第40話 再会はトリップのあとで

文字数 2,731文字

 じんわりとした汗が咲妃の頬を駆け抜けて、灼けそうな喉元に何かが込み上げてくる。
 咲妃は意を決し、「棄てたのはおまえか?」と低い音を唸らせた。

「ふふ……」低く不快な笑いが響いて、凜香は灼熱の瞳で咲妃を睨みつけた。

「おまえの代わりなど……」

 咲妃は瞬時に身構えた。
 凜香が咲妃を咲妃として捉えていた。
 幻覚の終焉か。

 汗だくの頬を拭いもせず、いまだ興奮状態の狂気の眼孔が鋭く真っ直ぐに放たれていた。

「侮辱……」不意に凜香の呟き。
「だからこそ、ふさわしい制裁を与えてやっただけだ」

「制裁?」

「懇願を蹴落とす以上の快感などあるまい」

 咲妃は、凜香にしか見えていない過去を読めずにいる。
 懇願とはどう言う意味だ。

「あの男が跪いて縋る姿は滑稽だ。終いには命を投げ出すと言う。そんな軽い命に価値はない。だから……」

「だから?」

「背中を押してやっただけだ。軽い命が弾ける滑稽さは嘲笑うためにある」

 瞬時に、奈落に突き落とした凜香のイメージが脳内を駆け巡る。
 やはり最期の場所に凜香はいたのだと確信した。

「救うことも」

「救う? 魂の救済に興味などない。侮辱には罰を。ただそれだけだ」

「罰だって?」

「そうだ。私には誰も逆らえない。私は自由だ。何をしても許される」

 どこまで傲慢なのか。
 その場にいた誰もが思った。
 これまでの人生の、すべての罪をこの女だけが許されてきたとでも言うのだろうか。

「先生! あいつ、なんなんや?」
 恵美が椎名に迫るが、「それは言えん」と首を振る。

「どう言う意味や?」

「あいつは特別なんや!」

「特別? 葵くんを突き落としたんやろ? そう言ったやん」

「そうだとしても、だ」

「そんな訳あるか! あいつ、捕まえな!」

「捕まえても、何も起こらん」

 遠くを見るように椎名の他人事のような呟きが乾いていく。

 ようやく廊下からざわめきの到来。
 賑やかしの雑踏が近づいてきた。
 微かに「こっちです!」と先導する声が聞こえた。
 恵美は反射のように立ち上がり廊下へと駆けだした。
 そして視界の中に警察の制服を見つけると、力強く拭って「こっちです!」と手を振った。

 その声に反応する警官隊。
 手招きの元に駆け寄り、扉越しにしゃがみこんで中を覗き込んだ。

「どんな状況?」警官のひとりが恵美に訊いた。

「どう説明したらええんか……。凜香が、凜香が急におかしくなって。そしたら咲妃もおかしくなって」

「どっちがどっち?」

「あの髪の長いほうが凜香」

 恵美は凜香を指差して警官に伝えると、「あいつ、クスリでもやってるみたいな」と呟いた。

 その言葉に警官の顔が引き締まる。
 だが、すぐに背後からの野太い声に弛緩した。

「あいつか。どこに行っても変わらんな」老練な私服の刑事の呟き。

「あっ、神崎警部。知った顔ですか?」

「まあな、有名な娘だよ。それより、あっちもキメてるのか?」

 神崎が咲妃を指差すと、恵美は即座に「そんなわけあらへん!」と否定した。

「そいつは失礼。お嬢さんは危ないからここにいて。それとおまえら、中の生徒を少しずつ外に誘導しろ。あいつは厄介だから」

 神崎はテキパキと指示を出す。
 不慣れな警官隊が指示を復唱して、それぞれが動き出した。

「危ないって、なんで?」

「左側の、柏木」

 神崎はそう言うとワイシャツの腕を捲った。
 老練とは思えない鍛え抜かれた前腕の筋肉が隆起の渦を巻いている。
 そして、教室へと入っていった。

「柏木! 今日は何をキメた?」

 神崎が躙り寄りながら凜香に訊く。
 凜香は神崎を捉えるとその動きに併せて睨み続けた。

「なんだ、おまえか?」

「久しぶりだな。こんなところで何をキメた?」

「この味は、懐かしい……」

「相変わらず節操のないお嬢様だ」

 咲妃はふたりの会話を眺めながら、凜香が完全に幻覚から醒めていることを確認する。
 神崎が距離を取りながら少しずつ凜香との間合いを詰め、それと同時に警官隊が包囲網を敷いていくのがわかった。

 不意に咲妃の腕を椎名が掴む。
 そして、小声で「下がれ」と言ってその手を引いた。
 咲妃はよろめきながら、警官隊に包囲されても余裕を見せる凛香を見届け、室外へと連れ出された。

 まるで凶悪犯を取り囲むように間合いを詰める警官隊。
 神崎も慎重に言葉を選びながら躙り寄る。
 凜香は涼しい顔をしてポケットからアロマオイルの小瓶を取り出すと、長い舌を出して液体をそこに流れ込ませる。
 神崎は顔をしかめ天を仰いだ。

「不味いリキッドでは天国に行けない」

 神崎は呆れ果てて合図を出す。
 手を振り上げて「確保」の合唱。
 警官隊数人が小娘相手に襲いかかった。

 だが、そこからが圧巻だった。
 まるで武術でもやっているかのような身のこなしで凜香は向かい来る警官隊を薙ぎ払う。
 力強い拳が正中を極め、その場にうずくまるように警官が翻った。
 意気揚々と雪崩のように攻め入り、数の暴力で押さえつける。
 凜香の体を固めても、振り払って蹴散らしていく。
 華奢な体のどこにそんな力があるというのだろうか。

 まるで消耗戦。
 凜香が肩で息をし始めた頃、隙を見つけた神崎が老体に鞭を打つように、凜香の背後に回ると延髄に一撃を見舞った。

 くらくらと踊るように凜香の身体が揺れて、そしてそのまま力なく崩れ落ちていく。
 それを見て、息絶え絶えの警官隊が覆い被さるように彼女の両手に手錠を填めた。

「やれやれ。この学校では手荷物検査もロクにしとらんのか」

 神崎はそう悪態をつくと、抱えられて運ばれる凜香とともに教室を後にする。
 そして椎名を指で呼んで耳打ちしたあと、後ろ手を振って去っていった。

「なんやったん?」
 馴れ馴れしく恵美が椎名に訊いた。

「いや……、オトナの話や」
 椎名はそう呟くと、疲れ切った顔を正すことなく「おまえらも帰れ。今日はもういいから」と言い残してどこかへ消えていった。

「ああ、そうや。咲妃は?」
 思い出したように恵美が振り向くと、そこには力尽きて眠る咲妃が横たわっていた。

「とりあえず、運ぼうか」
 恵美はそう思って、近くにいた数人の男子に声を掛けた。
 渋々近寄る薄情を制するように、制服の警官が咲妃のもとに来た。

「彼女も確保する」

 冷淡な低い声。
 恵美は呆然と立ち尽くして、警官隊に運ばれていく咲妃の姿を見送った。

(第41話につづく)
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