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文字数 6,453文字

 日曜日は、スナック「しのぶ」の定休日で、休日のしのぶの日課は、ほとんど毎週同じだ。
 昼前に起きてシャワーを浴び、スーパーに行って食材を買い、一人暮らしのマンションの小さなキッチンで一週間分のお通しを作る。月曜から水曜までの分を冷蔵庫に、木曜以降に出す分を小分けにして冷凍庫に仕舞い、余った分をお裾分け用のタッパーに詰める。掃除や洗濯が終わった夕方ごろに家を出て、それを近所に住む母の芳恵に届ける。今週は茄子の味噌煮と筑前煮、鶏もも肉の油淋鳥の三品で、どれも芳恵の好物だ。
 芳恵との会話は、ほとんど聞くだけだ。質問をされない限り、しのぶから自分の近況を話すようなことはなく、独居老人のストレスを受け止めたり受け流したりしながらテレビを観ているうちに、気がつくと一日が終わっていく。
 芳恵の住む古い公団住宅は、しのぶが生まれ育った所とは違うけれど、座卓に座って二人でテレビを観ていると、生家に居るような錯覚を起こすことがある。テレビの正面は、昔から末っ子のしのぶの固定席で、芳恵は一人暮らしになってからも自分の左側にテレビが見える位置に座る。
 しのぶには反抗期と呼べるほどのものはなかったが、娘として母を喜ばせるようなことを何もして来なかった後ろめたさがある。芳恵はいつも疲弊していて、しのぶはそんな母に甘えず一人でいることを好んだ。二十歳を過ぎて一人暮らしを始めてからは、何年も疎遠にしていた時期もある。その埋め合わせをする目的もあって、しのぶはここ数年、毎週日曜日に母の元に通っている。
 芳恵の話はいつも他愛もないもので、その大半が愚痴だ。
 愚痴を聞くのは慣れている。人はみんな悩みや不安を抱えて生きている。水商売をするようになってからやっと、しのぶはそんな当たり前のことが分かるようになった。客の愚痴を優しい気持ちで聞き流せるようになった頃、気が付くと母を愛せるようになっていた。
「しかしなんで人の命の値打ちはこんなに違うもんかね」
 テレビの中では、歌舞伎俳優の葬儀が行われている。六十歳手前の円熟期に癌で亡くなった名優の死を悼んで、各界から錚々たる著名人が集まり、焼香には長い列が出来ている。
 芳恵は『北海道に行って来ました』と書かれた小袋を破き、取り出したクッキーを半分齧ると、それが噛み砕かれて胃の中に落ちるまで、黙ってじっとテレビを観ていた。
 故人と同世代の大女優が弔辞を読み、映画のワンシーンのように綺麗な涙を流した。去っていく棺に向かって参列者の誰かが屋号を叫び、悲しみがクライマックスに達したところで、ニュースは別の話題に切り替わった。
 芳恵はお茶を一口飲み、溜息と深呼吸の中間のような息を吐くと、湯飲みを置いて言った。
「お父さんが死んだ日は、この人の命日と一緒」
 その言葉は、しのぶを動揺させた。
 母の前で父の話をするのはタブーなのだと思い、しのぶは子供の頃からずっとそれを守って生きて来た。それが、四十を過ぎた今になって、ありふれた休日の茶飲み話の途中に予告もなく解禁されたのだ。
 心の乱れを悟られまいと平静を装いながら、しのぶは自分の後ろを振り返った。テレビに面した壁にある古い棚の上には小さな仏壇があり、母方の祖父母の写真と並んで父の遺影が飾られている。その写真の前にも、『北海道に行って来ました』の小袋が、三つ並んで置かれている。
「道久が珍しくお金をくれたからさ、久しぶりにお墓参りに行って昨日帰って来たんだよ。あっちの親戚には面倒だから会わなかったけど……。お母さん、嫌われちゃってるからさ」
「え、嘘でしょ?」
 しのぶは話を見失いそうになり、慌てて言った。
「嘘って、どこらへんが?」
「お兄ちゃんがお金くれたってとこ」
「本当よ。びっくりした?」
「びっくりってほどでもないけど……」
 腑に落ちなかった——。
 兄は誰よりも吝で、自分の快楽以外のことには百円の出費も惜しむような男だ。店の売り上げは増えるどころか下がる一方なのに、なぜ急にそんな気前の良いことをしたのだろうか。しのぶは道久が何か良からぬことをしているような気がして、不安になった。
 同時に、口に出せない心の中で、しのぶは暗闇に取り残されたような強い疎外感を感じていた。兄と母だけが、父の命日の記憶を共有しているのだ。

 ――また私だけが、除け者だ。

「あの子もああ見えていいところがいっぱいあるんだよ。前にも大きな試合に出る前にお金を持って来てくれたことがあるのよ。その試合で死んじゃうんじゃないかって心配になっちゃって気が気じゃなかったけどね。結局は負けちゃったのかな。聞いても言わないから分からないの。あの子は風邪をひいて四十度近い熱があっても、何も言わない子だったからね」
 疎外感が、嫉妬に形を変えていく。しのぶは自分だけが知らないところで、兄に母を奪われている気がした。
「いつ来たの? 先週来た時は何にも言ってなかったじゃない」
「しのぶちゃんの来た次の日だから、六日前の月曜」
 しのぶは頭の中で指を折った。毎日一度は店に顔を出して売り上げを確認しに来る兄が、直近の四日間、水曜日から姿を見せていない。
「もしかしてお兄ちゃんも一緒に行ったの?」
「あの子が行くわけがないじゃない。お母さん一人で行ってお墓だけ参って、空港でこのお菓子買ってそれで終わり。友達にお土産であげようかと思ったんだけど、まだ寒いこんな時期に北海道まで何しに行ったの、なんて聞かれたら説明するのが面倒でしょ。だから結局自分で食べてるの。だったらもっといいお菓子にすれば良かったんだけど安かったからね」
 芳恵はそう言って舌を出し、子供のように肩をすくめた。
「しのぶちゃんも結婚するなら実家の遠い男はやめた方がいいよ。お墓参りに行くだけで何万円もかかっちゃう。今までしなかったんだから、もうしないんだろうけど。するならもう最後のチャンスだよ。誰かいい人いないの?」
 何歳になっても諦めずに続けられる話題にしのぶは跋が悪くなり、また遺影を振り返った。
 鼻の形が、自分に似ている。写真になった父の年齢を追い越してから、もう随分年を重ねてしまった。
 父が逝ったのは三歳の時で、しのぶには生前の父親の記憶がない。だから思春期の真っ只中に兄から死因を聞かされた時も、それほど動揺はしなかった。遺影の中の父の目は、どこか遠くをぼんやりと見ていて、生き物としての強さをまるで感じなかった。
 知らされる前から、漠然と思っていた。
 ――自殺しそうな人の写真だと。
 
「あら嫌だ。ご飯の前にお菓子なんか食べてちゃ駄目よね。夕飯食べてくでしょ。しのぶちゃんにはホタテのいいやつ買ってあるから。道久にも買ったから持って帰って今度お店で会う時に焼いてあげて。あの子、ここには滅多に来ないからさ」
 芳恵は「よいしょ」と立ち上がり、台所に向かう。
 しのぶはその後に付いていき、料理する母の手元を見ていた。ホタテは殻を閉じたままではなく一度殻から身を剥がしてから焼く方が上手く焼けると話しながら、皺の目立つ指先が手際良く動く。
「そういえば、あの後もう一回だけ来たわ。すぐ帰ったけど」
 しのぶは話を聞き流しそうになり、貝の口が老いた手でこじ開けられるのを待ってから「誰が?」と聞いた。
「誰が? って、道久に決まってるじゃない。小説を持って帰って読みたいって言って、次の日に取りに来たの」
「小説? 小説って何? お母さんもお兄ちゃんもぜんぜん本なんか読まないじゃないの。二人が漫画や雑誌以外のものを読んでるところなんて今まで私、一回も見たことがないわよ」
「お父さんの書いた小説だよ。死ぬ前に書いて一円にもならなかったやつ。言ってなかったっけ?」
「そんなの初めて聞いたよ」しのぶは不機嫌を露わにして言った。「今までお父さんの話なんかほとんどしてくれなかったじゃない。お父さんの話になると、いつも溜息吐いて終わりだったじゃない。そういうことって聞いちゃいけないんだと思ってた。なんで今まで教えてくれなかったの?」
「お母さんも最近になって初めて読んだんだよ。去年の暮れに大掃除してる時、お仏壇の棚の中を整理してたら出て来てね。なんか読めって言われてる気がして。一度ぐらいは読んでおかないと、お母さんだってもう年だから、いつまで生きていられるかわかんないしさ」
 そんなこと言わないで長生きしてよ。普段なら合の手替わりに必ず言う言葉を省略して、しのぶは言った。
「どんな話だったの?」
 三人しかいない家族の中に、自分だけが知らない秘密があることが悔しかった。
「どんな話? そうねえ、遠い未来に人間が二つの勢力に別れて宇宙戦争するの。で、どっちの方にも超能力を持った人達がいて、光る刀を持って戦うんだけど、敵の鬼みたいなやつが実は主人公のお父さんなの」
 しのぶは呆れて、急激に興味をなくした。
「なにそれ、完全にパクりじゃないの。馬鹿みたい。それで終わり?」
「まだまだ全然。親子で戦って息子が勝つんだけど、父親の死によって最終兵器のスイッチが入るの。それで息子の仲間は星ごと吹っ飛んで消えちゃうの」
「それで終わり?」
「まだまだ。主人公は――ルークって名前なんだけど、敵に囚われて悪に洗脳されるの。ルークは相手の考えてることが自分で考えてるみたいに分かる能力があって、専門家の知識もあっという間に吸収しちゃうの。その能力があるせいでルークは父親以上の悪人になるんだけど、実は洗脳された振りをしていて、秘密裏にタイムマシンを開発しているの」
「めちゃくちゃな話ね。っていうかなんか話し慣れてる気がするんだけど」
「そう? 道久にも同じ話をしたからかな。それでタイムマシンが出来るんだけど、未来人の技術でも人間が過去の世界に行くことは出来ないの。物体を送るのが限界。ルークはカメレオンみたいに周りの色と同じ色になって空に浮かぶ、UFOみたいなマシンを作って一番平和な今の時代の地球に送るの。その装置がアンテナになってて、未来の世界からこの世界の様子を探ってるの。ルークは自分と同じ能力を持つ人間を探し出して未来の科学を伝えて、この時代の進化を早めることで歴史を変えようとするの。そのことでルークも消えちゃうかも知れないけど、悪の帝国を滅ぼして宇宙を救うためにはそれしかないの。タイムマシンにはもう別の時代に行ける動力がなくなっていて、どうしてもこの時代に能力者を見つけなければならないの。未来人は長生きで、百五十歳ぐらいまで生きるんだけど、ルークも普通だったらとっくに死んでるぐらいのお爺ちゃんになってて、もう時間がないの。それでいまも、ルークはこの世界を覗いていて、毎日超能力者を探してるの。それで終わり」
「え? そこで終わり?」
「そう。で、その上に遺書。傑作が出来た。暫くはこの小説を売って生活しろ。俺は死ぬことにした。そんなようなことだけ書いた遺書。子供を二人も産んだ私に詫びの言葉の一つもなしよ」
「タイトルは? まさか、スターなんとかじゃないでしょうね」
「表紙には〈未完成〉って書いてあった。本文の終わりに完了の(了)って書いてあったから小説は完成していたんだろうけど、肝心の題名を付け忘れたのか、わざとこんな題名にしたのか、どうなんだろう。もう知りようがないし、どっちにしても未完成なんて紛らわしい題名の本が売れるわけないわよね。ちょっと長いけど、読み易くて面白いんだけどね」
「面白かったの?」
 芳恵は顔を皺だらけにして、嬉しそうに頷いた。
「出版社の人か誰かに見せなかったの?」
「見せたわよ。あの人、イラストレーターだったから、出版社の人が何人かお葬式に来てくれて、その中の一番仲が良さそうだった人に渡したんだけどダメだった。面白いけどプロのレベルには達してないって」
「そっか。読んでくれた人も人気映画のパクりじゃ返事に困っただろうね」
「まあ、お母さんは面白かったから」
 しのぶは母の気持ちを察して、話題を変えた。
「いい匂いして来たね。おいしそう」
 苦労をさせられても、母は父を愛していたのだ。小説を読み、墓参りに行ったことで、封印していた父への気持ちが解放され始めている。しのぶは同じ女として、母の心が分かる気がした。良くも悪くも、母は感情がはっきりと表に出る人なのだ。
「この肝のところがこんな風に大きいのがこの時期だけなんだって。ここのプリッとしたところが白っぽいのが男の子で、女の子はピンクっぽいって言ってたから、これどっちも女の子だね。味はどっちでも変わらないらしいんだけど、なんとなくピンクの方がおいしそうだと思わない?」
 しのぶは、その時、点けっぱなしになっていたテレビを振り返った。
 島田道久
 兄の名前が、そこから聞こえた気がしたからだ。
 それは、空耳ではなかった。
 兄は数ヶ月前に店に連れて来た青年の斜め後ろに立ち、無表情にカメラを見ている。青年は引き締まった裸の体に強い光を浴びながら、華々しくインタビューを受けている。そこはリングの上で、興奮した観客達が歓声を上げている。映像は試合のシーンに切り替わり、青年が相手をノックアウトするシーンがスローモーションで流れ始める。貫くような青年のパンチが、相手の右の頬にヒットした後、反対側に伝わった波動が、左の頬をゴムのように揺らした。弾き飛ばされた頭はロープとロープの間から外に飛び出し、レフリーが大きく手を振って試合を止めた。
「さあ、いよいよ次は、決勝戦です」
 マイクを向けられた青年は無言で、注意して見ていなければ分からないぐらいに、ほんの少しだけ頷いた。息は乱れておらず、顔には傷一つない。
「どうでしょう。意気込みは」
「押忍。島田道場の名を穢さないように、勝ちます」
「あれ、しのぶちゃん、あそこに映ってるの道久じゃない?」
 ホタテの殻から溢れた汁が、じゅっと音を立てた。芳恵は慌ててコンロの火を弱め、また振り返ってテレビを見た。
 その時しのぶは、同時に、もう一つの声を聞いていた。
〈これはテストだ。俺の声が聞こえるか〉
 青年が一瞬、驚いたように兄を振り返り、すぐにカメラに向き直った。
〈俺は、進化した、戦いの、神だ〉
 リングアナウンサーが何事もなかったように「日向タケシ選手でした」と場を締めると一斉に歓声が湧き、画面は次の試合に出場する選手の紹介映像に切り替わった。
 無数のクエスチョンマークがしのぶの頭の中に浮かび、それぞれが絡まりあって巨大化しながら思考の空白を埋めていく。

 ――いつだって、私だけが蚊帳の外だ。

「あの子、これで儲かったからお金くれたんだね」
 芳恵が能天気に言って、コンロの火を止めた。
 しのぶの頭に浮かんだクエスチョンマークの渦が、見慣れた黒いジャージを羽織った兄の姿にかたちを変える。それはやがて、うろ覚えのダースベイダーに変化して、赤く光る刀を構えた。
〈待てよ――〉
 しのぶは心の声で独り言ちた。
 芳恵は焼き上がった両手のホタテを見比べて、大きい方をしのぶの座る席に置いた。
「お母さん、いまふと思ったんだけど……」
「なに?」
「ううん、なんでもない」
「あんたよくそんなはっきりしない性格で客商売やれてるわね。さ、食べよ」
 自分で調べればすぐに分かることだ――。
 しのぶは頭に浮かんだ疑問を忘れないうちに、居間のテレビを消しにいく動きの中で、さり気なくバッグから携帯電話を取り出し、検索をかけた。

 スターウオーズ 公開日 

 答えはすぐに分かった。
 スターウォーズの公開日は、アメリカ本国の公開日で考えても、父の命日のずっと後だ。しかも悪者が主役に父であることを告げる有名なシーンがあるのは、その更に三年後に発表されたシリーズ二作目だ。
 しのぶは、父の遺影の前に立った。
 どこか遠くをぼんやりと見ている父の写真とは、どの角度からも目が合わない。しのぶには彼の目が、宇宙の果ての絶望を見ている気がしてならなかった。
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