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文字数 597文字

  人生の最後に、きみたちに伝えたいことがある。
 しかし、わたしはもう、その手立てを持たない。
 わたしの交信機は略奪されてしまった。
 わたしは拘束され、惨めにこの人生を閉じようとしている。
 わたしの心は、屈辱にまみれている。

 ――屈辱?
 
 わたしは何に屈辱を感じているのだろう。
 わたしはいったい誰を恨んでいたのだろう。

 いま、わたしの目が見ているものは、さっきまで目の前にあった牢獄の壁ではない。
 わたしは果てしなく広く、どこまでも白い空間にいる。
 わたしの思考もまた、その中で白く霞んでいく。

 死が目の前に迫っている。

 きみたちに伝えたかったこと。
 それが何だったのか――。
 恥ずかしいことに、わたしにはもう思い出せない。
 記憶が。
 知識が。
 白い煙の中に埋もれていく。
 その煙が、眠りを誘う。
 わたしは目を閉じて、眠ることにする。
 わたしにはもう、眠ることしか出来ない。

 夢の中で、わたしは母の胎内にいる。
 暖かい羊水に浸ったわたしは目を閉じて、母の鼓動を聞いている。
 わたしが最後に見る夢は、どうやら現実とは真逆のもののようだ。
 夢の中のわたしは、いま生まれようとしている。
 心地良い母の心音に混じって、その時幽かにそれが聞こえた。
 わたしにはそれに、聞き覚えがある。胎児になったわたしは耳を澄ませ、白い煙の中から、ひとつだけ記憶を取り戻す。

 ああ――、この世界には、音楽がある。

(了)
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