9 真の問題と偽の問題

文字数 5,429文字

9 真の問題と偽の問題
 おのおの人間は解決しなければならない真の問題を持つものだ。それには偽の問題に対してふんぎりをつけ、真の問題を解明する必要がある。真の問題とは「能動的ニヒリズム」、すなわち「精神の上昇した力の徴候としてのニヒリズム」に基づいている。対して、偽の問題は「受動的ニヒリズム」、すなわち「精神の力の衰退と後退としてのニヒリズム」の呪縛にある(『権力への意志』22)。

 自身を相対化できない太宰は真の問題ではなく、偽の問題の圏内だけで終始している。彼が読まれているのは、偽の問題にとらわれているものたちに感情移入されているからである。真の問題が何であるか、自らの存在と結びついているため、語ることができない。それはその生においてただ示され得るものだ。一方、偽の問題は、自己嫌悪と自己憐憫にとらわれ、自己を嫌うことによって自らを救うという病的な精神状態が生み出す。

 太宰の作品には自虐的とも思われるほどの自傷行為的記述が見られるが、他方、女性に対しては極めてサディスティックである。彼にとって女性は自分の一部として扱っているから、自傷行為の変形として表われている。そうした彼の自傷行為は自分自身に直面することから逃避したことから生ずる。すなわち、サディスティックな行為は自己と他者や世界との違和感を瞬時に消滅してしまおうとする衝動であり、滅亡を通してそれらと自己同一することへの病的な願望の表象である。太宰にとって女性は、赤ん坊にとってのガラガラと同様に、ただ自らを慰めて欲しいために求めている。

 「大人というものは佗しいものだ。愛し合っていても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだろう。その答はなんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。大人とは、裏切られた青年の姿である」(『津軽』)。「愛し合っていても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ」のは、「見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたから」ではまったくなく、自己の外に自分が信じてきた価値観や内的世界を一瞥にしない別の論理・倫理を持った他者が存在しているからである。彼の言う「青年」とは生の意欲を失った子供の姿でしかない。過ぎ去ったすべてを忘れ、つねに現にある一瞬一瞬を最大限に生きようとする意欲に基づいた無邪気さを持ちあわせた子どもは、たかだか「見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎた」だけで何をわめいているのか未熟者が、と「青年」を嘲笑せずにはいられない。

 太宰の未熟さは坂口安吾と比較すれば明瞭になる。安吾は太宰と並べば大人に見えるが、一人になると子供に戻る。安吾は成熟した子供であったけれども、太宰は未熟な大人にすぎない。吉田和明は、『太宰治』において、太宰は「純粋性」を保持し続けるために「おとなの世界」に入ることを拒否したと言っている。だが、人は大人へと成長していく際、大半は成熟するのではなく、体制順応し、通俗化していくだけであって、未熟な太宰は十分通俗的であり、その意味で、「おとなの世界の住人」である。

 真の問題は自分自身を肯定することから始まる。自己に対する働きかけの意欲によって、自分自身を愛することが初めて可能である。人生は自己と世界との一種妥協の産物だ。「じぶんは〈人間〉から失格している」としたら、太宰は生の出発点を最終的な到達点であるかのように訴えているが、それをあるがままに認めることからしか生は始まらない。「じぶんは〈人間〉から失格している」のなら、いつか〈人間〉が生まれ出るように、自らの生を奉仕することこそ望ましいだろう。

 太宰に対して、三島は彼がふんぎりがつけられなかった自己憐憫や自己嫌悪に対するある種の訣別を行ったが、それは自己肯定ではなく、自己否定によってなされている。ドラマの人である太宰は精神的弱さに対するルサンチマンを自己に向けて生を否定する形で晴らそうとしている。一方、戯曲家の三島は自分は違うとして、それを相対的に弱い人間や平凡な人間に対して晴らして優越感を味わっている。三島は目的論的構えによって生を規定し、彼には真に人生や意欲に関する認識が欠けている。

 太宰にしても、三島にしても、ルサンチマンを晴らすことに生の存在理由を見出し、自らの精神的な弱さのありようを意識化することを避けている。「彼は彼らの感じ方、考え方を自分の中に染み渡らせなければならない。彼らの教えを学びとるのではないのです。ただそれを自分のものにできればよいのです。真理と理性はおのおのの人間に共通なもので、それらを初めに言った人たちのものでも、後から言った人たちのものでもない。蜜蜂はあちらこちらの花からその密を吸い取り、それで自分の蜜をつくる。しかし、その時、蜜はもうすっかり蜜蜂のものになっている」(モンテーニュ『エセー』)。

 日本では、太宰だけでなく、三島由紀夫や谷川俊太郎のように偽の問題にとらわれた作家のほうが一般には読まれている。日本において文学は健康ではなく、病気として理解されている。しかし、太宰や三島、谷川はただ克服されるべき作品としてのみある。彼らは何が真理であり何が虚偽であるかを問いただしたかもしれないが、真理の価値基準がいかなるものであるのかとは問わない。彼らに欠けているのは新たな価値創造である。問題は解くだけでなく、立てるものでもあろう。

 この偽の問題の時期は誰もが一度は通過しなければならないことは間違いない。その上でなければ、人間は真の問題に向かうことができない。真の問題が人間が生きる際に避けることのできない苦悩と不可分であるのに対して、偽の問題は概念の苦悩──アイデンティティの危機など──である。真の問題の苦悩に比べれば、偽の問題の苦悩は、冗談である。と言うのも、偽の問題の苦悩はたた自分の世界に没入し、自らを相対化することができないことによって生じているからである。

 偽の問題は一般的な概念の領域にあるため、感情移入され得る。真の問題はそれぞれの人間に固有であるから、感情移入は困難である。それは異化作用だ。すぐれた作品はこの作用を働かせる。真の問題を解明することがそれぞれの人間の持つ限界と可能性を熟知することから始まる。つきつめたとき、真の問題が解明される。真の問題の解明とは、偽の問題がもたらされる感情移入という感染症に対する免疫をつくりだすことでもある。

 それゆえ、太宰に感情移入する愛読者は誠に幸せである。と同時に、誠に愚かであると言うほかない。実は、太宰は、『人間失格』によって、偽の問題にふんぎりがつき、『グッド・バイ』では真の問題の解明へと志向していたからである。

 『グッド・バイ』は次のような一節で未完に終わっている。

 運が悪い。ケイ子を引っぱり出すことは、まず不可能らしい。
 しかし、ただ兄をこわがって、いつまでもケイ子との別離をためらっているのは、ケイ子に対しても失礼みたいなものだ。それにケイ子が風邪で寝ていて、おまけに引揚者の兄が寄宿しているのでは、お金にも、きっと不自由しているだろう。かえって、いまは、チャンスというものかも知れない。病人に優しい見舞いの言葉をかけ、そうしてお金をそっと差し出す。兵隊の兄も、まさか殴りやしいだろう。或るいは、ケイ子以上に、感激し握手など求めるかもしれない。もし万一、自分に乱暴を働くようになったら、……その時こそ、永井キヌ子の怪力のかげに隠れるといい。
 まさに百パーセントの利用、活用である。
「いいかい? だぶん大丈夫だと思うけどね、そこに乱暴な男がひとりいてね、もしそいつが腕を振り上げたら、君は軽くこう、取りおさえて下さい。なあに、弱いやつらしいんですがね。」
 彼は、めっきりキヌ子に、ていねいな言葉でものを言うようになっていた。

 『グッド・バイ』は未完であり、展開がこれからどうなっていくかもわからないので、作品としての全体の出来を判断することができない。ただ、このようにこの作品では文体が大きく変わっているとはっきりと言える。語る主体は愚痴ることをやめ、「ていねいな言葉でもの」を言っており、落ち着き払い、「とても素直で、よく気がきいて」(『人間失格』)、生真面目さを感じさせる。それどころか、禁欲的ですらある。『人間失格』までの作品に頻繁に見られる過剰な羞恥心や負い目、罪悪感、シニシズムは──それらは平凡で通俗的な精神が高尚さに近づこうとする権力意識の表われである──もはやない。

 ドナルド・キーンは、『太宰治の文学』において、『人間失格』以後の彼の文学的可能性について次のように述べている。

 太宰は「人間失格」を書き終えた後で何を書くことになったか。幼時から自分の身体中にためて来た毒素をやっとのことで吐き出したので、もはや同様の自伝的小説をこれ以上書けなかった。再出発しなければならなかった。いまや彼は辛辣で皮肉な調子を持たない作品を書けるようになった。死んだ時未完のままだった「グッド・バイ」は、純粋の喜劇小説になりえた。この小説は道化芝居に近く、談話体の会話のすばらしさは、太宰文学の中でも一きわ目だっている。ここで太宰は機知の本領を最もよく発揮している。

 太宰にとって、作家の人生は『グッド・バイ』から始まるはずである。彼は真に喜劇作家として出発することができる。太宰は,三島が近代能の戯曲家であるとすれば,近代狂言の最高の戯曲家になりえただろう。しかし、太宰は偽の問題から真の問題に移行することができない。何度か言及してきたように、最も笑えないものをおかしさとして提出したりするなど彼の選択は病的に誤っている。彼は最後の最後まで病的な選択をしてしまう。悲劇以上に、喜劇は長く通用する。

 アリストパネスの喜劇は後の喜劇の規範になっている。アドルフ・ヒトラーを諷刺したチャールズ・チャップリンの『独裁者』は『アカルナイの人々』の「法螺吹き兵士」を原形にした人物が登場しているし、『蛙』の冒頭で、時代遅れと軽蔑されている類いの冗談が、二千五百年もたった今日のテレビでそれと意識されず、笑いを誘っている。太宰の言語に対する真の感受性が生かされれば、それを新たな喜劇作品に流しこむことはたやすい。人間は自己肯定をして、自分の可能性と限界に直面したとき、初めて健康な選択をすることができる。可能性と限界に向かうことから逃げていた以上、選択が、その可能性において、正反対になるのは当然である。

 太宰は心中未遂や共産党への接近と離反、薬物依存、アルコール依存などを経験したが、彼はそこから何一つ自己超克の意欲を見出せない。ただし依存構造は意志の問題ではなく、精神科の治療対象である。彼は現実から突き放されることを拒む、現実と直面することから逃避している。太宰には愛も生も何一つとしてわからない。それを体験するよりも、死を選ぶ。『人間失格』を書き終えたことによって、太宰は初めて現実から突き放されたが、そういう事態は、『豊饒の海』以後の三島由紀夫と同様に、彼には認めることができない。

 太宰や三島の死が神話化されるのは、彼らが偽の問題から真の問題へと移行するまさにその瞬間、それを拒み、文学的な可能性の種子を残していってしまったからである。従って、真の問題の範疇に生きた有島武郎の死には、彼らと違って、そういう神話化がない。真の問題へと移行していたならば、太宰も、かりに同じように心中したとしても、たんなる情死と片づけられ、神話化されることはなかったに違いない。

 だから、アントン・チェーホフは、自分から影響を受けながらまったく正反対の姿勢に基づいた作品を書いた太宰治に向かって、おそらく、自分の『ともしび』の言葉を引用して、次のように言うだろう。

 一つ聞かせてもらいたいもんだけどね、この鉄道が二千年後には、塵埃に化しちまうってことを、われわれが知っているとしたら、いったい何のために、わたしらは智慧をしぼって、工夫したり、月並みな型を見下そうとしてみたり、労働者たちに同情したり、横領をしたり、しなかったりする必要があるんだい? そのほかのことにしても同じさ……君も同意するだろうが、こんな不幸な思考方法のもとでは、何の進歩もあり得ないし、科学も、芸術も、いや、思想そのものも、あり得ないんだよ。
〈了〉
参照文献
奥野健男、『太宰治研究』、筑摩書房、 1962年
ドナルド・キーン、『日本の作家』、中公文庫、1978八年
坂口安吾、『堕落論』、角川文庫、1957年
太宰治、『斜陽』、新潮文庫、1950年
寺山修司、『幸福論』、角川文庫、1973年
寺山修司、『さかさま文学史黒髪篇』、角川文庫、1981年
三島由紀夫、『私の遍歴時代』、講談社、1964年
吉田和明、『太宰治』、現代書館、1987年
吉本隆明、『悲劇の解読』、ちくま文庫、1985年
ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、海老名宏他訳、法政大学出版局、1980年

『ゲーテ全集』5、人文書院、1987年
『新潮世界文学』23、新潮社、1969年
『世界の名著』45、中公バックス、1980年
『太宰治全集』別巻、筑摩書房、1972年
『ニーチェ全集』9~12巻、理想社、1977~80年
『日本の文学』65、中央公論社、1964年
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