第7話 噂話の、その欠片
文字数 1,991文字
枯れ梅雨の夏休みを目前に控えたその日は、重い空気が相変わらず不快だった。
エアコンの轟音が虚しく空回りして、排気にまみれた校舎裏は灼熱。
何もしていなくても背中は汗でいっぱいで、澱んだ空気の中を帰るのは億劫だった。
いつも爽快な川沿いのサイクリングロードは向かい風に混じる湿気の攻撃に晒されるだけ。
早く家に帰って冷風の恩恵に預かりたい。
その一心がで咲妃は重いペダルを漕いだ。
堤防に最近整備されたサイクリングロードのスラローム。
わずか2メートルほどの土手を整備して作られた道は熱を帯び、アスファルトの放射熱が自転車のタイヤを焦がす。
いっそ雨が降ればいいのに。
そう思って恨めしそうに空を眺めても灰色の鈍い空気が無表情なまま。
はるか遠くの排煙が溶け込むように重い雲に消えてゆく。
雲の動きは怠慢で、さぞこの上空は居心地がいいのだろう。
咲妃は轍を刻みながら家路に続く下り坂を駆け下りていく。
そして道なりのその先を曲がったところで急にブレーキを握りしめて自転車を止めた。
よろけながらハンドルを切って、咲妃は戸建ての物陰に慌てて身を潜めた。
呼吸を止めて、ほどよく暖められた電柱から視線を投げ出す。
凜香を連れて歩く翔の姿がそこにあった。
電信柱越しにふたりを覗き見る咲妃。
噂話の真相の、少し奥底が見えてくるようだ。
知りたくもなかった現実。
息を呑み込むように、聞こえるはずもない会話に耳をそばだてる。
雰囲気は悪く見えない。
どちらかと言えば翔が主導して歩いているように見えた。
どこに向かっているんだろう。
この先を少し歩けば自分の家がある。
まさか自宅に連れてくる気じゃないだろうな。
咲妃の中にあらぬ妄想、さすがに噂話の渦中に自分が放り込まれることは勘弁願いたい。
焦り、動悸、どれもひとりよがりの感情。
冷静になれ、と念じるように咲妃は大きく息を吐き出した。
自転車を降りて、気づかれないように距離を置いてふたりをつけていく咲妃。
すると、ふたりは自宅への道を逸れて手前の角を左に曲がった。。
家じゃないのね。
安堵。
そして、再び懐疑。
どこへ?
ひょっとしてこんな近くに住んでいる?
疑惑を晴らそうか。
咲妃は街角の不審者のごとく、ふたりの行方を追った。
しばらくするとふたりはある戸建ての前で止まった。
今風のCMで見るような二階建て、白塗りの壁が印象的な建物だった。
二、三段昇ったところに少し大きめのドアがある広い玄関口。
タイル地のような落ち着いた色合いにシックで高級感溢れる佇まいの一枚板の扉。
室内灯は沈黙していた。
凜香は翔の手を引いてドアへと誘導する。
随分と慣れた手つき。
自然な流れで翔も彼女を追っていく。
そして、少しだけ周囲を気にしたあと、ふたりは中へと消えて行った。
咲妃は一部始終を無言で眺めていた。
息をするのも忘れるくらい。
噂話の部品のひとつが、今現実となって咲妃の心を蝕んでいく。
魂の欠片が随分と遠くの世界に行ってしまったように思えて、そこに姉弟愛が入り込む余地などはない。
ようやくあいつにも春が来たか。
だが、咲妃を襲った感情は嫌悪と喪失が入り交じった不快なものだった。
ここから先はあいつの自由だ。
咲妃はそう言い聞かせて自転車に跨がると、振り返りもせずに家路へと向かっていく。
遠い空が少しだけ鳴いた。
ああ、雨が来る。
そう思っても急ぐ気にはなれない。
雨雲の影が咲妃を追うように足下に忍び寄ってくる。
高い太陽は急速に暗雲の靄に消えた。
そして瞬く間に辺りが暗くなった。
湿気の不快を忘れさせるように一陣の風が吹く。
冷たく無慈悲な疾風。
そして、刹那の呼吸を置いて突然激しい大粒の雨が落ちてきた。
一瞬にして街の表情を変えた滴たち。
咲妃は吹きさらしの雨に打たれたままその場に立ち尽くした。
泣き顔を隠してくれるだろうか。
でも涙など出るはずもない。
咲妃は向かい風に弄ばれながらずぶ濡れのまま家路へと向かった。
帰宅後、咲妃は廊下が濡れるのも構わずにそのまま洗面台へ向かった。
鏡に向かって汗と雨で汚れた顔を眺める。
薄く施した化粧も無惨であどけなさの面影もない。
咲妃は自分を見据えながら、真実を反芻するように「翔のバカ」と繰り返し呟いた。
水滴が額を流れてこそばゆい。
やがて、嫌悪と喪失が笑いに変わってくる。
実に乾いた笑いだ。
「なにやってんだろな」
誰に向けたのかわからないまま音になった言葉。
姉弟の関係が確実に崩壊に向かうような予感がしていた。
(第8話につづく)
エアコンの轟音が虚しく空回りして、排気にまみれた校舎裏は灼熱。
何もしていなくても背中は汗でいっぱいで、澱んだ空気の中を帰るのは億劫だった。
いつも爽快な川沿いのサイクリングロードは向かい風に混じる湿気の攻撃に晒されるだけ。
早く家に帰って冷風の恩恵に預かりたい。
その一心がで咲妃は重いペダルを漕いだ。
堤防に最近整備されたサイクリングロードのスラローム。
わずか2メートルほどの土手を整備して作られた道は熱を帯び、アスファルトの放射熱が自転車のタイヤを焦がす。
いっそ雨が降ればいいのに。
そう思って恨めしそうに空を眺めても灰色の鈍い空気が無表情なまま。
はるか遠くの排煙が溶け込むように重い雲に消えてゆく。
雲の動きは怠慢で、さぞこの上空は居心地がいいのだろう。
咲妃は轍を刻みながら家路に続く下り坂を駆け下りていく。
そして道なりのその先を曲がったところで急にブレーキを握りしめて自転車を止めた。
よろけながらハンドルを切って、咲妃は戸建ての物陰に慌てて身を潜めた。
呼吸を止めて、ほどよく暖められた電柱から視線を投げ出す。
凜香を連れて歩く翔の姿がそこにあった。
電信柱越しにふたりを覗き見る咲妃。
噂話の真相の、少し奥底が見えてくるようだ。
知りたくもなかった現実。
息を呑み込むように、聞こえるはずもない会話に耳をそばだてる。
雰囲気は悪く見えない。
どちらかと言えば翔が主導して歩いているように見えた。
どこに向かっているんだろう。
この先を少し歩けば自分の家がある。
まさか自宅に連れてくる気じゃないだろうな。
咲妃の中にあらぬ妄想、さすがに噂話の渦中に自分が放り込まれることは勘弁願いたい。
焦り、動悸、どれもひとりよがりの感情。
冷静になれ、と念じるように咲妃は大きく息を吐き出した。
自転車を降りて、気づかれないように距離を置いてふたりをつけていく咲妃。
すると、ふたりは自宅への道を逸れて手前の角を左に曲がった。。
家じゃないのね。
安堵。
そして、再び懐疑。
どこへ?
ひょっとしてこんな近くに住んでいる?
疑惑を晴らそうか。
咲妃は街角の不審者のごとく、ふたりの行方を追った。
しばらくするとふたりはある戸建ての前で止まった。
今風のCMで見るような二階建て、白塗りの壁が印象的な建物だった。
二、三段昇ったところに少し大きめのドアがある広い玄関口。
タイル地のような落ち着いた色合いにシックで高級感溢れる佇まいの一枚板の扉。
室内灯は沈黙していた。
凜香は翔の手を引いてドアへと誘導する。
随分と慣れた手つき。
自然な流れで翔も彼女を追っていく。
そして、少しだけ周囲を気にしたあと、ふたりは中へと消えて行った。
咲妃は一部始終を無言で眺めていた。
息をするのも忘れるくらい。
噂話の部品のひとつが、今現実となって咲妃の心を蝕んでいく。
魂の欠片が随分と遠くの世界に行ってしまったように思えて、そこに姉弟愛が入り込む余地などはない。
ようやくあいつにも春が来たか。
だが、咲妃を襲った感情は嫌悪と喪失が入り交じった不快なものだった。
ここから先はあいつの自由だ。
咲妃はそう言い聞かせて自転車に跨がると、振り返りもせずに家路へと向かっていく。
遠い空が少しだけ鳴いた。
ああ、雨が来る。
そう思っても急ぐ気にはなれない。
雨雲の影が咲妃を追うように足下に忍び寄ってくる。
高い太陽は急速に暗雲の靄に消えた。
そして瞬く間に辺りが暗くなった。
湿気の不快を忘れさせるように一陣の風が吹く。
冷たく無慈悲な疾風。
そして、刹那の呼吸を置いて突然激しい大粒の雨が落ちてきた。
一瞬にして街の表情を変えた滴たち。
咲妃は吹きさらしの雨に打たれたままその場に立ち尽くした。
泣き顔を隠してくれるだろうか。
でも涙など出るはずもない。
咲妃は向かい風に弄ばれながらずぶ濡れのまま家路へと向かった。
帰宅後、咲妃は廊下が濡れるのも構わずにそのまま洗面台へ向かった。
鏡に向かって汗と雨で汚れた顔を眺める。
薄く施した化粧も無惨であどけなさの面影もない。
咲妃は自分を見据えながら、真実を反芻するように「翔のバカ」と繰り返し呟いた。
水滴が額を流れてこそばゆい。
やがて、嫌悪と喪失が笑いに変わってくる。
実に乾いた笑いだ。
「なにやってんだろな」
誰に向けたのかわからないまま音になった言葉。
姉弟の関係が確実に崩壊に向かうような予感がしていた。
(第8話につづく)