7 喜劇の登場人物

文字数 4,526文字

7 喜劇の登場人物
 太宰との間にフローベールの「ボヴァリー夫人は私だ」流の図式が成立している『斜陽』の四人の登場人物は典型的な喜劇のそれである。喜劇の登場人物は、フライの『批評の解剖』によると、「アラゾン」すなわち「ペテン師」、「エイロン」すなわち「自己卑下する韜晦者」、「ボモロコス」すなわち「道化もの」、「アグロイコス」すなわち「無作法な、文字通りの田舎もの」の四種類にわけられ、「アラゾン」と「エイロン」の闘いが「喜劇の筋立ての基礎」になり、「ボモロコス」と「アグロイコス」が「喜劇的な雰囲気の両極」をつくる。母は「エイロン」、上原は「アグロイコス」、直治は「ボモロコス」、かず子は「アラゾン」に対応する。

 この四種類は、日本人にとっては、『西遊記』における三蔵法師、孫悟空、猪八戒、沙悟浄と対応させるとわかりやすくなるだろう。この場合、母は三蔵法師、かず子は孫悟空、上原は猪八戒、直治は沙悟浄にそれぞれあたると考えられる。

 喜劇はそれぞれの人物にではなく、人物の交錯そのものに関心がある。柄谷は、『斜陽』を「明るさが暗さを喚起し、暗さが明るさを喚起する世界、四人の人物が交錯しあうときに生じる微妙な光と影の世界である」と述べている。主題も稚拙であり、登場人物も素朴であるにもかかわらず、『斜陽』があなどりがたい魅力を持っているのは、この四人の交錯が見事だからである。

 『斜陽』の死と再生の生成様式はこの四人の論理の錯綜を基盤にして、最終的に母と子の関係性へと向かう。だが、「女がよい子を生む」、すなわち「子」と言わずに、「よい子」と太宰が書くとき、『斜陽』の中では、再生はつねに母の側からなされたにすぎない。歴史はただ母の誕生と再生の間に生起するものでしかない。出発点としての母は、子を経たとしても、依然として終着点を自らのうちに含んでいる。

 こうした視点は『斜陽』だけに限らず、遺書においても見られる。安吾は、『不良少年とキリスト』において、「子供が凡人でもカンベンしてやってくれ」という太宰の遺書の件をめぐって次のように述べている。

 だが、子供が凡人でも、カンベンしてやってくれ、とは、切ない。凡人でない子供が、凡人でない子供が、彼はどんなにほしかったろうか。凡人でも、わが子が、哀れなのだ。それで、いいではないか。太宰は、そういう、あたりまえの人間だ、彼の小説は、彼がまッとうな人間、小さな善良な健全な整った人間であることを承知して、読まねばならないのである。
 しかし、子供をただ憐れんでくれ、とは言わずに、特に凡人だから、と言っているところに、太宰の一生をつらぬく切なさの鍵もあったろう。つまり、彼は、非凡に憑かれた類の少ない見栄坊でもあった。その見栄坊自体、通俗で常識的なものであるが、志賀直哉に対する「如是我聞」のグチの中でも、このことはバクロしている。

 「女がよい子を生む」ということは、柄谷が指摘するような「あらゆる人為的なもの、幻想的なものの底にある“自然”」ではない。「あらゆる人為的なもの、幻想的なものの底にある“自然”」は、太宰が提示したのとは逆に、子の側から女を見るときに表われてくる。「よい子」は女から見て、利他的であることを意味している。これは自分の言うことをよく聞くようにと教えこんだ判断であり、子の欲望が直接満たされる自己規定ではない。

 「よい」は、ニーチェの『道徳の系譜』によると、「騎士的・貴族的評価様式」に基づいた「力強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争・冒険・狩猟・舞踏・闘技、そのほか一般に強い自由な快活な行動を含むすべてのもの」を前提にしている。「力を持つ」、「つねに創造する」、「生を楽しむ」といったことの自己肯定的な感情が子にとっての「よい」ことである。リビドーによる対象へのかかわりが行われ、女は子の超自我に自分と同じものをすえる。子は、その自我の中で、女と自分を同一のものとして考え始める。

 子は、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の堅琴ひきの歌を引用して、女に対して次のように嘆くだろう。

あなたは、われわれを人生へ引き入れ、
哀れな男を罪におとしいれ、
あとはその男が苦しむに任せる。
なぜなら、どんな罪でもこの地上で罰せられるのだから。

 子は女の自分から始まって自分に終わるような自己完結性を破綻させてしまう。子は女にとって自分の思惑ではどうにもならぬ突き放す存在であり、女は自分ではどうすることもできないものに支配される。女の「輝く誇り」などではなく、子そのものが価値である。「だれもがまだ目で見たことのないもの、いつか生まれてくる果実を、あなたがたの愛のすべてが、護り、いたわり、培っている。あなたがたの愛のすべてがあつまるところに、すなわちあなたがたの子どものもとに、あなたがたの徳のすべてがある!」(ニーチェ『ツァラトゥストゥラはかく語りき』)。「よい子」と言い、「子供が凡人でも、カンベンしてやってくれ」と書くとき、その主張は、子にとって、自己満足的な単純な説教に堕してしまう。

 そうした自己完結性は、『斜陽』では、神話へと次のように回帰してしまう。

 こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。
 あなたが私をお忘れになっても、また、あなたが、お酒でいのちをお無くしになっても、私は私の革命の完成のために、丈夫で生きて行けそうです。
 あなたの人格のくだらなさを、私はこないだも或るひとから、さまざま承りましたが、でも、私にこんな強さを与えて下さったのは、あなたです。私の胸に、革命の虹をかけて下さったのはあなたです。生きる目標を与えて下さったのは、あなたです。
 私はあなたを誇りにしていますし、また、生れる子供にも、あなたを誇りにさせようと思っています。
 私生児と、その母。
 けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。
 どうか、あなたも、あなたの闘いをたたかい続けて下さいまし。
 革命は、まだ、ちっとも、何も行われていないんです。もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます。
 いまの世の中で、一番美しいのは犠牲者です。

 ここで太宰は「犠牲者」、すなわち生け贄を要求するという悲劇的な要素を提示しているかに見える。だが、「私生児と、その母」の悲劇は、『斜陽』よりも、むしろ、ナサニエル・ホーソンの『緋文字』の方こそふさわしい。ヘスター・プリンは、確かに、「犠牲者」である。それは悲劇特有の「恐ろしい正当さへの感覚」と「不当さに対する憐れみの感覚」が逆説的に結びついている。舞台である17世紀ピューリタン社会を意識させるため、その時代の英語でわざわざ書かれている『緋文字』において、犠牲者はあくまでも作品の中で生け贄の役割を担っているのに対して、『斜陽』においては、犠牲者は話が終わった後から犠牲者を体現していく。ピューリタンの社会はキリスト教悲劇の源泉である。

 悲劇はア・プリオリにそうなのではなく、歴史的に、ある特定の時期においてのみ生まれ得るものである。アイスキュロス・ソポクレス・エウリピデスのギリシア悲劇はソクラテス以前の歴史的・社会的状況であり、シェークスピアに代表されるキリスト教悲劇はデカルト以前の状況が可能にさせている。どちらの悲劇も主人公は男である。女は喜劇においてのみ主人公となっている。

 『緋文字』も、その意味では、悲劇ではない。キリスト教悲劇がもはや不可能だと知っていたから、ホーソンは『緋文字』の最後にヘスターを元の場所に戻している。一度は捨てた緋文字Aをつけたまま生き続けることを決意した彼女は死を運命づけているキリスト教悲劇的にではなく、プロメテウスのごとく、能動的な罪を自ら引き受け、ギリシア悲劇的に、さらしものになることを是認する。さらに、『緋文字』は、『斜陽』がかず子の出産までの物語なのとは逆に、ヘスターが私生児を生んでからの出来事を描いている通り、ロマンスではなく、構成の点でも、近代小説である。近代小説の主人公が、本質的に、女である点からも、このことは強調されよう。

 近代は父、すなわち対立の死んだ時代であり、その代わりに母、すなわち抱擁が支配している。対立する相手を殺せても、抱擁するものを殺すことはできない。抱擁=所有によって、殺されるのは子のほうである。父の死が母の過剰を求める。しかし、父も母も意識しないで子が生きられる時代を目指す。そうすれば、父も規範になろうとして無理することもないし、母も包みこもうと苦労することもない。父の復権も母の管理も時代をよくしない。子はただ発狂するか、自殺するか、他殺するだけである。父や母の過剰は子に自分のことを考えられなくする。

 人は自分の立場を掘り崩すことによってしか、他の人のことがわからないものだ。そうできないのは、現代に孤独が足りないからである。現代人は孤独であるように見えて、真に孤独ではない。なぜなら、それは、ヘスターの場合と違い、能動的なものではないからである。

 以上のように、『緋文字』の中でアイロニーは『斜陽』よりラジカルに働いている。「私生児と、その母」は『緋文字』において「人身御供」であり、一方、『斜陽』では「人身御供ごっこ」(『批評の解剖』)である。メロドラマにありがちな嫁姑や継子いじめといった設定に基づいた作品もこの「人身御供ごっこ」の一種であろう。

 悲劇は、オイディプスにしろ、プロメテウスにしろ、再生とは無縁である。悲劇はどうしようもなく救いようがない没落によって幕を閉じるが、その救いようのなさによって救われるような根源的な諸矛盾を具現化した文学形式である。フライは、『批評の解剖』において、「喜劇は一方の極でアイロニーと諷刺にまじり合い、もう一方の極でロマンスにまじり合う」と言った後で、ある喜劇の場合、「われわれは機智と目醒めた批評の知性の世界を去り、その対局の神話的な厳粛さに向かうことになる」と述べている。そうした喜劇では「幼年時代から死までの全行程を走り通し、最終の相で、母胎希求と心理学的に密接に結びついた神話になる」。

 かず子の人生の行程を中心にして筋立てられている『斜陽』にはアイロニーとロマンスがまじり合っている。また、そこに再生と死や生け贄といった神話が混入していることは明らかに認められる。「私生児と、その母」は神話へのアイロニーであり、「女がよい子を生む」ことは「母胎希求と心理学的に密接に結びついた神話」にすぎない。『斜陽』は神話が入りこんだ一種のメロドラマである。「もしわれわれが批評を捨て」、一部の熱狂的な信奉者たちのように、太宰の作品になすがままに「身を委ねるならば、快い戦慄を与えてくれるにちがいない」。『斜陽』では犠牲者が味わう矛盾が作品中で体現されることなく、彼らは舞台から消えていく。犠牲者を痛めつけるのが喜劇であり、それに耐えることが悲劇だからである。

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