5 悲劇と喜劇

文字数 4,581文字

5 悲劇と喜劇
 テーマから読んでみると、『斜陽』は、四人の中心的人物によって、「真の革命のためには、もっともっと美しい滅亡が必要なのだと、古き美しさの挽歌であり、恋と革命とに生きる新しい人間の出発を模索した長編」(奥野健男)である。そうしたテーマから『斜陽』は、当時の世相を反映していると社会にインパクトを与え、「斜陽族」という流行語を生んでいる。その成功の大きさは、太宰の生家が記念館となった際、「斜陽館」と命名されたことからもわかるだろう。

 太宰に最もこだわっている書き手であると同時に、彼の『走れメロス』を評価している吉本隆明は、「太宰治」(『悲劇の解読』所収)において、彼の文学についてテーマの側面から次のように考察している。

 太宰治の作品のもっとも深いところからはひとつの声が聴こえる。じぶんは〈人間〉から失格している、じぶんは〈人間〉というものがまるでわからないと疎隔を訴えている声である。この声はかれが生涯の危機に陥ちこんだとき、かならず作品からしみでてくる。けれど太宰治のいう〈人間〉は人間の本質をさしてはいない。他者の気持ちの動きがつかめないために他者との関係の仕方がまるでわからないと呼びかけている。他者に投影された人間の在り方からじぶんが異類のように隔てられているといった叫びに似ている。その果てに他者の振舞いは、じぶんの心の動きからまったく予測できないという失墜感があらわれる。
 太宰治の文学はこの世界の全貌を開示してみせるという意味では、けっして高度なものではない。人間とはなにか、その存在の仕方とはなにかという問いは、本質的にはかれの作品に一度もやってこなかった。ただ人間と人間との関係からこぼれ落ちる失墜感とはなにか、ひとが他者から疎隔されてしまうのはなぜかという問いは無限に展開されている。他者との関係で〈比量〉が利かないのに意味にみたされた世界は可能か、そういう世界に陥ち込んだものはどう受難するか。そこに作品が成立っている。

 太宰の作品を「人間とはなにか、その存在の仕方とはなにかという問い」と切り離すことができないドストエフスキーやカフカの作品と比較・検討することの意義はさほどない。太宰の作品から読みとるべきものは、そうした側面においては、何もない。彼の作品に見られると吉本の指摘する「ただ人間と人間との関係からこぼれ落ちる失墜感とはなにか、ひとが他者から疎隔されてしまうのはなぜかという問い」は、時代が変化すると必ずと言っていいほど、雰囲気を敏感に嗅ぎとる嗅覚に恵まれた作家たちによって、それ以前にも何度も描かれ、その都度通俗的な成功を収めている。それは紋切り型のテーマであり、(反)政治的な行動主義と美学的な形式主義、あるいは革命精神と美学的洗練の混濁として典型的に作品化される。例えば、アメリカのロスト・ジェネレーションや日本の第三の新人、晩年の三島由紀夫らはその範疇に入るだろう。彼らの作品は自分たちの文学が発生してくる根本的な問題そのものを解きほぐすのではなく、自分自身が行動することができるためのシナリオを提供する。

 太宰は、政治活動に関して言えば、学生時代に共産党の非合法運動に従事したことがあるものの、作品に政治的な行動主義が顕著に表われたケースはそれほど多くない。太宰は現状に対するアイロニーを通じてアイデンティティを確認するので、(反)政治行動も同様の姿勢をとる『冬の花火』によって占領軍指令部を挑発したことが反政治的な行動主義の例である。しかし、美学的なるものと(反)政治的なるものは『斜陽』の中では依然として──「道徳革命」と呼ぶ政治から文かへの移行という早急な結合こそ見られるものの──「正」・「反」・「合」といった弁証法的な統合をすることなく、主人公はその世界から脱出してしまう。結局、作品が終わった後に統合されるかもしれないという淡い期待を読み手に抱かせるにとどまっている。

 こうした姿勢は美学的なものと(反)政治的なものによって真の問題から身を隠すための自虐的な反知性主義である。太宰は逆張りを通じてアイデンティティを確かめる。時流に対して異を唱えることは近代的姿勢であるが、反射的に反対イチャモンをつけることは決して知的ではない。。彼の行動は政治的抵抗ではなく、たんなる反抗だ。反抗は既存の秩序や権威、または父や兄などの先行世代の世界観の失墜に対する憤りであり、それが破壊されることによる復活への願い、あるいは破壊を通じてそれと自己同一しようとする望みである。

 残念なことに、太宰は、プロレタリア文学などの先行世代に比べて意識的でありながらも、同時期の1946年に書かれた安吾の『堕落論』ほど覚醒に徹底していない。それは、「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなど上皮だけの愚にもつかない物である」という言葉によって閉じる。戦前から一貫した視点を持ち続けた数少ない「知識人」の一人である安吾の『堕落論』と比較するべくもない。意識をさらに覚醒させることをせず、それによって獲得された時代の変化という歴史的ヴィジョンをくもらせてしまう。

 しかし、『斜陽』を文学ジャンルから見るといささか評価が変ってくる。吉本隆明は太宰治の作品を「悲劇」として「解読」しようとしているが、むしろ、それは、「マイ、コメデアン」と書かれているように、喜劇的な様相を呈している。吉本の「悲劇」概念は自然のミメーシスであるかのようにも見られている文化的次元を指すものではないが、彼がとりあげている書き手──太宰治の他に小林秀雄、横光利一、芥川龍之介、宮沢賢治──を見ても、なぜこういうタイトルをつけたのか疑問である。

 悲劇は吉本が主張するほど簡単に演じられはしない。悲劇は共感によって成立しているわけではない。カタルシスにしても、異化作用にしても、それを拒絶することによって可能になる。『斜陽』だけでなく、彼の作品はハッピーエンドの結末をとらないことが少なくない。だが、太宰にとって、悲劇的な様相は読み手を真の世界へと導くためのアイロニカルな契機である。死を通じた再生のごとく、悲劇は幻であり、実は、そこで真に具現しているのは喜劇である。

 四人の中心的人物はそれぞれおおかた素朴であり、読み手以上の能力を所有していないが、カナダの百科全集的な文学理論家であるノースロップ・フライの『批評の解剖』(1962)によると、悲劇が属している「高次模倣様式」は中心人物が等身大を超えた能力や権威を持ち、自然の内部にありながら、社会的な批判をも可能にするような文学様式である。他方、喜劇が属している「低次模倣様式」は登場人物の行動の力が等身大の文学様式である。

 悲劇と喜劇は、古代ギリシア演劇において明確に分割できる。けれども、それ以後の作品によってはその意味において必ずしも完全に分けることができない。悲劇は涙をわかせるものであり、一方、喜劇は笑いを誘うものであるという分類は適切ではない。フライは『批評の解剖』において言う。「喜劇自体の中に悲劇が潜在的に含まれている」場合、「喜劇のカタルシスの背後にある祭儀の形式は、死のあとの再生であり、甦った主人公(英雄)の顕示または明示である」。

 太宰は、『斜陽』において、死と再生を次のように暗示している。

 どうやら、あなたも、私をお捨てになったようでございます。いいえ、だんだんお忘れになるらしゅうございます。
 けれども、私は、幸福なんですの。私の望みどおりに、赤ちゃんが出来たようでございますの。私は、いま、いっさいを失ったような気がしていますけど、でも、おなかの小さい生命が、私の孤独の微笑のたねになっています。
 けがらわしい失策などとは、どうしても私には思われません。この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。
 私には、はじめからあなたの人格とか責任とかをあてにする気持はありませんでした。私のひとすじの恋の冒険の成就だけが問題でした。そうして、私のその思いが完成せられて、もういまでは私の胸のうちは、森の中の沼のように静かでございます。
 私は、勝ったと思っています。
 マリヤが、たとい夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になるのでございます。
 私には、古い道徳を平気で無視して、よい子を得たという満足があるのでございます。

 死と再生という神話的ヴィジョンはロマン主義文学の作品にしばしば表現されている。死と再生はある連続性に基づいている。あやまちがあり、それから死がふりかかり、そして再生の認識が獲得される。死と再生は決して対立してはいない。死は再生の中にあり、再生は死の中にある。両者の差異は語る主体の中に存在しない。

 「もともと太宰は明るさと暗さを対立的にとらえるのではなく、暗さの中に明るさを、明るさの中に暗さを見る眼をもっていた」と言う柄谷行人は、「『斜陽』について」において、この部分を次のように解説している。

「女がよい子を生む」ということは、どんな時代・社会にもかかわらず、戦争や政治や貿易などといったあらゆる人為的なもの、幻想的なものの底にある“自然”である。彼女はむしろそこから意味に憑かれた世界を見返している。チェーホフの『三人姉妹』のなかに、太宰が好んだせりふとして、「意味ですって、いま雪が降っている、それに何の意味があります?」という条りがある。よい子を生む、それはちょうど雪が降っているようなものだ。何の意味もないが、無意味でもない。おそらくかず子はそういう地平に降りて、「孤独に微笑」している。彼女は新生に賭けた者であるが、しかし滅びる者と対照的に区別されているのではない。作品の全体において、それらが互いに反照しあって、“斜陽”の一瞬を永遠に定着させているようにみえるのである。

 柄谷は典型的なアイロニー劇であるアントン・チェーホフの『三人姉妹』の言葉を引用して、『斜陽』を読解している。アイロニー劇は「意味ですって、いま雪が降っている、それに何の意味があります?」というようなニヒリズムを通過するとき、それは悲劇から喜劇へと近接していく。前近代は規範に基づく世界なので、すべてに道徳的意味がある。神の死んだ世界では、基礎づけが無根拠である以上、アイロニーが性格を形成し、望ましい共感を誘うような社会をうちたてる。その社会の建設は、時間的には、筋を追っていくにつれて徐々にではなく、急転直下のうちに──特に、エンディング付近で──なされる。

 『斜陽』は結末で、突然、直治の自殺と上原との離別などによって新たな世界が提示されている。『斜陽』では過去・現在・未来という時間性は持続的と言うよりも、むしろ、日記や手紙、遺書といったフラッシュ・バックの技術において体現され、速度はその隙間に負っている。それはアイロニーのもたらす時間概念である。『斜陽』はアイロニーの喜劇と言える。

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