第14話 悪魔は悲しみを偽装する

文字数 2,480文字

 結局、その日は早退扱いになり、警察が手配したタクシーで自宅に帰ることになった。
 臨時休業の殴り書きの紙が店先で風に弄ばれている。
 事情を知らない常連が心配そうに店内を眺めていた。
 ふたりは無言で会釈をして家に入り、そしてうなだれるようにリビングのソファに座り込んだ。

 無言のまま、いたずらに時間だけが過ぎていく。
 しばらくしてチャイムが鳴った。
 それは翔の帰宅の合図だった。
 動けそうにない母の代わりに咲妃が重い腰を上げる。
 軒先に寝台を誘導して、業者に指示を出す。
 そして段取りが済んだあと、咲妃は翔の顔を見て縋るように泣き崩れた。

 あの女……、凜香……、許さない。

 咲妃の中に生まれた感情。
 真実はまだ闇の中にあって、彼女の所業と断定はできない。
 そんな不確かな状況にあっても、咲妃の全身は凜香に所以を求めている。
 そして、潜在意識に確信めいた想像が生まれてくる。
 不透明なピースを残したままなのに。
 だが、咲妃はパズルを完成させるつもりはなかった。
 昨夕、あそこで見たもの。
 それがすべてだ。
 あの後、何があったとしても関連を考える意味はない。
 結末よりも遠因を重く考えてしまう。
 たとえ事故であれ何であれ、あんな世界に翔を引きずり込んだ凛香が憎かった。


「ちょっと出掛けてくる」
 
 咲妃はそう言って立ち上がると、リビングの壁掛け時計を見上げた。
 午後四時を廻ろうとしている。
 授業は終わり、帰宅の時間だろうか。
 咲妃は思い立った衝動に心身を委ねていた。

「どこへ行くの?」

 母の言葉に振り返りもせずに、「すぐ戻るから」とだけ言って咲妃は黄昏に消えていった。


 向かう先はひとつ。
 咲妃は自転車を走らせて凜香の家へと向かった。
 疎らに下校の制服が見え、逆走の中で決意を固めていく。
 見覚えのある街角、息を潜めた電信柱を横目に凜香の軒先に轍を刻んだ。

 息を整えて、しばし家の中を見る。
 今日は一階に電気がついている。
 ふと見上げて二階の窓。
 無灯の沈黙。
 凜香は一階か。

 弾みをやめた呼吸。
 咲妃はおもむろにチャイムを押した。
 ノイズ混じりの嫌な雑音のあと、聞き慣れない声が咲妃に届いた。

「どちらさま?」

 凜香じゃない。
 少しの動揺。
 何か言わなければ。
 そう思って、「凜香さんはいますか? クラスメイトの葵です」と告げた。
 母親だろうか。
 良く通るきれいな声。
 自分の母よりも若く思えた。
 少しの沈黙。
 そして、「少々お待ちください」の声のあとノイズは途絶えた。

 咲妃は身構えるように玄関のドアを凝視した。
 一枚板の高級そうな扉。
 タイル地のホールは溝までもきれいに掃除されている。

 しばらくしてドアが開くと、出てきたのは三十代くらいの若い女性だった。
 とても母親とは思えない。
 姉だろうか。
 それにしては年が離れすぎているような。

「突然すいません。凜香さんはまだ?」おどおどしく訊く咲妃。

「ああ、今帰って来られたところで……。どうぞ、お上がりください」

 女性は丁寧に咲妃を案内する。
 一階のリビングに通されてソファに座ると、少し高級そうなティーカップがアールグレイの芳醇とともにやってきた。

「もうちょっとお待ちくださいね。凜香さん、今お着替えなさっているので」

 丁寧すぎる言葉遣いに違和感。
 それとも育ちの違いだろうか。

「すみません、失礼ですが、あなたはお姉さん?」不意に訊いてみる。

「いえ、違います。家政婦のものです。奥様に申しつけられてお世話をしております」

「えっ? じゃあ凜香さん、ひとりで暮らしてるの?」

「そうですね」

「へぇ……」

 咲妃の勢いを消す家政婦の落ち着き。
 これまでに気配すら感じなかったのに。

 咲妃は見慣れぬティーカップと家政婦の雰囲気に押し殺されそうになる。
 そしてこの家政婦は凜香の「遊び」を知っているのだろうかと勘ぐる。
 少しの談笑。
 他愛のない会話の末に、奥の方からスリッパの擦る音が聞こえてきた。
 咲妃は物音の方をじっと睨むように見上げた。

「あら? 葵さん? 珍しいお客様」

 凜香はそう言うと何食わぬ顔で咲妃の前に座った。
 髪をローブで乾かしながら、妖艶な室内着を翻す。
 とても同年とは思えない。
 そして、前のめりになって咲妃の耳元で囁く。「彼女はもうすぐ帰るから」

 家政婦は凜香にもアールグレイを給仕してキッチンへと消えていく。
 そしていくつかの作業をしたあと、「では凜香さま。今日はこれで」と告げて帰って行った。


「ふふ……、怖い顔をしないで」

 凜香はふてぶてしく見下ろすような顔でアールグレイを啜っている。
 咲妃の意図を見透かした底意地の悪い笑顔が醜く見えた。

「翔くん、残念なことに……」
 演技に見えて仕方ない凜香の悲し気な表情。
 咲妃は睨みを深めて迫った。
 交わすような凜香の、風のような振る舞い。
 癪にさわる。

「あの後、何があったのよ。なんで翔は死んだの?」

「あら、やだ。私は関係ないわよ」

「そんなわけないでしょ!」

「なんで決めつけるのかしら。私も悲しんでいるのよ」
 いじらしく悲しい顔をする凜香。

「じゃあ……、関係ないのなら、あのあと何があったのか教えなさいよ!」

 語気を荒める咲妃の命令口調、凜香はそれに動じることもなくアールグレイの余韻を楽しんでいる。
 切実な咲妃とは対称的な凜香の余裕。

「ふふ……、あのあと……」

 凜香は思い出し笑いに口元を緩ませながら快感の余韻に浸り出す。
 唇を舐め、うっとりと恍惚の表情でまっすぐに咲妃を見つめた。
 雄に狙いを定める雌の顔。
 咲妃はこれが同年齢の同性の表情かと戦慄する。

 しばらくアールグレイと戯れていた凜香は、ひと呼吸置いてからゆっくりと話し出した。

(第15話につづく)
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