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文字数 2,895文字

 日本海を望む絶壁に、雪が舞っている。四月間近の北陸の空に雪を降らせているのは、世界を覆い尽くすように広がった鼠色の雲ではなく、特殊効果の操演スタッフだ。
 藤色の着物を羽織ったミコは戦国大名の娘、いと姫を演じ、無骨な黒い装置から放たれる細かな泡の雪を浴びている。

 振り返る、いと姫。
 城が燃えている。
 いと姫、短刀を手にして自らの胸を突く。そのまま海に身を投げる。

 脚本に書かれたト書きは、それだけだ。
 本番が直前に迫っていても、ミコはまだ自分の演技を決めきれずにいた。
 撮影中の映画は、現代と戦国時代を不思議な縁が結ぶ恋物語で、ミコは前世のヒロインと現世のヒロインを一人二役で演じている。
 若い監督の頭の中にある人物設定は、アニメーション映画のそれに近かった。感情表現がシンプルではっきりとしていて、邪心がない娘。この役には男性が良く言う「透明感」が求められている。
 ミコは準備期間に二次元の青春映画を何本も観て、自分なりのヒロイン像を思い描いた。歩き方。立ち方。唇の開き方。表情が変化するタイミングとスピード。天真爛漫な笑い方。感情を剥き出しにした豪快な泣き方。観客がわざとらしさを感じない範囲内での、ぎりぎりに誇張された演技。読み合わせで修正を重ね、クランクインを迎えた時には、監督がイメージするビジョンに、ぴたりと自分を重ねることが出来ていた。撮影は順調に進み、先に撮り始めた時代劇のシーンは、これが最後のカットだ。
 背後にあるカメラはローアングルの引きの画で、ミコが海に飛び込むタイミングに合わせてクレーンアップする。あと二台あるカメラは望遠レンズで、それぞれの位置からミコの表情を狙っている。撮影は押していて、このファーストテイクがNGになると、次のテイクのセッティングの間に日没してしまい、天候予備日としていた翌日に順延となる。
 集中して、〈心〉を聴く。
 監督を含めたスタッフの意識から伝わって来るのは、絶対に失敗しないぞという強い緊張感と、漠然とした成功の予感だけだ。誰の頭の中にも、ミコの演技に対する答えはなく、手掛かりすら掴めない。
 ミコは目を閉じ、波の音を聞いた。
 演技は一度しか出来ない。
 それはもう、演者である自分に委ねられているのだ。
 武家の娘らしく一つにまとめた黒髪の僅かな乱れをヘアメイクの辻川絵美里が直し、去り際にそっと肩に触れた。その手の温もりが消えた後、ミコは完全に一人になった。
「雪、もっと」
 メガホンで拡声された監督の指示が響き、助監督から雪が安定し次第本番になる旨が告知されるタイミングになっても、ミコはまだ迷っていた。
 これから、いと姫は死ぬのだ。
 秘めやかに慕っていた家臣の仁九郎を想いながら、両手で握った短刀の先が自分の背中を突き抜けるまで深く、強く、胸を刺すのだ。
 背中からは、すでに刀が突き出ている。着物を突き破って刃先が現れる動きの部分は、編集の段階でCGに置き換えられる。手に持った刀は柄の部分だけがリアルで、刀身の部分には押されると縮む指示棒のようなものが付いている。胸の間には血糊袋が仕込まれていて、遠隔操作で破ける仕掛けが付いている。崖の先には都合良く一段下がって開けた部分があり、そこにはウレタンチップが深く詰まった大掛かりなクッションプールが作られている。その脇では現場マネージャーの吉村弥生が、不安顔で状況を見守っているはずだ。
 大丈夫――。撮影は安全に行われる。後は演技だけに集中すればいい。
「本番!」
 助監督が叫ぶ。
 ミコは息を吸って、表情を作った。
 無邪気で明るく正義感の強い、武家の娘の最後の顔だ。
 カメラが回り、スタートの声が響く。ミコは合図と共に走り出す。予め指示された場所で足を取られて跪き、燃える城があると想定された場所を振り返る。瞳から涙が溢れ、振り払うように前を向くと、いつの間にか西の雲が割れていて、水平線に茜色をした光の道が煌めいていた。
 短刀の柄を握り、先端を胸の間の決められた場所にあてる。後はただ、一気に、鍔が体に密着するまで棒を縮めて、縮みきった棒の先で着物の下に仕込んだ血糊袋を圧迫すればいい――

〈嫌だ!〉
 その時、ミコの中の、いと姫が言った。

〈――死んでたまるか〉
 歯を食いしばって、眩しい夕焼けを見た。

 いと姫は絶叫した。
 いと姫の猛りをミコは全身で感じていた。
 波の音を搔き消すほどの叫びが、岩間に木霊した。
 吐く息が切れ、声が止まっても、いと姫の心の叫びは続いた。
 ミコは、いと姫と一つになって叫んでいた。
 それはもう、アニメーションを意識した演技ではなかった。
〈そうだ! 死んでたまるか! わたしは、行くんだ! 何度でも生まれ変わって、いつの日か、仁九郎を見付けるんだ!〉
 叫んで空っぽになった肺の間に、いと姫は刀を突き刺した。
 歯を食い縛る。
 赤い太陽がその目を焼いても、ミコは瞬きをしない。
 体に貫通した刀の柄を握り締めたまま、立ち上がる。ミコはいと姫の意志のままに、強く海の先を見詰め、立ったばかりの赤ん坊のように歩き始めた。着物の裾が、赤い線を描きながら、ゆっくりと海に近付いていく。
 血の筆は断崖に行き着き、そこで地面から離れる。
 跳躍した姫は大きく口を開き、魂を吐き出しながら日の光に溶けた。

 ウレタンチップに埋まったまま、ミコは拍手の音を聞いた。
 スタッフに手を引かれて体を起こすと、吉村と絵美里が泣きながら笑っていた。その顔を見て、ミコはやっと、いと姫から解放された。
 背中から刀を生やした血塗れのミコは一転してスタッフの笑顔の対象になり、戯けた写真が何枚もスマートフォンに残った。
 崖の上から下りて来た監督と握手を交わし、背中の刀が外されると、余韻を味合う間もないままに撤収が始まった。太陽が落ちる前に片付けが終わらなければ、街灯のない景勝地は真っ暗になってしまう。長期の地方ロケを共に過ごして、すっかり打ち解けた技術スタッフ達が、逆光の光の中で生き生きと動き回る。
「せっかくだからゆっくり温泉に入ったり蟹食べたりしたかったなあ」
 絵美里がそう言って残念がり、同時に、言葉とは違う状況を思い浮かべている。地方ロケの間、止むを得ず実家に預けた娘を迎えに行き、ごめんねと謝りながら頬擦りをする。母親の愛に溢れた絵美里のビジョンをミコは温かく感じた。
「行きましょう。意外と時間がないから。血糊も早く落とさないと、どんどん落ちにくくなるし」
 帰京便のチケットを確認しながら、吉村が二人を急かした。
 この映画の時代劇部分は撮了となり、舞台は現代の東京に移る。その間、撤収や準備の都合で六日間の撮休があり、ミコはこの短い隙間でニューヨークに行くことになっていた。しかし、作りたてのパスポートとガイドブックは、一旦無駄になった。ラーに会う場所が、急遽東京に変わったからだ。
 ラーが来る。
 そのことは何を示唆しているのか。
 自分はいったい、どこに向かっているのか。
 夕焼けと血糊で赤く染まった両手を笑顔で振って、ミコは現場を後にした。

 明日の夜、わたしは東京で、ラーに会う。
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