に見入った。あゝ美しい、なんてきれいなんだろう……。
 気付いた時わたしの目に、いっぱい涙があふれていた。家を出てから泣いたのは、これが初めてだった。いやもう何十年振りの、涙だったのではないだろうか。海に向かって合わせた手を、今度は夜空へと差し出した。そしてわたしはまた、死ぬのを諦めた。後には波の音だけが、わたしの耳に響いていた。寒さに震えながら、鼻を啜り涙を拭った。涙を拭いながらしばしぼんやりと、空と海とを見ていた。

 それにしても寒い。寒過ぎる。ほんの僅かでもいい、何処かで暖まれないだろうか。浮かんだ場所は、大桟橋だった。よし、あそこヘ行ってみよう。少なくとも、ここよりはましではないか。移動する前にもう一度、山下公園の海を見下ろした。岸壁に寄せ返す波音、ぼおっとマッチの炎のように灯るハーバーライト……。寒さ堪え眺めていた。潮騒を聴き、月と星空を仰ぎ、凍えるような夜の大気中に白い息を吐き出しながら。黙って海を見ていた。震える指で震える唇で震える息で震える鼓動で、ただじっと海を見ていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み