2 『斜陽』の敬語

文字数 2,505文字

2 『斜陽』の敬語
 『斜陽』は太田静子の書いた日記や彼女との関係、山崎富栄との交流をもとに、アントン・チェーホフの『桜の園』をモチーフとして書かれた作品である。彼は、1933年から足かけ十五年の間、太宰治のペンネームを使って作家生活を送っている。作品は三つの時期にわけられている。初期は『晩年』や『二十世紀旗手』、『魚服記』など実験的な作品群の時期、中期は『津軽』や『走れメロス』、『富嶽百景』など私小説的な作品と古典を土台にした作品群の時期、後期は『冬の花火』や『トカトントン』、『人間失格』など現代を舞台にし、時代の雰囲気を反映させた作品群の時期である。それぞれ戦前・戦中・戦後に対応している。『斜陽』は晩年の作品である。

 太宰は、確かに、戦争期にも『右大臣実朝』や『お伽草子』など優れた作品を書いているが、それらは彼を神話化させるには至っていない。太宰の神話作用は無頼派の一人として書いた『斜陽』のジャーナリスティックな成功が不可欠である。「太宰文学の集大成」(奥野健男)であるこの『斜陽』を読解することが彼の文学の限界と可能性を明らかにする。

 太宰に最も否定的な評価をくだしている作家の一人である三島由紀夫は、『私の遍歴時代』において、『斜陽』を次のように批判している。

 私も早速目をとおしたが、第1章でつまづいてしまった。作中の貴族とはもちろん作者の寓意で、リアルな貴族でなくてもよいわけであるが、小説である以上、そこには多少の「まことらしさ」は必要なわけで、言葉づかいといい、生活習慣といい、私の見聞していた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。貴族の娘が、台所を「お勝手」などという。「お母さまのお食事のいただき方」などという。これは当然「お母さまの食事の召上り方」でなければならぬ。その母親自身が、何でも敬語さえつければいいと思って、自分にも敬語をつけ、
 「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」
などという。それがしかも、庭で立ち小便をしているのである。

 この敬語の問題は『斜陽』の発表当時からかなり議論の的になっている。奇妙な敬語が、印象的な食事のシーンから始まる『斜陽』の出来を損ねていることは、否定できない。「戦前の旧華族階級」をよく見聞してきた平岡公威こと三島由紀夫が言うように、『斜陽』において尊敬語と謙譲語、丁寧語が混乱して用いられている。また、美化語の一般的用法以上にやたらと「お」を接頭している。

 ただし、「旧華族階級」ではなく、杉山画伯の娘と一緒に疎開していたある女性によれば、戦前の山の手の住人の中には、「ございます」言葉を用いたり、「お御飯」というように、何にでも「お」をつけたりする女性がいなかったわけではない。このことから津軽の大地主の子である津島修治こと太宰治が敬語を知らないと思われても仕方がないだろう。

 だが、逆に、あまりに稚拙すぎるにもかかわらず、このまま直すことなく発表させているのも解せない。そのため、「テーブルスピーチの時に、あの野郎、ゴザイマスルという不可思議な言葉をつかったのには、げっとなった。気取るという事は、上品という事と、ぜんぜん無関係なあさましい虚勢だ」と登場人物に語らせていることから、作者は意図的に間違えたのではないかと推測させてしまうほどである。

 一方、『斜陽』を太宰の「その死に近きころの作品」の中では「最もすぐれている」と評価しつつも、坂口安吾は、『不良少年とキリスト』において、その敬語に関して次のように述べている。

「斜陽」には、変な敬語が多すぎる。お弁当をお座敷に広げて御持参のウイスキーをお飲みになり、といったグアイに、そうかと思うと、和田叔父が汽車にのると上キゲンに謡をうなる、というように、いかにも貴族の月並みな紋切り型で、作者というものは、こんなところに文学のまことの問題はないのだから平気なはずなのに、実に、フツカヨイ的に最も赤面するのが、こういうところなのである。
 まったく、こんな赤面は無意味で、文学にとって、とるにも足らぬことだ。
 ところが、志賀直哉という人物が、これを採りあげて、やっつける。つまり、志賀直哉なる人物が、いかに文学者でないか、単なる文章家にすぎん、ということが、これによって明らかなのであるが、ところが、これがまた、フツカヨイ的に最も急所をついたもので、太宰を赤面混乱させ、逆上させたに相違ない。
 もともと太宰は調子にのると、フツカヨイ的にすべってしまう男で、彼自身が、志賀直哉の「お殺し」という敬語が、体をなさんと言って、やっつける。
 いったいに、こういうところには、太宰のいちばんかくしたい秘密があった、と私は思う。
 彼の小説には、初期のものから始めて、自分が良家の出であることが、書かれすぎている。
 そのくせ、彼は、亀井勝一郎が何かの中でみずから名門の子弟を名乗ったら、ゲッ、名門、笑わせるな、名門なんて、イヤな言葉、そう言ったが、なぜ、名門がおかしいのか、つまり太宰が、それにコダワッているのだ。名門のおかしさが、すぐ響くのだ。志賀直哉のお殺しも、それが彼に響く意味があったのだろう。
 フロイドに「誤謬の訂正」ということがある。我々が、つい言葉を言いまちがえたりすると、それを訂正する意味で、無意識のうちに類似のマチガイをやって、合理化しようとするものだ。
 フツカヨイ的な衰弱的な心理には、特にこれがひどくなり、赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起こるものである。
 太宰は、これを、文学の上でやった。

 敬語の正誤は文学の問題ではなく、作文の問題であり、文学者たるものが論ずるべきではない。作文は文法や用法、意味などが適切であることを基準とする文の作り方である。誤用や誤字脱字が内容以前に文の評価とされる。「文学にとって、とるにも足らぬこと」である敬語の問題にこだわる三島も、志賀直哉と同様、そのことによって「いかに文学者でないか、単なる文章家にすぎん、ということが、これによって明らかなのである」。

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