27
文字数 2,232文字
リングの上では水着姿のいやらしい女が、ROUND3のプレートを掲げてポーズをしている。脱毛した脇を丸出しにしながら、誇らし気に微笑んでいる。
タケシは〈邪魔だ〉と心で呟き、架空の一撃で女の尻を蹴り飛ばした。
試合は第二ラウンドを終え、次が最終ラウンドだ。このラウンドを終え、判定で決着が着かなければ、この勝負は最大で二ラウンドまでのエキストララウンドに入る。しかしその可能性は極めて低いと言わざるを得ない。
相手のセコンドが、虎男の耳元で何かを話しかけている。虎男はタケシを睨み付けたまま指示に頷き、口に含んだ水を吐き出した。その水は血の色を帯びていて、蓄積されたダメージを物語っていた。
自陣のセコンドから声がする。――ボディが効いているぞ。右のカウンターに注意しろ。有効打の数では圧倒している。無理をしなくても、このままいけば大差でお前の判定勝ちだ。
タケシはその声に頷きながら、仮想の第三ラウンドを戦い始めていた。彼らの助言は有り難かったが、聞く価値はまるでなかった。
次のラウンドで決めなければならない――。
判定勝ちでは、満足が出来ない。
ここまでのラウンドで、タケシは相手の欠点を丸裸にしていた。しかしトラウマ兄は、決して簡単な相手ではなかった。彼はスピードとパワーを兼ね備え、技術的にもレベルの高い、優れたキックボクサーだった。
実戦でしか得られない貴重な経験を積ませてくれた吉岡虎男という男。その最後を心と体にしっかりと刻み込まなければならない――。
セコンドアウトの声がして、タケシは立ち上がった。
雄叫びをあげ、虎男が真っ直ぐに近付いて来る。
最終ラウンドのゴングが響く。
虎男は前足のローキックを囮にして、右ストレートから左フックのコンビネーションを打って来た。
体重の乗った左フックが、頭の上をぎりぎりで通り過ぎる。その風圧に、タケシは拍手を送りたくなった。虎男のパンチは、まだ生きている。
タケシはダッキングして膝にためた力を解放しながら、虎男の脇腹にアッパーを打つ。虎男はそれを肘で受け、下がってタケシの攻撃圏を出る。体をくねらせてタケシを挑発しながら、密かに肘の痺れが治まるのを待っている。
さあ、これからだ。
虎男には、もう後がない。奴は必ずまた攻めて来る。虎男の筋肉の僅かな緊張。その動きから生み出される攻撃の形を予測し、更に、その十手先を読む。
島田館長なら、どう考えるか――。
違う――。
――俺ならどうするか。
もう一人の自分が口元を緩める。
タケシは同じ顔でにやりと微笑み、分身に現実の肉体を重ね合わせた。架空の手足が吸収され、別れた体は一つになった。
相手セコンドの声が、ぴたりと止んだ。
吉岡虎男は動揺していた。
タケシは完全に、右構えにスイッチしていた。
左構えで戦う理由は、左利きの島田館長とのシンクロ精度を高めるためで、生来タケシは右利きだった。どちらの構えからでも同じ技が同じ力で出せること。それは島田空手の基本精神だ。
〈さあ、攻めて来い〉
タケシは誘うように、少しずつ虎男の間合いに近付いていく。
虎男もまた、距離を保とうとして、サウスポーに構えを変える。
再び喧嘩四つになった二人の駆け引きに解説席が色めき立つ。
興奮した観客達が、決定的な瞬間を見逃すまいと瞬きを止める。
虎男の前足のつま先に体重が乗る。
素早く前に出た虎男の体から、ジャブが二本伸びて来る。
タケシは足を止め、頭を振ってそれを避ける。
背中側に回り込んだ虎男が死角からストレートを打って来る。打ちながら前足に力をためて、膝蹴りの挙動に入る。ストレートを避けて低くなったタケシの頭を虎男の左膝が狙っている。
虎男の右の脇腹に、弱点を示す光が灯る。
〈お前をしゃぶりつくしてやる〉
タケシは虎男の膝蹴りを右の鉄槌で落とし、左の拳で脇腹の光を貫く。そのまま伸び上がりながら重心を移動し、返しの右で顎の光を撃つ。殴った頭を両手で掴み、その光る顎に膝蹴りを入れる。
格闘の旋律を感じている。
美しく無慈悲なコンビネーションが、タケシの頭に浮かんでいる。
星をなぞって星座を描くように、次々と現れる光を突く。
鳩尾に。顎に。肝臓に。内腿に。テンプルに。浮かび上がる隙をタケシは連続で攻撃する。
〈思い知れ〉
腹の肉を叩いて内臓を壊し、頭を蹴って脳を揺らす。
脚を蹴って筋肉を潰し、抱きついて来る体を押し離す。
挑発的だった虎男の目は力をなくし、瞳孔の開いた瞳が子供のように潤んでいく。
〈まだだ。目を開け。最後に見せてやる〉
無防備になった虎男の脳天に、強く光ったターゲットが現れる。
タケシは右足を垂直に振り上げ、そこに踵を撃ち下ろす。
〈これが、島田空手だ〉
踵は振り下ろされる斧のように、真っ直ぐに虎男の頭頂部に向かっていく。
レフリーに肩を押され、その直線が僅かに軌道を変える。
タケシの踵は虎男の鎖骨を叩き潰し、そこで試合は止められた。
刺激的な結末に観客は騒然となり、少し遅れて総立ちになった。残酷な興奮が、会場の温度を一気に上昇させた。
敗者の関係者が、リングになだれ込んで来る。
虎男は鎖骨の痛みに呻き声を上げ、リングドクターは大声で担架を呼んだ。
残心の構えを取って静止するタケシは、動き出そうとするもう一人の自分を感じていた。
〈敗北は、死だ〉
タケシの体を飛び出した分身は肉食の恐竜になって、痛みにのたうちまわる虎の頭を踏み潰した。
タケシは〈邪魔だ〉と心で呟き、架空の一撃で女の尻を蹴り飛ばした。
試合は第二ラウンドを終え、次が最終ラウンドだ。このラウンドを終え、判定で決着が着かなければ、この勝負は最大で二ラウンドまでのエキストララウンドに入る。しかしその可能性は極めて低いと言わざるを得ない。
相手のセコンドが、虎男の耳元で何かを話しかけている。虎男はタケシを睨み付けたまま指示に頷き、口に含んだ水を吐き出した。その水は血の色を帯びていて、蓄積されたダメージを物語っていた。
自陣のセコンドから声がする。――ボディが効いているぞ。右のカウンターに注意しろ。有効打の数では圧倒している。無理をしなくても、このままいけば大差でお前の判定勝ちだ。
タケシはその声に頷きながら、仮想の第三ラウンドを戦い始めていた。彼らの助言は有り難かったが、聞く価値はまるでなかった。
次のラウンドで決めなければならない――。
判定勝ちでは、満足が出来ない。
ここまでのラウンドで、タケシは相手の欠点を丸裸にしていた。しかしトラウマ兄は、決して簡単な相手ではなかった。彼はスピードとパワーを兼ね備え、技術的にもレベルの高い、優れたキックボクサーだった。
実戦でしか得られない貴重な経験を積ませてくれた吉岡虎男という男。その最後を心と体にしっかりと刻み込まなければならない――。
セコンドアウトの声がして、タケシは立ち上がった。
雄叫びをあげ、虎男が真っ直ぐに近付いて来る。
最終ラウンドのゴングが響く。
虎男は前足のローキックを囮にして、右ストレートから左フックのコンビネーションを打って来た。
体重の乗った左フックが、頭の上をぎりぎりで通り過ぎる。その風圧に、タケシは拍手を送りたくなった。虎男のパンチは、まだ生きている。
タケシはダッキングして膝にためた力を解放しながら、虎男の脇腹にアッパーを打つ。虎男はそれを肘で受け、下がってタケシの攻撃圏を出る。体をくねらせてタケシを挑発しながら、密かに肘の痺れが治まるのを待っている。
さあ、これからだ。
虎男には、もう後がない。奴は必ずまた攻めて来る。虎男の筋肉の僅かな緊張。その動きから生み出される攻撃の形を予測し、更に、その十手先を読む。
島田館長なら、どう考えるか――。
違う――。
――俺ならどうするか。
もう一人の自分が口元を緩める。
タケシは同じ顔でにやりと微笑み、分身に現実の肉体を重ね合わせた。架空の手足が吸収され、別れた体は一つになった。
相手セコンドの声が、ぴたりと止んだ。
吉岡虎男は動揺していた。
タケシは完全に、右構えにスイッチしていた。
左構えで戦う理由は、左利きの島田館長とのシンクロ精度を高めるためで、生来タケシは右利きだった。どちらの構えからでも同じ技が同じ力で出せること。それは島田空手の基本精神だ。
〈さあ、攻めて来い〉
タケシは誘うように、少しずつ虎男の間合いに近付いていく。
虎男もまた、距離を保とうとして、サウスポーに構えを変える。
再び喧嘩四つになった二人の駆け引きに解説席が色めき立つ。
興奮した観客達が、決定的な瞬間を見逃すまいと瞬きを止める。
虎男の前足のつま先に体重が乗る。
素早く前に出た虎男の体から、ジャブが二本伸びて来る。
タケシは足を止め、頭を振ってそれを避ける。
背中側に回り込んだ虎男が死角からストレートを打って来る。打ちながら前足に力をためて、膝蹴りの挙動に入る。ストレートを避けて低くなったタケシの頭を虎男の左膝が狙っている。
虎男の右の脇腹に、弱点を示す光が灯る。
〈お前をしゃぶりつくしてやる〉
タケシは虎男の膝蹴りを右の鉄槌で落とし、左の拳で脇腹の光を貫く。そのまま伸び上がりながら重心を移動し、返しの右で顎の光を撃つ。殴った頭を両手で掴み、その光る顎に膝蹴りを入れる。
格闘の旋律を感じている。
美しく無慈悲なコンビネーションが、タケシの頭に浮かんでいる。
星をなぞって星座を描くように、次々と現れる光を突く。
鳩尾に。顎に。肝臓に。内腿に。テンプルに。浮かび上がる隙をタケシは連続で攻撃する。
〈思い知れ〉
腹の肉を叩いて内臓を壊し、頭を蹴って脳を揺らす。
脚を蹴って筋肉を潰し、抱きついて来る体を押し離す。
挑発的だった虎男の目は力をなくし、瞳孔の開いた瞳が子供のように潤んでいく。
〈まだだ。目を開け。最後に見せてやる〉
無防備になった虎男の脳天に、強く光ったターゲットが現れる。
タケシは右足を垂直に振り上げ、そこに踵を撃ち下ろす。
〈これが、島田空手だ〉
踵は振り下ろされる斧のように、真っ直ぐに虎男の頭頂部に向かっていく。
レフリーに肩を押され、その直線が僅かに軌道を変える。
タケシの踵は虎男の鎖骨を叩き潰し、そこで試合は止められた。
刺激的な結末に観客は騒然となり、少し遅れて総立ちになった。残酷な興奮が、会場の温度を一気に上昇させた。
敗者の関係者が、リングになだれ込んで来る。
虎男は鎖骨の痛みに呻き声を上げ、リングドクターは大声で担架を呼んだ。
残心の構えを取って静止するタケシは、動き出そうとするもう一人の自分を感じていた。
〈敗北は、死だ〉
タケシの体を飛び出した分身は肉食の恐竜になって、痛みにのたうちまわる虎の頭を踏み潰した。