3 太宰と三島

文字数 2,088文字

3 太宰と三島
 実際、三島の作品にも、太宰の作品と同じように、「良家の出であることが、書かれすぎている」。三島の一連のパフォーマンスも──ボディ・ビルにしろ、楯の会にしろ、あの自決にしろ──「文学の上で」やられた──表面的には、太宰のそれとまったく逆であるとしても、構造上は同一の──「誤謬の訂正的発狂状態」である。自分のやろうとしたことをやられてしまったという口惜しさが三島の太宰嫌いの原因の一つになったと言ってさしつかえないだろう。三島自身も、『私の遍歴時代』において、「もちろん、私は氏の稀有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反応を感じさせた作家もめずらしいのは、あるいは愛蔵の法則によって、氏は私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない」と告げている。

 太宰は、自分自身が周囲のものとどれだけ異質であるかということを悟られないようにするために、躍起になる。彼の自己劇化は防衛手段である。彼はほんとうの自分が実はこうなのだと告白したい誘惑にかられることがあるけれども、結局、それに踏み切ることはない。彼には、カミング・アウトによって、傷ついてしまうことを何にもまして恐れるからである。太宰は、むしろ、最後まで素顔を隠し続けることを選ぶ。

 自己激化はもともと太宰の本質であったわけではないが、始めてしまうと、彼には欠くべからざる要素になってしまう。その仮面の身振りは周囲のものをいらつかせる。しかし、太宰は自己劇化をやめない。彼にとって、仮面は素顔を隠すための演技である。一方、三島の仮面は作家になろうと思うものに何にでもなれる力を与えてくれるものだ。彼は太宰であれば、仮面の裏に隠そうとするものを押しつぶす。隠すものなど何もないと仮面の三島は言い放つ。

 三島は素顔そのものなどというものはなく、ただあるのは仮面だけであり、それこそが素顔なのだと考えている。素顔にとらわれすぎると、自分自身の可能性を限定してしまうことになる。三島にとっての仮面は素顔にするためのものである。つまり、太宰には仮面は盾であるのに対して、三島の仮面は矛だ。彼らは矛盾の関係にある。

 三島は後に天皇制賞賛と戦後民主主義批判へと向かう。だが、太宰は三島が彼を嫌悪していた時点にすでにそのことを書いている。

 天皇の悪口を言うものが激増して来た。しかし、そうなって見ると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して来たのかを知った。私は、保守派を友人たちに宣言した。
(『苦悩の年鑑』)

 日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。真の自由思想かなら、今こそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。……天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。しかし今日に於いては最も新しい自由思想だ。
(『パンドラの匣』)

一、十年一日の如き不変の政治思想などは迷夢にすぎない。二十年目にシャバに出て、この新現実に号令しようたって、そりゃ無理だ。(略)
いまのジャーナリズム、大醜態なり、新型便乗というものなり。(略)
一、戦時の苦労を全部否定するな。
一、いま叫ばれている何々主義、何々主義は、すべて一時の間に合せものなるゆえを以て、次にまったく新しい思潮の擡頭を待望せよ。
一、保守派になれ。保守は反動に非ず、現実派なり。チェホフを思え。「桜の園」を思い出せ。
一、若し文献があったら、アナキズムの研究をはじめよ。(略)
一、天皇は倫理の儀表として之を支持せよ。恋いしたう対象なければ、倫理は宙に迷うおそれあり。
(『一九四六年一月二十五日堤重久宛書簡』)

 これらはいわゆる「太宰の天皇万歳発言」と呼ばれている。太宰は時代通念に異議を唱えているのではなく、社会の共同性への同調に対する違和感を訴えている。これらの主張は錯綜し、それどころか、目茶苦茶でさえある。完成は主観的であるため、整合性がしばしば欠ける。政治的アピールと言うよりも、審美的イデオロギーである。太宰にとって「自由思想」はそうした違和感を投影するヴィジョンを意味している。その感覚は、自らの存在の持続性を外界が危うくするものとして、太宰には感じられる。彼は一貫性・連属性が損なわれることに対して憤りを覚える。つまり、太宰は自分自身における持続性を天皇制に求めている。

 感性的判断にアイデンティティを見出すものはタブー破りをしたがる。状況に同調しない逆張りにより自分と他者の感性の違いを確認できるからだ。太宰において天皇制は状況に対するアイロニーであっても、政治思想的問題ではない。近代は政教分離により価値観の選択が個人に委ねられているが、太宰はモラリズムを持ち出す。実は、三島もそうである。天皇を「倫理の儀表として」支持するという太宰の考えは、三島の『文化防衛論』における「文化の全体性」を代表する「究極の価値自体」としての天皇を想起させる。作品に登場する男性にこそ違いが見られるが、女性は極めて似ている。二人はコインの表裏であり、三島の太宰嫌いはむしろ近親憎悪である。
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