(六・二)松影町

文字数 915文字

 教会と十字架から逃れるように、わたしは歩き続けた。白い息吐き吐き、クリスマスケーキがあんまり揺れないように気を付けながら。人が追ってくる気配はなかった。それでもわたしは無我夢中で逃げ続けた。『神の祝福』とやらや、善意の象徴のようなキリスト教の教会や、そして自らが犯した重罪である十字架から、必死に逃れんとして。
 もういいだろうと立ち止まると、目の前に電柱があった。薄暗い街灯に照らされながら、そこに貼られている町名と番地を見た。
『松影町三丁目』
 見知らぬ町だったが、このまま行けば恐らく石川町駅辺りに出るのではないか。そう思いながら歩を進めた。ところが目の前の路上に、何か障害物のようなものを見付けた。ダンボールではない。暗くて良く見えなかったけれど、何かの塊(かたまり)のように見えた。一体何だろう。恐る恐る近付いてみた。近付いて、やっと分かった。どうやらそれは、毛布のようだった。
 毛布、薄汚れた毛布。けれど毛布だけではなかった。毛布が丸い大きな塊になっていた。恐らく毛布の中に、誰かいるのではないだろうか。人が毛布に包まっている、そんなふうに見えた。もしかしてホームレスの人か。そう思い咄嗟にその場から離れようとした時、けれど相手に気付かれてしまった。毛布の中から人が顔を出したかと思うと、大きな声で怒鳴った。
「何、見てんだ」
 男性で年配者だった。酒に酔っているのかも知れない。
「すいません、すいません。ごめんなさい」
 平謝りしながら、わたしはさっさとその人から離れ急ぎ足で歩き去った。恐る恐る振り返ると、何事も無かったようにその人は毛布の中に潜っていた。ふう、良かった。安堵しつつも、ため息が漏れた。こんな所にも、ホームレスの人がいるのか。こんな寒さの中、あんな毛布一枚で……。
 今夜こうして横浜駅から歩いて来ただけでも、ホームレスの人たちを見たのはこれでもう三度目になる。わたしはどうしても、同情を禁じ得なかった。今のわたしに他人の不幸、辛苦に心を痛める余裕など無いと分かってはいるのだが。そして今のわたしに出来ることは、わたしの前に横たわる暗く寒い夜の街の中をもがきながら、ただ宛てもなく彷徨い続けることだけだった。
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